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石の記憶 Ⅷ  --From Roma ④

 

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Ⅷ  --From Roma ④


劇場の一角の広い部屋は既に大騒ぎとなっていたが、
入り口にジェイウスや他の役者が姿を現すと、ひときわ大きな歓声があがった。

叔父の家の宴会では、客人は食堂の長椅子に寝そべっていたが、
ここではみな、粗末な木製のテーブルを囲む木のベンチに腰掛けている。
テーブルの上に並んでいるのも、見るからにつましい食べ物だ。
それでも大皿に乗った肉はおいしそうに焼けていたし、
野菜を煮込んだような料理やパン、そしてワインはふんだんに用意されていた。

そのまん中に、いかにも場違いに珍しい果物が盛られた豪華な籠が置かれていたが、
それには誰も手をつけていなかった。

『さあ、ジェイウス、早くそのかわい子ちゃんを紹介してよ』
カリュプソ役の女優が、いきなり蓮っ葉な言葉をかけてきた。
『ケイディア、こちらはマリナ、またの名をマロ、二つ名前があり、顔も二つ』

その女優は、よろしく私マリナよ、と言ったかと思うと、
長い黒髪を帽子を脱ぐように両手で取り去り、
やあ、僕マロ、と男の声で言った。

唖然としたまま、次の言葉が出てこない。
あの可憐なカリュプソが男だったとは。
ぽかんとしている私を、役者たちが手をたたいてはやし立てた。

ジェイウスも面白そうに笑っている。
『見事だろう?叔父も叔母も、誰も気づかない』

マロは不思議な魅力をふりまきながら、ジェイウスに体をすり寄せていく。
『私は相手次第で女にも男にも変幻自在。ねえ、ジェイウス、私の恋人・・・』
なまめかしい女の声でそう言ったかと思うと、今度は私の手をとり、
『ケイディア、僕の愛しい人、今宵こそ僕のものになってくれるね』 と、
甘やかな若者の声でささやいた。

『マロ、ケイディアがびっくりしてるだろう。
あんまり悪ふざけするなよ』
『あら、そんなに大事なら連れてなんて来ないでよ。
でもこの子、大丈夫そうよ。ほら、もうわくわくして私を見てるじゃない』

その通りだった。
同じ体、同じ顔のまま、瞬時にして全く違う人間に変身するこの男に、
私はたちまち魅せられていた。

『そうよ、ジェイウス。最初はびっくりしたけど、もう大丈夫。
港町で育った私よ。いろんな人がいること知ってるわ。
でもあなた、それにしてもすごいわね。本当はどっちなの?』
『まあ、ずばり聞くわね』
『だってどちらの名前で呼んでいいのかわからないから』
ははは、と男とも女ともつかない高い声でマロが笑った。
『気に入ったわ。好きなほうで呼んでいいわよ』

ジェイウスはくつろいだ様子で、テーブルの料理を食べ、ワインを飲んでいる。
私はその隣で少し落ち着かなかった。
『マロがこいつらを束ねている』
ジェイウスが言った。
『本当にすごいやつは、見ただけではそれとわからないということを、
僕はマロで知ったよ』

マロは引っ張りだこだった。
兵士の恰好をしたたくましい男の腕に抱かれ、激しく唇を吸いあっていたかと思うと、
膝に若い女を乗せ、むき出しにした白い胸をまさぐっていた。

そのうちに、少し離れた卓の上に飛び乗って踊りだす女がいた。
卓を囲んで何人かが輪になり、ぐるぐると回りながら歌いだす。

彼らがはやし立てると、やがてその女は服を一枚、また一枚と脱ぎ捨て、
裸になってもまだ腰をくねらせて踊っていた。
ワインのビンが振られ、女めがけて真紅の液体が飛ぶ。
ワインに濡れた女の肌を、嘗め回そうと男がにじり寄る。
やがてテーブルの下で、汚い床の上で、男も女も入り乱れ、重なりあい始めた。

それらを呆然と見ている私の隣に、いつの間にかマロがいた。
『今夜はジェイウスをもらっていいかな?』
私は飛び上がった。
いきなり耳に吹き込まれた言葉の意味が、しばらくわからなかった。
ぎょっとした顔を向けると、その目が笑っている。

『マロ、いいかげんにしろ』
ジェイウスが言うと、マロはあっさりとひきさがり、
テーブルの真ん中の果物に手を伸ばす。
『これ、なんていうのかしら。まったくよく毎晩豪勢なプレゼントを。
ジェイウスがいらないっていうから、みんな私たちがいただいたけど。
あの女、あんたが欲しくてたまらないのよ。一晩ぐらい相手してあげなさいよ。
今日だって、手紙を渡されてたじゃない』

『ああ、どうしたものかな』
そういうジェイウスはさして困っているとも思えない。
『そうだ、おまえが代わりに行ってくれ』
『あっ、その手があったか。
いいわ、私美青年になってあとで出掛けて行って、ありがたく頂戴するわ』

『マロ…』 ジェイウスの声が急に真面目なものになった。
『あの女、どこかで見たことないか?』
『さあ、ないわね。今まで他の芝居で見かけたことは一度もないし、
皇帝や貴族たちの宴席でも見ないわね』

『顔を隠してるのにわかるの?』 思わず私が訊ねた。
『あんた、私を誰だと思ってるの。
どんなに変装しようと、このプロの目はね、しぐさひとつ、声ひとつ、
手の動きひとつで誰だかわかるのよ』
『さぐってくれ』
そう言いながらジェイウスが差し出した一枚の紙を、マロが黙って受け取った。

