「今月もうドンファ、埋まっちゃいましたよ…」
小さな深呼吸をひとつしてから言う。声に思いがにじまないように。
もう? と喜多がPCの画面を覗き込む。
ドンファが喜多と長島クリニックの共同治験にかかわるようになって数ヶ月、
宣伝などなにもしていないというのに、
あっという間に女性患者が列をなすようになり、
いつの間にかドンファのスケジュール管理も私の重要な仕事になっていた。
ドンファはいつも、勘弁してくれよとうんざりとした口調で言う。
でも患者の症状を説明すると、最後には、なんとかやってみようと肯くのだ。
私は彼の本業の殺人的な忙しさの合間に、
無理やり喜多の治験をねじ込む。
おかげで私たちがプライベートに会える時間はほとんどなくなった。
「キッコ…」 喜多の手が肩に掛かった。
隠したつもりの感情のぶれは、やはり伝わってしまった。
「ごめんね」
いいんです、と心にもないセリフを喜多につぶやくのは無駄だ。
私は黙ってスケジュールファイルを閉じる。
「Yさん夫婦ね、今が一番大事なときなのよ」
それはわかっている。
頭ではわかっているから、なんとかこらえる。
でも体のあちこちが、
飢えと渇きでぎしぎしと音をたてんばかりに揺らぐのは、どうしようもない。
「あと少しだけ、がまんしてちょうだい。
そしたらしばらく治験は休むから」
喜多が本心からそう言ってくれているのを疑うわけではない。
だが、婦人科と精神科の狭間で長く手付かずにいた女性の不感症の治療が、
斬新な方法で始められたばかりなのだ。
しかも主流から遠く外れた場所で。
学会は無視している。
同業者は冷笑派とやっかみ派にほぼ二分された。
手をさしのべてくれるどころか、暖かな声ひとつ届かないところで、
なんとか喜多はふんばっている。
だからこの時点でしばらく治験を休むなど、できるはずもない。
「久しぶりにイタリアン、どう?」
喜多の気持ちは嬉しかったが、せっかくの料理もワインも美味しくはないだろう。
「すみません、
今夜は家の近くのラーメン屋でスタミナ定食に生ビールって感じなんです」
翌日に私の治験補助が予定されていることもあった。
一人になり、雑念をはらい、感覚を研ぎ澄まさなければならない。
患者の性的なファンタジーの世界に徐々に入っていかなければならない。
結局冷蔵庫の野菜を炒め、缶ビールを開ける。
皿の横に置かれた携帯電話が目障りで、バックに放り込む。
ドンファは今日は撮影の立会いだ。
数日前治療ルームでの打ち合わせのとき、
ソファに投げ出されていた企画書を覗いたら、モデルは恋多き女優のNだった。
おそらく彼女は、相手役の男優ではなくドンファに狙いを定めるだろう。
いや既にじわじわと触手を伸ばしているかもしれない。
ドンファの、ふっと唇の端だけで笑う笑顔を思い浮かべる。
派遣で働いていたときに何度も見かけた笑い。
女たちのまとわり付く視線を、
まるで肩に掛かった埃を払うようにはねのける笑み。
だが今のドンファはあの頃のドンファではない。
ドンファは今、女の求めるイメージに敏感に感応し、
自由自在に変化(へんげ)する男なのだ。
ライトを落とし、キャンドルを灯す。
男は、日常の中で女を抱くことができない。
暮らしている地を遠く離れた旅の中でしか、
自分を解き放つことができない。
キャンドルは男がカプリ島から持ち帰ったものだ。
丸い、手のひらを広げたほどの浅い缶の中に、
レモンイエローの蝋が流し込まれている。
炎がゆらめき、かすかにレモンの花の香りが立ち上る。
冷凍庫で凍りつく寸前にまで冷やしたリモンチェッロをグラスに注ぐ。
これは喜多が用意してくれた。
リキュールはレモンの皮だけを浸して作られているから、酸味はない。
ほろ苦い、青臭い風味にとろりとした甘味がからみつく。
目を閉じ、グラスの中身を喉に流し込む。
舌先に鋭い芳香を残し、液体は喉を熱く焼いて下り落ちる。
窓の外はテラスで… と男は語った。
部屋の床は青いタイルなんです。
テラスは? テラスの床も同じ色のタイルなの?
いや、タイルはドアのところで途切れていて、
テラスには赤茶色のテラコッタが張られている。
テラスは広い?
ええ、寝椅子がふたつ、四角い低い籐のテーブルもあって。
海が見えるのね?
見える? 見えるなんてもんじゃない。
テラスをぐるりと囲んでいるのは緑がかった澄んだ青の海に白い岸壁、
波を押し切って進んでくる船、それから…
それからかもめだ、かもめが…
かもめ?
