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石の記憶 序章(2) --シチリアにて

 

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序章(2) --シチリアにて


携帯電話が、かすかに振動して着信を告げた。
一瞬遅れてベルが鳴り響く。一秒だけその音を聞き、通話ボタンを押した。

ケイさん?今部屋です。
あなたのいないホテルの部屋は広い…
その言葉を聞いて胸が詰まったが、同時に、その言葉によって身体に力が戻っても来た。

ケイさん、さっきの話を聞かせて下さい。
くどかれたって。
どういうふうに言われて、あなたは何と答えたんですか?

ジェイ妬いてるの?
ええ、そういうことです。
う~ん、ひ・み・つ。 
自分の言葉に、驚いたのはケイだった。

ケイさん、ひどいな。それなら切ります。
しかしジェイの声にもそれほど怒りは感じられない。

怒らないでジェイ。
実はね、こう言われたの。
ミスケイ、食事の後新しく出来たクラブに行きませんか?
なかなか味のあるジャズピアノが聞けるんですよ。酒の品揃えも良い。
あなたのような人がこんな夜を一人で過ごすのはいけません。
もしこのままあなたを帰したら、僕は今夜自分を許すことができないでしょう。

う~ん、なかなか言いますね。そのセリフ、僕が言いたかった…。
くやしそうに顔をしかめるジェイが見えるようだった。

ジェイ、でも私たちは行かなかったのよ、だからいいじゃない。気にしないで。
それに彼はもう60歳くらいで、でもすごい美人の若い奥さんがいるの。
彼女にメロメロなくせに、イタリア男ってこういうこと言わずにいられないのよ。

そうなんですか?で、あなたはなんと答えたんです?
こう答えたわ。
シニョールビアンキ、確かにこんな素敵な夜を、たいていの女は一人で過ごしたくはないわ。
きっと奥さまも同じ気持ちでしょう。でもあの方なら何の心配もありませんね、って。

で、ビアンキさんは何と?
大笑いしたわ。それから、本当に僕は自分を許せない、それだけはわかってください、だって。
それで話は終わり。
もちろんホテルまで送ってくれたけど、彼早く奥さんに電話したくてうずうずしてた。
だって彼って、彼女のことが心配でたまらなくって、しょっちゅう電話してるような人なのよ。

ははは、まるで僕みたいだ。ビアンキさんの気持ちがよくわかります。
どんな気持ち?
僕はその男みたいにあなたを一人で帰したくない。そして一人のあなたが心配でたまらない。

ジェイ、私そんなに信用ないの?
いえ、そうじゃなくて。あなたをイタリア男がほおっておくはずがないだろうって。
大丈夫よ、慣れてるから。

慣れてる?
そう、イタリア男の口説きはね、50%が社交辞令で、30%がただのあいさつ。
じゃ残りの20%は?
残りは口癖。
はは、とまたジェイが笑った。

私が慣れていなかったのは韓国男よ、とケイは心の中でつぶやいた。

ケイさんこれからどうしますか?
ジェイ、もうベッドに入りたいわ。さすがに疲れたみたい。
じゃベッドに入ってもう少しおしゃべりしましょう。

それはいいとケイは言った。
ジェイの声を聞きながら、安らかな眠りが訪れるのを待ちたいと。

ジェイが即座に言い返した。
安らかな眠り? あなたは僕の腕の中で、すんなりと眠れるとでも思っているんですか?
僕はあなたの夢の中に入り込んで、一晩中あなたを愛するつもりなのに。

ジェイの言葉に、ケイのからだの奥の扉が開く。
熱く溶けた欲望が、割れたチョコレートから流れ出るブランデーのように、溢れ出した。
ケイは唇を強くかみしめたまま、あわてて言葉をさがした。

ケイさん?どうしましたか? 
ジェイ、私…。
私、どうしたらいいの。
ケイの声はかすれ、自分でも恥ずかしくなるほど、甘くなっていた。

ケイさん、これから一緒にベッドに入りましょう。ジェイの声も少し低く、湿ったものになっている。
しかし、気を取り直すようにジェイが言った。
いやその前にお風呂だ。
お風呂に入って温まらないと。
僕も入りますから、ゆっくりとお湯につかりましょう。
ジェイの言葉に、ケイは行き場のない体の奥の炎が、小さく静まっていくのを感じた。

またあとでと、電話を切った。
ジェイの気持ちが嬉しかった。
今夜さえ乗り切れば、あとは大丈夫だという気がした。
今夜、ジェイがこうして一緒にいてくれれば。

ジェイの声を聞いて、ケイは落ち着きを取り戻した。
携帯電話を持って、バスルームに入る。

服を脱いで、鏡に映る裸の自分を眺めた。
疲れと寝不足のために目の下にクマができ、涙でアイメイクがにじみ、ひどい顔だった。
しかし昨夜ジェイがむさぼるように味わった唇はふっくらとしていたし、
20代より幾分シャープになったあごのラインは、大人の女のかげりを感じさせ、
そう悪くないように思えた。
それに体の線はまだ少しも崩れていない。

