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石の記憶 Ⅵ  --From Roma ②

 

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Ⅵ  --From Roma ②


馬はテヴェレ川に沿って進み、マルケルス劇場を左に折れ、
パラティーノの丘を過ぎ、チェリオの丘の中腹の屋敷に着いた。

その晩、久しぶりに叔父や叔母といっしょにジェイウスも夕食の卓を囲んでいた。
『やっと皆で夕食がとれるわ』叔母が嬉しそうに言う。
『せっかくケイディアが来てくれたんだから、
少しはまじめに帰って来るかと思ったのに、まったくこの子ったら』
『すみません叔母さん。でも武術の訓練は毎日したいし、オデュッセイスの劇のこともあるので』
『ようやくこいつもわしのために役にたってくれるようになったな。
ジェイウス、属州勤務のあと首都ローマでキャリアを積めば、おまえもすぐに元老院デビューだ。
そうだ、嫁も探さないとな』

叔父の何気ない言葉に、ジェイウスの顔がこわばった。
『結婚はまださきです』

叔母が笑いながら言った。
『ケイディアがアレクシウスといっしょになるんじゃなかったら、あなたたちお似合いなのに』
その言葉に私とジェイウスが、思わず顔を見合わせる。
ジェイウスが私の目を見ながら言った。
『婚約は解消されたそうです』
私は静かにうなずいた。

『あら、そうなの。
でも巫女の家でのお勤めが終わらなきゃあね』
叔母は、私たちの様子を見てなにかを察したのか、
さっきの言葉はほんの思いつきででもあるかのように、その場をとりつくろった。

『それにケイディアだってどんな玉の輿がまってるかわからんからな』 叔父の言葉に、
えっ、と私は顔を上げた。
『だってそうだろう、娘を神殿の女官務めにあげる父親の目的は二つ、
娘の幸せを願って玉の輿をねらうか、
それとも自分の政治的野心のために娘の玉の輿をねらうか、だよ。
父上のねらいはどちらかな?』

そう言って叔父は下卑た笑い声をあげた。
後継者ジェイウスの結婚相手に、資産か血筋か、
いずれにしろ有力な家の娘を考えてでもいるのだろう叔父の、いかにも打算的な物言いだった。
ジェイウスはうつむいたまま、膝のうえで組んだ手を見つめている。

その夜、ジェイウスはずっと物思いに沈んだように言葉すくなだったが、
夕食後、めずらしく私の部屋にやってきた。

『ケイディア、話があるんだ』
そう言って両手で私の手をとり、じっと目を見つめはするものの、なかなか口を開こうとしない。
思い余って私が口を開いた。

『ジェイウス、叔父様の言うことなんて気にしないで。私そんなことにはならないわ』
ふっ、とジェイウスが笑った。
『いいんだよ、そんなこと。君こそ気にすること無い』

やがて彼は、ぽつりぽつりと語り始めた。
『僕は春には首都ローマを離れる。帰ってこられるのは早くても次の冬が来る頃だ。
それだって任地の状況ではどうなることか』
『どうして?任期は秋まででしょう?』
『そうだけど、国境付近では常に蛮族が南下を狙っている。
いつもこぜりあいで済むとは限らない…』

ジェイウスの言葉を聞いて、にわかに私は不安を覚えた。
『あなたの行くところ、そんな危険なところなの?』
『いや、もう長く帝国の属州となっている地だ。
僕のようなひよっこが行くところだから、そう心配はないよ。
ただ…』
『ただ?』
あまりに大きくなってしまったローマに、予想外のことが起こったら…』
ジェイウスは遠くを見る目をして、更に物思いに沈んでいった。

ほんの百人ほどの小隊の長に過ぎない、駆け出しのこの若者を憂いに沈めるほどに、
この国に恐ろしいことがせまってでもいるのか?
それともジェイウスは叔父の秘書という立場上、
何か政治的に重要な情報を知り得ているのか。

『ケイディア、神殿の巫女たちのこと、よく知っているのかい?』 
ジェイウスが話題を変えた。
『いいえ、まだ何も知らないわ』
『巫女はローマの竈の火を守る特別な存在だ。
火が消えたときはローマに禍が訪れると言い伝えられている』
『ええ、そうね。そんなことは誰だって…』
言いかけた私を遮ってジェイウスが続けた。

『ローマは、神殿の火が消えて滅びるんじゃない』
『なんですって?
ジェイウス、何を言っているのかよくわからないわ。
それにローマが滅びるんですって?そんなことあるわけ…』

