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再生-イタリア紀行 with J #14 <5日目/フィレンツェ、眺めの良い丘にて③>

 

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ジェイとアンナが選んだ夕食はトスカーナ風いのししの生ハムイチジク添え、ひよこマメと野菜のスープ、
そして大きなハンバーグほどもあるポルチーニ茸のグリルだった。
付け合せにはルッコラをたっぷり。
デザートにはベルパエーゼというクリーミーなチーズと青かびのゴルゴンゾーラチーズ、
そして洋ナシやぶどうなどの果物の盛り合わせ。

『ジェイ、どうして私の好きなものがわかったの?みんな食べたいと思っていたものばかり。』
『ぜんぶアンナさんのサジェスチョンです。彼女ケイさんの好きなものをしっかり把握してるみたいですよ。』
『参ったな。あなたにもよ、ジェイ。ありがとう。』

『ケイさん、明日ぼくと一緒にローマに行ってくれますね。
ローマではあと二日しかありませんが、少しでも長くあなたといたい。』

『ジェイ、私、できればそんな話もせずに、今夜をフィレンツェ最後の夜とも思わずに、
このままあなたと一緒に眠って、
そして目が覚めたらあなたがいなくなっていたらどんなにいいだろうって思うわ。
そうすれば素敵な夢だったと、思える。』

『そしてどうしますか? 8年前の思い出のイタリアにすこしだけ僕というスパイスが加わって、
それであなたは満足なんですか?』
『そんな言い方をしないで。』
『あなたはもっと勇気のある人だと思っていました。
映画の中の、超えていく二人の姿が美しいと言いましたよね。
ニコロとエチオピア人のマーサがほほえましいといいましたよね。
なぜ自分のことになると臆病になるんですか。
それともまだAさんのことを?』

『Aのこと、確かにあるわ。でもそれだけじゃない。
私このさきの言葉をできれば言いたくなかった。
でもどう考えても私たちが普通の恋人同士のように、このあとも付き合っていけるとは思えない。
あなた以前の恋人との関係をとても過酷だった、と言ったわね。
それはドラマと関係のない地点まで到達するだけが過酷だったわけではないでしょう。
そのあとだって、きっと過酷だったはずよ。
正直に言うわ。
待つ人のいない一人の夜はただの夜よ。一人でご飯を食べ、一人で眠ることができる。
でも待つ人が来ない夜は底知れぬ闇。私その闇が恐いの。』

『なぜ僕はあなたを待たせるだけなんですか?僕のことを信じられない?』
『そうじゃない。でもあなたがいくらそうしたくなくても…』

『どういう意味ですか?』
『それはあなたが一番よく知っているでしょう?』
『それは僕が…』
ケイは思わず手のひらでジェイの口をふさいだ。ジェイの言おうとしているその名前を聞きたくなかった。
一度でも彼の口からその言葉が出たとたんに、なにもかもが崩れてしまうようで恐ろしかった。

『言わないで、ジェイ。
私のことを少しでも思ってくれるのなら、最後まで私だけのジェイでいてちょうだい。』

ジェイは川をみつめたまま、黙っていた。
シャンパンのグラスだけを重ねる。
ケイもなにも言えなかった。

静かなテラスにポンテヴェッキオに群がる観光客のざわめきや、
ストリートミュージシャンの奏でるバイオリンの音が、風に乗って流れてきた。

『ケイさん、食後の散歩をしましょう。
橋の上で夜の風に吹かれてみたい。』

しかしポンテヴェッキオは人で溢れていて、風に吹かれるどころではなかった。
興をそがれて、ドゥオーモに向かう。ライトアップされたクーポラが美しく夜空に浮かんでいた。
ドゥオーモ広場では、バイオリンがカルメンのハバネラを演奏している。

ケイはジェイにからだを預けて目を閉じた。
聞き覚えのある旋律に、ケイの頭の中でひとりの女が踊りだした。
その女はケイにひたと視線を合わせ、両手でスカートのすそをつまみ、その手を腰にあて、
はでなステップを踏みながら近づいてきた。

いや視線を送っていた相手はケイではなくジェイだった。
その女は両腕をジェイの肩にあずけ自分に引き寄せる。
ジェイは誘われるままに一歩を踏み出し、両手を女の腰にまわす。
二人はステップを踏みながら舞台の中央までもどり、
おたがいのからだに腕をまわしたまま、音楽にあわせて踊りだした。
女は、ケイだった。

