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声 <vol.3>

 

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ドンファが電話をしてくることはなかった。
私もしなかった。

仕事にはすぐに慣れ、派遣会社に登録している他の女たちとも顔を合わせた。
一度、懇親会と称して十名ほどの飲み会があった。
皆似たような経歴であちこちで同じような仕事をしていたから、
自然と話もはずんだ。

そうして数ヶ月が過ぎ、
ときどき私は、派遣会社で禁じられていた残業をするようになっていた。
特に金曜の夜は、
マンションの隣の部屋から聞こえる女子大生の声を聞くのがいやで、
クリニックの仕事が終った後に事務所に戻り、
残りのデータ入力を片付けたり、何もせずにぼんやりと過ごしたりした。

事務所ではいつも一人だったので、
そこは居心地のよい、私の場所になっていた。
FMラジオも消し、暗いフロアスタンドだけをつけて、
壁際の来客用のソファーに、
まるで傷ついた小さな動物がうずくまるようにじっとしている。

ある木曜日の夜、ソファーに座っていると、
壁越しにかすかにその声が聞こえた。

隣室からはときどき人の動き回る物音や、くぐもった話し声が漏れてきていたが
私の耳には、それらは窓の外で響く車の音と同じ雑音に過ぎなかった。
けれどもその声は、低く小さな声なのに、まっすぐ私の体の奥まで入ってきた。

隣は喜多がプライベートで借りていると、以前聞いたことがあった。
声は確かに彼女のものだ。
喜多に愛人がいて、そこを密会の場所に使ったからといって、
私がとやかく言うべきことではない。

そんなふうに思いながら、
何故私は、すぐにそこから立ち去らなかったのだろう。
マンションの女子大生の喘ぎ声にはうんざりしていたのに、
何故私は一層耳を壁に押し付けて、
喜多の声に聞き入ってしまったのだろう。

声は続いていた。
弱々しく、許しを請うようにすすり泣いたかと思うと、
扇情的に、そそのかすように歌った。

知らぬまに、私のからだはその声に同調していた。
私はソファーに横たわり、指を下着の中に挿し入れ…


ドンファの舌、これは彼の舌…
声は私、ドンファの愛撫にこらえきれずに溢れ出る私の声…

声が、耐え切れない緊張を孕んでたわみ、
私たちは一緒に上り詰めた…

声はけだるい余韻を帯び、壁を這い、
殺風景な事務所の部屋を覆い、長く漂った。


隣室のドアが開く気配がしたので、
私は事務所のドアをそっとあけ、廊下をうかがった。

喜多の部屋から出てきた男と女は、
エレベーターの前で立ち止まり、横顔を見せている。
男はサラリーマンのようなスーツ姿だ。
だが女は喜多ではなかった。
私が勤めるクリニックの、長島院長だった。

その男が、火曜日に患者として病院にやってきた。
さりげなくカルテを覗くと、既に何行も書き込みがあった。


翌週の木曜日も、ほぼ同じ時間にまた喜多の声を聞いた。
この前と同じように私の体は反応したが、
ドンファを欲しいという思いはさらに強く、
もう指だけでは我慢できないほどだった。

終ったあと廊下を覗くと、やはり院長とあの患者がエレベータの前にいた。
心なしか院長の頬は上気し、患者の顔も満足そうに輝いている。

院長と患者に関係があっても不思議ではない。
そこに喜多がからんで、三人で楽しんでいるということも考えられなくはない。
けれどもカルテには、たしかインポテンツと読める文字があった。

翌日、戸締りを確認する振りをして資料室に入り、
あの患者のカルテを取り出した。
折り曲げないように大事にフォルダにはさみ、バッグに潜ませる。
月曜日に早めに来て元に戻せば、誰にも知られることはないだろう。

"私の"事務所に戻り、カルテを取り出す。
カルテには彼らが何をしていたのかが書かれていた。
長島クリニックの臨床・治験の実態を、私は知った。

患者のエレクションは完全な状態に近づきつつある、、
おそらく次回、治療は完遂されるだろうと、そこには記されてあった。
次の予約は翌週の金曜日だった。

あと一度で終るのかと、私は寂しかった。
けれども、同時にほっとしてもいた。
喜多の声を聞きづつけることに、これ以上耐えられる自信がなかった。
自分がどうにかなってしまいそうで、恐ろしかった。

二度目に喜多の声を聞いたあと、
募った欲望をどう処理してよいかわからず、
私は繁華街をさまよい歩いた。
男なら誰でもいい、声を掛けられたらついていこうと思いつめて。
だが実際には、どの男にもまったくそそられなかった。