かもめだけだよ、僕たちを見てるのは。
そう言って僕は彼女のローブの前をはだけた。
でも見ていたのはかもめだけじゃない。
僕たちは見られていた。
ざわめきとともに坂の下にたむろする観光客の群れ、
絶え間なく通り過ぎる、屋根のないタクシー、
テラスの、彫刻を施した柵に茂る、見事な色のブーゲンビリア、
鉢植えの多肉植物、遠く海の彼方に、
ふたこぶらくだのように浮かぶヴェスビオ…。
だか男は、記憶の中で官能を分かち合った女と、
愛を交わすことができない。
帰国してから一度も。
あの、ちりちりと肌を焼く太陽があれば…
いや、風かもしれない、そうだ、足りないのは、
ナポリの湾を渡ってくる優しい風だ。
ああ… 私は声をあげる。
来て。お願い。
痛いの。
肌はもう炎をあげて燃えている。
太陽は、あなたの目の中にある。
あなたが私を見る、その目の中にある。
目を閉じないで。視線を、そらさないで。
私を焼き尽くして。
ああ… そうよ… 風は、あなたのその吐息。
僕が、風…
そう、風が、あなた。あなたはカプリの島…
男が、私のローブに指をかける。
はらりとローブは足元に落ちる。
男の指が、今度は私の肌を這う。
耳に男の声が響く。吐息と共に。
キッコ…
打たれたようにからだがのけぞる。
昨夜電話で届いた声。その声が全身を駆け巡る。
だめ、ドンファ…
今はダメ…
治療ルームのベッドの上で私は声を押し殺す。
だが声は漏れ出てしまう。
仕方なく、その声を壁の向こうの男に送る。
キッコ…
目を閉じると私を呼ぶ声がブーゲンビリアの色に変わる。
その色が私を染める。
一気に、全身が繊維のようになってその色を吸い上げる。
たっぷりとした海の水のブルーのなかに、
溶けていくレモンのしずく…。
静かに、色が消えていこうとしている。
砂浜の波の名残りのように、かすかにドンファの声を残して。
キッコ…
海でも風でも太陽でもない、
ただの、いつもの、電話の向こうからでも私を溶かす、
そしてベッドで私の名を呼ぶときの、ドンファの声。
壁の向こうで男と喜多が話をしている。
あと、一歩かしら。
たぶん。なんとなく僕もそんな気が…。
男の声が今までになく上ずっている。
そうね、あなた、もう大丈夫そう。
今度、仕上げをしましょう。奥様とね、いらっしゃい。
じゃ、あいつも、もう?
それは、まだなんとも言えないけれど…。
あなたは自分のEDのほうが重症だと思ってるでしょう?
でもちがうのよ。
あなたはただ少し現実から逃げるのに罪悪感があっただけ。
逃げていい、ベッドの中でどこへ逃げてもいいとわかれば、
そして自分のイマジネーションだけでそれができるようになれば、
もう完治だわ。
あいつ、そんなに…
彼女はね、違う自分にならないといけないの。
それまで生きてきた女を一度壊して、新たな女を生みだすの。
自分のちからで。
男は勃起しなければセックスできないけれど、女は違う。
オーガズムだって演じることができる。
ずっと偽って生きているうちに、偽りを覆う殻はどんどん厚くなるの。
とにかく次回は思い切って…
喜多の声が遠ざかる。
脱力が予想以上に大きい。
治験の最中にドンファの声が聞こえるなんて…。
私は横たわったまま両手で顔を覆う。
喜多がベッドの傍らに立つ気配がした。
だが私は動けない。
「しばらく眠る?」
いいえと言ったつもりだったが、声にならない。
「ドンファに対するあなたの飢えが、結果的にプラスになった。
でもね、そこまで計算してたわけじゃないのよ」
私はゆっくりとからだを起こす。
差し出されたシャンパンのグラスを受け取る。
いつしか習慣になった儀式。 泡で快楽の余波を洗い流す。
だがこの日、私の淀んだ欲望はグラスを何杯重ねても消えていかなかった。
喜多はベッドに私を座らせ、シーツでくるんで抱き寄せた。
キッコ… と呼んでくれると思った。
むき出しの、私を欲しがるドンファの声で。
だが、喜多は静かに私の背をなでるばかりだ。なでながら、話し続ける。
「次ね、Y夫妻に一緒に来てもらうことにしたわ。
初めてのことだけど。
それで少しでも前に進めたら、約束する。
あなたたち、しばらく休んでちょうだい。
ええ、わかってる。
この仕事、インターバルなしじゃすぐに疲れ果てて、
体も気持ちもおかしくなってしまう。
もうこんな働き方、させないわ。約束する。」
私は少し遅れて治療ルームに入った。
ドンファの姿はない。
既に壁の向こうのベッドルームにいるのだ。
壁に張り付くように置かれたおおきなソファに、女がいた。
その斜め向かい、テーブルを挟んだ一人がけのソファに、私は座る。
私たちは軽く会釈を交わす。
女が目を伏せたので、私はからだを背もたれに預け、視線をはずす。
テーブルの真ん中の缶で、レモンイエローの蝋が炎に溶けている。
その光の及ばない部屋の隅に、喜多と男がいるはずだ。
女には恐怖があった。自分を信じきれないでいた。
そのことを暴かれるのが恐ろしかった。
新婚旅行先のカプリでも、帰国して暮らし始めた都心のマンションでも。
だからいつも演じていた。
彼のEDなど、治らなくていいんです。
気にしてません。他は全て満足ですし。
いいえ、彼が初めての男では…。
でもセックスは、私には全然重要じゃないので。
ええ、触れられるのも、本当はきらいです。
触れるのは… わかりません。
えっ? 自分から触れたことがあるかって?
