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ある晴れた日に、永遠が見える… 3

 

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イタリア人にとってはまだ宵の口の時間で、通りはそれなりに賑わっている。
バカンスのこの時期、街にいるのは観光客と、仕事で居残るしかない運の悪いやつ、
そしてどこにも出かける余裕のない者たち。
加えてカナのような、あるいはジャヌのような物好きな人種が少し…

しかしカナはこの時期のフィレンツェが嫌いではない。
路肩に駐車している車の数は少なくなって歩きやすいし、
交通量が減って排気ガスの臭いが薄れ、夜気は涼やかで気持ちがよい。
今夜あたり、フィエゾレの丘にでも出かけたら素敵だろう。
でも誰と?

ファビオのことは考えたくなかったが、無理だった。
エルバ島に、彼は一人で出かけただろうか。
それともガールフレンドの一人を恋人に昇格させて連れて行っただろうか。
彼のことだ、一人では行くまい。

自分と入れ替わるように日本に帰った夫はどうしているだろう。
日本とイタリアに別れて暮らす二人にも、そろそろ一年という時間が流れるのだ。
といってもそれは、結婚してすぐに始まった別居の日々とさして変わるものではない。
カナと夫にとって、夫婦という言葉はすでに意味のないものになっていた。
それでもカナは、まだ明けぬ梅雨のうっとうしい湿気に耐えているだろう夫を思う。
彼は今、一人でいるのだろうか…

続いてロベルトのことを思い出した。
ロベルトとは夫を通して知り合い、気取りのないフェアな明晰さが好もしくて、
夫が日本に帰ってからも親しい友人付き合いが続いていた。
ファビオと出会ってからはゆっくり会うこともなかったが、久しぶりに彼と話したかった。
彼のアパートはここからそう離れてはいないはずだ。
電話をすると幸い部屋にいて、すぐに来てくれるという。

いつの間にかカナは駅前の広場に出ていた。
左手奥にサンタマリアノヴェッラ教会の尖塔を眺めた後
フィレンツェが現代の街でもあることを唯一感じさせる、モダンな駅舎をぼんやりと見つめる。
最初にこの駅を見たときに感じた違和感は、なくなったわけではない。
しかしそれは街の人々にとってと同様カナにとっても、
ここに暮らす以上受け入れなければならない違和感だ。
そう、目に入るものを、そこに確かにあるものを、見たくないと見ずにいることはできないのだと、カナは思った。


「本当に送らなくて大丈夫ですか?」 ふいに背後からジャヌの声が響いた。
「あら、つけてきたの?」
「だって君、結構飲んでるよ。一人で帰すのが心配だから…」 

英語では同じYouだがイタリア語では“Lei あなた”と“tu 君”ははっきり違う。
親しくなりかかってきたとき、こんなふうに呼びかけがごちゃまぜになるのはよくあることだ。
イタリア人が相手だとここで、じゃお互い“tu”で行こうよと確認しあうところだが、なんだかそれもおっくうだ。

「まあ、ご心配頂きありがとう。でも私は大丈夫。
すぐにボーイフレンドが来てくれますから、どうぞお帰りください。」
心配してくれたのが嬉しいのに、なぜか憎まれ口をたたいてしまう。
「では、彼が着くまで一緒にいますよ。」
「どうぞご勝手に。」

ジャヌが怒ったような顔でカナを見た。
言葉とは裏腹に、体がその視線に揺れそうになる。
さっきはまったく感じなかった官能の匂いを、今カナはかすかに感じ取った。
ジャヌが腕を拡げたので、体を預ける。

思いのほかがっしりとした腕に肩を抱かれ、彼の顔を見上げてみる。
しかしその唇は、カナに向かって降りてはこない。
目だけが、カナの心を覗き込むように見開かれている。
その視線に、カナは耐えた。

