Ⅸ --From Roma ⑤
翌日、気がつくと私は自室の寝台の上に寝ていた。
昨夜はジェイウスの止めるのも聞かずに、マロと一緒になって飲み続けた。
そのあとのことも、どうやって帰ったのかも覚えていない。
それからの数日は、ジェイウスの顔を見ることすらかなわずに過ぎた。
神殿の巫女の家に入るための支度はほとんど出来ていたが、
あれこれ買い足すものが出てきたりで、
ジェイウスとゆっくり話す時間もないまま、ついにその日が来た。
いくつかの行李にまとめた荷物はすでに運び込んでいたので、
私と叔母だけが輿に乗り、巫女の家に向かった。
叔父とジェイウスが徒歩で付き添う。
やがて輿がフォロに差し掛かる頃、二人が立ち止まった。
ジェイウスが差し伸べた手を、私は身を乗り出して握った。
輿はゆっくりと進み、結び合った私たちの手も、ゆっくりと離れていった。
巫女の家はフォロの真ん中より少し北東、ヴェスタの神殿に接するように建っている。
叔母が帰って行き、女官たちに導かれて回廊に出ると、目の前は美しい庭だ。
すでに冬を迎えているというのに、秋薔薇の名残やゼラニュームなどが咲き乱れ、
低く刈り込まれた緑の生垣がとぎれとぎれに庭を囲み、
生垣に沿って白い大理石で作られた女神の像が、何体か規則正しく並んでいる。
その女神像のひとつの影に、薄赤い色がちらりと動いた。
像の後ろに体を隠し、目だけをのぞかせた幼い女の子だった。
私はまっすぐ女神像に近づくと、腰を落とし、話しかけた。
『こんにちは、あなたがファウスティーナ?』
女の子はばたばたと走り去り、奥の部屋に消えた。
巫女たちが控えているという、一番奥まった一室に入ってみると、
その子供はすました顔で年長の巫女の間にすわっていた。
巫女は全部で6人。
6歳から10歳くらいの間に神殿に入り、任期は30年。
交代で、昼夜ヴェスタの神殿の火を守るのが務め。
正面に並ぶのは、今日のお勤めのために席をはずしている巫女を除いた、5人だった。
巫女の家には、その他に何人かの女官が暮らしていたが、こちらの任期はまちまちだ。
神殿や巫女の家での事務仕事に雇われた者は、数年から長い者で10年ほど、
幼い巫女の教育係として選任された者は、その教育が終わるまで、といった具合。
私はファウスティーナに、ローマ帝国の公用語であるラテン語とギリシャ語、ローマの歴史、
詩歌などを教えることになっていた。
女官の頭目らしい女が色々と説明をしている間、ファウスティーナはおとなしく座り、
じっと私を見つめている。
『ファウスティーナ、若いお姉さんでよかったわね』
正面の一段と高い椅子に座っている巫女が口を開いた。
最年長の巫女リディアは大変美しい女で、あと二年ほどで任期が終わるという。
私がその巫女に目を向けると、彼女がはっと目を見開いたのがわかった。
『あなたは…』 そういいかけたまま口をつぐんだ。
私がその先を待っていると、リディアはあわてて言い直した。
『あなた…、いえ、私たちみな、もっと歳のいった人だとばかり…』
『きっとギリシャ語なんかやってて嫁にいきそびれたんだろうって』
ファウスティーナが得意そうに言った。
くすくすと忍び笑いが漏れる。
巫女の何人かが咳払いをし、これ、と女官にたしなめられて、
ファウスティーナは自分が何か変なことを言ったのかと頬を赤らめた。
『ごめんなさい』
『いいのよ。私こそ、若くてごめんなさいね』
それでその場の雰囲気が一気になごみ、
巫女たちや女官の何人かが気さくに名前を名乗ったり、声をかけてくれたりして、
私の神殿勤めは順調にスタートしたかのように思えた。
巫女たちの家は快適だった。
巫女はもちろん、女官にも個室があてがわれ、
家具や寝具は最高の素材と美しい意匠で作られている。
部屋の床下にはスチームが通され、冬でもほかほかと暖かかったし、
館の一角の広い浴室には、温浴室や冷浴室など大浴場並みの設備が整い、
汗を流す運動室さえあった。
食事は大貴族も驚くような贅沢な食材で供され、
やはり貴族のように長いすに寝そべって食べるのだった。
とはいえ、毎日の生活は時間刻みで、神殿の火を守るためのお勤めや、
