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ある晴れた日に、永遠が見える… 13

 

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いつもより近くで鳥が囀っている。
まるで耳元で歌うように。
一方教会の鐘の音は、少し遠い。
しかしどちらの音も、カナの眠りを心地よくゆすぶった。

靄がかかったようにおぼろな意識で、カナはこの違和感がなんなのかわからずにいる。
私はどこにいるのだろう…




うっすらと目を開けると、自分の部屋の白い天井ではなく、
何本も横に走る、古びた木の梁が目に飛び込んできた。





幼いときに高熱にうかされて見上げた天井が、いつもの自分の家の天井と違って見えて、
恐怖を覚えたことを思い出した。
あのときは大声を出して母を呼び、やってきた母が手を握ってくれたのに安心してまた眠ってしまい、
目覚めたらいつもの家に戻っていた。

母さん… カナは思わずもれ出てしまった自分の声に驚いた。
それはずいぶん長い間口にしていなかった日本語だった。
でもここはイタリアで、母と暮らさなくなったのはイタリアに来るずっと以前のことなのだ。
呼んでも、母に聞こえるはずはない…

それなのにカナは手を差し伸べてみた。
もしかしたら母が手を握ってくれるかもしれない…

大きな手が、カナの手を捉えた。
その手に、唇が押し当てられる。
カナが目を開くと、ジャヌの暖かな瞳がカナを見つめていた…

昨夜のことを思い出した。
ジャヌが私をここに運んできたのだ。
丘の上の、階段をたくさん登ったこの部屋に。

すると様々なシーンが、時間を遡りながら浮かんでは消えた。
アンとパオロとジャヌと食事をしたこと、おかゆを食べたこと、なぜおかゆかと言うと私が…

本能的に、カナはそこで記憶の再生を止めた。それでもカナの心を鋭い痛みが貫く。
その痛みが、カナの体を硬直させ、顔をゆがませた。

「カナ…」 ジャヌが心配そうにカナの表情をうかがう。
「痛いの?」
カナは黙って首を振る。
ジャヌがカナの肩を抱き寄せる。

触れ合う肌に自分たちが裸なのだとカナは知った。
昨夜、眠りにつく前にジャヌが薬を塗ってくれたことを思い出した。
その前に、アパートのソファーの上で、むき出しのジャヌに触れたことも、思い出した。

記憶はそこで止まったので、
カナはそっと夕べのように手を伸ばし、ジャヌ自身に触れてみようとした。
指がジャヌを捉えると安堵のため息を漏らす。
これが夢ではないとわかったからだ。

「カナ、ダメだよ。これ以上はダメだ。」
ジャヌは身を翻してベッドから抜け出すと、ローブを羽織り、分厚い石の壁に切り取られた窓まで歩み寄った。
その窓を開け放つ。
鳥のさえずりが、一段と大きく部屋を満たした。

ジャヌがルームサービスで朝食を頼んでいる。
カナはジャヌがぬけ出てしまったあとのベッドのぬくもりを名残惜しそうに手でまさぐっていたが、
突然思いついて言った。

「ジャヌ、ここに寝て。ローブは脱ぐのよ」
「王女、奴隷ごっこはまたあとで」
「ジャヌ!」 カナは少し声に怒りを込めてみたが無駄だった。
「カナ王女、まず朝食を食べて、そのあとは入浴、そしてお薬でございます。」

仕方なくカナも起きようとした。
しかし筋肉は硬く強張っており、動かそうとすると重い痛みが全身に広がった。

「無理しないで。たぶん薬も切れてきてるんだ。」
ジャヌに手伝ってもらって上半身を起こすと、ちょうど正面の目の位置に窓があった。
窓は柔らかな緑で覆われている。
ひときわ美しく銀色に光る葉は、オリーブだ。
オリーブの林の手前には糸杉が数本、古びたレンガで積まれた小屋に寄り添って並んでいる。

その向こうに、アルノ川が蛇行していた。
さらにその向こうには見知ったフィレンツェの街が見える。
しかし街の建物は、カナの部屋から見えるものと微妙に違っていた。

「ここはどこなの?」
「君のアパートからもう少し登った西側の丘の上だよ。」
「ホテル、なの?」
「Torre di Bellosguardo トーレ ディ ベロスグアルドって言うんだ。」

「眺めの良い塔… ここは塔なのね。だから夕べたくさん階段を登った。」
「そう、ここにエレベーターはないんだ。
古い貴族の館で、塔は14世紀、母屋は16世紀に建てられたものだ。
今はたった16室だけのホテルになっている。」

