vai

 

再生-イタリア紀行 with J #5 <2日目/ジェノバ散策②>

 

italy_title.jpg





すこし先をリエとジェイが軽い足取りで歩いている。
何を話しているのか、時おり笑いあいながら。

ホテルの前の小路を抜けると街一番のブランドショッピングストリート、ローマ通りだ。
なだらかな坂をすこし下ると左手が劇場、正面がフェラーリ広場。
4人は昨夜タクシーがたどった道を逆に進み、コロンブスの家を目指していた。

『リエちゃんたらウソみたいに元気ね。ジェイ君、たいしたものだわ。』
ハルエの言葉にケイもうなずく。

『リエちゃん、ジェイ、そこ左に曲がって。』
『ラジャー。』 『アイアイサー、キャプテンケイ。』

二人のおどけた返事に、すこし沈んでいたケイの気持ちがはなやいでくる。
明るさが、ケイのところまで空気を伝わって届く。
すると8年前のことも、このあとローマで自分を待っているかもしれないことも、
今のこのときには何の関係もないことだと思えてくるのだった。

コロンブスの家を初めて見たリエは不服そうな顔をしている。
予想以上に小さな家なので、最初に訪れた者は皆少し失望を味わうのだ。

『あんなすごい冒険をした人の家がこんなに小さいの?』
『昔の庶民の家はこんなものよ、きっと平均的な大きさだと思うわ。
それにコロンブスはポルトガルやフランスに住んだりして、あまりジェノバにはいなかったの。
新大陸発見の航海のスポンサーもジェノバじゃなかったし。
当時ジェノバは小さな都市国家で、目先の利益ばかりを追い求めていたから、
無謀な冒険に投資するリスクを負う余力も、そして先見性もなかったの。』

『リスクを負う余力?』
『そうよジェイ、15世紀末のヨーロッパでその力を持っていたのはスペインだった。
でもね大事なのはだれがスポンサーかじゃない、コロンブスが自分を信じて突き進んだこと、
そして “新大陸”を発見したことだわ。』

『そう、あれはその後の世界を変えた。』ハルエが続ける。
『新大陸から奪った富でスペインはヨーロッパで力を得た。時代は大きく転換し、
代わりに新大陸の貴重な文明の歴史が幕を閉じた…』

『もうひとつ、新大陸からヨーロッパにもたらされたものによって、とくにイタリアで大きく変わったことがあるわ。
さてここで問題です、それはなんでしょう?』

ケイの質問に最初に答えたのはハルエだ。
『大量の銀が流れ込んでジェノバの商人が大もうけした。
それがイタリアの銀行システムを発展させたこと。』

『すごい、ハルさん。それは事実よ。でも私の質問の答えは少し違うの。』
『わかんないよ~。』リエが降参した。
『ジェイ、あなたも?』
『う~ん、待って、もう少し考えさせて。絶対当ててやる。』

『わかったわ、歩きながらゆっくり考えて。
このあたりは昔のジェノバの街はずれだったのよ。あそこに門があるでしょう?
街は城壁で囲まれていて、いくつかの門を通ってしか出入りができなかったの。
さあ私たちも門をくぐって、古いジェノバの街に入りましょう。』

石造りの立派な門の左右に高い塔がそびえている。
その威圧的なたたずまいに、いかにジェノバが堅固な城壁を持っていたかがうかがえる。
門をくぐると、細い、急な下り坂となった。
考え込むジェイが少し遅れ気味になるのをせかしながら、両側に古びた建物が続く通りを歩く。

やがて右手に大きく空間が広がる広場に出た。
その奥に、新古典主義様式の壮麗なパラッツォ・ドゥカーレが見える。
16世紀の総督官邸も今は展示会や催し物がおこなわれるジェノバ市の文化センターだ。

そのまま道を進むとすぐに、緑がかった濃い灰色と白の大理石が横じまを描く、
特徴のある外壁をもった建物が現れた。ジェノバ一の教会、サン・ロレンツォだ。
右手に回り込んだファサードには三つの扉が並び、その周囲を彫刻とねじれた柱が飾り、
上方にはかなり大きなバラ窓が切り取られている。
扉は真ん中だけが開いている。

