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石の記憶 Ⅲ  --From Ostia Antica ③

 

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Ⅲ  --From Ostia Antica ③


オリンポスの山では、ゼウスと神々が、オデュッセイスの祈りを聞いていた。

――さて、どうしたものか… ゼウスがポセイドンはじめ居並ぶ神々に問いかけた。
――そうさなあ、そろそろ帰してやるか、それとも奴の願いを聞いて、真っ二つにしてやろうか…
ポセイドンが答える。

――それもかわいそうだ、いくらああ祈ったとはいえそこまでしなくとも、
神々の意見は割れ、なかなかまとまらない。

業を煮やしたゼウスが、宣告した。
――ヘルメスをカリュプソの元に使いにやれ。
   どちらかをあの女に選ばせよう。
   どうやらオデュッセイスに惚れ抜いているようだし、せめて選ぶ機会を与えてやろう。

やってきたヘルメスにゼウスの言葉を聞く前から、カリュプソの心は激しく揺れていた。
オデュッセイスの祈りを木陰で聞いてしまったあとは、まともに彼の顔を見ることすらできない。
愛する男が私から去ろうとしている、私を愛している、去りたくないと言いながら。
それでも故郷で死にたいと、
いやいっそわが身を二つに裂いてくれればどちらの望みも叶うものをと。
その逡巡はそのままカリュプソの思いだった。

愛する男を失いたくない、たとえ半分に裂かれた肉体だろうと自分のものにしておきたい。
しかしまた、愛する男に息子の腕の中で安らかな死が訪れることも、心の底から願っていた。
ニンフである自分とオデュッセイスは、所詮添い遂げることは無理なのだ。
ならば彼の望みを叶えてあげるのが、私の愛ではないのか。

幾晩もカリュプソは泉のそばで物思いに沈んだまま過ごした。
いっそこのまま、泉のかたわらの葦にでもなってしまいたいと思いながら。
オデュッセイスはそんなカリュプソが心配でならない。
自分が結婚を承諾しないことが、これほどに彼女を憔悴させているのかと思うと、
やりきれなかった。
確かに故郷には帰りたかったが、この島を去りたくないのも本心なのだ。
意を決してオデュッセイスが言った。

――カリュプソ、すまなかった。
   私が間違っていたよ。
   これまでおまえがどれほど尽くしてくれたか。
   それを忘れたわけではなかった。いやいくら言葉を重ねても私の気もちを語ることはできない。
   私は本当におまえを愛しているんだと、思い知ったよ。
   こんなにやつれてしまって…

オデュッセイスはカリュプソをそっと胸に抱きしめた。
――こんなおまえを置いて、この私がどこに行けるというのか。
   おまえの望みは私の望み、結婚しよう。
   神々も許してくれるだろう。

ついにカリュプソは、愛しい男の胸で、聞きたかった言葉を聞いた。
そのとき、心が決まった。

オデュッセイスと求め合うままに東の空が白むまで愛を交わしたあと、
カリュプソは静かに眠るオデュッセイスの額に口づけて褥をすべりでると、森の奥へ姿を消した。
それから何日もカリュプソは戻らなかった。
そして戻ったときにはすべての準備を整えていた。

オデュッセイスがどこへ行っていたのか、何をしていたのかと尋ねても、
カリュプソはただ柔らかに微笑んで、準備のためですとだけ、答えるのだった。

やがて少しづつ、二人の元にいろいろなものが届けられた。
大きな行李に入ったたくさんの衣類、食料や水。
オデュッセイスは結婚の準備なのかと尋ねた。カリュプソは微笑むばかり。

数日後、カリュプソがオデュッセイスを海辺に誘う。
そこには立派な船が停泊していた。どうやら何人かの船乗りがすでに乗船しているようだ。
カリュプソがオデュッセイスを伴って船に乗り込む。

カリュプソが船の中に運び込まれた一本のオレンジの木を指して言った。
――ごらんなさい、オデュッセイス。
不思議なことに、木には良い香りのする白い花が咲き乱れ、
そしてたわわにオレンジの実もついているのだった。

