<5>
翌朝僕はルナに、海辺のホテルに行くと告げた。
いっそどっぷり浸ったら、というルーチェの言葉ではないが、覚悟のようなものが生まれていた。
ルッカは僕のことをもっと知りたいと言った。僕も彼のことを知りたかった。
僕が本当にルナを自分のものにすることができるのか、見極めるためにも。
それに、二人の奇妙な関係から目をそむけたとたん、僕がルナを得る道が遠のくような気がした。
知らずにいたら、こんなふうに彼らを目の当たりにしなければ、あと少しはこのまま続けられたかもしれない。
けれどいつか行き詰るだろう。
もうあとには戻れないと、僕は思った。
『無理しないで』
『無理じゃない』
『本当に無理しなくてもいいのよ。ルッカは私たちには関係ないんだから』
『関係ない? あなたの夫なのに?』
『ジャン…』
『夕べ、ルーチェからルッカのフルネームを聞いたよ』
『…』
『それからあなたにジャンと呼ばれるたびに、辛くてたまらない』
『ジャ・・・ ン・・・
あぁ、ごめんなさい。私、あなたを…』
『なぜジャンなんだ』
『本当にごめんなさい。あのとき、ふっと口をついて出てきてしまったの。
あなたのことがすごく愛おしくて。あのときのこと覚えてる?』
『忘れるわけがない。あなたのことは何ひとつ、忘れられない。
初めてコテージの影に隠れてあなたが泳ぐのを見た夜から…』
『コテージの影?』
『白状するよ。満月の前の晩にあなたを見かけて…』
『それで翌朝声を掛けてきたのね?』
『ああ。でも恋に落ちたのは、あなたが僕の孤独をじゃましたくないと言ったとき。
孤独だと海も月も自分だけの物になると言ったあの朝…』
『そう…』
『あなたは、いつ?』
『私は・・・ 私は海から上がってシャワーを浴びようとしたとき、
あなたの前で裸になるのがすごく自然だった、あのとき』
『あなたは誰の前でもああなのかと…』
『まさか。夜誰もいないとわかっているときだけよ。でも癖になっていたのね。自然に水着を脱いでしまって。
あなたはあのとき、海や月の仲間みたいだったから…』
『男として意識しなかったと?』
『いいえ、海や月の仲間の男だった。私、やっと見つけたと思ったわ。
私の男だと思った。だから、私が名前を与えたかったの。私だけの男にしたかったの』
『なぜジャンと?』
『わからない。なんとなく口をついて出てしまって。夫の名前と意識したわけじゃないの。
何故かジャンと呼びたかった… でも悪かったわ。なんて趣味が悪いって、あなた思ったでしょうね。
もう二度と呼ばないわ』
『あなたは僕をジャンと呼びながら、ルッカのことを思っていたんじゃないのか…』
その言葉に撃たれたように、ルナは僕を見た。
瞳に現れた驚愕は僕に向けられたものか、あるいは自分の心の底に何かを見つけたのか…
『まぁ、そんなことあるわけないわ。そんなふうに考えるなんて…』
小さく何度も首を横に振り、即座にルナは答えた。
『夫のことはルッカとしか呼んだことないし、本人だってルッカとしか思っていないわ。
ジャンと夫は全く関係ないのよ。
ジャ… ごめんなさい。なんて呼べばいい?』
僕にわかったのは一つのことだけだった。
あなたは望む名前で僕を呼んでくれるだろう。
でもそれは、あなたが愛する海や月の仲間として、僕に与えた名前ではない。
見つけた、と思った男の名前ではないのだ。
そして聞くまでもなくわかっていたこと、
それはあなたを失うことはできないということ。
だとしたら、たとえあなたの潜在意識の中にジャンルッカの名前があるとしても、
いやそうとしか考えられないにしても、僕はジャンを受け入れよう。
『ジャンと…』
『でも…』
『ルッカと関係なければそれでいい。あなたのジャンでいたいから…』
