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再生-イタリア紀行 with J #10 <4日目/フィレンツェ②>

 

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せっかくだからこのまま昼食をとろうということになり、
生ハムとメロンの盛り合わせ、トマトとモッツァレラチーズのサラダ、
オリーブオイルであえたトマトや、レバーペーストをのせたブルスケッタというトスカーナ風のカナッペなどを頼んだ。

腹ごしらえが済むと、さっそく街に繰り出す。
まずは大聖堂ドゥオーモだ。
ルネッサンスの花の都フィレンツェを代表するものをひとつだけ挙げろと言われたら、誰もがこのドゥオーモを選ぶだろう。
その名はサンタ・マリア・デル・フィオーレ、花の聖母寺院。13世紀に着工され、完成されたのは1887年。
白とピンクと緑の大理石で飾られ、聖人の彫刻が隙間なく覆うファサードは、限りなく優美だった。

広場にもうひとつある八角形の建物はサン・ジョバンニ洗礼堂。
ドゥオーモと向かい合うその東側の扉が、ミケランジェロが『天国の門』と賞賛したギベルティの作品だ。
旧約聖書の物語が金色の輝きをはなっている。

『ギベルティはコンペで選ばれたのよ、知ってる?』
『そうなんですか?』
『ええ、最後まで残ったのがギベルティと、ドゥオーモのクーポラを設計したブルネレスキだったの。
もしブルネレスキが負けず、ローマに建築の修行に出なければ、あのクーポラはなかった。』

『面白いですね。ひとつの挫折があらたな成功につながる。
ブルネレスキにとってはその挫折が必要だった。』

『ルネッサンスにとってもね。あのクーポラはローマのパンテオンのドームにヒントを得ているの。
ローマ帝国が滅びた後に失われてしまった高い建築技術を、彼が研究し、復活させたの。
ルネッサンスというのは再び生まれる、再生という意味。つまりローマの再生と言ってもいい。
その最先端を行った先導者の一人がブルネレスキだった。』

洗礼堂に入る。
目を奪われるのは、丸い天井を覆うまばゆいばかりの金色のモザイクだ。
描かれているのは最後の審判や創世記の物語り。
その下の壁と床は、大理石のモザイクだ。

『どう、ジェノバの中世と、フィレンツェの中世は違うでしょう?』
『本当です。こんなに美しいなんて。驚きました。あの金色は本当の金なんですか?』
『そうよ、モザイクの小さなピースはガラスで、間に金を挟み込んであるの。
だから今も輝きが失われないのよ。』
『僕はカトリックなんです。
だから聖書の物語にこんな風に出会うと、なんだか感激してしまって、なんと言ったらいいのか…』

『ジェイ、さっきのギベルティの扉をみたでしょう?あれはルネッサンス黎明期の作品よ。
このモザイクのキリストはいかにも平面的よね。現実の人間のようではない。
一方あの扉の人物表現はどうかしら。生き生きとして、まるで現代のイタリア人をモデルに作られたみたい。
天上のキリスト教でさえ、ルネッサンスには生身の人間のものになったのよ。』

『ええ、そうですね、人間を、その生を、強く肯定しているのがわかります。
旧約聖書のどの場面もまるで劇場で演じられている物語のように美しく、ドラマチックです。』
『ええ、美がとても大きな価値になったのがルネッサンスなの。』

洗礼堂を出てその足でドゥオーモに入る。
外の華やかさに比べると内部は予想に反して簡素に感じられた。

『少し殺風景な気がします。』
『でも明るいでしょう?ジェノバのあの教会と比べてみて。
床の大理石のモザイクはとっても華やかなのに、少しも過剰ではない。
そしてシンプルな柱がリズミカルに繰り返され、正面の主祭壇まで見るものの目をなめらかに導いていく。
この全てをひとつの調和にまとめあげる美意識、これがルネッサンスだと私は思うわ。』

『ええ、わかります。とても合理的だ。そして美しい。』
『ジェイ、あなたルネッサンスの真髄をたった30分でつかんでしまったわね。』
『ケイさんのおかげです。僕はフィレンツェはもうこれだけでいい。』
『なにを言うの。このフィレンツェを形づくり、ルネッサンスを生み育てたメディチ家についてもしっかり見なければ。
メディチ家礼拝堂、ヴェッキオ宮殿、そしてウフィッツィ美術館。少なくともそれだけは見てね。』