『あるわけない、僕もそう思いたいよ。
でもね、今のローマにはその怖れを肝に銘じた指導者が必要だ。
コモドゥス帝は何年も前に国境から戻って以来、
ずっとローマと別荘のあるナポリを往復するだけだ。
幸い前皇帝のおかげもあって平和が続いているからいいものの、もしなにかあったら…
果たしてそのときはどうなるのか。
神殿の火を心配するんじゃなくて、少なくとも皇帝はもっと別のことを心配しなくちゃいけない。
しかし神殿の火は、大事なローマの象徴だ。
だからやっかいなんだよ。
もしローマの災厄を誰かのせいにしたかったら?』

私は息を呑んだ。
『神殿の火が消えたせいだと?』
『ああ、そうすれば、場合によってはそいつは責任を逃れることができる…
そんなことは起こらないだろうが、
いずれにしろあそこは宗教の中枢ではない、政治の中枢なんだ。
巫女たちはかなりの権力をもっているし、その使い方を知っている者もいる。
一昔前とは違うんだ。時代は急速に変わりつつある。
だが叔父たちのように既得権だけを考えて生きている世代には、それが見えない。
君がそんな世界で、どろどろとした政治の渦に巻き込まれやしないかと、それが心配なんだ。
それに、現皇帝になってからあちこちのたがが緩んできて、
神殿すら貴族の世界と同じになってしまった…』

えっ、と私はもう一度ジェイウスを見た。
『どういうことなの?』
最後の言葉については多くを語らず、ジェイウスは続けた。

『ぼくは叔父の秘書として、ずっと君のそばに、首都ローマにいてあげられると思っていた。
もともと出世なんか望んでもいなかったし。
でも叔父の考えは違った。僕を自分の後継者だと考え、
それなりの地位について欲しいと願っている。
今回の赴任はそのためのワンステップだと。
帝国の防衛はローマ市民たる者の責務だし、逆らうことができなかった…』

私はあまりに色々なことを聞かされて、それを咀嚼することができないでいた。
これから自分が入っていく世界に抱いていた敬虔な気持ちは、そう簡単に崩れるわけはなかったし、
ましてローマ帝国の興亡に関してなど、考えることもできなかった。
しかし、ジェイウスが私のことを心配してくれていることだけは、身に沁みて感じられた。

『僕にはローマでいろんな仲間ができた。いや意図的につくってきた。
芝居をやったことによって、更に仲間は増えた。
こんど君に紹介するよ。
まあ、心配するようなことは何もないと思うけれど、
僕がいない時になにかあったらそいつらを頼りにするといい』

『ジェイウス…』
私は彼の胸にそっと頬を寄せた。
『ジェイウス、私あなたの言っていること、まだよくわからないわ。
でもありがとう。私のことを気にかけてくれて』

私の頬を彼の大きな両手が包み込んだ。静かに唇がふさがれた。
深く甘い口づけだった。
やがてそれがオスティアの劇場でのような情熱的なものに変るかに思えたとき、
ジェイウスはつと唇を離した。
なぜ?と問う間もなく、彼は身を翻し、
それ以上ひとことの言葉すらなく、部屋をあとにしていた。



すっかり暮れたファルネーゼ荘を一渡り眺めて、ケイは帰路に着いた。
雨は止む気配すら見せない。
ホテルを通り過ぎ、パンテオンの横も過ぎ、正面のロトンダ広場に回る。
広場は夜になっても人通りが途切れることがない、いや一層賑わっているかのようだ。
オベリスクを乗せた噴水のまわりを歩く。
噴水を手前において、色々な角度からパンテオンを眺め、写真を何枚か撮る。
ジェイにメール添付で送ろうと思った。少しぶれたかもしれないが、雰囲気は伝わるだろう。
そして、自分の中に甦る遠い日の記憶も書き送らなければ、と。

雨に濡れた小さな四角い舗道の石が、周囲のバールやレストランの灯を受けて黒く輝いている。
その石に影を落として、薄いブルーのひとつの傘の中、抱き合う恋人たちがいた。


    ****    ****    ****

●時代背景について
ジェイウスとケイディアが生きるのは、紀元2世紀の終わり、
ローマ帝国が最大の版図を獲得した後、次第にその繁栄に陰りが見え始める頃です。
ローマは紀元一世紀には地中海沿岸の諸国を属州におき、
ヨーロッパでは現代のイギリスからライン川とドナウ川までの一帯、
さらにギリシャから小アジアまでを納める巨大帝国となっていました。
しかしこの頃のローマは、文中でジェイウスが言うように、
すみずみまで目の届く政治を行うにはあまりに大きくなりすぎていたのです。

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