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再生-イタリア紀行 with J #9 <4日目/フィレンツェ①>

 

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その朝、4人は朝食のテーブルを囲んでいた。
ハルエとリエはこのあとヴェネツィアを廻ることにしていたから、ジェイとケイとはここでお別れだ。
“最後の朝食”とおどけて、4人はオレンジジュースで乾杯をした。

『失恋した女のためのセラピスト、ジェイに。
ジェイ、ありがとう。私のつまらない話を聞いてくれて。ね、知ってる?
あなた私が男性不信に陥るのを食い止めてくれたのよ。』
『本当ですかリエさん、良かったです。
きっとこのあとはリエさんにお似合いの素敵な人と出会えますよ。幸せになってください。』

『男性不信回復剤ジェイに。』
ハルエもジェイに向けてグラスをあげた。
『やめてください。僕がお二人に元気をあげられたのはうれしいけれど、
そんな言い方をされるとなんだか変な気持ちになります。
それより映画カサブランカから、こんなのはどうですか?
僕たちが今までに犯した全ての過ちに…、』

そのあとはこう続くのよ。
そしてこれから私たちが犯すであろう全ての過ちに、乾杯。
8年前、ローマのホテルのバーでそう答えた、私の声がよみがえる。

『ジェイには似合わないわ。』
『じゃ何が似合いますか?』
『これはどう?
何も持たざるものたちに。』

ジェイとケイの視線がからみつくように交差した。

ジェノバプリンチペ駅は、東西南北に走る路線が交わるまさに十字路で、
海岸線を西に行けば南フランスへ、トリノを経由すればパリへ、
そしてミラノからさらに北にたどれば、スイスやオーストリアまで線路がつながっている。

リエとハルエは9時17分発の列車、ミラノで乗り換えてヴェネツィアまで5時間ほどの旅、
ケイとジェイは8時52分発、東リビエラ海岸を南に下り、ピサで乗り換えてフィレンツェまで、3時間半ほどの旅だった。

先に出発するケイとジェイを、ホームでリエとハルエが見送る。
ジェイが腕を広げ、二人をやさしく抱きしめる。
ケイはイタリア式に、相手の頬に右、左と自分の頬を合わせ、別れの挨拶を交わした。

急行列車は、昨日船と徒歩でたどったチンクエテッレを、一瞬のまばたきのうちに通り過ぎる。
いくつかのトンネルの合間に、窓の外を海とその手前の小さな駅が流れていった。

列車が内陸に入ったとき、ケイは心に寂しさが広まっていくのを感じていた。
まるで、ポルトフィーノのあの庭に、自分の魂をおいてきてしまったような気がして。

『ケイさん、話してください。
僕たちは昨日少しだけ近づいた、違いますか?
少しでもいい、話してください。あなたのことを。あなたの痛みを。』
『ええ。でも何から話したらいいのか。』

しばらく窓の外を眺めた後、ケイは口を開いた。
『イタリアに来る前に韓国の映画を見たわ。』

かすかに、ジェイに緊張が走ったような気がした。
『なんという映画ですか?』
『April Snow… 』

一瞬の沈黙の後、ジェイが言った。
『どうでしたか?』
『下手すれば陳腐に流れてしまう状況設定やストーリーなのに、美しい映画だった。』

『なにが美しかったですか?』

『自分たちが理解できないものに、理解できないまま引かれていくこと、
なんと言ったらいいのかな、それはある意味弱さだけれど、別の意味では勇気なの。
その先に何が待っているのかもわからない世界に、境界を越えて、踏み込んでいくということ。
それまでの自分だったら決して考えられないことなのに。

どうしようもなくあふれ出ていく自分を、私たちは引き受けなきゃならない。矛盾を矛盾のままに。
それがどんなにつらくても。それがどんなに人を傷つけようと。
そのことが美しく描かれていた。
繊細な余韻が残ったわ。
私が8年前に別れたAのことを思い出したのは、直接的には彼から突然メールが来たからだけれど、
でもあの映画を見たせいもあったと思う。』

『不倫だった?』
『その言葉はきらいだけれど、他人が見たら不倫以外のなにものでもなかったわね。
当時私はYと暮らしていたし、Aは3年前に結婚して子供までいたの。』
『なぜそのような関係に?』
『さあ、今となってはわからない。たまたま満月の夜だったとか。』
『パートナーとうまく行っていなかったとか。』

『Aのことは知らないけれど、少なくともそれまでの私はYとの関係に何の不満もなかった。
仕事とか、生きることに対して、何かその核をつかみきれないあせりのようなものはあったけれど、
でもそれがAと始まってしまった理由なのかというと、ちょっと違う。
それまでまったく意識していなかった、だから存在すらしていなかったもの、
彼と始まったときにもまだ気づいていなかったもの、でもあとで考えたらどうしてもそれでしかないようなもの、
私という女の奥深くにある、とてつもないブラックホールのようなもの。
それが私に一歩境界を越えさせた。あえて言葉にすればそんな感じかな。』

