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石の記憶 Ⅹ  --From Roma ⑥

 

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Ⅹ  --From Roma ⑥


しばらく考えたすえに、私はその日の夜から翌午前中にかけての休暇を願い出た。
ジェイウスが私を送ってくれたように、私も彼を送りたかったのだ。
しかし二つの理由から私の願いはしりぞけられた。
今日の今日では無理だと、そして勤め始めて間もない身では休暇はまだ先のことだろう、と。
その時は、言われて見ればもっともだと思えた。

仕方なく私はジェイウスに返事を書いた。

  ジェイウス、私は元気よ。
  本をありがとう。あなたの予想通り、あの詩集を最初に手にとったわ。でもよかった。
  おかげであなたが出発する前に手紙を読むことができたから。

  残念ながら、明日のあなたの出発を見送ることができそうにありません。
  休暇を願い出たけれど、許されなかったの。
  だからこの手紙であなたを送ります。

  見知らぬ土地をその目で見られるあなたがうらやましい。
  私の代わりに、このショールを持っていって。
  そして帰ったら、全てを私に語ってくれると約束してね。
  毎晩、あなたの道中の無事と任地での成功をお祈りします。
  お土産の話とともに、一段とたくましくなったあなたに会える日を待ちわびながら。
                                     あなたのケイディア


何度書き直しても、やはり私も、文中に愛の言葉を書き込むことができなかった。
それであなたのケイディアと、末尾に思いを込めるしかなかった。

その夜はまんじりともせずに過ごした。
ジェイウスが私を呼んでいるような気がして一晩中気持ちが揺れた。
私は意を決して夜明け前に起きだし、こっそりと門を出た。
夜が明ける前に戻れば、誰にも知られずにすむだろう。
まだ暗い路面には濃い霧が立ち込めていて、人っ子一人見当たらない。

ローマの北の門からガリアを目指すジェイウスが、たどるだろう道は三つ考えられた。
フォロを右に迂回してフラミニア街道にでるもの。
左に迂回してテヴェレ川沿いに進み、北の門に至るもの。最後はフォロの中心を抜け、
カピトリーノの丘のユピテル神殿に旅の安全を祈願をしたのちに丘を越え、
フラミニア街道に出るもの。
私は最後の可能性にかけた。

フォロのメインストリート、ヴィアサクラは巫女の家から一区画先、ほんの少し歩くだけだ。
春とはいえ、肌を刺す冷気に耐え、しばらく私は通りに立ち尽くした。
しかしあたりが朝焼けに染まる頃まで待っても、一人の人間も、
飢えた犬一匹すらもその道を通らなかった。
私は落胆をかかえて家に帰った。

ジェイウスが夜半にヴェスタの神殿に立ち寄ったと聞かされたのは、
その後の朝食のテーブルでだった。

二名の巫女が旅の安全祈願の祈祷を執り行い、女官も数人同席したという。
ジェイウスの姿がいかに凛々しかったかを自慢げに語る女官たちの声を聞きながら、
私は自分の勘のにぶりが情けなかった。

しかし何故、ジェイウスはそのことを知らせてくれなかったのか。
ふと思い立って立ち寄ったに過ぎなかったのか。
それともジェイウスの訪問を私には知れぬようにと、誰かが隠しでもしたのか。
いずれともわからぬまま、その疑問は次第に私の中から薄れていった。

その数ヵ月後、庭に薔薇が咲き乱れる季節となったある日のこと…

『また来てるの?』
『ええ。リディアさまもお好きね。あんなにジェイウスに入れあげてたのに』
女官たちが私の部屋の前を、おしゃべりをしながら通り過ぎていく。
ジェイウス、という言葉が耳に入って驚いた私は、ドアに近寄り耳をすました。

『あら、やっぱり本命はジェイウスでしょう。
なかなか意のままにならないから、配下のマリウスを手なずけておいて、
任期が終わったら本気でせまるおつもりよ。
どうやら今までのお遊びとは違うみたいだから』

思わずドアを開け、外にとび出していた。
女官たちは私を見て、しまったという顔をしている。
『今の話、どういうこと?』
私の強い口調にあきらめた表情で一人の女官が言った。
『あなたには知られないようにって、口止めされてたんだけど…』

『どういうことなの?』 私は繰り返した。
『教えてくれないのなら、リディア様に直接聞くわ』
そう言うと一人が、私が説明する、と部屋に入ってきた。

ドアを閉めると、その女官は驚くべきことを語り始めた。

『巫女は男との交わりを禁じられているけれど、
それを守っているなんてあなたも思ってはいないわよね。
有力者の貢物や寄進はやまほど届くし、そのなかには美しい男奴隷だっているのよ』