やがてその目から、ふっと力が抜けるのがわかった。
入ろうかとためらっていた戸口から、ジャヌが去っていく…
そう思ったとき、カナはとっさに彼の首に腕を伸ばし、引き寄せ、唇を重ねていた。

しかし柔らかな唇を、味わうのはカナばかりだった。
ジャヌはされるがままになりながらも、キスを返してはこない。
ふわふわとした綿菓子を食べているような甘さとはかなさをカナの唇の上に残して、
ジャヌはそっと身を離し、数メートル先に停車している車に目をやった。
カナもその目線を追う…


「ロブ!」 思わずカナは大きな声を出した。
プジョーの開け放った窓から、ロベルトがこちらを見ている。
自分で呼んでおきながら、思いのほか早い彼の登場にカナはうろたえた。

「やあ、カナ!」 ロベルトが車から降りて二人に向かってくる。
「ボーイフレンドかい?どうやらさっきからいたみたいだよ。」
そうささやかれて、あわててジャヌの首にからめていた腕をはずす。

「やあ、僕はカナの友人でロベルトといいます。」 しかしロベルトは少しの屈託もなく自己紹介を始めた。
「ジャヌです。」
ロベルトは彼が同じ大学で秋から一緒に教鞭をとる仲だと知ると、
親しみを込めた微笑を浮かべ、よろしくと手を差し出した。


「もしかして早く来すぎた?」
「ロブ。そんなことないわ。ありがとう、来てくれて…」
このあとどうするかと聞かれ、カナは即座に家に帰りたいと答えた。
ロベルトが車に戻り、助手席のドアを開けてカナを待っている。

「ジャヌ、さん…」
「ジャヌと… 」
「チャオ、ジャヌ、またね」
「カナ、今日はありがとう。Ci vedeiamo a domani…」

チ ヴェディアーモ ア ドマーニ… ジャヌはそう言った。
また明日会おう、と。
Ci vedeiamo だけなら誰もが交わす別れの挨拶だが、a domani 明日に、がついて、
それは特別のニュアンスを持ったものになった。


「僕、じゃまだったんじゃない?」 車を発進させるとすぐにロベルトが言い出した。
「ううん、ぴったりのタイミングだったわ。私困ってたの。」
「へぇー、カナが?男に道端でキスされたぐらいで?」
「どういう意味よ。」
「だって百戦錬磨のカナのセリフとは思えないよ。」
「からかわないで。それはアンでしょう。」

「僕はアンより君のほうがすごいと思うけど。でもあいつのキス、そんなによかった?」
「違うわよ… あなただって見てたでしょう?
私からキスしたの。でも彼があまり乗って来ないんで…」
「それは僕が見てるのに気づいたからだと思うけどな。」
そうなのだろうか? 
しかしその疑問より、ロベルトのさっきの言葉がカナは気になった。

「ところでアンよりすごいって何が?」
「そんなこと決まってるだろう。」
「誰かがそういうことを言ってるってわけね。」
「そういうことって?」
「たとえば美術学部の日本人研究生はインランだとか、この一年間次々に男とくっついては別れてるとか…」
「カナ、ファビオと別れたのかい?」
「ええ… 
そうだ、たとえば、あの女はしゃぶりつくしたスペアリブを、道端の犬に投げ与えるように男を捨てる、とか。」

「カナ、誰も君の事をそんなふうに言ったりしないよ。
でも君がファビオと別れたと知ったら、すぐにまた大勢のやつらが群がってくるだろうな。
僕が言っているのはそういうことだ。」
「私ってそんなに飢えてるように見えるのね。」

「カナ… どうしたんだ。おかしいぞ。」 
そう、私は今夜変だ。ロベルトに言われるまでもない。
でもそのことには触れてほしくなかった。 

「私がアンよりすごいって、じゃロブは少なくともアンのこと、よーく知ってるってわけね。」
「残念ながらというか、ありがたいことにというか、僕は彼女の好みじゃないみたいでね、
研究室の仲間で言い寄られたことがないのは僕だけなんだ。」
「まあ、それは知らなかった。じゃアンによく言っとくわ。ロベルトがくやしがってるって。」
「カナ…」 ロベルトが急に真面目な顔つきになった。

