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声 <vol.5>

 

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ベッドに仰向けに横たわると、垂れ下がる覆いを止めていたリボンが解かれ、
私は薄いミルク色の繭の中に閉じ込められた。

ベッドはソファーと壁を挟むように置かれていたから、
私のあげる声はソファーに座る人の耳に、少し高い位置から壁を伝い、
あるいは左右の出入り口から流れ出ていくのだろう。

喜多の姿は覆いの外の闇にまぎれている。
『あなた、なんて呼ばれるのが好き?』 
声はかすかに揺れて、ベールの襞を通り抜ける。

『キッコ…』 私の声は夢のなかのように重い。
ベールが、白い、深い霧のように見える。

『キッコ…』 喜多が私の名前を呼んだ。 
ドンファがくれた私の名前…

キッコ… 

名前を呼ばれるたびに、自分の体がどんどん軽くなっていく。

きっこ… 喜多がかすかな吐息のように私の名を呼び続ける。
その声が私の肌に、暖かな手のひらのようにまとわりつく。

私、あなたが欲しいの…
良い匂いのオイルと共に、喜多の声であるしなやかな指が、
くまなくからだの窪みを、撫でる。

どこからか別の喘ぎ声が湧き出て、霧の繭の中にこだましている…

心地よさにうっとりとして、音楽をかなでるようなその声が自分のものだと、
しばらく私は気づかなかった。
その声に絡みつく喜多の声をさがす…

きっこ…
どうして欲しい?

ドンファ… 乳首を…
ぴくっと乳首に刺激を感じて私はのけぞり、驚きと喜びの混じった声をあげる。
自分で乳房に触れてみたい…

だめよ。
だめ…

私は指一本、自分では動かすことができないのだった。
もどかしくもだえ、声をあげることしかできない。

きっこ…… きっこ…

喜多の声は、次第に激しく私を責めたてる。
自在に形を変え、羽のように肌を這い、
そうかと思うと意思を持った強靭な生き物となり、
勢いよく私を突き刺し、持ち上げ、
最後は空中で支えをはずし、私を失墜させる…

いつしか私はすすり泣きながら懇願していた。
おねがい、おねがいよ、ドンファ…
許して、これ以上、私…

戒めが解かれ、からだの奥底で何かがはじけた。
肉体の快楽を求めていたのに、その輝く光の渦の中に肉体はなかった。
喜びに痙攣しているのは、以前は自分の体であったなにか、
ただ声だけになった魂の核のようなもの…

幸せだった。
もう何もいらない…


けれども輝く光が消え、静かに闇が戻ってきたとき、
強烈な孤独が私を襲った。

ドンファ… 
あなたが欲しい、あなたのぬくもりが欲しい…

 



『その人の性的なファンタジーを、さぐるのよ』 喜多が説明している。
『インポテンツになるきっかけは様々だけど、
その人固有の性的なファンタジーを解き放つことができれば
実際の行為のとき、彼は自分自身を相手に向かって解き放つことができるの。
相手の反応ばかりに捉われて、相手を満足させられないんじゃないかと怖れていたら、
いつまでたっても彼は自分の性の主体になれない。
まず欲しがること、欲しがる自分を慈しんであげること…』

不能となった原因をとりのぞいたり、
傷つき自信を失った性的なアイデンティティーを対話により再構築するのではなく、
もともとその人に備わった力に訴えかけるのだと、喜多は言う。

バイアグラは確かにエレクションを持続させ、性交を可能にするけれど、
性的な興奮が高まるわけではなく、
インポテンツの本質的な治療ではないというのが喜多の持論で、
この点では長島院長とは意見を異にしていた。

あの日、恍惚の高みと孤独の深みを見せ付けられ、泣きじゃくる私を、
喜多は優しくと抱きしめてくれた。
乱れた髪を梳く、細いひんやりとした指を感じながら、
喜多と長島院長の行う臨床・治験作業の助手になることを、私は決めた。
最初に電話で、肉体関係は? と聞かれ、声が上ずったときから、
こうなることが決められていたような気がした。



私は比較的軽度な患者で"研修"をこなしながら、
次第に自分の声に対する自信を深めていった。
相手のファンタジーをとことん探り、事前に物語を完璧に作り上げるときもあれば、
ぼんやりとしたものを芯に、その場でストーリーを組み立てることもあった。
最初に喜多によって与えられたほどの高みまで、
自分の力だけで達するのはまだ無理だったが、
そのときドンファの名前を呼ばないようにするには、かえって都合が良かった。

ドンファにはあれ以来会っていない。
『声だけの関係をしばらく続けてみなさい』 と喜多にアドバイスされ、
私はまだ青い果実のような自分の声が、
芳香を放つほどに熟れていくのを待った。


そうして時々ドンファに電話をかけた。
たいした話をするわけではない。
ボトルの底に残ったワインを注ぐように、私が彼に声を注ぐ。
すると彼は自分のグラスから半分ワインを注ぎ返すように、
私に声を返してくれる…

