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声 「夜の森のルリイトトンボ」

 

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141から松原高原に向かう道路は狭く、急カーブが続いていた。
劣化したアスファルトの黒い亀裂を、タイヤが敏感に拾う。
忠告に従って、ロータス・エリーゼをやめて正解だった。

連れがいるならこっちにしろ、
なんだったら、誕生日プレゼントにやるよ。
そう言って叔父は、ポルシェ・ボクスターのキーを投げてよこした。

ごめんだね。
どうせ年に数回しか乗らないんだ。
また借りに来るよ。

車もオートバイも、叔父の影響で始めた。
叔父は今でもスポーツカーを二台、家族用にセダンを一台、
交互に乗りこなしているというのに、
ドンファは仕事に追われて、
せっかく手に入れたロータスも叔父に譲ってしまった。
オートバイは、その息子が大学生になった数年前から、
半ば乗っ取られたようになっている。

あのときはどうだっただろうか。
だが思い返してみても、路面の様子など記憶にない。
そのバイクを追うのに、夢中だったのだ。

ハンドルを切りながら、頭の中で指を追って数える。
10年も昔のこと、いや9年前か……。
 

中央高速でオフロードバイクに追い抜かれたのは、確か甲府南のあたり。
濃い青のヤマハ・ランツァだった。

男にしては肩も腰も細い。
そう思う間もなく、ランツァは遠ざかっていく。
迷わず、右手でアクセルを開く。
銀色のライダーズジャケットを見失いたくなかった。

入社以来のボーナスをつぎ込んで手に入れた黒のRSV Milleは、
アプリリアが初めて大型バイク市場に参入した、1000ccのロードスポーツだ。
加速でもスピードでも250ccオフロードの敵ではない。
だが届いたばかりのRSVには、慣らし運転が必要だ。

それを忘れたわけではなかったが、
ステップを踏みしめる足の裏や、
ボディを締め付ける腿の内側から伝わる躍動感が、
ドンファを高揚させていた。
久しぶりに屈託のない誕生日を迎えて、浮き立つ気持ちもあった。

追いつき、抜き去る。
エンジン音が後ろに流れる。
それが再び近づいてきたかと思うと、
次の瞬間には目の前に、銀色の背中があった。

その背にそそのかされ、戯れに前に出る。
また後ろに下がる。

知らぬうちに韮崎を過ぎていた。
南に折れ、52号を富士川に沿って走るつもりだったのに、
そんな計画も忘れていた。

須玉で141に入り、ひたすら北上する。
目の端に八ヶ岳の蒼い山並みを捉えながら、
薄っぺらなペンションの看板が並ぶ清里を過ぎ、
松原湖の手前で左に点滅したウィンカーに、従った。
 

標高1900mのプレートを過ぎる。
それを機にボクスターを路肩に寄せ、キャンバストップをたたむ。
頭上にふりそそぐ陽射しは強く、鋭い。
だが高原の涼風は、灼かれた皮膚の熱をまたたくまに奪い去っていく。

ドンファ……、 
耳元で渦を巻く風に交じって、声が、木々の緑に染まっている。 
 

突き当たった299を蓼科に向かい、
やがて『S池入り口』と標識の立てられた駐車場の奥で、
ランツァは停まった。

ドンファは入り口ですこしためらう。
この先にバイクを進めれば、ずっと保ってきた心地よい距離は失われてしまう。
言葉もなく行きかった想いのようなものも。

そんな逡巡を知ってか、女はランツァに跨ったままヘルメットをはずす。
予想通り長い髪がこぼれ出た。

女は少しだけドンファを見つめると、バイクを降り、
原生林に続く小道に分け入っていく。

あわててRSVを駐車場の片隅に寄せ、女の後を追った。
なぜか徒歩では、追い抜いて女の前に出ようとは、思わなかった。
 

森は丈の高いカラマツやコメツガが生い茂り、薄暗かった。
樹々の足元には、崩れた幹やとび出た木の根が、
堆積した落ち葉と密生する苔のために、やわらかく盛り上がっている。
その不規則に続く連なりを、梢の合間からこぼれる控えめな光が、ちろちろと舐める。

ときおり現れる艶やかな葉のシャクナゲに、もう花はない。
森の手前で見かけた白っぽいヤマハハコだけが、
高原の夏の終わりを目前に、最後の花をつけているばかりだ。
あとひと月もすれば、ドウダンやナナカマドが色づき出すだろう。

ドンファはそっと、立ち入り禁止のテープのきわの、倒木を覆う苔に手を伸ばす。
思いのほか乾いた肌に触れ、
ひときわ強く立ち上る森の香りを、胸の底まで吸い込む。



なだらかな遊歩道を15分も登ると、
木立のあい間に水の色が現れた。
鮮やかさに驚き、立ち止まる。
銀色の背中は、いつのまにか消えていた。 

 
下りになったのに気をとられ、
足元に落とした視線を少し上にあげると、池があった。
水面のところどころに水草が浮いている。
池と地面の境は撥ね返された光線で白っぽく、
にぶい泥の色なのか、濃すぎるほどの水の色なのか定かではない。

池にその姿を刻むように倒れているのは、
樹齢を終えて美しい骨となったシラビソだ。
山荘でチェックインをすませ、すぐに外に出る。



玄関前のベンチで、トレッキング姿の数人が休んでいた。
池に向かってわずかに空間が開け、
何枚かの板切れをつないだだけの桟橋が、水の上に伸びている。

ボートに、女がいた。
朗らかな笑い声が聞こえたかと思うほどの自然さで、女は笑みを浮かべた。

得意なのはオートバイだけ?