素晴らしい眺めだった。
フィレンツェの街並みに田園の色合いが加わっているのが、ことに見事だ。

「ベストスリーに入るかも…」
「よい眺めの?」
「ええ、フィレンツェ絶景ベストスリー…」
「あとふたつは?」
「ヴェッキオ宮殿のテラスからアルノ川をはさんで見上げる対岸の丘、それから…」
それから私の部屋のテラスからの眺め、とカナは続けようとした。
贔屓目とすぐにわかることではあるが、今までのカナだったらそう自慢せずにいられなかったのだ。

「それから?」 それから…  ジャヌの声が遠ざかる。

私の、眺めの良い部屋…

     左、右、と頬を張られた。
     頬骨がゆがむような衝撃と共に、頬全体がかっと熱を帯びる。
     なにをされたのかわかない一瞬の空白。
     もがく腕。
     体にかかる重み。
     拳。肩に、胸に、脚に走る激痛。
     逃れようと全身に力をこめる。
     私の首にかかる、指…
     男が言う。

いやだ!聞きたくない!
カナは両手で耳をふさいだ。

     愛しているよカナ…
     
パタンと、心の扉が閉まる音がした。

「カナ!」 驚いてジャヌがカナの名を呼ぶ。
カナがゆっくり顔を上げた。表情が失われている。
「それから、三番目は…ミケランジェロ…広場。」 抑揚のない声が答えた。


届けられた朝食を終え、精神安定剤を飲む。
イタリアの薬は日本人のカナには少し強すぎるようだ。
だが、今は薬の力が必要だった。

午前中をカナは、ベッドでうとうととまどろんで過ごした。
幸いどんな夢も見なかった。
ふと気がついてベッドの周囲を探すと、いつもそこにはジャヌがいた。




ベッドサイドに椅子を寄せて、手を握ってくれていることもあったし、ソファーで新聞を読んでいることもあった。
カナが視線を向けるといつもジャヌはその視線を捉え、微笑んでくれたので、
カナはそれだけで安心することができた。

発作のようにカナを襲ったのはフラッシュバックだ。
トラウマとなった出来事が、突然鮮明に甦る現象。
心をゆったりとほどいていくようなこの空間にあっても、寄り添ってくれる人がそばにいても、
ほんの小さなきっかけで、フラッシュバックはやって来る。

そのことは、カナに新たな恐怖をもたらした。
これしきのことと昨日は思えたのが、今日はもう思えなかった。
昨日冷静に考えられたたことが、今日は考えられなかった。

「カナ…」 じっと目をあけて天井を見ていると、ジャヌがベッドにやってきた。
「なにか欲しいものは?」
黙ってカナは首を横に振る。
「もう大丈夫?」
「ええ…さっきはごめんなさい。」
カナの声に力が戻っていた。

「思い出してしまったの。」
「わかってるよ。何も言わなくていい。」
「なんだか、世界が凍ってしまったような気がしたわ。」
「今は?今も凍っている?」
「ううん、暖かくて…」 カナは窓の外のまぶしい緑と、その上に広がる空を目で追った。
「明るい…」

ジャヌが手伝うと言うのを断り、カナはなんとか一人でシャワーを浴びた。
だが着替えがない。夕べ、二人は何も持たずにここに来たのだ。
仕方なくまたローブをまとう。

「アンとパオロに身の回りのものを持ってきてもらおう。
着替えのほかに何かいるものは?」 
「別に… そうだ、研究室の机の上にある本と、スケッチブック、それから色鉛筆…」
「スケッチブックは僕の部屋だよ。君は忘れたままだ。
届けようと思ってたけど、突然呼び出されて、僕もそのまま忘れていた。それはパオロに頼もう。」

ああ、あの日… 
たった二日前のことなのに、ずいぶん昔のような気がする。
そうなのだ、この二日の間に長い時間が流れたのだ。
カナはあの日と今日のへだたりを思った。

ジャヌを一度だけ、友を欺いてまでも手に入れたいと思いつめたあの日、
彼と同じ街に暮らし、同じ景色にまぎれ、同じ時を生きることに湧き上がった歓喜、
火を灯され、はぐらかされ、余計燃え盛る欲望にのたうちまわった夜、
それらは永遠に失われてしまった。

無礼なまでに強く見つめられ、見つめ返し、行き交った視線も。
その視線に開いていったカナの中の女も。
“空間概念”と重ね合わせ、カナの裸身に高まっていったジャヌの中の男も。

今、ジャヌはカナに寄り添っている。
ジャヌの全てに、カナは触れることができる。
望めば、カナの傷が癒えたとき、ジャヌはカナを抱くだろう。
だが、何のために?
たぶんそれは欲望のためではない…

