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再生-イタリア紀行 with J #12 <5日目/フィレンツェ、眺めの良い丘にて①>

 

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目覚めると、隣にジェイはいなかった。
それがケイをすこしほっとさせた。

しかしケイの体の奥に重く残るけだるさが、そしてそのさらに奥に、
新たに発見された地中のマグマのように、満たされない欲望がくすぶっているのが、昨夜の真実を語っていた。

ベッドに入ったままリモコンでテレビをつける。
そういえば夕べは睡眠剤無しでも途中に目覚めることもなかった。
Rai5はニュースが終わり、星占いのコーナーに変った。

おうし座…、愛情と友情に満ちたおうし座に、守護星の金星が入宮したので、恋をするのに最適なときとなった。
昔の恋が再燃したり、新しい出会いにも恵まれる。今週末は一層刺激的。

今週末?昨日から何故か曜日も日にちも忘れていた。今日は金曜日だ。
明日は土曜日。
じゃ土曜日に、とAは言った…

そのとき、ジェイが帰ってきた。
ショートパンツにランニング姿だ。

『おはようございます、ケイさん。川岸を走ってきました。朝もやがきれいでした。』
ジェイの姿がまぶしかった。ケイはいそいで、頭のなかにこだまするAの声を振り払った。
『おはよう、ジェイ、あなた何座?』
『僕はおとめ座です。』
『じゃ次よ、だまって。』

おとめ座…コミニュケーション能力や説得力が冴えるとき。
シングルでも愛し合う人がいても、ハートに従った情熱的な行動に出てみよう。
恋愛運を司どる海王星が、ロマンティックなデートをお膳立てしてくれる。

それをそのまま同時通訳で彼に伝える。
『これあたってますね。ケイさんは何座ですか?なんて言ってましたか?』
『私はおうし座、ええ、なんだか当たってるみたい。私に恋の季節がきたって。』
『わ~、相手はぼくですね。』

そういってジェイはベッドのケイの上に飛び乗り、両腕で上半身をささえ、ケイを見つめた。
そのままキスしようと顔を近づける。
かすかに残るコロンに汗のにおいが混じっている。
『あ、すみません、汗臭いでしょう?シャワーを浴びてきます。』
『ジェイ、行かないで。しばらくこうしていて。』
ケイはジェイの胸に顔を押し付けて、その匂いを、思い切り吸い込んだ。

『すごく良い匂い。ジェイの匂い、好きよ。
この匂い、覚えておきたいの。』

ドアチャイムが鳴った。
『ルームサービスで朝食を頼みました。』
あわててなにか身にまとうものを探すケイを、ジェイはシーツのあいだに押し込めると、平然とボーイを部屋に入れた。
ボーイはまゆひとつ動かさずに朝食をテラスにセッティングし、ジェイの差し出すチップをにこやかに受け取り、出て行った。

『ジェイ、バスローブちょうだい。』
『どうしようかな。
ケイさんはずっとそのままのほうがいいかも。』
『意地悪言わないでよ。シャワーだって浴びたいし。あなた先に使いたかったらどうぞ。』
『ケイさん、いっしょにシャワー浴びましょう。コーヒーがさめないうちに急いで。』
そういうとジェイは、有無を言わせずにケイを抱きかかえるとバスルームへ運んだ。

バスタブのなかにそっとおろされ、熱いシャワーをかけられ、
あっという間にボディソープで泡だらけにされてしまった。
ジェイもすばやく服を脱ぎ、シャワーの下に入ってくる。
ケイはバスタブのふちにこしかけて、彼のからだに飛び散る水の飛まつを、
それらが髪をつたい、鎖骨にとどまり、胸の筋肉のくぼみに沿って流れていくのを見つめていた。
これだって、忘れたくない。ええ、けっして、忘れない。

『最高の朝食ですね。朝昼晩、この景色で食事してもいい。』
『ええ、ほんと。でも昼食はトスカーナの家庭料理はどう?
あなたにフィレンツェの美味しいものをたくさん食べてほしいわ。
そろそろ、ポルチーニっていう茸もでてるはずだし。』
『わかりました。今日はたくさん歩いて、お腹をすかして、たくさん食べましょう。』

  ***

『ここがシニョーリア広場、あの真ん中に塔がたっている建物がヴェッキオ宮殿よ。
昔も市政を執り行っていたところで、同時にメディチ家の居館でもあった。
今も市役所として使われていて、ここで結婚式もできるのよ。』

『結婚式?だれでもできるんですか?』
『ええ、ほとんどの教会はクリスチャンでなければ受け入れてくれないけれど、ここでは誰でもできるの。』
『誰でも?』
『ええ、望めばね。さ、入りましょう。』

おびただしい数の部屋、500人もの人が入る会議室、彫刻、絵画、武器のコレクションなどの部屋を、
ジェイはほとんど足を止めずに歩きすぎる。
『雰囲気だけ、今回はそれでいいんです。当時の時間の中に身を置いている、それだけでいい。
一つ一つのものにこだわっていると、大きなものをつかみ損ねてしまう。』

『それも演技の極意?』
『そんなたいそうなものではありません。
でも今僕はいきなりルネッサンスの中に放り込まれている。溺れないようにしなければなりません。
この洪水のようなおびただしいモノたちのなかでは、うっかりしていると感覚が麻痺してしまう。
だから一つか二つ、こころに留めておければ、そのほうがいいんです。』

