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石の記憶 Ⅴ  --From Roma ①

 

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Ⅴ  --From Roma ①


翌日は雨になった。
ケイは思い切ってローマの、ジェイと過ごしたホテルに部屋を取った。
このまますぐ近くの空港から日本に帰ろうかと思っていたのだが、
オスティアの遺跡で時を過ごすうちに、
どうしてももう一度ローマに行かなければならない気がしてきた。
自分を呼ぶものが何なのかは、わかっていた。
それは石に刻みこまれた思念…

広場ではベルニーニのゾウが、雨に打たれながらケイを迎えてくれた。
ロビーのミネルバの彫刻も、お帰りとケイに微笑んだ。

通された部屋はスタンダードで、当然窓は広場に面してもいなかったし、
カーテンも家具も、何もかもあのときの部屋とは違っていた。

気温はぐっと下がっていたが、ケイは窓を開け放ち、
中庭の四角に切り取られた空を見上げ、深く息を吸った。
たとえ部屋は違っても、ここにはジェイと過ごした濃密な時の残像がある。
たった二晩だけだったが、ジェイがケイに与えたものは大きかった。
楔のように打ち込まれた、ジェイの深く強い想いに呼応するように、
ケイの中に遠い日の石の記憶が甦る…

夕方の帳が降り始める頃だったが、空に残る明るさを求めて外に出た。
迷った末に、パンテオンとは反対の方向に歩き出す。広い通りをテヴェレ川の方向に渡り、
今はフランス大使館になっているファネーゼ荘の前に立った。
限りなく優美なローマのルネッサンス建築に会いたかった。

ファルネーゼ荘はテヴェレ川に背を向けた、明るいピンクがかったベージュの石積みの建物で、
ファサードは横三層に区切られ、一層づつデザインの違う、
リズミカルに繰り返される窓の枠飾りには、コロッセオから運ばれた石が使われている。

これほどたおやかで美しいルネッサンスの建物を、ケイは知らなかった。
しかもこの地下には古代ローマの公共建築の遺構が発見されており、
馬の曲乗りを描いた見事なモザイクがあると言う。

そもそも一帯は軍神マルスに捧げられた地で、古くは軍隊の訓練や凱旋式が行われていた。
その後劇場や円形闘技場なども建てられ、大衆の娯楽の場となる。
ポンペイウス劇場があったのもこのあたりだ。

ファルネーゼ荘の、左右に広い建物の全景を見渡せる位置まで下がり、傘の中から見上げる。
ふとケイはめまいに襲われた。

きれいに敷き詰められた広場の舗石が波うち、盛り上がり、がらがらと崩れ始めた。
隣の区画に建つスパーダ館や、広場の一角を占める教会が、
その舗石といっしょに倒れ、地面に飲み込まれていく。
美しく整ったルネッサンスの館も、広場のファルネーゼ家のユリの紋章の噴水もろとも砕け散り、
おびただしい瓦礫となって空中に飛散している。

降り積もるその瓦礫を割って立ち現れたのは、白い大理石で飾られた公衆浴場や神殿、
そしてそれまでは仮説の木製のひな壇でしかなかった劇場を、巨大な回廊をめぐらせ、
勝利の女神に捧げた神殿を取り囲む堅固な石で造り上げた、ポンペイウスの劇場。
しかし、ジェイウスが舞台に立ったのはここではない。

ジェイ… 見て… これがローマよ。
心の中で呼びかける。

そのジェイの姿にかぶさるように、ケイの脳裏に、兵士の鍛錬場で銀色の鎧兜を身につけ、
槍を手に馬にまたがって駆け抜けるジェイウスの姿が浮かんだ。

あの頃ジェイウスは、
ローマのマルケルス劇場で再演されたオデュッセイスの物語に出演のかたわら、
乗馬や武術の訓練に余念が無かった。
冬の終わりから帝国の辺境の軍団基地の調査のため、
軍の小隊を率いて、アルプスの北のガリア地方、
今のフランスあたりに赴くことになっていたのだ。

