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再生-イタリア紀行 with J #4 <2日目/ジェノバ散策①>

 

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7時だった。
幸いお酒も睡眠剤も、頭には残っていない。上等な目覚めだ。
あと少し眠りたかったが、もう寝付けないないだろう。
昨夜のことは本当に遠い夢のような気がしていた。それでいい。

テレビをつけ、Rai5のチャンネルにあわせる。
この時間帯にはニュースと天気予報、道路情報などを繰り返し流している。
集中して見るわけではないけれど、この番組を朝の支度のあいだのBGMにするのが、イタリアでのケイの習慣だった。

朝食ルームに下りていくと、ハルエが英字新聞を広げてコーヒーを飲んでいた。
『おはようハルさん。リエちゃんは?』
『あらおはよう。そろそろ来るでしょう。さっきロビーで会ったら、ジムで一汗流してきたって言ってたから。』
『さすがだわ。失恋だろうとなんだろうと、それだけは変らないのね。』
『変らないどころか、一層激しく打ち込んでいるわよ。今までの5%の体脂肪があれじゃすぐに0%ね。』
『リエちゃんらしいな。あ、きたきた。
おはよう、リエちゃん。なんか元気すぎない?』

『おはようございます。日本ではあんなに眠れなかったのに、イタリアに来たとたんぐっすり眠れるようになったみたい。
お二人は眠れました?』
『ええ、グラッパと睡眠剤でね。ハルさんは?』
『わたしはいつもといっしょ。朝4時に目が覚めて本を読んでたわ。』
『それで平気なんだからすごいな。
ところでケイさん、きのうの夕食おいしかったって?
さっきジムでジェイに聞いたわ。私惜しいことしたな。』

『ジムで?』
『そう、私が行ったら彼ちょうど終わったところだったのに、少し付き合ってくれたの。
すごい筋肉で、胸なんかこんなに厚くて、思わず見とれちゃった。』
こんなに、と手を広げてのリエの無邪気な言葉に、ケイの心がざわついた。

『リエちゃん、恋をして大人になったわね。
あの少女のリエちゃんが、男の裸の胸に見とれるなんて。』
『ケイさん、からかわないでよ。それに裸じゃなくてランニング着てた。
私、ただあの筋肉美をデッサンしたいって思っただけ。』

『あぶないな~、例の彼とだってジムで知り合って、筋肉美をデッサンしたじゃないの。』とハルエ。
『そうなの?知らなかった。でもくどき文句にいいかもね。あなたの筋肉を描かせて下さい、って。』
『ケイさんたら、怒るよ、もう~。』

そこにジェイが入ってきた。
ジーンズに白のカットソー、胸元には昨夜と同じクロスのネックレスが揺れている。
ケイはその胸から少しの間目が離せなかった。
ジェイはケイたちに気づくと、大きく微笑み、近づいてくる。

『おはようございます。みなさんよく眠れたみたいですね。とってもいい顔をしてます。』
『おはようジェイ君、あなたもジムフリークなの?』
『実はそうなんです。でもリエさんもそうだと知って嬉しいな。ケイさんはどうですか?』

彼の視線が一瞬、ケイの瞳のうえで止まった。
その目が、もう大丈夫ですか?と語りかける。
『ええ…。いえ、私は全然だめ。私の辞書にはマメに体を動かすという言葉がないのよ。』
『そんなこと言わずに、今度いっしょにやりましょう。ハルさんも。』
『そうよ、みんなでやろうよ。気持ちいいのよ、ね、ジェイ。』
リエがはしゃいでいる。
暗い眼をしてため息ばかりついていた昨日がウソのようだ。
よかった、このことばかりは素直にそう思うケイだった。

朝食後10時にロビーで待ち合わせることになった。
ケイは今日のルートを頭に描くと、レセプションで情報を収集するために30分ほど早めに下に降りた。
港のクルーズツアーの時刻を確認し、ソファーに座って地図を広げる。

地図上の小さな通りを一生懸命探しているケイは、後ろからジェイが近づいてきたのに気が付かない。
彼は腕をソファーの背にもたせてかがみこみ、ケイの耳元でささやいた。
『みつかりましたか?』
懐かしいようなコロンの香りとともに、耳から背中に、春の微風のように伝わる柔らかい声の余韻を、
ケイは目を閉じて味わった。

『ジェイ、おどかさないでよ。』
でも口をついて出たのはそんなはすっぱな調子の言葉だった。
『びっくりしましたか?大成功だ。ずいぶん真剣に地図をにらんでるからちょっといたずらしたくなって。』
『あなたには驚かされっぱなしだわ。もうこれ以上やめてよ、心臓に悪いから。』
『さあ。どうしようかな。ケイさん次第かな。』
『わかった、それならもう一人でどこでも行きなさい、知らないわ。』
『ケイさん、本当に怒ったの?こんなことで?ずいぶん心が狭いんですね。』
『ジェイ!』
『ははは、そんなに怒らないで下さいよ。もっとも怒ったケイさんはなかなかカッコよくて好きだけど。
さて機嫌を直してもらうのには何をすればいいかな。』

『ジェイ、わかった、負けたわ。何もしなくていい。その代わり、もっとうんと私を驚かしてちょうだい。
期待してるわ。』
ようやくケイもこだわりなくジェイに対していた。
昨日知り合ったばかりの人なのに、気が付いたらずっと以前からそこにいたように私の横にいる…
しかしケイは、自分の中に生まれたその感覚を急いで打ち消した。
確かにジェイには人の心の固まった部分をほぐしてしまう力があったが、
それはなにも私に対してだけ発揮されるわけではないのだ。

『ジェイ、ありがとう。』
『なにがですか?』
『リエちゃんにやさしくしてくれて。あの子すごく明るくなった。
でもいったいどんな魔法をつかったのかしら?』
『ただいっしょに腹筋運動をやったり、ランニングマシーンで走ったりしただけですよ。』

『彼女あなたをモデルにデッサンしたいって…』
ヌードをね、そう言おうとしている自分にケイはたじろいだ。
それは明らかに嫉妬から出た言葉だった。

急に黙り込んだケイをじっとジェイが見つめる。
『ケイさん』
『ジェイ、ごめん。』
『なにがですか?』
『私…』
『また昔の彼のことを?』
『そうじゃないの。あなたが私をかきまわすからよ。わかる?
このことを、私どうしていいのかわからないのよ。』

『ぼくもあなたにかきまわされています。』
『ジェイ…』
『おあいこです。
あなたが昔の恋人のことで苦しんでいる、その苦しみがなぜか他人事と思えない。
あなたの心が過去と現在を複雑に行き来する、その動きから目が離せない。
この人は何を考えているのか、この人の心は今どこを飛んでいるのか、って。
あなたが中心にいるストーリーを前に、こころをかき回されながら、その中に入っていけなくてもどかしい。』

ジェイの言葉は快かった。
ジェイが、ケイにむかって手を差し伸べようとしているのを感じた。
思わずその手をつかんでしまいそうだった。
これがもし本当に見ず知らずの男だったら、ケイは迷わずにその手をつかんでいただろう。
たとえひどく恐れていたにしても、一歩踏み出すのに、少しだけ勇気をふりしぼればよかっただろう。
だがジェイがもし”彼”だったら…
その思いが、ケイのなかに生まれた衝動を、瞬時に冷やした。

『ジェイ、私そのうちにストーリーを書けるかもしれない。
そうしたらその中にあなたも登場させることもできるかも。
でも今書けるのは旅のエッセーだけなの。
だから今、私があなたといっしょにできることは短い旅だけ。
二人が来たわ。行きましょう。』


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