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石の記憶 Ⅳ  --From Ostia Antica ④

 

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Ⅳ  --From Ostia Antica ④


劇場は、激しい拍手に包まれていた。
ほとんどの観客は立ち上がってオデュッセイスとカリュプソの名を呼び、
何人かはジェイウスと相手役の女優の名を連呼している。

『これで終わりなのか?』
アレクシウスだけが不満そうだった。
『ペネロペイアは?才女にして貞淑なオデュッセイスの妻、あのペネロペイアは出てこないのか?
こじき姿のオデュッセイスが、い並ぶペネロペイアの求婚者たちと競って、
家伝の弓を引くフィナーレは?』

母がうんざりしたように答えた。
『まあ、アレクシウス、よくギリシャ神話をご存知だこと。
でもペネロペイアが出てきたら、カリュプソがかわいそうじゃない。
私はここで終わるのが良いと思うわ』
『しかし、これじゃ中途半端じゃないか』

私はいつになくアレクシスの言葉に反論したくなった。
『でもこれは新しいオデュッセイスだわ』
『新しい?どこが新しいんだ。
新しいというなら、何故オデュッセイスはカリュプソの元から去っていくんだ。
結局は原作と同じストーリー、同じ結末なのになぜ最後まで描ききらない?』

『同じ結末なんて誰も見たいと思わないわ。
知っているストーリーをたどらされるほど退屈なことは無い。
でもジェイウスのオデュッセイスは、新鮮だった。
カリュプソから去るにしても、揺れる心が誠実な男の愛を語っていた。
それにカリュプソの描き方も繊細で、
最後に夫を試すようなことを言うペネロペイアよりも、女として魅力を感じるわ』

『ケイディアは神殿でそんなことも巫女たちに説いて聞かせるのかい?』
まあまあ、と父が割って入った。
『いっそ、ジェイウスに聞いてみたらどうかね。大役の初日を無事に終えて、
さぞやほっとしていることだろう。
行って声をかけておやり』

『そうですね。そうしてやりましょう。
ではおじさん、しばらくケイディアを借りますよ。
もうすぐこんなふうに出歩くこともできなくなるんだ。
すこしぐらい居酒屋ではめをはずしてもいいでしょう。
僕とジェイウスが必ずお宅まで送り届けますから』

舞台の裏に回る。
役者たちの何度かの挨拶が終わり拍手が静まると、
ふとジェイウスが舞台の袖に視線を向け、私たちに気づいた。
いや彼が見たのは私だけだ。
じっと、強い視線で私を見た。見つめ続けた。
そのまま私から目をそらさずに、こちらに近づいてくる。

その視線のなかに、やあ、と、アレクシウスが平然と入ってきた。
ジェイウス、久しぶりだな、と彼の肩に腕をまわす。
ようやくジェイウスがアレクシウスを見た。
目の力は弱まり、いつものジェイウスに戻っていた。

『ああ、二人とも見てくれたんだね。ありがとう。どうだった?正直に聞かせてくれよ』
『おまえでも他人の意見が気になるのか?
よくやったじゃないか。代役だって?たいしたものだよ』

『まあ、アレクシウスったら。さっきとはえらい違いね。
なんだってジェイウスはこんなことをしてるのかとか、
結末が中途半端だとか、散々けなしてたのよ』

ははっとジェイウスが陽気に笑った。
『アレクシウスならそう言うだろうと思っていたよ。
でも誰よりも冷静で公平な批評をするのも君だろう?』
『ああ、たぶんな。じゃ聞くよ。なぜペネロペイアは出てこないんだ?』

ジェイウスの答えはあっさりしたものだった。
『簡単さ。役者がいなくなったんだ』
『怪我をしたのはオデュッセイス役の役者だけじゃなかったのか?』
『表向きはそうだけど、彼だって怪我なんかしていない。
実は主役二人が駆け落ちしたんだ。
オデュッセイスは僕がやるにしてもペネロペイア役がいなかった。
それで監督と相談して結末を変えたんだ』