『ええ、できれば。でも見すぎたらだめなんです。薄まってしまう。
せっかくつかんだものがするりとどこかに消えてしまう。
演じる場合もそうです。絞っていくんです。余分なものを捨てていくんです。
むしろ空っぽになったとき、初めてなにかがくっきりと現れてくる。それがこの前の撮影でよくわかった…。』

『演じる?』
しまった、気づかない振りをすればよかった。
しかしジェイもケイも、一旦口にした言葉を、もう取り消すことはできなかった。

『ケイさん、実は僕は俳優なんです。だますつもりじゃなかった。
ただこの前話したように、前の仕事の余韻を捨てたくて。
まるで自分そのもののようにある男を生きてしまったので、
俳優でもなんでもないただの僕自身をとりもどしたくて旅に出たんです。』

『いいのよ。俳優だってスタッフの一員だもの。
私すこしベンチに腰掛けているから、一回り見てくるといい。ドームに描かれた天井画もきれいよ。』
これ以上この話題を続けたくなかった。

もうすぐ日が暮れる。
ホテルに帰らなければならない。
ジェイと二人きりで迎える夜は魅惑的だが同時に恐ろしくもあった。

自分のことを、彼はもっと話すだろうか?
私はそれを、聞かずにいることが、もうできないのだろうか。
そして彼は私に、いらないものは捨てるべきだと、大事なものを絞り込むべきだと、
せまってくるのだろうか。

出発前に見た映画、April Snow のワンシーンが思い出された。
初めて一緒に海に出かけた二人が、なにをしたいですか?なにをしましょうか…、と言い合ったあと、
ためらいを感じさせる足取りでホテルに入っていく、映画の中でケイが一番好きなシーンだった。

そのときケイの携帯電話が鳴った。
あわてて外に出る。

『もしもし?ケイ?』
聞き覚えのある声、昔あれほど待ちわびた声だった。
自信のなさとテレを隠すために身についてしまった、くぐもった低い声。
ケイはその声を聞くとめまいがして、壁に身をもたせかけた。
そうでもしなければ、その場にしゃがみこんでしまいそうだった。

『Aなのね。』
『そうだよ、いまどこ?』
『フィレンツェ。あなたはどこなの?』
『ローマだよ。あと少しで仕事が終わるんだ。メール見てくれた?
あのホテル、とっておいたから。
待っているよ。じゃあ土曜日に。』

ケイの頭にAの声が響いていた。
待っているよ…待っているよ…
彼は変っていない。
私が何か言おうとする前にいつも先に電話を切る。

突然いなくなったケイをさがして、ジェイが出てきた。
そして出口の壁にもたれて、手に持った携帯電話を凝視しているケイを、みつけた。
ケイは、彼が目の前にやってきても、顔もあげずに電話機を見つめ続けている。
いや、その目はなにも見ていない。

『ケイさん。どうしたんですか?誰かから電話があったんですね。しっかりしてください。』
ジェイに肩をゆすぶられて、ようやくケイはジェイを見る。
『ああ、ジェイ。なんでもないわ、間違い電話だった。』

その言葉をジェイが信じるはずはなかった。ケイが今までにないほど動揺している…。
『熱いコーヒーか紅茶でもどうですか?』
『ええ、そうね、甘いお菓子が食べたいわ。』

バールの奥の席で、ケイはババというリキュールにひたした菓子を食べ、紅茶を飲んだ。
美味しい、ここのババ、好物なんだ、とにこにこして食べている。でもジェイにはわかっただろう。
ケイの体はここにあるのに、こころはすぐには戻って来れないくらい遠くへ行ってしまっているのを。
今なにを言ってもケイはよどみなく答えるだろう。でもその瞳をのぞきこんだときに何が見えるのか。
ジェイはどうすることもできない無力さをかかえ、悲痛な眼差しでケイを見つめるばかりだった。

ケイは表面的には落ち着いていた。
ぶらぶらと川に向かって歩く。
夕暮れがせまるポンテヴェッキオの上には欄干に体を預けたたくさんの観光客が、沈む夕陽をみつめていた。

そこまできて夕陽をみたとたん、ケイの表情が変った。
大きく見開かれた目は、ポンテヴェッキオの一本西のサンタ・トリニタ橋を見つめる。
ジェイを見る。
『ケイさん、大丈夫ですか?ホテルに帰りましょうか?』
『いいえ、あそこに、あの橋の上に私を連れて行って。
夕陽が沈んでしまう前にあそこに行かなきゃ。お願いよ。』