私がオスティアからローマに着いたばかりの頃だ。
ジェイウスの叔父の勧めをありがたく受けて、
ひとまず私は叔父一家が暮らす館に落ち着いていた。
神殿に入る前に、時間の許す限り“世界の都ローマ”を見ておきたかったのだ。

これから何年か過ごすことになるヴェスタの神殿と巫女の家、
そのまわりに広がるローマの中心フォロから始まって、
ハドリアヌス帝が再建したパンテオンや、ポンペイウス劇場を見て回った後だった。

ジェイウスから一度鍛錬場に来ないかと誘われていた私は、
一目でも彼の雄姿を見たいとやってきた。
ここは女が出入りするようなところではない。
誘うほうも誘うほうだが、のこのことやってきた私も私だ。
しかしジェイウスも私も、世間の思惑などあまり気にしていなかった。
何よりも、私はジェイウスに恋をしていのだ。
同じ館でしばらく過ごすといっても広い邸宅のこと、
忙しい彼と顔を合わすことはほとんどなかったし、
冬の終わりに別れたらいつ会えるとも知れない彼の姿を、
この目に焼き付けておきたかった。

しかし、私をひきつけて離さない馬上のその男は、
幼い頃から知っていたいたずら好きな少年でもなく、
まして愛をささやくオデュッセイスでもなかった。
見知らぬ一人の男、守るべき大切なものを心に秘め、敵に立ち向かう勇者だった。

鍛錬場には男達の雄たけびや馬のいななき、地面をけるひずめの音などがこだまし、
立ち尽くす私を圧倒した。
陽射しが傾くと、兵士たちは一段と高く、地を揺らすほどの野太い叫び声を上げ、
空に向かって槍を突き上げた。
訓練が終わったのだろう、やがてばらばらとこちらにやってくる。

ジェイウスが私を見つけた。
兜の下の険しい表情が、とたんに柔和なものに変る。
他の兵士たちに帰れと指図すると、ひらりと馬から降り、私の前に立った。
兜をはずすと栗色の髪が頬の上にこぼれ落ちる。
夕陽を浴びた勇者のあまりの美しさに、私は言葉を失った。

『どう?馬上の僕の姿は?』
『どうもこうもないわ』
素敵よ、という言葉が出てこなかった。出てきたのは、
『オデュッセイスの戦闘シーンよりサマになってるわね』 という、
我ながらにくたらしくて涙が出そうなものだった。

ジェイウスが愉快そうに笑った。
『芝居と実戦では確かに気持ちが全く違うよ。
でもこれで芝居ももっとうまくやれるようになる。今度マルケルス劇場にも見においでよ。
あと数回上演の予定なんだ』

オスティアで行われたジェイウスのオデュッセイスはなかなか評判が良く、
ローマでも当たりそうだと踏んだ叔父が、マルケルス劇場でも上演させていた。
膨大な出費だが、1万5千人収容の劇場での宣伝効果は抜群に高い。
首都ローマの食糧庁長官の職を得た叔父の、
ローマ市民に対する自己紹介を兼ねた催しということだったが、
当然それは次のステップへの布石でもあった。

『いっしょに帰ろう』
そう言って、ジェイウスが馬にまたがった。
おいで、と差し伸べられた手に腕を預けると、ふわりと体が浮き、
馬上のジェイウスの前に横座りに乗せられた。

体をひねって正面を向く。
ゆっくりとした馬の歩に従って体が上下し、
そのリズムに同調したジェイウスの息が首筋にあたる。
金属の鎧が固く背中に触れていたが、
冷たいはずの鎧もその部分だけはなぜか熱く感じらる。
たくましい彼の左腕が私の腰を支え、右手が手綱を握っていた。
彼と同じリズムに揺られながら、私は、
ジェイウスがほんの数ヶ月の間に更に大きく成長したことを感じていた。
いったい彼は、どこまで大きくなるのだろうか。