そういえば… ないかもしれない…。
あなたたち、しばらく、
絶対にからだを触れあわさないように暮らしてみてね。
喜多のアドヴァイスを、二人は守っていただろうか。
ベッドでも、触れ合わないように少し体を固くして、眠ったのだろうか。
朝、熱いコーヒーの入ったカップを手渡すときに、
指が触れ合ってしまったり、しなかっただろうか。
そのときにちいさなおののきが、からだを走ったりしなかっただろうか。
かすかに吐息が聞こえた。
女の耳にも、壁に開けられた無数の穴を通って、しっかりと届いたはずだ。
ちらりと女が私を見て、また目を伏せた。
喜多は何を考えているのだろう。
彼女にとって、私や男がいることはかえってマイナスではないのか。
ねえ… 君… と、ドンファが呼んだ。
どくんと、心臓がひとつ、おおきく収縮する。
震える手でテーブルに置かれたアイマスクをとり、
(どちらでもいいのよ。もし見ることがじゃまになったら、使ってね)
それで目を覆う。
女がどうしたかは、もう見えない。
女からは何の気配も届かない。
もっとそばに、僕のそばに来て…。
蝋が溶け、カプリのレモンの花の匂いが立ち上る。
思い出して。最初からはじめよう。
もう一度。あの海辺のテラスから。
手を伸ばして、指を開いて、僕の胸にそっと触れて。力は抜いて。
指先だけで。
誰かが見てる? かもめだよ。
かもめだけじゃない?
かまわないさ、見せてやろう。たっぷりと…。
さあ…
さっきよりも深い吐息が届く。
何故だ!
何故、触れてくれないんだ。
苦しみ、もだえ、求める声が、待ちながら、求めながら…。
私はしっかりとこぶしを握り締める。
指を開いてはいけない。いや開けないのだ。
できないのよ。
私は縛り付けられている。
全身ぐるぐると白い包帯のようなもので巻かれている。
だからハダカになれない。
腕を伸ばすことも、指を開くこともできない。
違う。
そんなものは、ないよ。
さあ、おいで。
指一本だけでいい。この前はできただろう?
指さきだけでいい、ただそっと僕の胸と、喉と、
それから…。
全身から力が抜けた。
意思ではなく、ふらりと立ち上がる。
真っ暗な闇に私は足を踏み出す。
とたんに、なにかに躓いて床に倒れた。
倒れても腕を伸ばす。
そのままじゅうたんを這うようにして進もうとする。
片方の腕をつかまれた。女の手だった。
私を制止している。いや、私に、すがりついている。
自由なほうの手が伸びていく。
そうだ、僕のところに…
ええ、今…
指が、たどりついて…。
ああ… なんて熱いんだろう。
なんて濡れているんだろう。
指先からしずくが伝わってくる。
からみつくように、ねっとりと甘い液体が。
漏れそうになる声を押さえたつもりだった。
だが暗闇を満たすこの声は…。
肌をなぞる。胸の厚みを確かめるように。
指を滑らせていく。
骨の形を確かめるように。
そう、そうだ、そっと…。
静かに…。
ゆっくりと。
おいで、下から上へ。
好きなところを、どこでも、好きなように…。
ああ…
甘い液体が潤滑油となって、どこまでも指が滑っていく。
指が、乾いたところはないかと肌をさぐる。
全身を樹液にまみれた木のようにしてやろう。
太い腕をたどり、指をからませる。
もう指だけでは足りない。
手のひらで、下から突き上げる固いものに、したたる甘い液体をぬりつける。
そうだ、もっと…。
もっと強く、やさしく…。
律動が手のひらから私の全身に伝わる。
ドンファ…
声を、出さないように、口に含む。
その名を舌で舐めまわし、歯でかむ、柔らかく。
喉の奥に飲み込んでいく。どこまでも深く、私の中へ…。
ああ、キッコ…
ドンファがちりじりに砕ける、私の中で。
砕けて踊り、泳ぐ。私の名を呼びながら…。
海と崖に囲まれたテラコッタのテラスに、
光が、はじける。
喘ぎがもれていた。
私にすがりつく女からも、ひそやかに、同調して。
誰かが、女を私から引き離した。
アイマスクをはずす。
女が男にかじりついている姿が、キャンドルに照らされている。
私はそのまま床を這う。
カプリのテラコッタの床を、私の海にむかって。
半身がひとつに溶け合った、海に浮かぶヴェスビオになるために。