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ある晴れた日に、永遠が見える… 番外編 『夏の行方』 前編

 

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           <前編>




2006年8月29日、とジャヌはまず記した。

深く考えてのことではない。
寝室から重い足取りで出てきて机の前に座り、PCを立ち上げると、自然に指が動いたのだ。
続けてこう打った。

今年ほど、前の年と違う夏はなかった。
だからガラにも無く書いてみたくなったのだ。
そうだ、これから一年に一度、誕生日にだけ日記をつけよう。
どんな一日だったか、どこで過ごしたか、誰が祝ってくれたか…
一ページ前には一年前の、十ページ前には十年前の自分がいる。なかなかいいアイデアだ。
何故急にそんな気になったのかというと…





だが、指はそこで止まってしまった。

この二日、殊のほかやりきれないのは、目覚めた直後のこの時間だ。
しばらくは所在無さに耐えなければならい。
その後はなんとか仕事をみつけ、のろのろと進む時計の針をしょっちゅう確かめながら昼を過ごす。
夜は、いつもの倍の距離を走ってベッドに倒れこむ。夜中に目覚めれば酒をあおる。
これを今日も繰り返すのだ。誕生日の今日も。

日記を書く気になったのはなぜかというと…

やはりその先を、ジャヌは続けることができない。
それは時間を持て余しているからだと、書きたくはないのだ。

おとといの朝、カナはプーリアへ発った。ロベルトと共通の友人の結婚式だと言う
ジャヌも誘われたけれど、招かれているわけでもないのに、のこのこついていく気にはなれなかった。
だが断ったのはそのためだけではない。

プーリアに行くことになったの。あなたも一緒に行かない?
かすかに、声にためらいが混じっている。
友達の結婚式なの…
そう言ってうつむくカナの横顔に、誕生日の計画を告げる気でいたのが、一気に萎えた。

やめておくよ。親しい人なんだろう?君だけ行ってくればいい。
言葉に込められた小さな棘を、カナに気づいて欲しくなかった。
だがカナは、その棘を口に含んだように笑ってみせる。

電話するわね。
気にしなくていいよ。
友達に会っている間は、僕のことは忘れて楽しんでおいで。
精一杯の強がりだった。

いつだってジャヌの誕生日は、夏休みという非日常の日々の中にしか巡ってこない。
だから毎年こんなだ調子だ。
学生時代は皆宿題に追われていてそれどころではなく、
大学の講師となってからも、休暇の終わりのあわただしいこの時期では、
一緒に過ごしてくれる者もいなかった。

今年もそんな誕生日がやってきて、夏が終る。
カナと過ごしたバカンスが、もうすぐ終る。
それと共に終るものが他にないか…
夏の日差しの中に突然冷たい秋風を感じるのも、
終るものをひとつひとつ数えてしまうのもいつものことだが、
去っていく時を悼む気持ちは、いつにも増して深かった。

携帯電話を手に取る。電源を入れ、また切る。
研究室の電話は、プラグを抜いたままだ。

ジャヌはテーブルに携帯を置き、外に出た。
それは虚勢なのか、それとも虚勢を張った自分に課した罰なのか、よくわからなかった。
むしろそれは、ジムでバーベルを挙げるときに10回と決めていたのを、あともう一回と踏ん張るような、
慣れ親しんだ感覚に似ていた。

緯度が高いフィレンツェでは、通りのマロニエやプラタナスはすでに枯れ始めていた。
足元でかさこそと音を立てる落ち葉を蹴散らしながら歩き、
バールでクロワッサンとカプチーノの遅い朝食をとる。
それから眠れぬ夜のためにシャンパンを買った。
一本では足りないかもしれないと思い、二本にする。

部屋に戻ると、テーブルの上の携帯に吸い寄せられるように近づき、
期待を込めてスイッチを入れた。
二日分の留守電のメッセージを確認する。

ジャヌったら! なんで全然電話が通じないのよ。覚えてらっしゃい。
帰ったらたっぷり… いいわね!
一話目はカナの怒声で終っていた。

二話目。
さっきはごめんなさい。悪いのは私だわ。
空港であなたと別れてゲートをくぐったとたん後悔した。
強引に誘うべきだったわ。私の迷いに気づいたあなたを。
迷ったのはね…
そこに機内アナウンスが流れてきた。

ただいま当機は離陸体制に入ります。
これより先、携帯電話、パソコンなど、全ての電子機器の電源を…

アナウンスにかぶさるようにカナが声をひそめた。
ジャヌ、着いたら電話する。いい?スイッチを入れておいてよ!

だがそのあとのメッセージでは、カナはもう言葉を発しなかった。
小さなためいきだけ。
最後のは少しだけ沈黙が長かった。
あえぎにも似たくぐもった息遣いが、ガチャリと唐突に中断され、
その無機的な音が、ジャヌの耳の奥でしばらくこだました。

自分の愚かさに、歯噛みする思いだった。
あのとき、どうして尋ねなかったのか。何を迷っているのかと。
そして、せめて今日は帰ってきてくれと、請うべきだった。
誕生日だと告げれば、カナはなんとしても戻ってきただろうに。

たまらなくなってカナの番号を呼び出し、ダイヤルする。
だが、今度はカナが電源を切っていた。
つながらない携帯を放り投げ、ジャヌは両手に顔を埋めた。

しばらくして、メールも何通か受信していたことを思い出し、再び携帯を手に取る。
なかにカナからのものが一通あった。

ジャヌ、おはよう。やっと一夜があけたところ。
今日は結婚式とパーティーだからいつ電話できるかわからないわ。
夜はつぶれるまで飲んでやる。
そうだ、酔っ払って誰かをあなたと間違わないようにしなきゃ。

