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再生-イタリア紀行 with J #8 <3日目/チンクエテッレ~ポルトフィーノ②>

 

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『すごいクルーザーばかりですね。それに豪華なヨットも。』
『これがポルトフィーノよ。
さりげないこんな小さな村に、世界中のお金持ちや映画スターが集まってくる。
表面は落ち着いているけれど、とてもスノッブな街よ。』

『でも美しい。
なだらかなカーブをえがく湾に砂糖菓子のような家、その上のマツや糸杉の森、
眠ったような海、クルーザーとヨット、一幅の絵のようだ。』

『きれいすぎるわ。全く破綻のない景色は、私には少し物足りない。
それよりあなた、映画で成功してここにいらっしゃい。
あの先にあるホテルにはこれまで世界中のVIPやスターがうじゃうじゃ泊まっているわ。
イングリッド・バーグマン、クラーク・ゲーブル、ハンフリー・ボガード、エリザベス・テーラー
それからアラン・ドロン、ビル・ゲイツ、ロッド・スチュワート、マドンナ、スティング、ロバート・デ・ニーロ…』

『今夜、そこに泊まりましょうか?』
『ジェイ、冗談でしょう?それにいきなり予約なんか取れやしないわ。』
『残念だな。ロバート・デ・ニーロに会いたかったのに。』

ここに泊まりましょう?
デ・ニーロに会いたいから?
ココニ、トマリマショウ…
いけない、またジェイに何か言われてしまう…

『ジェイ、こっちに来て、私ポルトフィーノのこの道を歩きたかったの。
そしてこの先のブラウン城から、海を見たかったの。
前にこの道を歩きながら、胸が詰まって涙が出た。
こんな幸福に満ちた道があっていいのかしらって。』

ジェイが左手を差し出した。ケイは迷わずその手を握った。

真ん中はレンガ、その左右を四角い切石、両側のはじには丸い小石を置いた、道幅が2メートルもないような急な道が続いていた。
右側は茶色の岩のような切通しで、ウチワサボテンがニョキニョキ生えていたり、つたがからまったりしている。
時おり紫や白の野生の花が咲き、オレンジの実をつけた木があったりして、見飽きることがない。
左側にはテラコッタ色に塗られたしっくい壁の家が続き、どの家の扉も緑に塗られている。

いつ来ても、ここを歩くと幸せで胸が一杯になる。
そしてなぜかいつもつぶやいている。ありがとう、神様、と。

ジェイが言った。
『神様ありがとう。』
『え?』
『感謝します。今僕は幸せです。ケイさんとこの道を歩くことができて。』

ジェイ…
私もよ、ジェイ、私いつにも増して幸せだわ。

『こんな高級リゾートに一人で来ると、いつも少し居心地が悪かったの。
だからジェイと歩けてよかった。』
『嬉しいな。
あ、居心地が悪くないようにと僕を連れてきたの?』
『やっとわかった?』
『それだけ?』
『そうよ、それだけ。』

ジェイはあきれたように口をあけ、すこし顔をしかめながら言う。
『ケイさん、それ悪いクセです。すぐに人をはぐらかそうとする。』
『ジェイ、ごめん。いつか素敵な人と一緒にここを歩きたかった。幸せよ。』
『そうです、最初からそう言って下さい。もう遠まわしな言い方や、はぐらかすのはやめてください。
こんなきれいなところで。それに時間の無駄だと思いませんか。』

時間の無駄…、そう私たちには限られた時間しかない、そのことがケイの心にあらたな恐怖を呼んだ。

左に家がとぎれ、緑のつたが覆い尽くした壁がしばらくつづく、それが終わるところがブラウン城の入り口だ。
ブーゲンビリアの花のトンネルをくぐって城に入る。、
昔の貴族の館が公開されているのだ。
この城のどの部屋の窓にも、素晴しい海が広がっている。
しかしケイのお気に入りは、小さな庭に置かれたベンチからの眺めだった。

『きれいでしょう?
私、ポルトフィーノではここが一番好きなの。』

足元の植え込みのすぐ先はもう海に落ちていく崖で、左には糸杉の間からいくつかの入り江の重なりが見え、
正面右手には、松の枝の向こうに澄んだ濃い青緑の海が、ふちを白いレースのような波で泡立たせて、
ごつごつした岩場を囲んでいるのが見て取れた。
少し遠くには真っ白なクルーザーが、停泊している。