『答えはまだない…』

『ええ、言葉にするとどれも違うの。ずっと探していた。その答えを彼といっしょに探したかった。
でも彼には私の気持ちが伝わらなかった。
彼は私の中に、それまで自分でも気づかなかった何かがあることを教えてはくれたけれど、
それを満たすことはできなかったの。やがて私は疲れてしまった。』

『8年でその疲れは癒えましたか?』
『8年で、疲れはあきらめに変ったわ。』
『でも傷は癒えていない。』
『その通りよ、終わらせていないからだわ。ジェノバでの最初の夜、あなたが言ったように。』

そこまで話すと、もうジェイに話すことは何もなかった。
ケイの心の闇にかすかに兆した光のようにジェイを感じていることを、ケイが彼に言えない以上は。

『ジェイはどうなの?今までに心を奪われた人はいた?』
『ええ、何人か。』
『その人たちに、未練はない?』

『未練はないけれど、心に残っているひとはいます。
同じ撮影の現場にいて、いつしか愛し合うようになって。でもその愛はあまりに過酷だった。』
『過酷?』
『そうです。ドラマのなかの濃密な時間を共有している間はよかった。
でもドラマが終わって現実に戻って愕然としました。
普通の恋人たちはゼロから始めればいい。でも僕たちはまずゼロまで到達しなければならなかった。
それがどれほど過酷なことか。僕たちの愛はそれに耐えられなかった。』

沈黙が流れた。

『ケイさん実は僕は、
僕は本当は…』

『ジェイ…
ジェイよね。 私にとってあなたはジェイ、それ以外の誰でもない。』
『ケイさん…』
『さあ、あと5分ほどでピサよ。荷物を出さないと。』

ピサからは30分ほどでフィレンツェに着く。
フィレンツェ、私の第二のふるさと。
私を育て、鍛えてくれた街。Aと、3日を過ごした街。

いつもこのホームに降りると、ああ、帰ってきたと思う。
長いプラットホームが何本も並び、そのさきに、それらを束ねるように、売店や切符類場やバールが並ぶ駅舎が横に広がっている。
切符売り場を右に見て正面のドアを抜け、左に曲がればタクシー乗り場。
外に出ると、目の前に教会の鐘楼と、薄茶色の石組みの建物が見えた。

『サンタ・マリア・ノヴェッラ教会よ。』
ジェイは初めてのフィレンツェに興奮を隠せない。
『わ~、ジェノバとは全然違いますね。なんというか、華やかで、優雅で、でも活気があって…』

タクシーは駅から街の中心に向かう。
正面に、濃い茶褐色のレンガで積んだ特長のあるドームが見えてきた。
フィレンツェのシンボルといってもいい、大聖堂ドゥオーモのクーポラだ。
その手前を右に折れ、突き当るとアルノ川、川に沿って左折すると右手に不思議な橋が見える。
橋の上を建物が覆ったポンテ・ヴェッキオだ。
ジェイはきょろきょろとあたりを見回し、子供のように目を輝かせている。

観光客が群がった橋を右に見てすぐ左手が、ケイのお気に入りのホテルだった。
街のど真ん中にあるのに、その入り口は驚くほどさりげない。
レセプションもこじんまりとして、ロビーもアットホームな居心地の良い雰囲気をかもし出している。
青にベージュの小さな文様を散らしたファブリックのソファーセットがいくつか並び、白い壁には紋章がかかっている。

建物はルネッサンスからのもので、元はメディチ家ゆかりの一族の持ち物だった。
ホテルに変えるための修復工事で古いフレスコ画が発見され、
それをインテリアに取り入れた2階の図書室に座れば、まるで当時の個人の館に招かれたような気持ちになる。

ここでも数百年をたやすくタイムスリップすることができるのだ。
いやそもそもフィレンツェは旧市街の全体がルネッサンスのままに保たれた街だ。
当時と違うのは、通りを照らすかがり火が電気になり、往来を走っていた馬車が車になったということぐらいのものだろう。

レセプションにいたのは顔なじみのアンナだった。
『チャオ、ケイ。Ben Tornata!(ベン トルナータ)お帰り!』
『チャオ、アンナ?調子はどう?』
簡単な挨拶を交わすと、アンナの顔が申し訳なさそうに曇った。

『ごめんね、ケイ、オーバーブッキングになっちゃった。』
『どういうこと?』
『あなたのシングルにもうひとつシングルを追加だったわね。
申し訳ないけれど今夜から2日間は一部屋しかないのよ。
電話をもらった時は大丈夫と思ったんだけれど…』