ジェイが一瞬息を呑むのがわかった。
『すごい、きれい、本当に、すごい。』
『そうか、これがジェイの初めてのイタリアの教会なのね。
まだまだすごいのがいっぱいあるんだけどね。
さ、中に入ろう。』

まぶしい光に溢れた戸外から教会に入ると、内部はかなり薄暗く感じられる。
入り口付近に立ち止まり、天井や奥の祭壇までをぼんやりと眺めながら目をならしていく。
するとジェイがつと片ひざをついて自然なしぐさで十字を切った。

まずは右手の壁の宗教画を眺め、主祭壇までくると、その手前左よりのベンチにケイとハルエは腰掛けた。
そこから左手上方に美しいパイプオルガンが見える。
並んで腰をおろしたジェイが、やがて手を前で組み、祈り始めた。
続いてリエも。
二人をそのままにそこに残して、ハルエとケイはそっと席をたった。

左手の宗教画を一通り眺めて外に出る。
教会前の小さな広場から、ハルエはファサードや鐘楼を写真におさめている。
ケイは広場を挟んで教会に面した建物の壁にもたれ、広場を横切る老人や、乳母車を押した若い女や、
一見して観光客とわかる数人のグループなどを眺めていた。

そのとき、中央の開いた扉にジェイとリエが現れた。
ケイが手を振ると、それに気づいたジェイも大きく手を振って答える。
リエになにか話すと、いきなり階段を小走りに降りて、そのままケイに向かって走ってくる。
そのジェイに遅れまいと、まるで競争のようにリエも追いかける。

風に髪をなびかせて、自分のもとに走ってくる男に、ケイは強く心を奪われた。
小さな広場だったから、彼の長い足ではほんの数歩のように、あっというまにケイの前に着いてしまう。
そんなジェイを、ケイは少し残念な思いで見つめた。
もっと見ていたかった。遠くから自分の元に走ってくるジェイを。

『すみません。お待たせしました。』
『ごめんね。私がぐずぐずしてたの。』
少し息をはずませたリエも追いついて言う。
『いいのよ、二人とももっとゆっくりお祈りしてくればよかったのに。』

そのときハルエも戻ってきた。
まだそれほど歩いてはいないけれど、そろそろ一休みしたほうがいいだろう。
広場の一角のバールで軽くのどを潤し、教会の建築様式についてのハルエの講義など聴いていると、
思いのほか時間がたっていた。

『みんなそろそろおなかがすいてきたんじゃない?』
『そうですね。どこか良いところがありますか?』
『ええ、あるわよ。港を見ながら美味しいムール貝を食べるってのはどう?』

港は昨夜とは全く違う顔を見せていた。
あたりはポルト・アンティーコ、旧港と呼ばれ、小さく弧をえがいた湾の真ん中に不思議な建造物が二つ見える。
バブルという球形の建物と、イル・ビーゴと呼ばれる展望用のゴンドラだ。
どちらも関西空港を設計したレンツォ・ピアノの作品だ。
ガラス張りの球形の中にはぎっしりと植物が茂っている。
両方とも超モダンなデザインだが、不思議に港全体の雰囲気に調和している。
昨夜のしっとりとしたオレンジの港はどこにもなく、
周囲の明るい色合いの建物を、海に反射して強まった太陽の光が一層強く照らしていた。

ケイは三人を水族館前の桟橋に導き、どこがレストラン?ときょろきょろする彼らを後ろに、
停泊している船に乗り込んだ。ランチクルーズを楽しもうというのだ。

さっきバールから電話で予約しておいたためか、
案内された席は屋根つきのデッキの後ろの部分のなかなか良い席だった。
とはいえやはりジェイのおかげもあるだろう。
いや彼だけじゃないな。
ウィイターが椅子を引くのに合わせて、さりげない優雅さで席につくハルエを見ながら、ケイは思った。
ジェイを加えた私たちは、彼らにどのように映っているのだろうか。