『豪華なヨットを持っている人も持っていない人も、皆同じようにこの景色を味わえる。』
『僕は違うと思うな。豪華なヨットを持っていない人のほうが、よりよくこの景色を味わえる。』
『そうかしら?』
『ええ、そうなんです。たくさん持っていると、もう何も入らないんです。
水でいっぱいの甕には、もうそれ以上に水が入らないでしょう?』

『じゃ何も持っていない人が一番幸福なの?』
『そうです、僕はそう思います。』
『そうね、そうかも知れない。』

ジェイがケイを見つめた。
その視線がケイの唇へと動く。
ケイにもジェイの唇しか見えなくなった。
やわらかに、二人の唇が重なった。
つい今しがた感じた怖れは次第に消えていき、幸福だけが残った。
ローマは、遠ざかっていった。

『聞いて下さい。さっきの男と女の続きです。』
『話してみて。』

『二人は今日ここに招かれた客なんです。』
『何組かのカップルが招かれていて、美味しい食事とワインをいただいところ。』
『今、彼ら以外は部屋の中でデザートといっしょにコーヒーを飲んでいるところです。』
『やがて少しずつ、客たちが帰っていく。
港近くのホテルに泊まっている人たち、あの入り江の向こうに別荘がある人たち。』

『二人とも、なかなか帰る気にならなくてぐずぐずしている、』
『そこに突然館の主に電話がかかってくる。
どうしてもジェノバの母親のところへ帰らなければならなくなって、』
『そして二人だけがここに残される。』

『そのあとは?』
『もちろん、自分たちのシンプルな情熱に身をまかせるんです。もうさぐりあいはなし、で。
終わらせるためにも始めなければならないでしょう?』
ジェイがいたずらっぽい目をしてケイを見た。

ケイの脳裏に、がらんとした、むきだしの石積みの壁に囲まれた部屋が浮かんだ。
部屋の中央、天蓋付の大きなベッのうえに、
裸のまま真っ白なシーツにくるまれてすわり、見詰め合っているジェイと自分がいた。
開かれた窓から射し込む月の光が、ジェイの横顔を照らしている。遠くに波の音が聞こえた。

こころの奥のジェイに対する欲望が、自分で思うよりはるかに激しくうごめいているのに、ケイは気づいた。
ケイの中で危険を知らせるアラームが鳴りだした。

『ジェイ、私たちの魂をここに置いていきましょう。
今夜、二人の魂をここで過ごさせてあげましょう。』
きっとそうすればかたがつく。それでよしとできる。それで終わらせることさえ、できるかもしれない。

いきなりジェイが立ち上がった。
『ケイさん、だめです。魂を置いていったら、そのあと僕たちはどうやって生きていくことができますか?
それは逃げです。』
『そうじゃないわジェイ。最後を、迎えたくないからよ。
その先を、迎えたくないから。』

そのとき、ケイの携帯電話が鳴った。
待たせていた水上タクシーのドライバーだった。
夕方にかけて海が荒れそうだから、そろそろジェノバに戻ったほうがよさそうだ、と。
確かに風が強まってきて、岩場の白いレースの縁取りも、さっきより大きくなっていた。

二人は言葉すくなに、先ほどは幸福に満ち満ちて登ってきた道を下り降りた。
ケイはたまらなくなって立ち止まった。
『ジェイ、私この道をこんな悲しい気持ちで歩きたくない。』
『僕もです。仲直りしましょう。』
ジェイがケイを抱き寄せ、ふたりはしばらく道のまんなかで抱き合っていた。

やがてジェイが口をひらいた。
『僕はあなたが好きです。もう言ってもいいでしょう?
最初から惹かれていました。
話せば話すほど、会えば会うほどに、あなたは僕の気持ちを揺さぶり、持ち去っていく。
空港で出会ってからずいぶん長い時が流れ、その間もずっとあなたを想っていたような気がしています。』

ジェイ、ごめんなさい。わかっている。わかっていた。
でもあなたのその想いをまだ、私はこだわりなく受け入れることができない。
私の気もちを偽りなく差し出すことができない。

『ジェイ、私もあなたが好き。でもお願いよ、すこしだけ待って。
どれほどの時間が私たちにあるのかわからないけれど、今はこれ以上何も言えないし、言わないで欲しいの。』
『わかりました。それでも僕はうれしい。さあ、帰りましょう。』

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