『ジャン… ありがとう。
あなたのこと、愛してるわ…』
『僕だけを?』
『あなたを愛している。誰よりも… 』 充分だった。
僕を自分の男と思ってくれる、誰よりも愛すると言ってくれる、
それだけで、今は充分だった。
一本早い飛行機で先に出発したルッカとルーチェを追いかけるように、僕たちも出発した。
チェックインして荷物をほどき、彼らのコテージを訪ねてみたが、二人はいなかった。
ルナが伝えていたのか、僕たちの部屋はこの前泊まったのと同じ海に突き出た先端のコテージで、
ルッカたちのはサービスコーナーをはさんだ海辺よりにあった。
遅い昼食を海を臨むオープンカフェでとり、庭を散歩する。
しかし二人はどこにもいない。
海かプールでひと泳ぎしようと僕は提案したが、
レストランの裏手の蓮池がルッカのお気に入りだから行ってみようとルナが誘い、
そこで僕たちは二人をみつけた。
紫やピンクの蓮が美しく水面を飾り、池の真ん中の東屋にはソファーや、籐の椅子が置かれている。
二人のほかには誰もいない。
ソファーの上で、ルーチェは腕をルッカの首にまわし、
ブラジャーをしていないと一目でわかる、豊かな胸をルッカの体におしつけ、
ルッカの手はルーチェの腰を支え、二人は激しく唇を吸いあっていた。
僕はそこを立ち去ろうと、ルナの手を引いた。
だが彼女の体は氷の彫像のように硬直している。
僕はあわててルナの視界の前に立ちはだかったが、
彼女はからだをずらし、二人にあわせた視線をそらそうともしない。
ルナの表情に、嫉妬も、怒りも、悲しみさえないことに僕は気づいた。
しかもその視線は、二人のからまりあう舌や、貪りあう唇ではなく、もっと下、ルッカの下腹部に注がれている。
じっと、注意深く…
僕もルナの視線を追って、彼の股間に目をやった。
彼のショートパンツのその部分は、遠目にもわかるほどふくらんでいる。
ルナは、僕が同じようにルッカを見つめていることに気づくと、
ばつが悪そうな表情を浮かべ、その場を立ち去ろうと踵を返した。
その気配に、東屋の二人がからだを離し、僕たちを見た。
『やあ、ルナ。ジャンも。やっと来たね』
『二人とも、こっちにいらっしゃいよ』
ルナは何事もなかったように振り向くと、僕の腕に自分の腕をからめ、僕たちは東屋に続く橋を渡った。
『おじゃましちゃった?』
『そんなことないわ。あんまり素敵なところだからつい…』
『あなたたちイタリア人て、人の目なんておかまいなしなんだから』
『ルナ、君が人の目を気にしたことがあったかな?』
『ルッカ、それってあんまりいい冗談じゃないわよ』 ルナが少し怒った顔で答える。
『ははは、ごめんよ。こんなこと言うつもりはなかったんだ。
ここに来ると、つい解放的な気分になって。
それに今日は君とジャンも来てくれた。こんな嬉しいことはないよ』
本当に嬉しそうに屈託なく笑うルッカと、くつろいだ表情を浮かべているルナを、
僕は不思議な気持ちで眺めた。
はたして僕がこの夫婦を理解するときが、来るのだろうか…
二人をつなぐ共通の思いや価値観のなかに、僕は入っていけるのだろうか…
『ジャン、元気ないわね』 ルーチェが僕に声を掛ける。
『あぁ、そう見えますか…』
『そう見えるわ。まるで言葉の通じない国に来た旅人みたいよ』
『その言葉、ぴったりですね。すばらしい観察力だ。
ではひとつ教えてください。この国に、僕の居場所はあるのかな?』
『さあ、そんなことわからないわ。
旅人は見知らぬ土地を見て、感じて、気に入れば長くとどまり、
気に入らなければ自分の国に帰るか、あるいは次の国に行く… それだけのことでしょ』
『言葉が通じなくてもとどまることはできる、と?』