ウフィッツィ美術館でも、ジェイのその態度は変わらなかった。
聖母子像の板絵や中世の宗教画の前をさっと通り過ぎ、やっと足を止めたのはボッティチェッリの部屋だった。

『ヴィーナスの誕生もきれいだけれど、僕はこのプリマヴェーラ(春)を見たかった。
不思議な絵です。やはり僕にはこれが演劇的に見える。
追う西風、とらえられるクロノス、そして花の精フローラ、
中央のヴィーナスと目隠しをしたキューピッド、踊る三美神、そして、この左端の若者…』

『不思議で、そして美しいわね。
ルネッサンスの一番華やかな時代を率いたメディチ家三代目の当主、ロレンツォが
若くして暗殺された弟のために注文したと言われているの。
でもそのことも含めて、様々な解釈がなされていてまだ定説のない絵なのよ。』

『どんなふうに解釈されているんですか?』
『一言でいうのは難しいわね。
一説によると、まず右側の、西風ゼフュロス、クロノス、クロノスの変身したフローラの三人も、左の三美神も、
それぞれ愛欲と貞節と、そしてその二つが合体し、昇華したものとしての美を表していると言われているの。
それがルネッサンスの愛の弁証法なのよ。
豊穣の春の只中に立つヴィーナスは、星の模様のマントを身にまとうことで地上の愛が天上へ回帰していくことを現している。』

『では目隠しをしたキューピッドは?』
『盲目の愛が、三美神の一人貞節をねらっている、貞節のなかに愛欲の炎を吹き込むという寓意。
あるいは見えざる神への愛が、貞節というキリスト教的なモラルをはねのけて、
理性を超えた歓喜の中に神と一体化するという寓意。』

『地上の愛とも、天上の愛ともとれる…』

『そして左端の若者はゼウスの使者メリクリウス、たわわに実った果物を採ろうとしているようにも見えるし、
天上を指差しているようでもある。彼は死者の霊魂を天に運ぶと言われているの。』
『ここでも天上と地上なんですね。』

『ええ、でもこの絵がこれほど魅惑的なのは、誕生、性と死、再生、美などを花や果実やギリシャ神話の神にたとえ、
さらにキリスト教までをシンボリックに盛り込んで、愛にまつわる様々な解釈を引きだせるところにあるんだと思う。』
『ええ、こんな映画を撮りたいです。見る人によって違う物語が立ち現れるような。
答えがいくつもあるような。いえ、答は見る人の数だけあるような…』

ジェイはそれからつと絵に近寄り、下草の中に咲き乱れる花々や、ヴィーナスやフローラの衣装のひだや、
薄絹をまとまった三美神のやわらかな体の線などに見とれていた。

『でもそんな一切の解釈を知らなくても、この絵には生に対する賛歌とその背後にただよう死にたいする哀感、そしてある理念、それを真実というのか、あるいは愛というのか、そんなものが見て取れますね。』

『ジェイ、ロレンツォ・ディ・メディチがつくった詩に、こんな一節があるの。
  麗しき若さもとどむすべなし。
  楽しみてあれ、明日知らぬ身なれば。
私この絵を見ると、いつもこの詩を思い出すのよ。』

 ***

美術館を出ると急に空腹を感じた。
約束どおり、ケイはジェイをトスカーナの家庭料理の店に誘う。
ズッキーニの花のフライ、生のポルチーニのスライスとルッコラのサラダ、
そしてリボリータというトスカーナ風のパンのスープ、
最後をトスカー地方の一部でしか飼育されていないキアナ牛のフィレンツェ風ステーキ肉でしめた。
日本の霜降り肉と違って、脂肪分はほとんどなく、ジューシーで深い味だった。

今やイタリア料理は世界中どこででも食べられるけれど、それでもその土地でなければ味わえないものがある。
ケイはなるべくそういうものを選んだ。

『美味しい?』
『すっごく。僕も色々なところでイタリア料理を食べましたけれど、どれもはじめてのものばかりです。』

『イタリアにイタリア料理はないって言われるのよ。』
『というと?』
『つまりその土地の郷土料理しかないの。』
『それだけ違うんですね。』
『それだけ違いを大事にする、ってこと。』

『人もそうですね。』
『ええ、私たち日本人は他人と違うことがいやでしょう?
だからみんな同じ色のスーツを来て、同じ色の車に乗る。』
『でもここでは、違うことに価値がある。ケイさんがイタリアに惹かれるのがよくわかります。』

『誰もが自分をいかに個性的に演出するか考えている。イタリア人はみんな役者よ。』
『実は僕イタリアに来てすこしびっくりしたことがあるんです。
こんなことを言うと変かもしれないけれど、なんか韓国と似てます。』

『そうね、韓国って、東洋のイタリアって言われているんでしょう?どういうところが似てるの?』
『おしゃべりなところ。自分の考えをはっきりと言うところ。
感情表現がおおげさで、喜怒哀楽が激しいけれど、言い合ったあとはさっぱりしているところ。
ひとになにかしてあげるのが好きなところ。暖かい、いや熱いところ。
そしてよく抱き合ったり、肌を触れ合わせたりするところ。
家族をとても大事にするところ。愛がとても大事だというところ。』

『そうなの?じゃきっと私、韓国がとても好きになるわ
いえ、あなたを通して見える韓国を、もう好きになっている。』
『うれしいです。ケイさん、今度韓国に来て下さい。』
『ええ、ありがとう。いつかね。』

ジェイ、わたし韓国であなたに会えるのかしら?
私たち、いつかまた会うことができるの?
ケイの心には未来に対する肯定も、希望も浮かばなかった。

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