**** **** ****


●物語の”場”としての古代ローマ

『再生-イタリア紀行』 で、ジェイとケイが最後の二日間を過ごしたのは、
ローマのそう広くない特定の地域でしたが、続編であるこの物語の舞台も、
やはり徒歩で一日か二日あれば廻れるくらいの狭い範囲に限られています。

『再生~』では二人で、そして今ケイが一人で泊まるのは、
古代ローマ時代の建築で唯一完全な形のまま残る神殿、
パンテンオンのすぐ裏手にあるホテル・デ・ラ・ミネルバというホテルです。
ミネルバというのはギリシャ神話の知恵と戦いの女神で、
ホテルのロービー奥には大きな大理石の彫刻が飾られています。
このあたりは夜の散歩にもなかなかおすすめの場所で、
冬だろうと雨だろうと、いつもたくさんの人で賑わっています。

パンテオンはローマの歴史地区のほぼ真ん中に位置し、
テヴェレ側に向かって南に歩くと、ミケランジェロ設計のルネッサンス建築の傑作、
ファルネーゼ宮殿があります。そこから川に沿うように少し東に行けば、
ジェイウスが舞台に立ったマルケルス劇場。
この劇場上部は一般の住宅となっていますが、
厳しい都市条例のために遺跡をそのまま残すような形で修復が行われ、
日本のTV局もある番組の中で紹介していましたが、
石組みの壁や天井などまさに古代遺跡そのままです。

マルケルス劇場の東の小高い丘が、
ジェイとケイがラストシーンで日が暮れるまで抱き合っていた、
古代ローマ発祥の地カピトリーノの丘です。
古代ローマは起源前753年に双子の兄弟の一人ロムルスによって建国されたと伝えられていますが、
王政の早い時代にこの丘にユピテルの神殿が建てられており、とても重要な聖域でした。
今はミケランジェロ設計の広場となり、市庁舎とカピトリーニ美術館が建っています。
余談ですが、この市庁舎で結婚式を行うことができるため、
広場やフォロ・ロマーノの遺跡をバックに記念撮影をしている花嫁と花婿を見かけることがあります。

丘の南に広がるのが、
ケイディアがこのあとの物語の中でほとんどの時間を過ごすことになるフォロ・ロマーノ。
フォロとは広場という意味で、あたりにはたくさんの神殿が立ち並び、
帝国の領土拡大や防衛の戦いに勝利したときに建てられた凱旋門があり、
元老院というローマの国政の一翼を担う議員が議会を開く議場があり、
商取引や裁判を行うバジリカという集会場があり、
そしてローマ帝国の平和の象徴である竈の火を守るヴェスタの神殿と、巫女たちの家もありました。
物語でケイディアが入ることになるのがこの巫女の家です。
丘から見下ろせる、フォロ・ロマーノのはずれに聳えるコロッセオまでの遺跡の連なりは、
ローマで一番古代ローマを感じさせる眺めではないかと私は思っています。

ローマは坂の多い街です。というより七つの丘の上に作られた街と言ったほうがいいかな。
カピトリーノの丘からフォロ・ロマーノを見おろし、その南端に目を転じればそこはパラティーノの丘。
こちらは物語の終盤にちょこっと出てきますが、皇帝や有力貴族が住む高級住宅街でした。
物語にはジェイウスの叔父などの住宅として、さらに南西にあるチェリオの丘や、
フォロ・ロマーノからまっすぐ北にいったあたりのクイリナーレの丘なども登場します。
ちなみにクイリナーレには現代のローマ共和国の大統領官邸がありますが、
その名もクイリナーレ宮殿と言います。

このように、イタリアの首都ローマは現代も政治の中心ではありますが、
ほぼ千年にわたって古代の巨大な帝国の中心都市であり、
その遺構がいたるところに露出し、その遺構の上に、
あるいは遺構に組み込まれたような形で、中世からルネッサンス、
そして現代の暮らしが重なっている街なのです。
まさにローマの持つこの“場”の力が物語に流れこみ、ケイに古代の記憶を甦らせます。
ジェイとケイの物語は、こうしてジェイウスとケイディアの物語へと溯っていくのです。

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