演奏が終わると、ジェイが言った。
『わかりました。ケイさんが最後まで逃げずに僕といっしょにいてくれるなら。
そうしてくれるなら、ぼくはずっとあなただけのジェイです。約束してくれますか?』
『ええ、わかったわ。逃げない。約束するわ。』

  **

ケイがシャワーを浴びていると、携帯電話のベルが鳴った。
あわててバスローブをはおって出て行くと、ジェイが電話に出ていた。

『ケイさんは今シャワーをあびています。どちらさまですか?』
悪い夢をみているようだった。
ジェイがゆっくりと振り向き、ケイに電話を差し出した。
『Aさんです。』

『もしもし…』
『ケイ?』
『ええ、何か用?』
『明日のことだよ。オレ夕方までは戻れそうもないから、あまり待たせても悪いと思って。』

『あら、めずらしい。あなた人が変ったわね。
遅れるなんて一言も言わずに平気で何時間も待たせるひとじゃなかったかしら。
でも夕方ということは深夜と考えたほうがいいわね。』

ケイの口をついて、辛らつな言葉がはじけ飛ぶ。
まるで8年前に一気に時間が戻ったように、ケイの脳裏には延々と待ちわびたホテルでの暗い夜がよみがえった。

『それに、わたし一度だって行くとは言っていない。
そこは変っていないのね、人の返事も聞かずに勝手に決め付ける。』
『来ないのか?』
『ええ、おことわりよ。』

『なぜ?約束しただろう?いつかローマで会おうって。忘れた?』
『いえ、忘れていない。
夕方行くよ、と言われて朝まで待った約束も、
病院から電話したとき、お見舞いに行くよって言ってくれたことも。
あなたが守ってくれなかった全ての約束を、私忘れていないわ。』

『ケイ、仕方ないだろう、オレの仕事、わかってくれてたんじゃないのか。それに色々事情があった…。
でも悪かったよ。なんでも聞くよ。君の言うことをやっと聞けるようになったんだ。
来てくれ。話があるんだ。』

『いいえ、行けない、今更あなたに話すことはないし、聞きたいこともない。』
『さっき電話に出た男のせい?いっしょに泊まっているのか。』
『最初の質問にはノー、二つ目の質問にはイエス。』
『誰なんだ。』

『それがあなたにどんな関係があるっていうの。』
『わかった、確かにオレには何も言う権利はないな。でも話だけは聞いてくれ。
明日、夕方までには必ずホテルに戻っているから。来てくれ。待っているよ。』
カチリと電話が切れた。

ケイはへなへなと力が抜けてそのまま床にしゃがみこんでしまった。
ベランダに出ていたジェイがあわててかけつけ、ケイを抱きかかえるようにしてソファーに座らせる。

『だいじょうですか?』
『ええ。』
『なにか飲みますか?』
『お水となにかお酒をちょうだい。』

ジェイがバーにコーヒークリームのリキュールをみつけ、氷を入れてもってきたのを、ケイは一気に空けた。

『ケイさん、』
『…』
『僕が何か聞いたら今答えられますか?無理なら聞きません。』
『わかったわ。』

『彼は今どこに?』
『ローマよ。』
『ローマで会う約束を?』
『いいえ、していないわ。
確かに8年前にフィレンツェの駅で別れるときに、俺たちいつかローマで会おうって言われた。
私そのときは、ええ、会いましょうと答えたけれど、今回は一度もイエスと言ってはいない。
いつも自分勝手に決めて、相手の返事も待たずに電話を切るような人なの。だから会うつもりはないわ。』

『昨日の電話もそのことだったんですね。だからあれほど動揺した…』
『そう。ずっと押さえていたものが、たしかにジェイが言うように終わらせていなかったためか、
一気によみがえってきて、自分をどうしていいかわからなかった。』

『ケイさんは会うべきです。』
『えっ?』
『僕はそう思います。』
『普通の男なら会うなと言うんじゃないの?』

『さあ、ヒトのことは知りません。でもまた始めるつもりがないのなら、自分の手で終わりにするべきです。』
『自分でとどめをさせってこと?』
『そうです。』
『でもそれが出来なかったら?会って、また始まってしまったら?』