何度かドンファが、"この前のこと"に触れそうになった。
だがいつも、声は自信なげに沈んでしまい、
その先の言葉にはつながらなかった。


ある日、いつになく彼の声が軽やだったので、私は訊いた。
『前にあなた、私もたくさんの女の中のひとりだって…』
『ああ、言った…』
『女子社員たちが噂してた。
ドンファはどんな女もせいぜい二度ぐらいしか抱かないって。
それはたくさんの女と係わるため?』

『それは…』 晴れていた空が急に黒い雲で覆われたように、声が翳った。
『ごめんなさい、つまらないこと訊いたわ』
『いいよ、確かにそうだったから…』
そう… だった…

『そう、だった?』 私は思わず、過去形で言われた最後のことばを繰り返した。
『ああ、そう、だった』
ドンファがもう一度、答えた。
雲の切れ間から、ひとすじの光が射し込んで来たような気がした。

『いや、少し違う。二度ぐらいというのは正しい、
でもそれは、たくさんの女と係わるためじゃない』
『じゃ、なんで…』

さらりと彼はつづけた。
『できなくなるんだ…』 私は黙った。予想していた言葉だった。
『無理やりいきり立たせることはできる…
この女は他の女と違うと思い込もうとする。でも…』

『でも?』 私はおだやかな声でその先をうながした。

『でも、皆同じだ。
与えられることが当然とばかりに、待ち構える女たち…
女たらしの遊び好きなドンファは、きっと私をたっぷり楽しませてくれるはずだと』

『演じていたのね…』
『女もそうだ。
最初の一回はその正体を暴いてやりたいと思う。
おまえは本当は、ただの発情したメス犬だろうって。
でも二度目は演じるのも、
演じている女の真実をさぐるのも、面倒くさくなってしまう…』

私… 私は、最初から発情した一匹のメス犬だった…
だが私は何も言わない。
きっとドンファには解っていたことだから…


『ねえ、キッコ…』 
ドンファが、少ししゃべりすぎたとでもいうふうに声を落とした。 
『こんな話をしながら会わないのも、不思議だよな…』

私が、『会わなくていい、声だけでいい』 と言うと、
『もう僕を欲しくなくなったんだね』 と、さみしそうにつぶやいた。

『欲しい…』 私は思いの全てを声に込めて言ってみた。
『欲しいけど… 会わない。 まだ…』

ドンファが黙った。
電話の向こうで、ドンファの呼吸が少し速くなったような気がした。
『ドンファ… 』 
彼の名前を呼ぶ私の声から、欲望のしずくが垂れる。

『キッコ…』 
私の欲望が、彼の肉体の中の何本もの弦をふるわせて、
美しい和音を奏でたようだった。

キッコ… 

重力と奥行き持ったその声が、私の耳の奥にずっととどまる… 
そして私の理性を失わせる。
彼が欲しくて、欲しくて… 欲しくて、たまらない。

『ドンファ… これ以上だめだわ… 私』
『キッコ… 切らないで』 
私を求めるドンファの息遣いが、すぐそこで聞こえた。

『また、電話するから』
『ああ、いつでも。 ねぇ、キッコ、僕も電話するよ…』

受話器を置くと、全身の力が抜けた。

 


数日後、本当にドンファが電話をくれた。
私は喜多の"治療ルーム"のベッドの上にいた。
新しい患者のための治療方針が固まり、
私とその患者との架空の性的な物語を練り上げているところだった。

私は、その患者の好みの、布というより紐で出来ていると言ったほうがいい、
エロティックな下着だけを身に纏った姿だった。
患者に見せるわけではないが
経験の浅い私は感情をリアルに表現するために、時々具体的な物や行為を、
患者の”ファンタジー”に従ってなぞってみる必要があったのだ。

そのとき、隣室のテーブルの上に置かれた私の携帯が鳴り、
喜多がそれをとった。
『ええ、そう… キッコの携帯です』 そう答えたので、相手がドンファだとわかった。

『今、換わるわね。 あ、ごめんなさい。
私彼女の雇い主の喜多と言います』
換わると言いながら、何故か喜多は受話器を放そうとしない。

『あなたのこと、聞いているわ… 一度こちらにも遊びに来てね…
確かお名前は、ドンファ… 』 

喜多は、ギリシャ神話の魔女セイレーンのような、
私など足元にも及ばない魅惑的な声でドンファに呼びかけると、
やっと受話器を渡してくれた。

『ドンファ… 』 私の声は、セクシュアルな妄想の余韻を帯びて湿っている。
『ああ、キッコ… 君の声が聞きたかった… 』
そう言われるとむき出しの裸の肌が、
ぬめりのある毛皮を纏ったように、ぞくりと喜んだ。