答えの代わりに、ドンファはボートを漕いだ。
ベンチに座る人の姿が、山荘の色にまぎれてしまうまで。

遅い夏休みね。
毎年恒例の、誕生日ツーリングなんだ。
  

池の真ん中まで進んで、オールを休ませる。
風はときどき水面にさざなみを起こす程度だ。
微風にボートを流されるままにする。




名前は?
ドンファ……。

初めて自分の名を、何の特別の感情も持たずに口にしていた。

なめらかな水の面に、薄い雲がいく筋か涼やかな模様を描く。
池を囲む森の中からは、人の声はもちろん、
鳥のさえずりひとつ聞こえない。

プレゼントをあげるわ……。
女の顔が近づき、すこしだけボートが揺れた。


女はドンファの名を、呼ばなかった。
名前など、どうでもよかったのだろう。

ボートはいつしか、水草が浮かぶ対岸のあたりまで運ばれていた。
その水草の上を、無数の小さな青が飛び交っている。
透き通った羽は軽やかに旋回し、ボートのへさきや、
水面から突き出た枯れた木の枝などに留まる。

それは陽の光にきらめく青い宝石の群舞……。

腕の中の女が、もう一度ドンファを誘った。
閉じたまぶたに、水の色の羽ばたきが残る。


名前は?
ルリイトトンボ……。


冷たい一条の風に揺さぶられ、ドンファは目覚めた。
いつのまにかボートの底に横たわり、眠っていたのだ。
さっきまで群れていた夥しい数のブルーの羽は、
もうどこにも見当たらなかった。
女の姿も。
 

くすりと、キッコが笑う。
トンボ、いないわね。

でも女は、いたんでしょう? 声に問いが潜んでいる。
ドンファはただ、傾いたオレンジの陽射しに目を細める。

シルエットだけになったキッコの肩先に、
逆光を捉えた映像に浮かぶ光の環のように、澄んだブルーが横切って消えた。

気温が下がってきた。
ボートを岸につけ、山荘に戻る。
部屋の窓から外を覗くと、すでに池は闇に飲まれ、
建物から漏れ出る灯火に、桟橋だけが照らされていた。

山菜や虹鱒、きのこに蕎麦、
素朴な料理に、持ち込んだワインのグラスを合わせる。

誕生日オメデトウ!

小さな声でキッコが言う。
原始の森に似合うのは、吐息のような声……。
ドンファも小声で、アリガトウと返す。 


ワインのほてりを冷まそうと、また外に出る。

消灯までに戻ってくださいよ! 
管理人は、物好きな人たちだとあきれた顔を隠そうともしない。
あ、それから池に近づきすぎて、湿地に足をとられないように。
嵌ったらら大変だから。

言われるまでもなく、
両脇にロープの張られた遊歩道を外れるつもりはなかった。

懐中電灯が丸く照らす道を少し歩くと、
すぐに山荘は見えなくなる。

夜の森は饒舌な静けさを秘めていた。
耳に、衣擦れのような木の葉のざわめきが届く。
そのざわめきの中に、鳥たちの寝息や、
巣穴から息を凝らして闖入者の様子を窺う、動物たちの気配が交じっている。

それは、森が昼の眠りから目覚め、
いのちの潤いを、広い体躯のすみずみにまで巡らせる音……。



ドンファが触れた倒木まで来ていた。
キッコが、かがみこんで苔に頬を寄せる。

濡れてるわ……。

夜の森はどこもかしこも濡れているのだ。
樹々の肌も、枯れ葉を割る岩の肌も。

倒木に腰をおろす。

2000メートルを超える高原の夜は、晩秋の冷え込みだった。
丈の長いスタジアムコートにくるまってちょうど良い。
ドンファが用意したコートは、キッコの足首までをすっぽりと覆っている。

クマとか、いない?
大丈夫だよ、いるのはテンやムササビ。

懐中電灯を消すと、闇を満たす空気の濃度が、増した。

明日はルリイトトンボに会えるかしら?
ああ、会えるさ……。

葉陰からのぞく星が、かすかに闇を照らす。

ドンファ…… と、キッコが呼んだ。

その声に、新たな男が生まれ出る。

ねえ、ドンファ……
からみつく声が、ただ一人の男を形作る。

プレゼント、あげるわ。
さっきもらったよ。

キッコはドンファの前に立ち、
コートの首もとのプルリングをつまんだ。
ゆっくりとリングを下ろしていく。

あれは、オマケ……。

木の皮を剥くようにコートを開くと、
闇に白い肌が浮かび上がった。

細い指先がドンファの前をはだけ、
顕になったものの上に跨る。

あぁ、ドンファ……。
その声も、その肌も、
森の全ての物たちと同じように、濡れている。

動かないで!
お願い…… このままでいて。
このままずっと、繋がっていたいから……。

けれども、結びあった一対の羽は、
深い空に向かって舞い上がる。
そしていつまでも、踊り続ける。

降り積もった葉の上に息を整え、
緑の苔の褥に四肢を開き、こぼれ出る露を吸い、
枝を渡る風に、翔けあがる……。

やがて訪れた瑠璃色の失墜を、
森がその腕に、抱きしめる……。

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