神殿も貴族社会と同じだと言っていたジェイウスの言葉を思い出しながら、
私は黙って先をうながした。

『それでも今までは外部の男に入れあげるような巫女はいなかった。
ところがリディア様は違ったの。
もっともあれだけの美貌だから、最初は男がほおっておかなかたんだけれど。
男にしたって、禁断の神殿の巫女をものにできるのが面白いらしくって。
見つかったら鞭ち打による死刑だっていうのに、それがまた刺激的だからって。

そのリディア様も30を超えて、言い寄る男も少なくなってきたころ、
いつだったか神殿に寄進に来たジェイウスを見初めたのよ。
彼は叔父様のおともだったらしいわ。
そのジェイウスがオデュッセイスを演じるって言うんで、あのときは大変だった。
毎日贈り物は届けるわ。劇場にお忍びで通いつめるわ。

とにかくリディア様はあなたにはなにも言うなって。
それはそうとあなた、ジェイウスとなにか関係があるの?
なぜリディア様があなたを気にするのか不思議だったのよ』

逆に私が問いかけられ、私はただ彼の遠い親戚で、幼馴染であるとだけ答えた。
女官は、自分たちがあなたの耳に入れたと知られたらもうここにはいられなくなると言うので、
私は決して口外しないと固く誓った。

女官が出て行くと、床に崩れるように座りこんだ。
初めて会ったときのリディアの驚いた顔が、これでわかった。
きっとマルケルス劇場で私を見ていたのだ。
あのときの貴婦人はリディアだったのだ。
ジェイウスに手紙を渡し、豪華な果物籠を届けたのは、神殿の巫女だったのだ。

そして私にそのことを知られまいとしている。
私をじゃまな存在と思っているのか、
それとも恋敵とでも?
もしや私がジェイウスに会えないようにと、手を回していたのはリディアだったのか。

謎の貴婦人が誰だか探れと、ジェイウスはマロに指図していた。
ということはジェイウスはこのことを既に知っているのか…
おだやかに過ぎていた巫女の家での暮らしが、
急に不穏な黒雲に覆われたような気がしてきた。

ジェイウスの配下だと女官たちが言っていた、今来ているという男が誰なのか、
確かめてみたかった。
私は静かに部屋をでて、来客を迎える部屋に近づいていった。
ドア越しにささやくような話し声が聞こえてくる。

『マリウス、私の部屋に行きましょうよ。
久しぶりじゃないの。こんなに長くほおっておいて、覚悟しなさいよ』
『僕のほうこそ、あなたがいくら許しを請うてもこの腕からはなしませんよ』
『それはそうとジェイウスは元気?』
『任地は遠いですからね。
手紙すら簡単には届きませんが、彼のことだ、元気にやっているでしょう』
『私の手紙は届いているかしら?』
『読んでいるはずですよ。
でも誰にも返事なんか書く方ではないから、期待しないほうがいい』

『まあいいわ。そのうち絶対私のものにしてみせる。
マリウス、あなたも手伝ってくれるでしょう?』
『ひどいな、こんなにあなたを崇拝している僕に向かって、彼との仲を取り持てと?』
『何を言ってるのよ。山ほど恋人がいるくせに』
『あなたほどの人はいませんよ、ご存知でしょう。ほらこんなにあなたがほしくて…』
リディアの忍び笑いにつづき、衣擦れの音とともに二人が立ち上がる気配がした。
私はあわてて植え込みの影に隠れた。

男の短い黒髪は、やわらかくカールして白い額を覆い、
瞳は若者らしい輝やきをはなっている。
身長はそれほど高くないが、しなやかな肉体が衣服の上からもうかがえた。
ほっそりとした体の身のこなしも優雅で、貴族的で繊細な魅力に溢れている。
男は、マロだった。
ジェイウスの手紙にあった、そのうちマロと出くわすだろうとは、このことだったのか…

その夜、私はジェイウスの夢を見た。
そこはマルケルス劇場の一角だった。
神殿の火が卓の上で燃えている。
その火に照らされて、裸で踊っている女はリディアだった。
男たちもみな裸だった。マロがいた。そしてジェイウスも。
リディアが、両手を大きく広げてジェイウスに抱きついた。
そのとき、卓上の炎が消えた…

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