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一年後、ある晴れた日に、、、

 

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一年後ある晴れた日に、物語が始まる…



そんなことは誰にもわからない。
明日のことさえわからないのに、まして一年後のことなんて。

一年たって、もし君の傍らに誰もいなかったら、俺たちもう一度やり直さないか?
夫は久しぶりにイタリアからかけてきた電話で、前後の脈絡と関係なくそう言った。
その言葉に、私はすんなりと同意することができない。
一年後にはあなたのことすら忘れているかもしれないわと、
覚めた言葉をつぶやいてみる。
夫は答えない。

どの街にしようかしら… 話題を変えたかった。
トレヴィーゾなんかどうだいと、即座に夫は答える。
郊外に安藤忠雄が設計したベネトンのスクールがあるよ。世界中から研究者を受け入れている。

街がイマイチだわ。
そうかな。しっとりとした良い街じゃないか。
たまにティラミスを食べに行くにはね。  (注:イタリア北東部ヴェネト州の街トレヴィーゾはティラミス発祥の地)
でも暮らすには、いえ、私の研究には物足りない。
私には歴史を生き抜いた街が必要なの。そして今もイキイキと輝いている街が。

じゃボローニャは?
次いで夫は、自分が研究のために三年を暮らした街の名をあげた。
旧市街から程近いところに借りているこじんまりとしたアパートを、もうすぐ引き払わなければならないのが寂しいのか。
それとも私がそこに暮らすことで、あの街と、あるいは私と、なんらかの繋がりを保っていけるとでも考えているのか。

君のお気に入りのロベルトもいる、と夫が続ける。
彼どこかに移動するって言ってたなかった?
彼だけじゃないよ、たくさん友人がいるし、君は部屋探しに苦労することもない。
こんなに条件のいいアパートはそうないよ。

条件ね…
ああ、部屋は快適で買い物も楽だ。

夫がいつもまっ先にあげるのはそういう類のことだ。
暮らす場所に重要なのは、そこが自分だけの居心地のよい穴倉であるということ。
加えて日常の便利さがあれば申し分ない。
そこで研究に没頭する。周りをとりまくものは関係ない。

ボローニャだって歴史のドラマはあるし、今に至るまで独自の文化を保っているよ。
知ってるわ、確か赤いボローニャって、言われてるのよね。
街の色合いと、昔から反体制派が強いことからそう呼ばれていることを、私は思い出した。
確かに体制におもねらず、誇り高く、知的だ。

でもちょっと暗くない?
君は秋と春先しか知らないからだよ。
あの季節は雨ばかりだし、ポルティコ(アーケード)が多いから余計そう感じるんだ。
でもおかげで、雨や雪に濡れずに街を歩ける。なかなかありがたいよ。

またしても実際的な利便性への評価。
しかし私は、今にも泣き出しそうな空模様の春先と、じとじとと冷たい雨が降る秋のボローニャの、
空を覆いつくすポルティコが好きではない。
まして春から夏にかけて、街の上に広がる蒼い空をさえぎるポルティコは、もっと好きになれないだろう。

それだけではない。ボローニャには私に必要な何かが決定的に欠けている。
根拠はないのに、天啓のような確信が私をとらえた。
同時に、街とそこに集う人々が作る“場”の磁力のことを思う。

突然頭の中のスクリーンに、ある街の風景が映し出された。
青空を背景に白と緑で優美な曲線を描くサンタ・マリア・ノヴェッラのファサード。
夜、アルノ川の橋の上から丘の中腹に見上げる、
白くライトアップされた、サン・ミニアート・アル・モンテのすっきりと素朴なロマネスクの教会。
今まで旅行者としてしか知らなかったあそこで、暮らしてみたらどうだろう。

赤い瓦に茶色っぽい石壁の単調な色合いのボローニャと違って、
明るい石組みの宮殿と、色大理石の教会と、川の向こうの糸杉のなかに点在するテラコッタ色の館と…
あの街は多彩な色を内部に含んでいる。
しかもその多彩さが饒舌にならず、心地よいハーモニーを奏でる街… あそこにしようと、私は決めた。

私、フィレンツェにするわ。

一歩踏み出したその道がどこに自分を導いていくのか、そのとき、人は知ることができない。
平坦だと思っていたら突然でこぼこの歩きにくい道となり、長いトンネルに入ってしまうことがある。
私たちの結婚がそうだった。
お互いにそこから抜け出そうとあがいてきたが、一緒にいる限り無理なことだと、ようやく最近思い知った。
歩き易いように足場をならすことも、トンネルを壊すこともできない。
だから違う道を歩くことにしたというのに、私たちはずるずると別居を続けている。

目の前に広がる分かれ道を見つめながら、きっとこの道は彼からどんどん遠ざかる道だと私は思った。
それを自分で選ぶのだと。

けれどあとから考えてみれば、本当は道によって、その先のあの街によって、私は選ばれたのかもしれない。
もしそうなら、あの街で私が出会うことになる人々も、同じように選ばれていたのだろうか…