『旅の醍醐味はね、言葉すら通じない国で、わけのわからない体験をすること、これに尽きるわ』
『ジャン…』 ルッカが口を開いた。
『君は今までどれくらい旅をしたかな?』
『それほど多くはありません』
『私はほとんど世界中を廻ったよ。まずヨーロッパや南北アメリカを旅し、そのあとアフリカを見た。
そこから船でインドへ渡り、アジアの国をあちこち、最後がベトナムだ。
この国は母の故郷なんだ。母はフランス人だが、彼女の心の故郷はこの国なんだよ』
『なぜあなたは、一旦はベトナムに落ち着いたのに、イタリアに帰ってしまったんですか?』
『ここでは僕は旅人でしかない。
この国を愛していたが、ベトナムを僕の血とし、肉とすることができなかった』
『旅人はいつか帰るしかないと?』
『旅人のままでいる限りはね
しかし旅で、ひとは大きく変わってしまうものなんだ。 あるいは隠されていたものがむき出しになる。
見知らぬ国でわけのわからない体験をすればするほど…』
『あなたも変った?』
『僕の母は、絶えずベトナムの話をしていた。ヨーロッパとアジアを比べていた。
ベトナムの、肌にやさしく纏わりつく甘美な湿めり気…と、彼女はこのやりきれない湿気さえ美化し、懐かしんだ。
僕はイタリアで、母のアジアに対する郷愁と共に育ったんだ。
だから僕もアジアに、ベトナムに憧れた。そしてその狂おしい憧れの地は、僕を裏切らなかった』
『ではベトナムで、あなたの何が変ったんですか?』
さきほどの疑問を、もう一度僕は口にした。
『僕の中のヨーロッパが確かなものになった。
母から受け継いだのは焦がれるような、けっして満たされない憧れだけだということがわかった。
ベトナムを愛すれば愛するほど、僕は孤独になった。
ルナは違ったが、僕は彼女のように、この国の海や月の仲間になることができなかった…』
『海や、月の、仲間…』
『そうだ。君はルナと同じ、この国の海や月の仲間だろう?
君を一目見て、僕にはわかったよ。君はルナのための男だ。
君は僕がどんなにあがいても、どれほど切なく望もうとも、ついになれなかった男だ…』
『では何故…』
では何故、あなたたちは夫婦でいるのか…
僕がそう質問しようとしたとき、ルナが僕を遮って言った。
『ジャン、ルッカも。もうそれくらいにして。ルーチェがつまらなそうにしてるわ』
ルーチェは、つまらないどころか興味津々と僕たちの話を聞いていたが、何も言わなかった。
僕も、喉まで出かかったその質問を胸にしまいこんだ。
今つかんだものを咀嚼し、呑み込む時間が必要だった。
それから僕たちはプールでひと泳ぎし、夕暮れの海を感嘆の声と共に眺め、
ベトナム料理の夕食に舌鼓を打ち、冷えたワインをしこたま飲み、まだ酔い足りないとバーに繰り出した。
バーではピアノが静かなバラードを奏で、
ルッカとルーチェ、僕とルナが抱き合って踊り、さらに互いに相手を変えて踊った。
『少しは落ち着いた?』 踊りながらルーチェが僕に尋ねた。
『ええ』
『来て良かったでしょう?』
『そうですね。少なくとも後ろ向きでは何も見えないということが分かった…』
『ルッカをどう思う?』
『よく分かりませんが、複雑で… それから… 』
『それから?』
『魅力的だ』
ルーチェが笑った。 とても親しみのある笑いだった。
『彼も、そう思っているわ』
『僕は彼ほど複雑な男ではない』
『違うわよ。あなたを魅力的な男だと思ってるってことよ』
『娘を嫁にやってもいいくらいに?』
ルーチェが、今度は大きく声をあげて笑った。
『そうね、確かにルッカは彼女の父親みたいに見えるわね』
『もしかして本当に父親なのでは?』
『ジャン、そう思いたいのは理解できるけれど…』
『ではなんなんですか?』
