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石の記憶 Ⅶ  --From Roma ③

 

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Ⅶ  --From Roma ③


翌朝早く、電話のベルが鳴った。
ジェイからだった。
昨夜書き送ったジェイウスとケイディアの物語を今読んだところだという。

ケイさん、もう帰ってきてくれる頃なのに、ローマでなにをしているのかと思ったら。
ごめんなさい。気に入らなかった?
いいえ、嫉妬しているんです。
あなたをとらえて離さない、ローマとジェイウスに。

ごめんなさい。
まだ完全に目が覚めずもうろうとしていたケイは、もう一度あやまった。

はは、うそですよ。
だってこれは僕だ。違いますか?

わかってくれたのね。
当たり前です。これは僕とあなたの物語だ。
あのとき、ローマの最後の日に、
フォロロマーノを見おろして僕が言ったことを覚えていますか?

ええ、覚えている。
二千年前に下の石畳を歩いていた人々と僕は、時を越えてつながっている、
あなたそう言ったわ。

ジェイが続けた。
かつて僕とあなたは、ここにいたような気がする。
僕たちはここで出会って、時の流れの中にさまよい、
そしてまためぐり合ったような気がする…
そう、あのとき本当にそう思ったんです。僕を、いえ、
僕たちを呼ぶ声が聞こえたような気がして。

オスティアをあなたと歩きたかったわ。
きっとあそこでなら、あなたも私たちを呼ぶ、もっと大きな声を聞いたに違いないもの。
ええ、劇場の舞台に立ってみたいと思いました。オスティアなら立てるんですね。
今度は絶対に僕と行ってください。もうあなたを一人で行かせたくない。

ジェイ…

ケイさん… すぐにローマに戻りたい。
こんなに焦がれるようにあなたに会いたい。
僕たちやっと時を超えてめぐり合えたのに…

ジェイ、待っていてね、二千年に比べれば、1週間も1ヶ月もあっという間よ。
私もあなたに会いたい。すぐにでも会いたい。
でも私たちが、ジェイウスとケイディアを呼び寄せているような気がするの。
二人を私たちの中に甦らせてあげたいの。

わかっています。それは僕も同じ気持ちです。
それに僕があなたを求める想いが、一層あなたを駆り立てている、そんな気もしています。
でも知っていて欲しい。
あなたが物語を送ってくるたびに、どれほど僕があなたを恋しく思うか。

まだ一度送ったきりよ。
一度読めばわかります。どれほど僕が揺さぶられたか…
オデュッセイスのように匂いすらなくても、
空中にあなたを思い描いて抱きしめられるくらいに。

ジェイウス…
思わずケイはジェイウスと呼んでしまった。
ケイディア… ジェイが答える。

同じだ。同じ気持ちだ。僕は遠く離れていく。
君を置いていかなければならない。ローマに一人。
その君に、僕はなにをしてあげられるだろうか…

ジェイウス…
わたしを抱いて、とケイディアとなったケイは言いたかった。
そうしてくれれば、私は待てると。
しかし今、離れているジェイに、離れていくジェイウスに、
その言葉を口にすることができない。

ジェイ、パンテオンの写真は見てくれた?
ええ、あの傘の中の恋人たち、僕たちみたいですね。
フォロ・ロマーノを背景にした私たちも、誰かに写真に撮られたかしら?
きっと、撮られていますよ。
それでその恋人のところにメール添付で送られているんだ。

そうかもしれない、と思った。
ケイのように、誰とも知らぬ恋人たちを自分たちに重ね合わせて、
それをパソコンの壁紙にしている人が他にもいるかもしれない。
どこかのだれかの部屋で、
コンピューターの画面に自分とジェイの抱き合う姿が映されているのを想像して、
ケイは不思議な、暖かい気持ちになった。                                

ジェイが、紀元二世紀末のローマの時代背景を調べてくれると言う。
あのころ、帝国は最盛期を過ぎ、その後はゆるやかに衰退に向かう、
いわば山頂から少し山を下り始めたような次期だった。
ジェイウスとケイディアの物語は、大きく渦を巻くその時のうねりの中に現れたに違いないと、
ケイは感じていた。