『うわ~、素敵、ケイさん、ありがとう。』
『気に入った?でも味はわからないからね。景色に免じて許してね。』

料理は前菜、パスタなどのプリモ、そしてメイン料理のセコンドをそれぞれ三種類のなかから選べるようになっていた。
しかしムール貝がウリなのでほとんどの客は前菜にムール貝を頼む。
それ以外はおまけという感じなのだ。

ケイたちも同様にムール貝を頼み、今日も冷えた発砲ワインをあわせる。
うすい金色にあわ立つワインが注がれ、グラスを合わせた。

『ジェイ、今日は何に乾杯する?』
『そうだな、美しい三人のミューズに。』
『そんな月並みなのは却下。』
『ケイさん、きびしいな、じゃコロンブスのもたらしたもう一つのものに。』

『そうだった、その答えまだだったわね。どうケイちゃん、乾杯に相応しい?』
『ええ。ぴったりだわ。ジェイ、さては答えがわかったかな?』
『いいから早く乾杯しようよ~。ワインがぬるくなっちゃう』

船はすでに港の少し外側に出ていたが、初秋の爽やかな風が吹き、波もほとんどない。
ちょうどケイたちの席からは今あとにした港の全景が見えた。
海からすぐにせりあがっていく斜面に、うすいピンクやクリーム色の建物が階段状に重なり合い、
その上に緑の山の連なりがのぞいている。

『どう、ナポリほどではないけれど、けっこうきれいでしょう?』
『ほんと、この景色ならどんなものでも美味しいわ。』ハルエが気持ち良さそうに言った。
『でも、このムール貝、本当に美味しいよ。すごく新鮮で、これならいくらでも入っちゃう。』
リエの言う通り、あっというまに皿には黒い蝶のような貝殻が山盛りになっていった。

『ねえ、ジェイ君、さっきの答え、本当にわかったの?』
『いいえ、実はまだなんです。ケイさん、ヒント下さいよ。それは今もありますか?』
『ええ、そこらじゅうに。』
『日本にも?』とリエ。
『日本にも、韓国にも。でもイタリア人だけはこれがないと生きていけないかも。』

『え~、ますますわかんない。わたしは降参。』
リエが、目の前にスパゲッティペスカトーレの一皿が置かれたのを期に、戦線離脱を宣言した。
ペスカトーレとは漁師風という意味、あさりやイカ、海老などの魚介類をトマトで煮込んだソースである。

『今だってすぐそばにあるのにな~』とケイがやはり自分の前に置かれた一皿を見ながら言うと、
『あ、わかった。トマトだ。』ジェイが叫んだ。
『ご名答。』
『そうか~。それまではトマトってイタリアになかったのね。』
『そうなのよ。
でも今ではイタリア人の誰一人、それまではトマト無しで生きていたことが信じられないでしょうね。』

『面白いですね。昔からこうやって、世界中を人やものが動いていたんですね。』
『しかも元の土地よりもっとぴったりの土地だったみたいに、根付いたりしてね。
そういえば知ってる?ジェイ君。唐辛子は韓国にどうやって入ったのか。』
『ハル先生、教えて下さい。』

『なかなか素直でよろしい。唐辛子は南蛮、つまりポルトガルから日本を経由して韓国に伝わったの。
それだってもとは南アメリカかどこかからでしょうけれど、唐辛子は日本じゃなくて韓国に根付いたのが不思議ね。』

生まれたところより、流れ着いたところのほうが根付くのに良い環境だった…
人もそうだろうか。
私がイタリアをネタに仕事をはじめたのも、少しでもイタリアにいる時間を長くしたかったから。
イタリアにいるほうが気持ちが楽なのだ。

メインの魚のグリルを食べ終わるころには2本目のワインもすでに残り少なくなっていた。
ハルは最初の1杯だけであとは水だったから、ほとんどはケイたち三人で飲んだことになる。
特にリエが。