ジェイはケイの手を引き、さっきタクシーで通った川沿いの道をその橋まで歩いた。
こちらの橋は車も通る幅広の橋で、二車線の道路の両側に歩道もある。
数組のカップルが抱き合って、真っ赤に染められた川と、両岸の建物や糸杉の黒々したシルエットを眺めていた。

『私をここに座らせて。』
ジェイがケイを、欄干の上に、ポンテヴェッキオを背にするように抱き上げて座らせた。
するとケイは両手をジェイの肩にまわして引き寄せ、
『キスして、』とささやいた。
ジェイの唇が触れる前に、もどかしそうにケイが唇を重ねる。

“まるでこの世の終わりのように私にキスして”、
そんな歌があったけれど、ケイのキスはそれほどに情熱的だった。
ここが橋の上で、通りを車が行き交っているのも、歩道を人や自転車が通り過ぎていくのも、
なにもかもケイには見えず、聞こえず、感じられないようだった。

やがて完全に陽が落ちて、橋の上の街灯がともった。
それを合図のように、やっと二人はからだを離した。
ジェイはケイの横に腰をかけると、両腕を彼女の肩にまわし抱きしめる。
『大丈夫ですか?』
『ジェイ、ありがとう。』 

   ***

ホテルの近くのトラットリアで簡単な夕食を済ませ、二人は部屋に戻った。

アンナはソファーがベッドになるといっていたけれど、まだベッドメイキングはされていない。
引継ぎを忘れたのだろうか。

『ケイさん、お風呂に入って下さい。ジャグジー付きだし、ゆっくり温まってください。
それから僕こちらのソファーに寝ます。』
『ジェイ、私がソファーに寝るわ。あなたには小さいもの。』
『じゃそっちのベッドにいっしょに寝ましょうか?キングサイズだから、端と端に寝れば気になりませんよ。』
『ジェイ、調子にのらないの。あなた紳士なんでしょう。
とにかく、私だったらソファーで充分よ。』

ジェイに言われた通り、ラベンダーの香りのバスソルトを入れて、ケイはゆっくりとお湯につかった。
バスローブを羽織って出るときになって、初めてケイは、こんな格好でジェイの前に出ていくわけにはいかないことに気が付いた。
しかし下着もパジャマもまだスーツケースの中だ。
仕方がない。
気持ちよかったわ、とリビングのジェイに明るく声をかけてクローゼットに入る。
なかにはジェイの衣類が端にまとめて下げられていた。

『これくらいスペースあればいいですか?じゃまだったら僕の少ししまいますけど。』
うしろからジェイが声をかけてきた。

『ああ、ぜ~んぜん大丈夫よ。こんな広いし、私すこし荷物を…』
そう言いかけたケイをジェイが抱きすくめる。
『ジェイ、離して。何するのよ。おそわないって言ったじゃない。ジェイったら。』
『大丈夫、襲ったりはしませんよ。さっきのキスの続きはしたいけど。』
そういうとケイを抱きかかえてリビングまで運び、そっとソファーにをおろす。

部屋には低く音楽が流れ、ガラスの筒のなかにキャンドルがともっていた。
テーブルにはグラッパの瓶とグラスがふたつ。
ひとつのグラスは半ばまで注がれ、一つはほとんど飲み干されていた。

『ジェイ、私着替えたいわ。』
『何故ですか?どこかお出かけでも?』
『そうじゃないけど。』
『じゃそのままで。グラッパでなければ冷えたシャンパンもありますよ。それともカクテルでもつくりましょうか?』
『いいえ、適当になにか飲むからいいわ。』
『ぼくもシャワー浴びてきますから、ゆっくりしていてください。』

冷蔵庫から冷たい水を出して飲み干す。
ソファーにすわり、注がれたグラッパをひとくち口に含むと、のどから胃にかけてがじんわりと熱くなった。
口から鼻空にかけて馥郁としたとした香りが残る。

Aの声が聞こえてきた。

君が夕陽に染まっている。きれいだ。
そういって彼は私にキスをしたんだった。
あの橋の上で。

まぶたを閉じると夕陽の残像がうかんだ。
しかしその中に見えるのは、私にキスしようとかがみこんできたジェイだった。
ジェイの激しく熱い唇が、私を闇から呼び戻したあの熱いキスが、よみがえった。

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