『駆け落ち?』 驚いた私が声をあげた。
『なんでそんなことをする必要があるの?
劇が終わったら二人で結婚でも何でもできたでしょうに』
『ペネロペイアは監督の貞淑な妻じゃなかったというわけさ』 ジェイウスが答えた。

『なるほどね。それでオデュッセイスを待つこともできなかったわけだ。
しかし役者の世界は乱れているな』
『そうでもないさ』 ジェイウスが答える。
『君は兵士とばかり付き合っているから知らないだろうけれど、
ローマの貴族連中だって似たり寄ったりさ』

ほう、とアレクシウスが目を細めてジェイウスを眺めた。
『それでおまえも色々知ったわけだ。いやこれで合点がいったよ。
なんであのうぶなジェイウスが、これほどの男心を演じられるんだろうと不思議だったんだ』

『僕は確かに色々見たさ。でも今までと違うオデュッセイスを演じたかった…
勇敢で策士で野放図なオデュッセイスではなくて、
ペネロペイアのもとに戻る以前も、愛に苦悩し揺れ動く、誠実な男として描きたかった』

ふん、とアレクシウスが鼻で笑った。
『では呼び物の海戦シーンはどうした?
前宣伝ほどじゃなかったぞ』

『僕が反対した。
今までみたいに本当に戦って、奴隷を殺したりする見世物はもううんざりだろう?
演劇はただのうっぷんばらしのショーじゃない』

『しかしまず観客を楽しませてくれるべきものだろう?』
『観客が、楽しんでいなかったとでも?』

黒髪を短く刈り込んだ、精悍な相貌のアレクシウスもジェイウスに劣らぬ長身で、その二人の男が、
役者や裏方の奴隷たちが忙しく行き来する舞台の袖の通路で論を戦わせている姿は、
まるで芝居の一シーンのようだ。

『確かに女どもは、ここにいるケイディアもそうだが、おまえに魅了されていた。
お前には人の心をつかむ力があるようだ。
でもその力は劇場の舞台の上ではなくて、元老院の議員の前で、
あるいはフォロ(広場)の聴衆を前に発揮されるべきだろう。
叔父上だってそれを望んでいるんじゃないのか』

『ああ、アレクシウス、いつだって君の言うことは正しいよ。
でも僕は政治にそれほど興味が湧かないんだ。
それより舞台の上で、現実とは違う世界に観客を連れていけるとしたら・・・、
観客が陶然と芝居に酔うのを眺めていられるとしたら、そのほうが僕は幸せだ』

『まあ、おまえにはそのほうが向いているかもしれんな。
人の幸せは千差万別だ。俺の幸せは芝居を見たあとに飲む酒、料理、
そしてケイディアの笑顔だ…』

アレクシウスの腕が私の腰に回された。
その腕を追うジェイウスの目に苦痛が走ったのを私は見た。
私はそっとアレクシウスの腕をはずした。

『君たちは婚約を解消したんだろう?』 ジェイウスが硬い声で尋ねる。
『いや、おじさんから申し渡されたけど、オレは承諾してないんだ。
ケイディアを待つつもりでいる』
そうだろ?とアレクシウスが私を見た。

私はその視線をさりげなくそらした。
『やだ、アレクシウス、やめてよ。
あなたに私の貞淑なペネロペイアになんかなってほしくないわ』

『そうだな、ペネロペイアだって昔と違う。今更はやらないよ』
ジェイウスが、その言葉の茶化した調子とは裏腹に、挑むようにアレクシウスをにらみつけた。

しかしアレクシウスはそ知らぬふりで言葉を続ける。
『ひとつだけ感心したのはオレンジだ。
そう言えば、俺たちが子供の頃おいかけっこをして遊んだお前の家の庭に、
オレンジの木が一本あったな』