『ね、さっき私なんてお祈りしたと思う?』突然リエが話し始めた。
『う~ん、わかんないな、ヒントくれなきゃ。』
茶化すように答えるケイの声が、すでにリエには届いていない。

『彼といっしょにイタリアに来させてくださいって。もう一度私たちを出会わせてくださいって。
彼は去って行ったけれど、私のことが忘れられずにいて、また戻ってきてくれますようにって。』
そう言いながら、リエは大きく見開かれた瞳に大粒の涙を浮かべている。
その涙が頬を伝って流れ落ちる。

『リエちゃん、そうね、また出会えるかもしれないね。』
ハルエが優しくそう言うのと同時に、ジェイがテーブルの上のリエの手に自分の手をそっと重ねた。
ジェイのその手から、リエに何かが流れこんでいくような気がして、ケイは目をそらすことができなかった。
リエの悲しみがテーブルを覆い、痛ましかったが、
同時にケイは自分の中に小さな嵐が生まれたのを感じていた。

リエとジェイの重ねられた手から視線をひきはがすようにしてケイは口を開いた。
『リエちゃん、だめよ。そんなことを祈っては。もし再び出会ったら、次の傷は10倍は深くなる。』
『10倍深くてもいい。一度だけでも戻ってくれたら、あと一生傷ついたまま生きてもいい。』
『リエちゃん…』
ケイはもうそれ以上のことを言えなかった。
泣いて、祈って、うらんで、ののしって、でも会いたかった。私だってそうだった。

『ね、ジェイ、どうして男の人はあんなに簡単に別れることができるの?
幸せだった日々からいくらもたたないうちに、どうして簡単にそれを捨てることができるの?』
『ぼくにもわかりません。そういう男もいるかもしれない。でもそういう女の人だっているでしょう?』
『違う!女は違うわ!』リエが振り絞るような声で叫んだ。

『彼には奥さんと子供がいたの。それで僕は絶対に妻とは別れられないって。
でも私、一度もそんなこと望まなかった。ただ時々会ってくれるだけで良かった。
泊まっていって欲しいとも、けっして言わなかった。
でもたった一度だけ、彼に頼んだの。
私が眠るまでそばにいてって、私が眠ってから帰ってくれたら嬉しいって。』

『それで?そうしてくれた?』ジェイがやさしく訊ねた。

『ううん、そんなこと言って僕を困らせないでくれって言われた。
それじゃいいわ、って、私困らせたくないわ、って。
でもそれからもう来なくなったの。
彼をデッサンしてたのに、それも途中だった。シャツも置いたままで、でも二度と来なかった。
電話したの。怒ったのならあやまるって。
そしたら怒ってないって。ただ自分たちは考え方も違うし、感覚も合わないよ、だからもうやめようって。』

そこまで言うと、リエはぐしゃぐしゃに顔をゆがめて泣き出した。
ケイは席をたつと、テーブルを回りこんでリエにかがみこみ、ナプキンで涙をふいてやった。
そっと肩を抱き寄せ、
『リエちゃん、海を見よう、見てごらん、きれいだよ。』
と子供をあやすようにささやいた。

リエにも、もうすぐわかるだろう。
彼がそれだけの男に過ぎないのだということが。
彼女の理性はすぐに気づくだろう。
でもこころが、そしてからだも、それを受け容れることができないのだ。
彼は私をあんなに愛してくれたのに、と。
全身の感覚で味わったあの喜びが偽りだったとは、けっして思えないのだ。

苦いエスプレッソを前に、リエはケイに肩を抱かれたまま、ずっと海を見つめていた。

クルーズが終わって港に着いたのは、すでに3時をまわった頃だった。
リエはまだ沈んだ表情だが、ずいぶん落ち着いてきていた。
せっかく楽しかったのにぶち壊してしまってごめんと謝り、ホテルに帰るという。
少し部屋で休みたいと言うハルエといっしょに、二人はタクシーで帰っていった。

 ←読んだらクリックしてください。
このページのトップへ