『それはあり得ない。』
『どうして? どうしてあなたにわかるの?』
『僕がいるからです、と言いたいけれど、それも少しはあって欲しいけれど、
でもケイさんは彼のことを考えて幸せな気持ちになりますか?また始めたとして、幸せになれると思いますか?
僕にはそう思えない。あなたにもそれはわかっているはずです。』

そうだ。
私はずっとわかっていた。結局は私はAを選ばなかったのだ。
仕事と別の女のため、他の街に去って行くAを引き止めなかった。
自分の仕事を捨てて彼についていくなど、まして一度も考えなかった。
再びイタリアで始まってのち、日本に帰って会い続けていたときも、私はAを選んではいなかったのだ。
そしてこれからも選ばないだろう。

『何故終わりにすることができないのですか。』
『それはたぶん、彼に一度も満たされたことがなかったから。
前にも話したでしょ。ブラックホールって。
彼を知って、自分がただただ女だということを知ったの。そして私の中に底なしの闇を初めて意識した。
それを教えてくれたAに、その恐ろしい穴を埋めて欲しかった。
Yを愛していると思っていたけれど、それは彼には感じたことがないものだった。』

『決して満たされないがゆえに別れ、そしてそれゆえに忘れられなかったと?』
『ええ、果てしないあり地獄にいるようだった。そこで飲む水は、飲めば飲むほど乾きが増した。』

『Yさんとはなぜ別れたんですか。』

『子供ができたの。』
『Aさんとの間に?』
『いいえ、相手はYよ。Yは信頼できる人だったわ。
私のなかの闇を埋めてくれる人ではなかったけれど、
人間として尊敬し合いながらずっといっしょに生涯を送れる人だと思っていた。
同じ価値観を共有でき、仕事ではよきパートナーだった。
最初彼がデザイナー、私がコピーライターでいっしょに仕事を始めたの。
その後私がトラベルライターに転進してからはデザインの仕事の傍ら、私のサポートをしてくれている。』

『結婚するつもりだった?』
『Aと出会わなければ結婚していたわ。事実イタリア留学から帰ったら彼のプロポーズを受けるつもりでいた。』
『それで子供を?』
『ええ。Aと始まってしまって、一時はYのプロポーズを受け入れることができなくなってしまった。
だけど私が共に人生を歩むべき人はYだと思ったの。それに彼に子供を与えたかった。欲しがっていたの。
彼となら一緒に育てられると思えた。』

『子供はどうしたんですか?』
『生まれなかった。いえ、産むことができなかった。
子宮徑癌が見つかって、手術になってしまったの。
幸い早期発見だったから、簡単な切除手術ですんだんだけれど、子供はあきらめなければならなかった。
自分が癌になったというショックと、子供を失ったという喪失感に、うちのめされたわ。』

普段は忘れている遠い過去の話なのに、ケイの声はかすかに震えていた。
ジェイが痛ましそうにケイの横顔をみつめる。そしてケイの手をとり、励ますように握り締めた。

『さっき電話で病院って言ってたのそのことですか?』
『そうよ、手術が終わってAに電話したの。
彼泣いたわ。なぜ君だけがそんな罰をうけなきゃならないんだって。
私は罰だなんて思ったことは一度もなかったのに。
Yに対しては申し訳なかったけれど、自分のしたことに後悔も、うしろめたさもなかった。
どうしてもAに会わずにいられなかった。
それは私の中から決して追い出すことのできないひとつの真実だったの。

でも、私の中に許しがたい固いしこりが残っていたことは確かね。
Aに対する、そして自分自身に対するね。
そのしこりが、わたしが子供を産むことをゆるさなかった、今はそう思っている。』

『Aさんはお見舞いに来なかった…』
『ええ、電話で、何とか仕事をかたづけて行くよ、って言ったのに、ついに来なかったわ。』

『Yさんとは?』
『彼、もう一度プロポーズしてくれたわ。Aのことで傷ついていたはずなのに、最初からやり直そうって。
でもできなかった。退院してマンションに帰ってしばらくして気が付いたの。
もう私彼を受け入れることがまったくできなくなっていた。
手術と同時に子供が失われたとき、彼に対する決定的な何かも失われてしまっていた。』