――この木は私と私たちの島から、あなたの船出と道中の無事を祈っての贈り物です。 
   こうして甕にさしておけば、次々に花が実となります。
   あなたがイタケの島に着くまで、オレンジはあなたの喉を潤し続けることでしょう。

その言葉を聞いて初めて、オデュッセイスはカリュプソが何を準備していたかを知った。
彼女の寂しい微笑の意味を知った。

あまりの驚きに言葉を失ったオデュッセイスに、カリュプソは語る。

――この船は、私たちの島の一番奥に生えていた、一番古い木で作らせました。
   この帆は、島の一番高いところに生えていた、丈夫な亜麻で織らせました。
   だからこの船は普通の船の10倍の速度で海を進むでしょう。
   特別に雇った船乗りたちは、イタケの島にあなたが着くまであなたを守り、
   あなたの手足となって働くでしょう。

   オデュッセイス、愛しているの、あなたを。だからあなたを行かせるわ。

そう言ってカリュプソは一歩あとずさった。そのまま船を去ろうとしているようだった。

オデュッセイスは腕を伸ばし、去り行くカリュプソの手をつかんだ。
力いっぱい引き寄せ、胸に抱きしめる。
その頬を涙が濡らしている。

――カリュプソ、私に黙ってこんなことを。
   私の気持ちはおまえにあるのに。何故こんなことを…
   愛しているよ。心から愛しているのはおまえなんだ。

オデュッセイスの言葉を聞くと、カリュプソは力いっぱい彼の腕を振り解き、
船から身を投げるようにして海に飛び込んだ。
それを合図に錨があげられ、風が、すでに張られていた帆をはらませる。

――カリュプソ… 
オデュッセイスの哀切な叫び声を残して、船はすべるように沖に消えていく。

岸に泳ぎ着いたカリュプソが島にあがる。と、山の奥で木が一本静かに倒れた。

船の上では、オデュッセイスが毎日オレンジの花の香りの下で眠り、
カリュプソの夢を見ては涙を流した。
しかし朝目覚めればその実をもいで、やはり涙を流しながらそれを食べた。

カリュプソの島では、オデュッセイスがオレンジをひとつ食べるたびに、
島の木が一本、また一本と倒れていく…

しだいに船の上のオレンジの花も残り少なくなり、
最後の花が実をつけて、オデュッセイスがそれをもいで食べた。
翌朝、船はイタケの港に着いた。

島では最後の木が倒れ、カリュプソは愛する男が無事に故郷に帰りついたことを知った。
すると島が、静かに沈み始めた。
すべての島のエネルギーをオレンジの一本の木に与え、
オデュッセイスを生かし、望みを遂げさせたことに満足して、カリュプソは微笑んだ。
微笑みながら、これで海の泡となってあのひとの町まで流れていけるとつぶやくと、
島とともに沈んでいった。

その数日後、海辺で物思いに沈んでいたオデュッセイスは、
海の彼方から漂ってくるオレンジの花の匂いをかいだ。
急いで波打ち際に駆け寄ると、打ち寄せる波がオデュッセイスの足を濡らす。
その波の泡がオデュッセイスの肌に触れてはじけるたびに、オレンジの花の匂いが立ちのぼる。
匂いは女の腕のようにオデュッセイスにからみつき、やがて彼の身体を包み込んだ。

――カリュプソ、お前なんだね、愛しい人。
   私が生まれ変わったら、きっとまたお前の島に行くよ。そして二度と旅立たない。
   永遠におまえと暮らそう。それまで私を待っていてくれるね。

オデュッセイスが右腕を女の髪をなでるように動かし、
左腕を細い腰を抱くようにまわすと、
そこにはオレンジの花の匂いが形づくる女の姿が浮かんだ。
首を傾け、その女と口づけを交わす。
オデュッセイスはその匂いを、今は匂いだけとなったカリュプソを固く抱きしめた…

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