いたわるようにカナを見つめるジャヌの視線が、悲しかった。
そんなふうに私を見て欲しくない。
その包み込むようなあたたかさはカナの救いだったが、
同時にそれは、失われたものを一層残酷に際立たせてもいた。

「ジャヌ!」 その優しさに挑むように、カナはジャヌを呼んだ。
「なんだい?」
「ジャヌ!その口の聞きかたはなによ。無礼者。」

ジャヌはひざまずき、視線を床に落とす。
「申し訳ありません、王女。何でございましょう。」
「何故私の着替えがないの?」
「あわてていたので、持って出るのを忘れました。」
「おまえの落ち度だわね。」
「はい。」
「覚悟はできている?」

ジャヌはカナの目を見ながらゆっくりとうなずいた。
その瞳の底に喜びが見えたような気がして、カナは胸をつかれた。
だが自分から始めた即興劇を、やめることができない。

「用意しなさい。」 
カナが命じると、ジャヌは古びた重厚なつくりの洋服ダンスの中から、カナのベルト取り出し、
それをカナに差し出した。
カナの足元に昨夜のようにひざまずくと、背中を向け、ローブを肩から落とす。

その背中には、昨夜の痕跡は何も残っていない。
カナの力で、しかもただの革ベルトでは、たいした痛手を与えることはできないのだろう。
カナはベルトを眺め、内側の柔らかい革の部分ではなく、外側の硬く、滑らかな部分が当たるように、それを持ち替えた。
ちょうどよく打ち下ろせるように、ジャヌの背中に美しい筋を残せるように、
端を手に巻きつけて長さを調整する。

「ジャヌ、そのソファーに手を付いてもたれるのよ。」
命じられるままにジャヌが床に膝をつき、ソファーにもたれた。

カナはしっかりと足をふんばり、自分の腰の辺りに曝されたなめらかな背中に、
力を込めてベルトを打ち下ろした。
ジャヌは声を上げなかったが肩を奮わせたので、この一撃がそれなりに衝撃を与えたことがわかった。
カナの全身にも痛みが走った。
それが過ぎるのを待ち、二度、三度と、同じ位置に当たるように注意して、カナはベルトを打ち下ろした。
ジャヌの背中に、右上から左斜め下に向かって、一筋の赤いほころびが生じると、
カナはベルトを放り投げ、ベッドに倒れこんだ。

「カナ…」 ジャヌが驚いて身を起こした。
「だめ、動かないで。」 ベッドに近づいてこようとするのをカナは止めた。
「そのままでいて。あなたの背中の赤い空間概念を、よく見せてちょうだい…」
ジャヌはもう一度背中を向けると、ソファーにかがみこんだ。

彼は痛みを感じているだろう。しかし屈辱や恐怖も感じているだろうか…
いや、感じているのは喜びだ。
罪の償いができると喜んでいるのだ。

「カナ、王女… これでよろしいのですか? 王女は大丈夫ですか?」
ジャヌが少し心配そうに声を上げた。

「ジャヌ、あなたの気持ちは嬉しいけれど、でもこれは私の痛みとは違う。」
「どう違うと?」
「私は自ら進んで身を捧げたのではなかった。望んだのではなかった。
でもあなたはこれを望んだのよ。望んだものを得られて、嬉しいのよ。
これは… 救済だわ。
私が受けた憎悪とは違う。それをあなたが分かち持つことはできない…」

ジャヌはローブを引き上げ、立ち上がるとベッドに近づいてきた。
カナは半身を起して、ジャヌの目を見つめる。
その眼の中にあるのは、やはり痛みだった。
カナが味わった痛みの発端が、自分にあるという痛み、
カナの痛みを分かちあえないという痛み…
どうしてこれほどやさしく抱けるのかと思うほど、ジャヌはカナをふんわりと包み込んだ。

「なぜ、あれほど激しく抵抗を?」
「それは…」
「言いたくない?」
「ううん、大丈夫。」
「自分を罰するため。君も僕のように、罰を求めた…」
「求めはしなかったけれど、罰だと感じたことは確かね。」
「そしてもうひとつ…
先延ばしにされた僕との約束、あの“一回”のため?」

カナは答えなかった。
ただ黙って寂しく微笑んだ。

『大事な一回だ。たっぷり時間を取れるときにしよう。』
たしかにその言葉がなければ、カナはファビオをあれほど拒むことはなかったかもしれない。
たった一回のことだと、知らずに思い詰めていたのだろう。
しかしその一回は踏みにじられ、目の前から消えてしまった。

その約束を私たちは果たすことができるのだろうか。
全身が蕩けるような欲望が、いつか私の体の奥に蘇る日があるのだろうか…

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