はじかれたように、私はジェイウスを見た。
同時に鮮やかに記憶が甦る。
彼とおさない口づけを交わしたときに包まれた、オレンジの花の匂いを。
ジェイウスが、今気づいたの?とでも言うように、柔らかに微笑んだ。

『しかし、よく匂いなんかを演劇に盛り込んだものだ。
匂いの女を抱きしめるなんぞ、無謀でしかない。
必ずしも成功しているとは思わないが、しかし生身の女を抱くより胸に迫るラストだったな』

ジェイウスがつぶやくように言った。
『本当のオレンジの木を使いたかった。
観客にオレンジの花の匂いをかいで欲しかった…
叔父にシチリアから取り寄せてくれと頼んだが、
この時期に花をつけている木が見つからなかった』
『あたりまえだ。いくら完ぺき主義者のおまえでも、できることとできないことがあるさ』

緊張を孕んだ空気が緩んだのを逃したくなくて、あわてて私は言った。
『そうだっ!オデュッセイスのセリフ、少しおかしいところがあったわ』
どこが?と二人の男が私を振り向いた。

『カリュプソに結婚しようと言われてはぐらかすところ。
あそこ、紋切り型だなと思ったの。
まるで今まで描かれてきたオデュッセイスそのままで、
すこしもカリュプソに対する誠意を感じなかった。
そのあとのオデュッセイスと違う男みたい』

『ああ、あそこはまだセリフを直してなかったんだ。時間がなくて。
監督はあれでいいと言うけど、僕は気に入っていない。
ケイディア、どんな言い回しがいいと思う?
君がカリュプソだったら、どんな言葉がほしい?』

私とジェイウスは夢中になって言葉をさがし、セリフを考えた。
あまりに没頭してアレクシウスの存在を忘れた。
しばらくすると、アレクシウスは飽きてきたのだろう、あくびをしはじめた。

『いいかげんにしろよ』
『あと少し。少しだけ。ここの場面がどうにも気になって仕方が無いんだ。
もし今夜なんとか作れれば、明日には直せる』
真剣なジェイウスの様子にアレクシウスが折れた。
『わかったよ。オレは先に居酒屋に行ってるよ。セリフができたらすぐに来いよな』

それから私とジェイウスは何度もセリフを練習した。
やがて私はカリュプソになりきって、言った。
――愛しているわ、あなた、行かないで。

舞台の衣装のままの彼の裸の胸に、私はそっと手を這わせた。
そのまま、私たちは唇を重ねあった。

ジェイウスは激しく私の唇を求め、背中に回した腕に力を込めた。
やがて彼の指は私の髪に差し入れられ、ゆった髷をほどき、うなじを愛撫し、胸へと下る。
その手が私の胸を包み込んだ。
最初はそっと触れ、やがて大きく、強くもみしだき始めた。
私の喉の奥から、今まで聞いたこともないような喘ぎ声がもれ出た。
彼の唇が喉に滑り降りると私はのけぞって天を仰いだ。
閉じたまぶたの裏側に幾多の光がはじけ飛ぶ。

唇はやがて胸に降りていく。
同時に彼の長い指がドレスのひだをまさぐり始めた。
布地のドレープの隙間をさがして。そこから私の肌を求めて忍び込もうと。

彼の指が、私の裸の腰に触れた。
その瞬間、稲妻に打たれたように私は悟った。
このまま、私は彼に身を委ねるだろうと。
全ての禁忌を向こうに回しても、彼の愛を受け入れるだろうと。

だが、ジェイウスは私の肌に指が触れると、
焼けた海辺の岩にでも触ったような素早さで、その指を引き抜いた。
やがて静かに体を離した。

『ごめんよ、ケイディア… 』 それ以上言葉が続かない。
私も、目の前の渦に平気で身を投げようとしていた自分の、
まるで今までの自分とは違う女のものであるような激情に、たじろいでいた。

『行こう… 』 ジェイウスが私の手をとった。
大きな、暖かな手だった。

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