カナの子供っぽい報復に頬がゆるんだ。
救われた気がして、ずいぶんな言い草じゃないかと、声に出してみる。

メールは続いていた。
ねえ、今度は本当に一緒に来ようよ。
あなたにプーリア料理を食べさせたいの。とにかくすごいんだから。
私が迷ったのはね、あなたと過ごした夏が終るようで寂しかったから。
詳しいことは帰ってから、顔を見て話すわ。
明朝のAZ1675、10:30a.m.フィレンツェ着の予定。

最後の一行を読むとジャヌは、怒りのあまり携帯を握りしめて立ち上がった
怒りはもちろん自分に対してだ。
何故もっと早く、せめて散歩に出る前に、このメールを読まなかったのか。
予定の時間をすでに15分ほど過ぎていたが、急いでタクシーを呼ぶ。
フィレンツェ空港の到着ゲートの前に立ったときは11時10分だった。

遅れるのが当たり前のアリタリアのことだ、まだカナはゲートの向こうに居るかもしれない。
さっきから何度電話してもカナの携帯にはつながらなかった。
早くスイッチを入れろと心の中で罵りながら、ジャヌは扉の前に立ち尽くす。



ゲートからは背の高いドイツ人らしきビジネスマンが二人、三人と連れ立って吐き出されてくる。
10時40分着のルフトハンザの客だろう。
人の群れが切れるまで待ったが、カナは現れない。

そのとき、手の中でベルが鳴った。

ジャヌ? 私よ。やっと電源を入れてくれたのね。
ほっとしたようなカナの声が流れ出す。
その声を聞いたとたん強張っていたものが、熱く、柔らかく、溶けた。

おかえり。それはこっちのセリフだ。
戻るのは明日だって…
ええ、気が変わったのよ。
カナの声を、鼓膜から体全身に染み渡らせるように聞く。

君が気分屋で本当に嬉しいよ。それより今どこ? 
少しでも早く顔を見たいような、このままずっと電話で話していたいような、妙な気分だった。

タクシーに乗ったところ、ロベルトも一緒よ。
あと二人友人も来てるんだけど、荷物が多くてタクシーは別なの。
だから彼らのホテルにちょっと寄って、そのあとあなたの部屋に…

ちょっと待って、タクシーに乗ったところって… 
ジャヌはタクシー乗り場を目指して走りながら、思わず、 カナ! と声を張り上げた。

タクシーを待つ人の群れが一斉に振り向いたが、皆すぐに視線を戻した。
先頭に止まった車には男が乗り込もうとしている。
奥の席にはすでに一人乗客がいたが、それが女なのか男なのか、はっきりとはわからなかった。
男もちらりとジャヌを見た。
だがすぐにドアは閉まり、タクシーは走り去って行った。

ええ、空港から出たところ… ジャヌ、あなた今どこにいるの?もしかして…
ああ、君がさっきまでいたところだ。
とめて!
電話の向こうで、カナがドライバーに向かって叫んだ。

このすれ違いは、カナがタクシーをUターンさせて空港に戻ったので数分後には解消された。
おおげさに抱き合う二人にロベルトがあきれた顔で、
たった二日が二年のようだと笑った。




実はね… 部屋に入るなりカナが口を開きかけた。
その唇に人差し指をあて、ジャヌは首を横に振る。
あとで…

じゃバスルーム、借りていいかしら? 声に艶めきが増す。
どこかで聞いたようなセリフだな。
あら、二日が二年ってことはあれは何年前のこと? よくそんな昔のことを。
何年前でも覚えているさ。

抱きすくめると、野生の獣のようにカナの背中がしなった。
ドレスのファスナーを下ろすと、頼りなげな布の間からするりと体だけが逃れていく。
下着も剥ぎ取ったのに、ジャヌはついにカナを捕らえることなく、寝室に一人残された。

何かが違う。
初めてカナがジャヌを誘った、あの日と違うことは言うまでもない。
だが二日前に別れたカナとも、微妙に何かが違うのだ。

自分も裸になり、ベッドのシーツの間に横たわる。
するとあの時のカナの何かを捨ててきたような眼と、
これもお願いと避妊具を差し出した、かすかにふるえる指を思い出した。
きらきらと輝やいて見えた初めての、女の欲望、
その欲望に欲情した。

サイドテーブルに、これみよがしに並べてやろうと取り出した、
小さな薄いパッケージを弄んでいると、
それ、なにか特別なしかけでもあるの? と、いきなり頭の上から声がした。
いつのまにかタオルを巻いた姿のカナが、ベッドの傍らに立っている。

カナは、動きが止まったジャヌの手から避妊具をつまみあげた。
その指先が、一個の生き物のようにジャヌを誘う。

僕もシャワー浴びるよ。腰に巻きつけるつもりでカナのタオルを奪う。
だめ… もう待てない…
カナの指がゆっくりとシーツをめくり、怒張したジャヌに向かって伸び、からみついた。


これはあの日の続きなのだろうか。

気まぐれな獣をようやく捕らえたハンターのように昂って、ジャヌはカナを抱き寄せた…






まっすぐに立ち上っていくもの、
迷わずに投げ与えられるもの、
それをつかみ、貪り、深く、沈めていく…

渦を巻き、引き寄せられ、
力を込め、はじき返され、また追い詰める…
ジャヌは次々ともたらされる愉悦を、
この日のために特別に与えられた天の贈り物のように、味わいつくす…

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