『私にもよくわからない。でも… わかる必要なんてないのかもしれない…』
わかって貰わなくていいのだと言ったルナの言葉を、僕は思い出した。
視線をめぐらせてみると、幼い少女が大好きな憧れの父親と踊っているような幸福に輝く表情で、
ルナが、ルッカの腕の中で踊っていた。
僕はもうそれ以上、ルーチェと踊ることができなかった。
あなたから目が離せない…
踊るあなたとルッカは、同じ国の人間だ。
それを眺めている僕は異国の人間で、冷え冷えとした疎外感に耐えている…
フロアの真ん中に立ち尽くす僕の手を、ルーチェが引いた。
『行こう… すこし散歩でもしようよ…』
『ルーチェ… 』
『なんだったら、私あなたと…』
彼女はそれ以上何も言わず、足早に歩いていく。
浜辺に向かってだまって手を引かれながら、
僕の心はやりきれない悲しみで一杯だった。
波打ち際でも歩くのかと思っていたが、ルーチェは水上コテージに続く桟橋に僕を導く。
僕はぼんやりと従い、ルッカと彼女の部屋に入り、
彼女がドアに鍵を掛けるのをだまって見つめた。
ルーチェがドレスを勢いよく脱ぎ捨てる。
白い肌の、ふくよかな裸身が目の前にあった。
伸ばされた手を、僕は握った。
そのまま僕たちは唇を合わせ、ベッドに倒れこんだ。
ルーチェの手が、僕のシャツのホタンをはずし、裸の胸を愛撫し、ズボンも下着も取り去っていく。
心とは裏腹に、僕の体が、反応する…
痺れたようになった頭が命じるままに、僕は彼女の胸に顔をうずめ、その背中を愛撫し、足を開き…
しかしこみ上げる悲しみが、それ以上僕の心を偽ることを許さなかった。
ルーチェが、萎えてしまった僕に手を添え、唇を寄せようとする…
『許して、ルーチェ。僕には出来ない…』
ルーチェは動きをやめ、僕を見上げた。
『ジャン、そんなに真剣に考えないで。
私、弟を心配する姉のように、あなたを慰めたかっただけなの』
ほろ苦い思いを噛みしめながら僕はうなずいた。
『ありがとう、姉さん。でも僕は姉さんを抱けそうにないよ…』
服を身に付け、なにか飲み物でもというのを断り外に出た。
ありがとう、また明日とルーチェに別れを告げ、彼女がもう一度気にしないでねというのを背中で聞く。
ドアを閉めると、コテージのエントランスに、揺れる影のようにルナが立っていた。
『ジャン…』
その頬を涙が濡らしている。
『ルナ…』
胸の中の悲しみが、一気に溢れ出ていく。
僕はルナの手をとり、黙ったまま自分たちのコテージに入った。
『ジャン… 私…』
なにも言わないで。ルナ。
あなたは僕だけの女なんだ。 そして僕はあなただけの男…
あなたを、いやあなただけではない、僕自身をも壊してしまいそうな激しい欲望の渦が、僕を呑み込もうとしている。
そのまま、僕はルナのドレスをはぎ取り、ベッドに押し倒し、組み敷いた。
凶暴な熱い渦が僕を襲う。
ルナはもう泣いていない。
ただ僕を駆り立てる衝動を受け止めようと、
たとえそれがどんなものでも、だまって受け入れようとしている…
両手をベッドに押さえつけられ、身動きの出来ないまま、挑むように僕を見つめる。
それは雄雄しくわが身をさらし、むしろ戦いをけしかけ、煽り、挑発する目だ。
貪り、奪い、おしみなく与える目だ。
僕はルナの眼差しだけで欲情し、いとも簡単に理性をかなぐり捨てる。
ルナも既に欲情していた。
そのまま、僕はルナを貫いた。
僕たちは何も言葉を交わさず、愛していると囁くこともせずに、ただ肉体の求めるままに求め合った。
猛々しい熱情を解き放つことが、これほどに痛みを伴った歓喜であることを、初めて僕は知った。
しかしその喜びの底には、果てることの悲しみが絶えず横たわっているということにも、
そのとき僕は気づいたのだった。