治療があるはずの金曜日の夕方、
勇気を振り絞ってドンファに電話をかけた。

『ああ、君か…』 
沈んだ声に、私はすぐに電話したことを後悔した。
『ごめんなさい、忙しいときに』 
『どうかした?』 何か用かと、問われないだけましなのだろうか。

『何でもないんです。ただちょっと…』 
『そう、じゃあまた… また電話する…』 
ドンファはどこまでもそっけなかった。

一度も電話なんてくれなかったくせに。
どの女にだって、自分から電話なんてしないくせに…
惨めで、寂しくて、やりきれなかった。


コンビニで弁当とワインを買って"私の"事務所に帰る。
三度目の喜多の声を、一人でしらふで聞く気にはなれなかったが、
かといって、聞かずにいられるはずもないのだ。

弁当を食べ、ワインを飲む。
アルコールで恐れと期待の両方を、麻痺させてしまいたかった。

突然、ポケットの中の携帯電話が振動した。
ドンファだった。
『さっきはごめん。会議中だったんだ』
まっすぐな声だった。

電話をくれた、電話をくれた、
初めてだ、ドンファが女に電話をかけた、
それが私…
酔った私はそんなことで有頂天になり、大声で笑いたくなった。

『何してる?』
『一人でワイン飲んでる』
『僕を誘いたかった?僕に会いたい?』
うんうんと、私は子供のようにうなずく。

『会議、終った?』 私の声は、甘えた鼻声になっている。
『まだなんだ。今ちょっと抜け出してきた。もうすぐ終りそうだけど。
家に帰ってるの?』
私が事務所にいると説明すると、
『時間は約束できないけど、会議が終ったら寄るよ』 と言ってくれた。

『それから、この前のこと…』 ドンファの声が深みと艶を増した。
私は待った。 
あのときにすれ違った互いの思いが、一瞬からまりあった気がした。

だがドンファはそれきり、自分の言葉を反芻するように口をつぐんだ。
長い沈黙にじれて、私は尋ねた。
『この前の、なに?』
『いや、いいんだ。なんでもない』

ドンファはまだ、あの戸惑いを抱えているのか。
あのときからずっと…

私を欲しがっていた目、私を欲しがっていた声…
なのに暗い道で見知らぬものにであって、驚きに前足を蹴り上げ、
天に向かっておののく一頭の馬のように、
自分を押さえ込んだ…

あのとき、彼はあの場所から、走り去っていったのではなかったか…
そうではない、まだあそこに、とどまっているというのか…


ドンファがどんなタイミングでやって来るのか、
長島院長や喜多と鉢合わせしないかと、少し心配になった。
喜多の声で自分がどんな状態になっているのか、それも不安だった。
けれどもやはり私はソファーから動けず、
むしろ何かが起こって欲しいと、心の底で待ち望んでいた。

すぐに、喜多の声が聞こえてきた。
目を閉じ、両手を硬く握り閉める。
私の意志は、喜多の声に翻弄されることを拒否している。
けれどもその意思がどこまで本物なのか、
そもそもこの部屋にとどまり、ここにドンファを迎えようとする自分の欲望と、
その意思はまったく矛盾しているのだ。

私は見えない手錠を自分に嵌めた。
ソファーに横たわり、両手を頭の上にあげ、見えない金具にその手錠を繋いだ。

喜多の喘ぎは、岩肌から染み出る水のように、じわじわと壁の粒子を通りぬけ、
部屋の空気を犯し始めた。

この声は、ドンファにブラウスを剥ぎ取られている、私の声。
ドンファの指が、首筋をなでる。
さわさわと風になぶられるススキのように肌がなびく…

私はもうすっかり裸にされてしまった…
ドンファの視線が痛い…

ドンファ! 何故触れてくれないの、
見ているだけなんて、酷い。
私がこんなに欲しがっているの、わかってるくせに…

ドンファ… あぁ、ドンファ…

そうよ、そう… やさしくして、ううん、やさしくなくてもいい、
どんなことでも、あなたが私にしてくれることなら、なんでもいい

私、あなたの腰に足をからみつかせ、締め付けたい、強く… 
それから思い切り、あなたの肩を噛みたい…

あなたを、あなたを… ちょうだい、全部! 
全部よ… 全部…

私は確かに、見えないドンファと抱き合った。
ドンファは私を激しく刺し貫いて、体中にキスしてくれて…
私は見えないドンファの肩に歯をたて、彼を全身で受け入れた…

気がつくと私は自分で手錠を外し、ブラウスのボタンをはだけ、
下着を下ろした姿でぐったりとソファーに横たわっていた。

頬をぬらす涙が冷たく乾いていく…
ふっと意識が薄れ、体が重力を失う感覚に、
ドンファと抱き合った名残のような心地よさが、重なっていた。

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