vai

 

声 <vol.4>

 

koe_title.jpg




『キッコ、キッコ… 』
水の底を流れる音のように、ドンファが私を呼ぶ。
そっと肩を揺すぶられる。

『ドンファ… ドンファ?!』 
私はソファーから跳ね起きた。
『ごめん、 会議が長引いて…』
急いでブラウスの前を合わせ、胸を隠そうとする…

だがボタンはすべて留められており、下着もしっかりと身につけていた。
私はあわて、ドンファが見たであろう自分の姿態を思い、
恥ずかしくて両手で顔を覆った。

『ごめん、ドアがロックされてなかったから…』 
『あ、あたし… 酔っ払って、それで…』
『悪かった。ずいぶん待たせてしまって…』 
ドンファは何も知らないという顔をしている。

私はドンファに寄り添い、肩に頭をもたせてみた。
かすかに女の香水が匂って、私はドンファから体を離す。
ドンファはここに来る前に、他の女を抱いてきたのだろうか…

『ワイン、まだある?』
『もうあんまり残ってない』
『ごめん…』 またドンファが謝ったので、私は少し笑い、
残ったワインを彼のグラスに注いだ。

『怒ってない?』 
私は答えず、乾杯と、からっぽの自分のグラスを合わせる。
ドンファが自分のワインを半分私のグラスに注ぎ、
『乾杯』 と言った。

優しい声…
私のウエストに添えられた優しい手…
少しも熱くならず、少しも私を欲しがらない。

さっきは喜多の声と共に、あんなに強く私を抱いてくれたのに

『どうかした?』
『何人もドンファがいて、どのドンファが本当なのか、わからない』
私はおさない子供のように言ってみた。
ワインの酔いにまかせて。

『どのドンファが好き?』
『わからない』
『どのドンファが欲しい?』
私は答えることができない。このドンファ、などと選ぶことはできない。

『僕が欲しい?』 黙って肯く。
『そんなに?』 こくんと、もう一度肯く。
『すました顔で、男なんて興味ないってバリバリ仕事してたキッコが?』
ああ、また別のドンファだ。

『だから私を誘ったの?』 子供の私が、消えていく。
『ごめん』 またドンファが謝った。

『ドンファ、もう私に謝らないでくれる?』 
『やっといつものキッコだ。 君にも色んなキッコがいるね』

私はドンファから視線をはずした。
そうだ、ドンファを欲しいとだだをこねる、
欲望にまみれた子供じみた女ばかりではない。
プライドが傷つくのを恐れ、自分をさらけ出すのをためらう、わけ知り顔の女もいる。

『ひとつだけ教えて。
私も、たくさんの女の中の一人なの?』
『そうだよ』 ぬけぬけとドンファが言った。

『僕だって、君のたくさんの男の中の一人だろう?』
『そんな…』
『君は今僕が欲しい。だけど明日は別の男が欲しくなる』
『ドンファ…』 

半年前は違う男が欲しかった。半年後のことはわからない。だからって…
『そんな言い方することないでしょ。
私、あなたのこと…』

ドンファが私の言葉をさえぎった。
『愛してる、なんて言わないでくれよ』

優しい声で酷い言葉をぶつけられ、
大事に思ってる、と言うつもりだったのに、私は違うことを言ってしまう。

『いつも、女は同じことを訊くってわけ?そして最後は愛していると言うのね…』
『そう、だいたい同じだから、僕も同じように答えるんだ。
今ではオートマティックに答えが出て来る』
その声が、しんみりと湿っている。

偽悪的なセリフで私を突き放しながら、心の底でドンファは哀しんでいる。
その哀しみの意味を、私は知りたかった。

『今夜は私と寝る気にならない?』 
最初の夜のようにドンファの胸に顔を埋めて、私は訊いた。
『キッコだって…』
『私、さっきあなたと、すごく激しくやっちゃったの』
『妬けるな』 その言葉はまるで本心からのように、私には聞こえた。

『何故、今夜来てくれたの?』
『そっけなくして悪かったと思って電話した。
そしたら君がすごく僕に会いたそうだったから。
シンプルだろう?』

私の求めに応えたいと?
なのにやはり、応えることができないと…
あのときのように、まだ…

規則正しく耳をふるわせるドンファの鼓動のその奥に、
小さな炎が燃える音を聞いた気がして、
電話で何を言いかけたのと、私は訊くのをやめた。


私たちは肩を寄せ合い、黙ってワインを飲み、
窓の外が次第に明るくなっていくのを眺めた。

それから彼は私をマンションまで送ってくれた。
断られると知りながら、泊まっていってと誘ってみる。
『ああ… そうだね…』 ドンファの声が少し揺れた。
揺れながら静かに、
『いつかね』と彼は答えた。


眠れずにいると、ドンファからメールが届いた。
どうってことない女となら、気楽に抱き合えるんだけどな…

愛してるなんて言わないでねと、私は返した。
 
 
一日中部屋で過ごし、ドンファのことを考え続けた。

あの夜彼は、私を抱く気なんてなかったのだ。
なのに私の欲望に感応してしまった… 
彼がおののいたは、私の欲望に対してなのか、
あるいは自分の中に見つけた何かに…

彼はそれを押さえつけて、
そして私だけを喜ばせようと、あんなに… 
まるでその何かに身を捧げる修行僧のように…

 