『仕事中?』 
『ううん、今終ったとこ』 
私は紐状の下着を股間に食い込ませたまま、答える。

『あとでかけ直そうか…』
『いいの、いま… あなたの声を聞いていたい…』
『キッコ…』 

優しい肌触りの声が私をくるみ、部屋全体に広がった。
私はベッドの大きな枕にもたれ、
受話器の向こうのドンファに見せ付けるように足を左右に開く。

『ドンファ…』 焦がれるように彼を呼ぶ。

指を挿しいれる。引き出し、クリトリスを愛撫し、またいれる。
『あぁ、ドンファ…』 私はただドンファの名を呼ぶ。
『ドンファ…』

受話器が、指から滑り落ちた。
喜多がそれを拾い、遠ざかりながら何かしゃべっている。

ドンファ… 私はただドンファの名を呼ぶ・・・ 
呼び続け… 呼び続ける…


 

ベールが開かれ、ドンファが入ってきた。
いや、喜多だ。 だって部屋には喜多しかいないのだもの。

ベールの白い霧はいつものように私を包み、
私を欲しがる欲望の渦が、霧の繭の中に巻きあがる…
熱を帯びた指が私の肌をなぞる。
降ろされた下着が丸まって、片ほうの膝にひっかかったままだ。
もっと指が欲しい。指は巧妙にポイントをずらして私を煽る。

ドンファ… ドンファ… 
あなたなの… 
くるりとうつぶせにされ、
強い力で、私は後から抱きすくめられた。

息が、出来ない…
ふっとその力が緩んだので、声を吐き出す。
ドンファ… ドンファなの?

そのとき、一気に背後から男が、私の中に入ってきた…
誰なのかわからない、
強い力で私を押さえつける男…

深く挿入され、激しく突き上げられ、獣の咆哮のような声が漏れ出る。
誰かの歯が、両方の乳首を交互に噛む。
そして誰かの舌が、クリトリスをなぶり始める。

ドンファ… 私の声を奪うように、誰かのものが口の中に侵入してくる。
ドンファ… 
ドンファなのね 私が欲しいのね… こんなに…

ああ、ドンファ…

強烈なオーガズムが訪れた。
たくさんのドンファが、私と共に喜びの声をあげる…


気がつくと私はドンファの腕の中にいた。
私たちは裸で、"治療ルーム"のベッドの上で抱き合っていた。
 
きっこ… ドンファが私の髪を撫でる。
大切なものをいとおしむように私の唇を、やさしく吸う。
まだドンファは私の中にいる。欲望はまだ、引いていかない。


突然、私は理解した。

あのラブホテルで、
人の性の果てしなさにおののきながら、
なお彼を欲しがる私に、
剥がれ落ちていったドンファの仮面…

仮面の下には何人もの男がいて、
どの男で私を抱いていいのかが、ドンファにはわからなかった。
女の欲望の火の粉を散らし、激しく蹂躙したかった。
初めて見つけたものを壊さないように、大事に愛したいとも思った。
うごめくたくさんの男に疑いの目を向ける自分もいた。
混乱を引き起こした女を畏れ、敬う男もいた。
たくさんの自分に戸惑い、それらを私に曝すことを、ドンファは怖れた…

あのとき、ぎこちなく、手探りで、それでも互いを与え合いたいと思ったもどかしさを、
彼もずっと抱えていた。
ずっと私を、求めていた…

私たちはここを出て、あのラブホテルに直行するだろう。
あそこで彼は私をオレンジ色の椅子に縛り付けるだろう。
何人もの男に分裂したままドンファは、同時に私の中に入ってくるだろう。
私は全てをドンファで満たされ、
彼を欲しがる私の声が、私の声だけがドンファを溶かし、彼は一人の男になるだろう…

そして、きっこ… と、
何度も熱い声で私を呼ぶだろう…


 
事務所の近くまで来て、ドンファは私に電話をくれたのだった。
今夜、会えるものなら会いたいと。
私が受話器を落としたあと、
ドンファと話し、彼を"治療ルーム"まで導いたのは、もちろん喜多だ。

ドンファは喜多に特製の琥珀色のカクテルを飲まされ、
私の声を、ただドンファを求め続ける声を聞いた。
そして気がついたら、私を抱いていたという。
 
指をからませあってソファーに座る私たちの上に、
オキーフの寄り添う二つのけしの花がある。
 

喜多が嬉しそうに、オキーフの絵と私たちを眺めている。
その柔らかな微笑に、この人は本当に人間の性的な交歓を大切に思っているのだと、
あらためて私は思った。
 

ドンファはまだ事情がよく飲み込めていない。
『だからキッコの仕事は…』
『声だけなのよ、それがインポテンツの治療になるの』 

喜多の発する言葉はわずかだが、その声で、聞く者を簡単に納得させてしまう。
『その患者とは…』
『もちろん顔すら合わせないの…』
かすかにうなずくドンファの横顔から、
彼がすっかり喜多の声に魅了されているのがわかった。

 
『ところで… 』 喜多がいっそうおだやかに言った。
『あなたたちの声… すごくいいわ。
女性の治療に二人の抱き合う声を…
ううん、ドンファだけのほうがいいかもしれない…

ねえ、ドンファ… 』

治療目的でない女性も押しかけるんじゃ…
そう言いかけてドンファを見ると、
彼は引きつった笑顔で首を横に振っている。

 
ドンファはまだ気づいていない。
一度喜多の声に魅せられた者は、
その声に逆らうことができないのだということを…





        FINE

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