きれいだ、たまらなくセクシーだ、と言ったジェイの声がよみがえった。
しかしすでに30も半ばを過ぎて、これからは坂を転げ落ちるように、
この体にも顔にも歳を重ねていくのだろう。
ジェイはその残酷な歳月の刻印も含めて、私を愛してくれるだろうか。

鏡の中のケイのうしろに、ジェイの裸身がうっすらと浮かんで見えた。
彼の手がそっと肩にかけられたような気がして、鏡の奥を覗きこんだ。
ジェイの姿はすぐに消えたが、鏡の向こう側から、彼も同じようにじっと目を凝らして、
ケイを見つめているような気がした。

ジェイはきっと愛してくれるだろう。
私の過去も痛みも丸ごと抱きしめてくれたように、
この身体に刻み付けられた時間の積み重なりをも、大切に思ってくれるだろう。

ケイは数十年の時を宿したこの身体が、ジェイに出会い、
彼と愛を交わしたこの肉体が、たまらなく愛おしかった。
この時までよくがんばって生きてきたと、ほめてやりたい気持ちだった。
しかし同時に、今持っているものが確実に失われていくという時の理も、
認めないわけにはいかない。
その兆しは、すでにくすんだ色合いのベールとなって、ケイの全身を覆っていた。

小さな溜め息とともに、ケイはバスタブにボディソープを流し込み、
あわ立てた湯の中にゆっくりと体を沈める。
ハーブの香りに目を閉じると、ふたたびジェイの声が聞けるという期待と喜びが、
体中に満ちていった。


ドライヤーで髪の毛を乾かしていると、ベルが鳴った。
あわてて電話をとり、そのままバスルームを出てベッドに座る。

ケイさん、話してください。
パレルモはどんな街ですか?ホテルはどうですか?部屋は?
ジェイ待って、質問は一つづつよ。
パレルモはぐっと南の雰囲気の漂う街。距離にしたらローマよりアフリカのほうが近い。
街のあちこちに棕櫚の葉が茂っていて、修道院の中庭にはオレンジが実り、
様々な年代の異なった様式の建物が重なり合っている…

ジェイの問いに答えて、ケイは街の様子を語り続けた。
ビザンチンの金色のモザイクが美しい教会が、アラブの影響のある赤い丸屋根を戴いていたり、
そうかと思うと、ごてごてしたバロックの彫刻に飾られた噴水の広場があること。
ゲーテがシチリアを見ずにイタリアを語るな、と書いたこと。
歴史と文化が交錯した活気と魅力を持ちながら、近・現代には北に切り捨てられ、
地下にマフィアというマグマを抱え、シチリア全体が強い日差しと、
それゆえの一層濃い影を帯びていること。

あぁ、あなたと見たかった。あこがれを秘めた声でジェイが言った。
ジェイ、いつか一緒に来ましょう。
ケイさん。きっとですよ。
うれしいな、初めてケイさんが先のことを約束をしてくれましたね。

そう言われてみると、確かにそうだった。
フォロロマーノに二人でたどり着くまで、
ケイにとってジェイとの『いつか』は、具体的な『いつか』ではなくて、
いつともしれない不確定なある時に過ぎなかった。
しかしあの場所から、『いつか』は必ずおとずれるだろう未来に変ったのだ。

ごめんなさいね、ジェイ。 ケイは静かに言った。

これからはあなたとたくさん、『いつか』の話をしよう。
それをひとつひとつ叶えていこう。

ホテルは?
アールヌーヴォー様式よ。
重厚で、ちょっとスノッブで、パレルモで一番まずいレストランがある。
レストランで食べてるのはアメリカ人の観光客だけなの。

ケイさん、アメリカ人が怒りますよ。
いえ、違った、アメリカ人と日本人だけ。
はは、相変わらず辛らつですね。そこで食事を?
いいえ、近くのトラットリアよ。

美味しかったかと聞かれて、まあまあだった、とケイは答えた。
本当はほとんど食べられなかった。
無理矢理口に入れたものは、少しも味がなかった。
でも明日からは少しずつ味を取り戻していくだろう…

部屋はどうですか?
どうってことないわ。普通の部屋よ。
シャンデリア風の照明は一応ベネチアングラスね。
壁紙はくすんだベージュ系のペーズリー模様で、カーテンとベッドカバーはブルーグレー。
色の趣味は悪くないけれど、ソファーもドレッサーもありきたりだわ。

ベッドはダブルで…、
すごく大きく感じられる…と言う言葉をケイは喉の奥に押し込めた。

沈黙が流れた。
ジェイ、
ケイさん、
同時に相手の名前を呼び合った。
互いの、少し早くなった呼吸の音だけが、それが語る想いが、
電波を伝わって地球の三分の一の距離を駆け抜けた。