ケイを求めたYがそのことに気づいた夜を、ケイは今でも忘れることができない。
もしケイが彼をだましとおせる演技ができたなら、迷うことなく演じていただろう。
でも彼は気づいてしまった。
二人静かに暗闇の中でタバコをすった。
そして翌朝、彼はマンションを出ていったのだ。

『それからは?』
『Aとは会わなくなり、Yとは仕事だけのパートナーになった。』
『そして8年がたち、僕と出会った。』

『ジェイ…。ごめんなさい。私はこんな女なのよ。あなたの隣にいるべき女ではない。
今も揺れる気もちを、弱さを、あなたに預けてばかり。
本当に申し訳ないわ。私明日ローマに行かず、そのままシチリアに行くわ。』

『ケイさん、約束を守って下さい。』
『約束?』
『そうです。最後まで逃げずにぼくと一緒にいてくれるという約束です。』
『そうだったわね。でもこんな私があなたとまだ一緒にいていいのかしら?』

『こんな私ってどんな私ですか?』
『つまり、もういいトシで、さんざん男遍歴を繰り返したあと、一度子供を生み損ね、癌にもなった、そんな女よ。』

『8年間誰にもこころを開かず、大切なものを失った痛みに耐え、病を克服し、
そして今生きることの意味と喜びを求めている女…』
『ジェイ…』
『僕にはそう見えます。』

『あなたは?』
『僕は、女との関係においても常に完璧を、自分にも相手にも求め、
しかしその期待と決意が現実を前に崩れ去っては傷つけあい、長く寂しさをひとり抱えて生きてきた男です。』
『そして今、ヒトの痛みに寄り添い、過ちも冒険もおかすことをいとわず、
自分も相手をも信じる勇気のある男…』

『ありがとう、ケイさん。』
『私のほうこそ、だわ。ジェイ。』

ジェイが、まっすぐにケイを見て言った。
『ローマに行きますね。僕と一緒に。』

はたして私は、ジェイのこれほどの信頼に応えられるのか。一歩超えていく、その勇気があるのか。
ケイは目を閉じ、自分のこころを覗きこんだ。
そこに恐れがないか、不安がないか。
心は、澄んだ水溜りのように静まり返っていた。

『わかったわ。行くわ。あなたと一緒に。
そしてAに会うわ。
あなたに洗いざらいしゃべったら、とっても気持ちが軽くなった。
最後まで逃げずにあなたと一緒にいる。』

ジェイはケイにもう一杯リキュールを注ぐと、キャンドルに灯を入れた。
CDを一枚選び、プレーヤーにセットする。
妊娠していたときによく聴いた、アルビノーニのアダージョが流れ出した。

『ケイさん、さっきのことだけど…。』
『なあに?』
『その子供が、ケイさんを救ったのかもしれない。』
『えっ?』
『妊娠しなければ、癌を見逃していたかもしれないと、考えたことはありませんか?』

『それは、考えなかったわ。
ただ申し訳なかった。ひとつの命に対して。
そして喪失感ばかりが強くて。』

『僕はこう思うんです。
きっとその子は、今は自分が生まれるときでないのを知っていた。
そして自分が本当に生まれても良いときが来るまで、あなたに元気で、幸せでいてもらいたかった。』

ジェイのその言葉が、ケイの胸の奥深くに降り立った。
その言葉が、温かい光を発してケイのこころを照らしはじめた。
痛みに満ちた長い時間は、出口の見えないトンネルを歩いているようだったあの日々は、
ケイがジェイに出会い、この言葉を聞くための、長いプロローグだったように思えた。

その夜もジェイはケイに、キスと愛撫だけを与えた。
昨夜とはうってかわった優しい愛撫だった。
まるでふさがったばかりの傷口が開くのを怖れるように。
こり固まり、ちじこまった筋肉をひとつひとつほぐしていくように。

それは夜に開いたリュウゼツランの花が香る夏の庭のプールで、ゆったりと手足を伸ばし、
そのまま浮かんでいるような心地よさだった。
ジェイの、鳥の羽のように軽い愛撫が、そよ風によって水面に浮かんださざなみのように、
ケイに甘やかな官能を送り続けた。

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