外に出ると、空に雲は多いものの雨はあがっていた。
ケイは自分のなかのジェイに押されるようにしてマルケルス劇場に向かう。

劇場の規模はオスティアのものなど比べ物にならない。
中世には一部が民家に改装され、ローマ時代の遺跡と、
上層の今も人の住む民家の部分が、熱で溶接されたようにくっついている。
今も二千年近く前にジェイウスの舞台を見守った石の壁に囲まれて、
夜ごと眠る人がいるのだ。


客席の一番前の席には、叔父と叔母に挟まれて、オデュッセイスを見つめる私がいる。
この劇場には水を張れないので、海戦シーンはよりシンプルなものになっていて、
その分、カリュプソとオデュッセイスの切ない愛と別れが強調されていた。
観客の反応は上々で、客席を埋めた多くの女たちは、すでに何度も見ているのだろうか、
芝居の筋を追うというより、ジェイウスの視線ひとつ、
手の動きひとつにどよめき、溜め息を漏らしている。

『ジェイウスの熱烈なファンが来ているわ』 叔母のつぶやきが耳に入った。
その目の行方を追うと、階段席の中でも目立たない片隅の席に、
まわりに数人の女奴隷を従え、顔をべールで覆った貴婦人が座っている。

『どこの奥方か全然わからないのよ。
楽屋にも珍しい果物やワインをたくさん差し入れてくれるんですって。
でも名も名乗らないし、ジェイウスにぜひにと握手を求めるときも、
べールをはずさないそうよ』
女ざかりは少し過ぎているようだが、ほっそりとした首と豊かな胸が目立った。
その胸を飾っている宝石も、ドレスの生地も、
見たことも無いほど贅沢な、美しいものだった。

舞台はいよいよクライマックスだ。
オデュッセイスの祈りやオレンジの木のシーンなど、
これを最後と思うとそのセリフも、しぐさも、全てを覚えておきたかった…。

やがて芝居が終わった。鳴り止まぬ拍手に、監督とジェイウス、
そしてカリュプソ役の女優が貴賓席に挨拶に下りて来た。
最終日とあって、叔父をはじめ劇を応援してくれた有力な政治家が勢ぞろいしているのだ。
順に彼らと儀礼的な挨拶を交わしてきたジェイウスが、
私の前まで来ると片膝を折り、私の手をとり、手の甲に接吻した。
会場からは拍手と溜め息がもれ聞こえてくる。

やがてジェイウスが件の貴婦人の前に立った。
彼女は立ち上がり、彼に向かっておもむろに片手を差し出す。
彼は優雅にその手をとり、私にしたのと同じように接吻した。
貴婦人のいかにも慣れた美しいそのしぐさに気押されたが、
同時に私の胸は早鐘のように鳴り出した。彼女が手を放すとき、
ジェイウスの手に一片の紙のような物を渡すのが目に入ったからだ。

叔母もそれを見ていたのだろう、低い声で言った。
『家の住所かしら。このあと来てってことだと困るわね。
今夜の宴の主役はジェイウスですもの』

家に帰るとすでに豪華な宴席が用意されていた。
一大イベントを終えた叔父は大勢の客人に囲まれ、いかにも誇らしそうだ。
ジェイウスと監督、そして数人の役者も招かれていて、
彼らは劇の一場面を演じたり、歌を歌ったりしていたが、
やがて本物の楽団が入場してお役ごめんとなった。

『ケイディア、いっしょに劇場に戻ろう』
ジェイウスが私にささやいた。
『これから役者たちだけの宴会だ。君もおいでよ』
『でも叔父様におこられるわ』
『大丈夫だよ。あれだけ飲んでりゃあとのことは何にも覚えていないさ』

しかしその宴会は、見たことも聞いたこともない、
まして想像すらしたことのない類のものだった。
あとになって思い出しては私は考え込んだ。
いったいジェイウスは何故、あの場に私を誘ったのだろうか…

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