翌朝喜多に電話をした。
『すみませんお休みのところ』
『緊急なこと?』 喜多の声は、いつものようにおだやかで、私を安心させる。
『ちょっとプライベートでご相談が…』

喜多は、午後遅い時間なら都合がつくから会社で会おうと、言ってくれた。
私はすぐに部屋を出た。
ワインのビンやゴミは持ち帰ってきたし、金曜の夜の痕跡は残っていないはずだけれど、
少しでも早く事務所に着いて、もう一度部屋の様子を確かめたかった。

事務所には夜の親密さも、昼の緊張もなかった。
休みの日の学校の教室のように、
まるで私をよそ者のように拒絶する空気だけが、
しんと動かずにそこにはあった。


喜多が入ってきた。
『早かったわね』
『喜多さんこそ』 
『実は隣にいたの。あなたが来たのがわかったから』

ソファーに座ると、
『個人的なことって?』 と喜多がいきなり訊いた。
いつも以上におだやかな声だった。

この声で聞かれれば、私はどんな質問にも答えてしまう。
それなら自分から話そう。

『ときどき、夜事務所で過ごしていました。申し訳ありません』 と、まず謝る。
『知ってたわ。そんなこと、気にしなくていいのに』 
喜多が鷹揚に微笑んだので、覚悟を決めた。

『それで… あの、ここに座っていると、木曜日の夜に…』
『聞こえた?』 喜多はこともなげに言った。

続けてこう言われ、私は仰天した。
『あなたのも聞こえたわよ』 

自分のマンションでは冷静に頭を働かせることができたのに、
ではこの部屋での私は喜多の声に踊らされて、
自分が声をあげていることすら気づかずにいたというのか。

『特にこの前の金曜日の夜、あなたすごかった。
恋人ドンファンって言うの?』
全身が熱くなった。
『いえ、ドンファです。でも恋人じゃ…』 言葉が勝手に出てしまう。

気がつくとドンファのことを、私は話していた。
すごく欲しいのに、何故かそれまでの男とのように、うまくいかないのだと。
ドンファのメールの言葉も、自分の解釈を含めて話した。

『あなた、私たちの治療のこと、知っているのね』
私は素直に、好奇心からカルテを盗み見たことを白状した。
『まあいいわ。これで話が早くなった。実はね…』 
喜多の話はさらに私を驚かせた。

『あなた素質がありそうだから、機会をうかがっていたの。
最初の電話で自分の声が上ずったの、気づいた?
あなた気持ちや体の感覚が声に出やすいのよ。
そうやって出た声は相手にストレートに伝わる。
少し訓練すれば、声だけで聞く人の感情を引き出せるようになるわ』

つまり喜多は、私に例の臨床・治験の補助作業をやれと言っているのだ。
自分のように。

『そんなこと、私には出来ません』 
あれは補助作業なんかじゃない、治療行為の完全な主役だ。
しかも自分のセクシュアリティーをさらけ出さなければならない。

私はただ、その治療をドンファに受けさせたらどうかと相談するつもりだった。
いやドンファは病気ではない。
ただ混乱しているだけだ。 
あるいは何かを恐れている…

だからこの部屋で、治療などでなく、喜多の声を聞かせたら…
私は試してみたかった。
ドンファと自分だけのために。

『ここで偶然を装って、彼に喜多さんの声を聞かせるわけには…』
『いかないわ』 
喜多は即座に否定した。

『私、本業は精神科医なのよ。
あの患者だって、ずいぶん長くカウンセリングしたの。
あなたは何の問題もないからすぐに私の声に同調したけど』

『とにかくあちらで、もう少し詳しく話しましょう』
喜多は私を隣室に誘った。

 

部屋の壁は暖かみのある薄いグレーで、
何枚かジョージア・オキーフの花の絵がかけられている。


真ん中の丸テーブルの上の花瓶には、
紫の花がたっぷりと無造作に投げ込まれ、
ゆったりとしたソファーが二つ、
ひとつは事務所の側の壁に背をぴったりとつけて、
もうひとつはそれと向かいあって置かれている。

事務所の側の壁は、押し付けられたソファーの左右が、
ドアのない入り口のように切り取られ、その奥にもうひとつ薄暗い部屋があった。
左右の入り口にはそれぞれ数段の階段がついている。

喜多がどこかに置かれたCDプレーヤーのスイッチを入れ、
静かな音楽が流れ出すと、
テーブルのキャンドルの炎が柔らかく揺れた。
 
いらっしゃいと手をとられ、私は壁の奥へと階段を上がった。
大きなベッド…

天蓋からベッドの周囲に垂れ下がっている透き通った薄いベールが、
ゆるやかな襞を寄せて、天蓋を支える柱にまとめられている。

私はベッドに腰掛け、喜多が差し出す琥珀色の液体を飲んだ。
そしてその声に、身を任せた…

 ←読んだらクリックしてください。
このページのトップへ