『じゃ今回は大好きなここには泊まれないの?
わかった、仕方ないわ。で、どこを代わりに取ってくれたの?』
『それがね、ケイ、ちょうど今展示会のシーズンでしょう?フィレンツェのホテルはどこも満室なの。』
『なんですって。じゃどうしろっていうのよ。』

『怒らないでよ。お詫びにとっておきのスイートを提供するから。
あの部屋ならリビングスペースのソファーがベッドになるし、一応別室でしょう?それで勘弁して頂戴。
なんだったらフルーツバスケットにシャンパンもつけるわ。』

うしろでジェイがケイたちのやりとりを心配そうに聞いていた。
『ケイさん、なにかトラブルでも?』
『ええ、どうやら私たちスイートの一部屋でいっしょにすごさなきゃならないみたい。
混んでいて他のホテルにも部屋をさがせなかったって。』

『ラッキー!』
『ジェイったら。』
『ケイさん、スイートだったらシングルの何倍も快適ですよ。
それにテラスからアルノ川やポンテ・ヴェッキオも見えるかも。
大丈夫です。韓国の男は紳士だから、おそったりしません。』

イタリア旅行中には、航空機のトラブルにホテルのトラブルが重なるのも、そうめずらしいことではない。
しかし今回はそれに偶然の出会いから奇妙な道連れになったジェイのことが重なった…。
逃れられない運命に導かれて、一歩づつ歩かされているような感覚に、ケイはとらわれた。
しかしアンナがそういう以上、他の解決法はないだろう。

『OK,アンナ、それじゃ、おまけのふたつもお願いね。』
『もちろんよ、すぐに届けさせるわ。それにしても彼、ハンサムね。
ケイがボーイフレンドをつれてくるなんて初めてじゃない。あのスイートだったらきっと進展するわよ。頑張って。
でももしケイが振られたら、私がアタックしてもいいかしら?』

アンナはジェイがイタリア語がわからないらしいと見て取ると、そんな軽口をたたいた。
あいかわらずのノリだ。そうだった、私イタリアのこのノリが好きだったんだ。

『そうね、振られたらね。でもそしたら代わりにあなたのボーイフレンドを紹介してよ。』
アンナが片目をつぶって言った。Buon Divertimento!(楽しんでね!)。

川に面した、高い天井のその部屋は華美ではないが実にセンス良くまとめられていた。
入ってすぐ右側がバスルーム、左側はウォークインクローゼットになっている。
部屋の手前半分はリビングスペースで、窓際のカーテンと同じ、渋めの色合いの花柄のファブリックを使ったソファーが置かれ、
右奥の壁際にはテレビとオーディオセットが並んでいた。
コーナーはバースペースになっている。

ソファーの前の低いテーブルには直径20センチ、高さ40センチぐらいの円筒形のガラスの容器が置かれ、
それが過度でないスタイリッシュな雰囲気をかもし出していた。
容器の底にはクリーム色のはすの花びらをかたどった大振りのキャンドルが入っている。

リビングのソファーの後ろは、部屋の幅の右側三分の二くらいを曇りガラスの壁が仕切っていて、
その後ろがベッドスぺースだ。
部屋の左側手前の壁際には、大理石の石柱のような足の上に分厚いガラスの板を載せたライティングデスク、
その上にはレターセットとペンたてが載っていた。
左の壁の奥、ベッドと向かい合う位置にはサイドテーブルとおそろいのアンティークなドレッサーが置かれ、
壁には大きな鏡がはめ込まれている。鏡の並びには液晶テレビが掛けられていた。

部屋の左三分の一の空間は仕切りもなくそのままテラスまでひと続きになっていて、
テラスの向こうにはアルノ川とポンテベッキオが見える。
さすがにホテル自慢のスイートだ。
ジェイも目を見張っている。

そのとき、シャンパンとフルーツバスケットをが届けられた。
テラスにセッティングしてもらう。

『今日の乾杯は簡単ね。』
『ええ、オーバーブッキングに。』
『そしてアルノ川とポンテヴェッキオに。』

アルノ川の向こう岸はミケランジェロ広場に続く小高い丘で、
一面の糸杉の緑のなかに、明るいレンガ色の瓦を戴いた家が美しいタペストリーのように織り込まれていた。
目の至福、という言葉が浮かんだ。
でもケイは黙っていた。それを言葉にすれば、目の前の美しさが穢されてしまうような気がしたから。
そこに何かを加える必要はまったくなかった。そこから何かを取り去る必要も。
その景色を前に、いつしかケイの寂しさは影を潜めていた。

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