その他の祭事にかかわる事柄が、流れるような儀式めいた作法の下にとり行われていた。
ファウスティーナだけはまだ見習いということで、
午前中は年長の巫女のお勤めについて歩き、
午後の数時間を私と勉強することになっている。
しばらく前に8歳になったばかりというファウスティーナは、利発な素直な子供で、
私をてこずらせることもない。
巫女のお勤めのサイクルにもしだいに慣れ、
他の女官たちの仕事をすこしづつ手伝ったりしながら、
私の神殿暮らしは平穏に流れていった。
ある日、母と叔母が面会にやってきた。
神殿入りしてから数ヶ月が過ぎたころで、冬の終わりの嵐が一晩中吹きすさび、
ひときわ高い庭の木の枝が一本折れていることに気づいた、その朝のことだった。
『元気そうで安心したわ』 母が笑った。
『美味しい物をたくさん食べて、好きな本が読めるんだもの、天国だわ』
私も笑って答えた。
本といえば、と叔母が携えてきた荷物を私に差し出した。
『これ、ジェイウスからなの。
ケイディアも本が好きだからと。
自分はもう全部読んでしまったし、任地に持っていくわけにもいかないからって。
あの子、明日出発なのよ』
いよいよ、明日…
私は心の中の動揺を押し隠して、本を受け取った。
キケロなどの哲学者の著作集や、先代の“哲人”皇帝、マルクス・アウレリウスの「自省録」、
ギリシャ神話やギリシャ悲劇などに混じって、恋愛詩集や風刺詩集もあった。
ひときわ装丁の美しい恋愛詩集を手に取り、ぱらぱらとめくる。
と、その中に折りたたんだ紙片を見つけて、私はあわてて本を閉じた。
母たちが帰っていくと、自室に本を持ち帰り紙片の挟まれた一冊を開いた。
紙片を手に取ると胸がときめく。
それは初めて私が受け取った、ジェイウスからの手紙だった。
ケイディア、 元気かい?
きっと君は最初にこの本を紐解くだろうと思って、ここに手紙を挟むよ。
僕は明日任地ガリアへ出発する。
いよいよ、僕の新しい生活が始まると思うと、身震いするほど緊張し、
同時に期待に胸が高鳴ってもいる。
未知の世界はいつでも僕を強い力で誘うが、
今までこれほどの激しい思いを感じたことはなかった。
オスティアで育った子供時代、貿易商だった君の父上がうらやましかった。
商品の買い付けのために、エジプトやシリアやオリエントに出かけて行く父上が。
僕を君の家の子供にしてくれって、泣いて頼んだことがあったのを覚えているかい?
僕は本気で、まず母に相談したんだ。
そうしたら母は、じゃ叔父様に頼んでみなさいって。
本当に頼むなんて思ってもみなかったらしい。
叔父さんは笑って、それならケイディアと結婚するかって、言ったんだ…
あのころが懐かしいよ。
これから僕は初めての土地を駆け抜け、見知らぬ景色を見て、
聞いたこともないない言葉を話す人たちに会う。
こことはどれほど違っているのだろう。
めずらしい風習もあることだろう。食べ物はどうだろうか…
でも、そこもローマなんだ。
カエサルが、僕たちの祖先が平定し、守り育てたローマなんだ。
贈った本は、ヒマなときにでも読んでくれ。
どれも僕が面白く読んだものだ。
特にこれはマロも好きな本だ。
そのうちやつとは君もどこかで出くわすことになるだろう。
巫女たちとの暮らしはどうだい?
君のことだ、何も心配はしていないけれど、もし何かこまったことがあったらマロに頼め。
では行ってくるよ。
君のジェイウスより。
私は繰り返しその手紙を読んだ。
特に最後の、君のジェイウスより、というところを穴の開くほど見つめた。
君のジェイウスとしか、書いてくれなかった。
一言の愛の言葉もなかった。
僕を待ってくれとも、君を思い続けるとの言葉もなかった。
それにしてもどこか奇妙な感じが残る手紙だ。
ふと手紙をはさんであったページが気になった。
手紙に気をとられて、それがどのページに挟んであったのかを、
しっかりと見ていなかった。本は閉じられてしまい、
もはやジェイウスがそのページに書かれたことで、
なにかを私に伝えようとしていたとしても、
それが何なのか、わかりようもなかった。