   ***   ***   ***

舞台の中央で深く頭をたれた僕の上に、幕が降り始めた。
遠近法のだまし絵で描いた古代の都市の前にたたずむ僕と、両脇に横一列に並んだ役者たちの足元に、
暗い霧が静かに漂ってくる。
天から降りる緞帳と、地から這い登る霧に、登場人物の全てが包まれ、消えていく…
芝居のあとの役者と演出家の挨拶も、幻想的な非現実感をまとったまま、観客に示したかった。

客席からは拍手がうねり、襲ってくる。
幕が降りきると、僕たちは流れる霧を蹴散らして舞台の袖に戻った。
鳴り止まぬ拍手に再びゆっくりと幕が上がる。
だが舞台の上には誰もいない。
拍手に乗って舞台に出て行く者も一人もいない。

霧は一層濃くなり、背後の街並みが、古代の都市なのかそれとも現代の廃墟なのか、
あるいはどことも知れぬ想像の地なのかが判然としなくなる。
そこで紡がれた物語は一遍の夢だったのか、それとも何かに取り付かれた男と女が描き出す、
ひとつのイメージに過ぎなかったのか。

やがて舞台は暗転し、描かれた街が背後の闇に向かって、一枚、また一枚と倒れる。
ぽっかりと空いた空間に浮かび上がるのは、幾多の星の瞬く、果てのない宙(そら)…
そして全てが視界から消え去る。

いつもより少しだけ長く、客席は暗いままに置かれている。
その闇に観客が不安を感じ始める頃、ようやく照明が灯される。
人々は突然突きつけられた現実に気恥ずかしさを覚えるはずだ。
もしかしたら虚構と現実の境にたゆたう浮遊感を、感じているかもしれない。
落ち着く先の定かでないその気持ちの底に、
夢の名残のように物語の余韻が残っていてくれれば、この芝居は成功なのだ。

「ねえ、私たちもう一度舞台に出て挨拶をしたほうが良かったんじゃない?」
衣装を担当したミユが、ベッドの中から言う。
彼女が僕の勤める大学の学生だったと知ったのは、一週間ほど前のことだ。
そのときから、なるべく早く別れを切り出すつもりでいた。

大学での地位のためではない。
地位のためならむしろ別れない方が得策だ。
ミユは、僕が学生と関係を持たない主義だと知っていながら、
パリの留学から戻ったばかりで面識がなかったのをいいことに、芸術学部の助手だと偽って近づいてきた。
そして偽りつづけた。そのことをどうしても僕は許せないのだ。

「終わったことだよ。」 
「もう少しだけ、華やかなスポットライトを浴びていたかったわ。」
「学長の娘が舞台の端っこの暗い照明の下じゃサマにならないか。」
「あなただってそうよ。あんなに観客も拍手してくれたんだからそれに応えるべきじゃない?」 
僕の皮肉にも動ずることなく、ミユは無邪気に続ける。
彼女のこの無邪気さと、己の欲望を臆面もなく押し出してくるおおらかさに惹かれていたのに、
今はそれらが鈍感で傲慢なものに感じられる。

「でもいいわ。次の芝居のときはまた違う演出をしてくれるでしょう?」
「来年は演劇部の指導はできないと思うよ。」 
「私はずっと衣裳をやる。私たちいいコンビだわ。そうでしょう?」
僕の答えを無視して話し続けるミユに、しらけた思いが募っていく。
「君もそろそろ就職のことを考えるべきだ。それとも舞台衣裳のデザイナーでも目指すつもり?」

「まさか。これはお遊びよ。
自分にデザイナーとしての才能がないことはわかってる。
卒業したらどこかのブランドのプレスか、メーカーの企画にでももぐりこむつもり。
パパの援助で、最悪セレクトショップを出してもいいし。」
最悪、か… けっこうなことだ。

「話がある。」
「なによ、あらたまって。」
「しばらく休職しようと思う。」
「ローマに留学を決めたのね。パパから聞いてるわ、話がまとまりそうだって。」
「まだ決まったわけじゃないが、そろそろイタリアで都市論をまとめたいと思っているんだ。」
「わかったわ。実は私もパパにおねだりしてるの。あなたがローマに行くなら、私も行かせてくれって。」

では学長は僕たちの関係を知っていたのか。
だから留学を薦めてくれたのか。
学長の申し出を喜んで受けるつもりだったが、このことにミユが絡んでいるなら話は別だ。
もっとも彼女と別れれば、僕から断るまでもないだろう。
それどころか大学に残ることすら難しくなるかもしれない。

見るとミユの目が潤みかかっている。
「そんなことより、早くきて。ずっとおあずけだったんだから。シャワーなんかしなくていいわ。」
少し前の僕だったら、この開けっぴろげな言い方にぞくぞくして彼女を求めただろう。
だが今はまったくその気になれない。