消え残った数本の蝋燭に照らされた石壁の部屋は一段とうすぐらく、
どこで誰が何をやっているのかわからないほどになった。
しかし絶えずざわざわとした喧騒が、高く、あるいは低く続いている。
ときおり女の甲高い笑い声があがったかと思うと、男たちが歌いだす。
それらの音に、女の喘ぎ声やみだらな男の声が重なった。

その中で悠然と、ジェイウスは酒の杯を重ねた。
『ケイディア、君も飲めよ。
僕たちがこんなところで杯を交わすことはもう二度とないだろう』

私は差し出された杯を受け取り、注がれた酒を飲んだ。
目の前に繰り広げられる光景に頭の芯がしびれたようになっている。
私もあの役者たちのように、床に転がって、
好きな男と抱き合えたらどんなにいいだろうと思った。
ジェイウスと、そうしたかった。

しかし、今私の目の前にいる男は、またしても私の見知らぬ男だった。
役者たちの乱痴気騒ぎの中にあって、その騒ぎに加わるでなし、
かといって不快な顔ひとつするでなし、
面白そうに彼らを眺めながら、平気で酒を飲んでいる。

『乱れているんで驚いたかい?』
『そりゃ驚くわ』 いつのまにか私の足元にすわっていたマロが答えた。
『でもね、貴族たちはこんなもんじゃないわよ。ねえ、ジェイウス』

マロの手が私の膝を撫で始めた。
ジェイウスは黙ってそれを見ている。
その手が、ドレスのすそをゆっくりとたくしあげ、膝頭までがむき出しにされた。
やがて腿に向かって這い登ろうとするマロの指を、ジェイウスが止めた。

『マロ、よしておけ。ケイディアはだめだ』
『んもう、ジェイウスったら、ほんとうにつまんないわね。
この子だってまんざらじゃないのよ。あんたわかんないの?
二人で可愛がってあげようよ』

ジェイウスの目が鋭く光り、マロが溜め息をついた。
『かわいそうなケイディア、ジェイウスはね、山のように女や男から言い寄られても、
全部そでにしてるような不感症男よ。
この私のテクにも落ちない。だからあんたも覚悟しときなさい。

こんなのはさっさと見切りをつけて、男が欲しかったら私に言うのよ。
ソフトなのがお好みのときは私が誠心誠意お相手するわ。
ハードがお望みならあの兵士がいいわね。
それともまとめて試してみる?』

『マロっ!』 ジェイウスの語気が一段と上がった。
『まあ、ジェイウスったら、そんなにムキになっちゃって。
大丈夫よ、この子は大事にしてあげるから。

それにしてもねケイディア、ジェイウスに言い寄る女や男のプレゼントがすごいのよ。
あるときジェイウスが大の本好きだとわかってね、皆どうしたと思う。
山ほど恋のてほどきやら愛の詩集やら、
はてはその手のいかがわしい本なんかが届いたのよ。
それをジェイウスったらかたっぱしから読んじゃった。
それで耳、いや目年増になったのね、きっと』

『そうなの?』 私は訊いた。
さりげない問いに託して、私の知らないジェイウスのことをもっと知りたかった。

『ははは、違うよ、ケイディア。
最初はどれも同じように読んでいたけど、
そのうち本当に優れたものはそう多くはないことがわかってきた。
耳年増になるほどの量はない。それに僕は不感症じゃないよ』
『じゃ証明して』 その場の雰囲気にあおられてか、私はひと息に言った。
ヒュー、とマロが喉から声を出した。

『ああ、いつかね』 
即座にジェイウスが答える。

私の目を見ながら彼は続ける。
『叔父の宴会を見たろう。彼らは次から次に珍しい料理を食べる。食べるために吐く。
あの貪欲さこそ反吐が出ないかい?
いったい本当の空腹を彼らは知っているのか?
空腹を満たされたときの満足を、知っているのか。
喉が渇いたときの一杯の泉の水がどれほど甘いか、彼らは知らない。
僕はね、腹一杯食べたら満足だし、それ以上はいらないんだ。
何より、空腹なときに、本当にそれを食べたいときに、
一番美味しく感じられるときに、食べたいんだ』

やれやれ、とマロが立ち上がった。
『こんなやつなのよ、ジェイウスは。こんなやつなのに私は惚れたってわけ。
私たち苦労するわね、お互いに』

空腹なとき、一番美味しいとき…
彼は私を欲していない?少なくとも今、彼は私をみても空腹を感じない…
なのに私は…

なんだか、自分が惨めに思えて、私はジェイウスから顔をそむけた。
『ケイディア… 』
ジェイウスの長い指が私のあごにかかり、そっと自分のほうを向けさせた。

私の目には涙が滲み、唇は震えていた。
震える声のまま私は言った。
『なぜ?なぜ私をここに連れてきたの?
こんなばか騒ぎを見せて、私が驚くのが見たかったの?
マロに脚を触らせて、私がどうするか見てみたかった?
それとも人気の役者になった自分の姿を自慢したかったの?』

『そうじゃない、ケイディア、そうじゃないんだ。
君に、君に僕は…』

それ以上何も言わず、ジェイウスは静かに私の唇を塞いだ。
その唇で私の涙を拭った。
抱き寄せられ、彼の胸に体を預けると、ワインの酔いでもうろうとなった私の頭に、
マロのささやきや、兵士の喘ぎ声や、
女たちのうめきともよがりともわからない声が、とぎれることなくなくこだましていた。

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