「頼むよ、それだけは勘弁してくれ。
僕はアンに言い寄られなかった唯一人の男だという栄誉を、失いたくないんだ。」
「男なら誰でもアンのこと好きなのかと思ってたわ。」
「まさか。」
「だってアンが落とさなかった男なんていないでしょう?」
「君はわかってないね。アンの場合男は落ちるんじゃない。
うんざりして、そのうちに一度だけでも相手をすれば解放してくれるんじゃないかと錯覚するんだ。」

ひどい言い方だった。
確かに少々うるさいと思われていることは知っているし、軽く見られるのも仕方ないが、
どんな男もアンと喜んで抱き合うではないか。
ジャヌだって…

「私もアンもおんなじよ。」
「どこが?」 
みな同じではないかと思いながら、カナはつぶやく。
「欲が深いところ…」 
それきりカナは口をつぐみ、ロベルトも何も言わない。、

ロベルトはボローニャ大学の経済学部で繊維産業についての論文をまとめていたが、
カナと同じころにこの大学に移ってきた。
フィレンツェ郊外や周辺の小都市にたくさんある小さな織物工房をリサーチして、
同じ産業の地域による差異をあぶりだしたいとのことだった。

そういうわけで、美術学部の研究生とあちこちの工房で出会ったりするうちに、
次第にカナの仲間とも親しくなっていたのだ。
今ではすっかり家族の一員のような顔で研究室に出入りしている。
もっともどう見てもビジネスマンのようにしか見えない彼の風貌は、
変わった装いを好む若者たちの間で、少し浮いた存在ではあるのだけれど。

「さあ、着いたよ。どうする?」
「どうするって?」
「一人で夜を過ごしたい気分か、それとも…」
「ロブは?」
「僕は君と過ごしたいな。特にこんな夜はね。」
「じゃ、今夜は一緒にいて。」
「OK!」

こんなやりとりがごく自然にできるところがロベルトのいいところだった。
けっして無理強いせず、踏み込まず、望むときだけ望むものを与えてくれる。
もちろん愛しているなどとはひと言も言わない。

カナにためらいがなかったわけではない。私は本当にそれを望んでいるのかと。
しかしさっきの言葉で、これから起こるだろうことに、カナは同意したのだ。


「なぜかって訊かないのね?」 
抱き合ったあともやさしい気持ちにならず、
むしろとげとげした思いに覆われて、カナはロベルトに言葉をぶつける。
「なんのこと?」
「なぜファビオと別れたのか、なぜ夫と長く別居しているのか、それなのになぜ離婚しないのか、なぜ…」
なぜ、今夜はこんなふうなのか…

「訊いて欲しいの?」
「いいえ。ただ… 私、なんだかあなたに申し訳なくて… 」
「ばかだな、カナは。僕だってまんざらじゃなかっただろう?君は素敵だった。
どうしてそれだけじゃだめなの?」

「どうしてだろう。どうしていつも私は得られないものばかり欲しがって、ここじゃないところに憧れて…
それなのに、手に入れたら急にいらなくなってしまって、辿り着いたとたんに興味を失う…」
「カナ、答えだってそうだよ。どうしてっていう問いの答えだって同じだ。
きっと知ってみたらばかみたいにたわいないんだ。」

ロベルトはやさしくカナを抱きしめる。
やがて彼の腕の中でカナにまどろみが訪れた。
ロブって病気の時に食べると美味しいおかゆみたい… ううん、ここはフィレンツェだから、リボリートだわ。
たっぷりの野菜やお肉を煮込んだあったかいスープに、塩気のない、固いパンを浸したやつ…
眠りに落ちながらカナは、ほかほかと湯気をたて、良いにおいのする一皿をうっとりと思い浮かべた。

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