「なぜ嘘をついたんだ?」
「言ったでしょう。嘘でもつかなきゃジャヌ先生は振り向いてくれないからよ。」
「まわりの連中に口止めまでして、やりすぎだとは思わなかった?」
「ばれて気が楽になったわ。私だって嘘は苦手だもん。」
今更こんなこと言っていても仕方がない。
「別れよう。」 僕はひとこと、息を吐き出すように言った。

「ジャヌ…」 ミユは思ってもみなかったのだろう、目を見開いたまま呆然としている。
「いや、こう言ったほうがいいかな。
この関係を続けるのは無理だ。僕はもう君にそんな気持ちになれない。」
「私をきらいになったって? もう私を抱く気にならないって?」
「すまない。」
「じゃローマは?ローマにも行かないつもり?」
「君と別れたら学長はこの話を撤回するだろう。僕も甘えるつもりはない。
どこか他をあたるよ。」

「あなた、ばかじゃない? 私を捨てようって言うの?
留学も?昇進も?
それに私と結婚すればゆくゆくこの大学はあなたのものになるのよ。」
子供をふるいたたせようと並べられた褒美のように、空虚な言葉が並ぶ。

「結婚? こんなに浅い僕たちの関係で、君は結婚まで考えていたのか?」
「そうよ。だって恋愛と結婚は別でしょう?」
「確かに別かもしれない。しかし君は結婚を、嘘と言う礎石の上にも築いていける、舞台の書割とでも思っていたのか?」
「結婚に求められるのは互いの条件よ。」

「条件? だとしたら条件で築いた関係は、条件が変わればすぐに形を変える。
芝居が終われば簡単に引き倒され、薄っぺらなベニヤ板の裏側をさらす背景の家並みと同じだ。」
「芝居にだってその瞬間に真実があるわ。」
「いや、芝居の真実は舞台の上にあるんじゃない。
舞台と役者の演技にリアリティーを感じる、観客の心のうちにあるんだ。」

唇をゆがめながらも涙ひとつ見せない彼女に、これ以上おろかな言葉を重ねて欲しくなかった。
「ミユ、たとえ僕たちが演じた物語に一片の真実があったとしても、
もはやその気になれない女とどうやったら結婚生活を送れるのか、僕にはわからないね。」

ミユの抵抗は覚悟していた。本当はもっとやんわりと切り出し、自分の気持ちを理解してもらいたかった。
しかしこんな言い方しか、今の僕にはできない。

受話器を取り、フィレンツェの大学の番号をダイヤルする。
ローマの話が来る前にあたっていたところだ。
学長から提示された待遇があまりに良かったので、返事を保留にしてしばらく連絡もとらずにいたが、
ローマの線が消えた今、僕に残されているのはフィレンツェだけだ。

担当者につないでもらうのを待ちながら、帰ってくれとミユに目で告げる。
彼女は脱ぎ捨てていた衣服を乱暴に身にまとうと、恐ろしい形相で僕をにらみつけ、
ドアを力いっぱいたたきつけ、出て行った。
それは共有したと思っていた美しい現在が醜い過去に変わった、苦い一瞬だった。

ようやく電話が担当者に繋がった。
まだ研究生の受け入れ枠は空いているかと訊ねると、
一席空けてあったのだが返事がないので、ほんの少し前に他の希望者に割り当ててしまったと言う。
僕は食い下がった。新たにどこかを探すのはそう簡単なことではない。
すぐにすぐでなくともよい、とにかくフィレンツェであることが僕の研究に必要なのだと。
担当者は上司と相談すると言ってくれた。

返事はイタリアには珍しく、翌日のメールで届いた。
そこには今年の研究生としては無理だが、もし一年待ってくれるなら客員教授として席を用意すると書かれていた。
提出していた都市論のレポートが興味深かったので、是非フィレンツェを舞台にこれを掘り下げた研究をしてほしい、
また、その中心的なテーマである、“演劇空間としての都市”というタイトルで、概論的な講義をしてほしいと。

退職まで考慮に入れはじめた僕には願ってもないことだ。
今の大学との契約があと一年で切れるのも都合がよい。
たとえ学長の不興をかったとしても、ただちに追い出されることはないだろう。
一年あれば、ルーティーンとなった講義を続けながら、研究の下調べのための時間も持てる。
僕はその、タッチの差で最後の枠をかっさらっていった研究生に感謝した。
おかげで大きなチャンスがめぐってきたのだ。
そうだ、一年後そいつに会ったら言ってやろう。
君がここにいるのは、僕が女と別れるのに一週間待ったせいなんだぞって。

こうして、僕は新たな道に足を踏み入れることになった。
次のステージの幕が上がるときに向かって、僕は歩き始めた。




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