ジェイが先に口を開いた。
僕はあなたのすぐ横にいます。あなたの肩を抱いている。
僕を感じて下さい。今僕はあなたの唇にキスをします。
あなたの、やわらかな唇に。

ケイは目を閉じてジェイの言葉を聞いた。
唇に、ジェイの唇を感じた。

ジェイ、あなたの唇が熱い。感じるわ、あなたを…
昨夜ローマで交わした、激しいキスの感覚がよみがえった。

ケイさん、今どんな格好ですか?
バスローブだけ。
ぼくもです。いまあなたのベルトをほどきます。
ローブの前がはだけて、あなたの胸のふくらみとおなかが見える。
ベッドの上で折り曲げられた膝、腿、そしてその奥…

ケイはまるでジェイに脱がされているように、バスローブのベルトをほどき、脱ぎすてた。
裸の自分が、正面のドレッサーの鏡に映っていた。

ジェイ、私が鏡の中にいる。
あなた、鏡の向こうから私を見ているのよね。 そうよね?

そうです、見ています。
ケイさんの髪の毛は…
さっきドライヤーをあてた後だから、ふわっとふくらんでいる。目は…すこし潤んで。
唇は昨日の夜僕に散々吸われて、咬まれたから、まだすこし腫れている。
ケイさん、ぼくが見えますか?

ええ、ジェイ見えるわ。
あなたも私が欲しくて、濡れた目で私を見てる。
またすこし髭がのびた? ああ、顎を触るとざっらとしている。
胸にもさわるわ。お腹も…
ケイは頭の中で、ジェイのからだにつぎつぎと指を這わせた。
湿った肌が熱かった。

ジェイ、肩にキスしたい。
そういうと、ジェイがかすかに喘いだ。
ケイさん、おもいっきり噛んで。僕のからだがあなたを絶対忘れないように。
ケイは頭の中で、ジェイの肩に歯をたてた。はずむような弾力を感じた。
強く噛んで、ジェイが苦痛にゆがむ顔を見たいと思った。
私の歯が骨にあたっている、感じる?ジェイ。

ケイさん、感じます。僕もあなたを…
あなたの全身に歯をたてて、食べてしまいたい。
熱い声でそう言われると、ケイは、左手で胸を鷲づかみにして、乳房に爪をたてた。
その痛みが本当にジェイに咬まれているような快感をもたらした。

ケイはベッドに倒れこんだ。
握り締めた電話機からジェイの声が溢れ、ケイを包み込んだ。
ケイ…、僕のケイ… 愛してる…
その声に体中を愛撫され、激しく欲情し、喘いだ。
ジェイの乱れた息づかいが、ジェイもケイを感じていることを語っていた。

私もよ、ジェイ、愛してるわ…
そして確かに溶け合ったと思った。
ケイの中のジェイがケイを満たし、ジェイの中のケイがジェイを包み込んだ。

高まる官能の波が大きく砕け散るかに思えたとき、突然ケイは弾かれたように泣き出した。
激しい嗚咽が漏れた。
自分をとどめる事ができなかった。
嗚咽の合間にジェイの名を何度も呼んだ。
やがてそれは絶頂の後の弛緩と一体になって、繰り返し岸辺に打ち寄せる波となり、
ケイの孤独をゆっくりと解き放ち、甘い夜の海に溶け込ませていった。

ケイさん…、ケイさん、大丈夫ですか?
ええ、ごめんね、ジェイ、私どうしても…、またあとで…

ケイさん、切らないで
泣いて下さい。
空港で僕たち、我慢なんかしなければよかったんだ。
ケイさん、好きなだけ泣いて下さい。
そういうジェイの声もくぐもっていた。

あぁ、ジェイ、私…、私、あなたのものよ。わかってね、全部あなたのものなの。
ケイさん、僕もです。僕の全てはケイさんのものです。
あなたが今すぐ戻れと言うなら、僕はこれからあなたのところに戻ります。
ジェイ、ありがとう…、私大丈夫よ。時々こうやって私のところに来てくれれば、もう大丈夫。

でも今夜だけは眠るまで一緒にいてくれる?
もちろんです。一緒に眠りましょう。
そして夢でもう一度、あなたを愛します。

ジェイの声にくるまれて、ケイは眠った。
そして夢の中で、確かにジェイはケイを愛した。一晩中、その言葉のとおりに。
ローマの、あの夜のように…

翌日からケイは取材に没頭し、
仕事は順調に進んだ。

シチリアではたくさんのリュウゼツランの花を見た。
チンクエテッレでジェイと見たあの花は、
シチリアの種が、海を渡ってたどりついたものかもしれない。
そう思うと、ジェイと遠くはなれていることも耐えられるような気がした。
いや、遠く離れていても、きっとつながっている、そう思えてくるのだった。

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