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石の記憶 XI  --From Roma ⑦

 

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XI  --From Roma ⑦




ジェイウスが心配していた帝国のほころびは、北方の蛮族の侵攻ではなく、
東方のオリエントのゆさぶりでもなく、まして北アフリカの属州民の不満でもなく、
首都ローマの思いもかけないところから始まっていた。

私はときどき訊ねてくる叔母がこぼすぐちから、それを知った。
ローマでは一家につき一ヶ月に30キロの小麦が支給される。
もちろん家族が多ければこれだけで足りるわけも無いが、
帝国がローマ市民に与える最低の国家保証であった。
その小麦が不足し始めていたのだ。

皇帝の寝室づきの奴隷から側近として重用され、
今では近衛軍団長官として国政にまで口をさしはさむようになっていた、
クレアンドロスのしわざだった。

成り上がりのクレアンドロスは目先の蓄財に走り、国庫の小麦を市場に流していたのだ。
余裕のある者は市場で必要な量だけ買い求めることができる。
しかし庶民の台所はいつでも火の車だ。民衆の不満が、
クレアンドロスと彼の後ろ盾となっている皇帝に対してくすぶり、募っていった。
食糧庁長官である叔父はこのことがわかりながら、皇帝がクレアンドロスをかばうため、
有効的な手段を打てぬままに、民衆との板ばさみに苦しんでいた。

やがてフォロにも民衆の怒りの示威行動が何度か押し寄せ、
あたりに不穏な空気が漂うなか、
ついに事件はおきた。

その日も、フォロの通りや集会場に人々が集まり、なにやら気勢を上げていたが、
やがて群集は大挙してアッピア街道を南下し始めた。
街道の南のはずれの屋敷に皇帝とクレアンドロスがいるというので、
とにかくそこまで行こうとしているようだった。
いつにない群集の数の多さが、次第に怒りの炎を加速させていく。
それが、彼らを取り巻き眺めている私たちの目にも明らかだった。

近衛軍団は出動しなくていいのか、どこからかそんな声が上がった。
皇帝の警護には常に皇帝に同行している警備隊がいたが、
首都の治安維持となると近衛兵の役目だ。
だがこの場合、クレアンドロスを守る必要があると思う人間は一人もいなかった。
自分たちの長を守ろうとする軍団兵すら、いなかった。

数時間が過ぎた頃、群衆の黒い群が大きな凱旋の声をあげながら戻ってきた。
その真ん中には捕らえられ、引きずられながら連れてこられたクレアンドロスがいる。

群集のあまりの勢いに怖れをなした皇帝が、クレアンドロスを引き渡したのだと言う。
彼はすでになぐられ、けられ、さんざんののしられ、
息をしているのが不思議なぐらいだったが、
民衆はまだ憤懣やるかたないとばかりに、フォロの真ん中で彼に暴行を加え始めた。

群集が繰り広げる血なまぐさい光景を、とめるものはいなかった。
愚かであわれなその男は死に、民衆の家計から掠め取った財産は国家に没収された。

その財産は、しかし民衆に帰すべきものであった。
皇帝はそれを小麦という形でも、現金という形でも、民衆に返すことができた。
いや小麦市場の安定にこそ使うべきだった。
ところが皇帝はその財産を、別の形で使うことを望んだのだ。
辺境でこのことを知ったジェイウスは、なんと思っただろうか。

しばらく後に、クレアンドロスから没収した財産で、
皇帝主催の剣闘士試合がおこなわれた。
お勤め以外の巫女全員と女官もコロッセオに招かれ、
皇帝のすぐ隣に設けられた特別席につく。
しかし、皇帝の席に皇帝その人がいない。

円形劇場のアレーナ(競技場)では、猛獣たちと剣闘士との戦いが終わり、
今日の最後の試合がとり行われようとしていた。
長い剣を携えた屈強な剣闘士が現れ、観客に大きな拍手で迎えられる。
対する剣闘士が現れた。皇帝だった。
観衆は大喜びだ。拍手と歓声に応えて、皇帝が大きく手を振る。

しかしそれはどこか滑稽な見世物だった。
皇帝は確かに互角に剣闘士と戦った。いや剣闘士よりも強かった。
ギリシャ神話のヘラクレスをきどったライオンの皮のかぶりものも、
コロッセオの剣闘士試合の演出としてはそう悪くはなかった。
しかしその人が皇帝となると…
ジェイウスではないが、他にもっと心配しなければならないことがあるだろうに、
とでも言いたくなるのだった。

小麦の事件の片がつき、人々の暮らしも落ち着きを取り戻した頃、
久しぶりに叔母が訪ねてきた。
『あのときはどうなることかと思ったけれど、一番良い方法で片付いてよかったわ』
私の顔を見るなり叔母は言った。

『一番良い方法?
確かにクレアンドロスは皇帝に見放されて殺され、民衆は溜飲を下げ、
その後の剣闘士試合でお祭り気分になって、おかげで全部忘れられてよかったってこと?』
『ケイディア、どうしちゃったの?なにをつっかかるのよ』
『ごめんなさい、叔母様。でも私胸に何かがつかえているようで仕方がないの』

『まあ、ジェイウスと同じようなことを』
ジェイウス… 久しぶりに彼の名を聞いた。
その名は暑気の中に吹き込んだ、海からのひとすじの風のように思えた。
『わかったわケイディア、あなたジェイウスに会えなくて寂しいんでしょう。
はい、これ手紙よ』

私は叔母の前であることも忘れて、渡された手紙の封をきった。

  ケイディア、元気でいるかい?
  首都ローマの不穏な動きが大過なくおさまったと聞いて、ひと安心している。
  内実はどうあれ、傷が広がる前にふさがれたのならよかった。

  ガリアはローマよりよほど涼しくて、夏と言ってもほとんど汗もかかずに過ごしているよ。
  この地は緑濃く、可憐な花が咲き乱れ、豊かな川の流れに沿って馬を進める時など、
  その美しさに辺境の軍務を忘れるほどだ。

  帝国の防衛線はまずまず問題なく機能しているようだ。
  各軍団基地は前皇帝肝いりの将軍たちが守りを固めている。
  コモドゥス帝がなかなか訪れてくれないことが彼らの唯一の不満だが、
  平和なのだから仕方がない。

  僕はこのあとライン河に沿った基地数ヶ所を回る予定だ。
  時間が許せばドナウまで足を伸ばしたいところだが、そちらは常に緊張が続く地域だし、
  一旦冬はローマに戻り、春に出直すことになるだろう。
  ただし僕の任務である対ゲルマン防衛線の現状報告の仕上がりによっては、
  ウィーンあたりで冬を越し、
  そのままドナウ防衛線からシリアに向かうことになるかもしれない。

  そうそう、君にひとつプレゼントがあるよ。
  君が、巫女たちの衣類や生活に必要な布地などの担当になったと聞いたので、
  オスティアの商人で、東方からのこまごまとした装身具や布地を扱っている者を、
  巫女の家に出入りできるように紹介しておいた。
  君もオスティアの話などが聞けてなつかしいだろう。
  手紙なども届けてくれるはずだ。

  出発の時に会えなかったのは残念だった。
  しかし悪い風邪を引いていると聞いては、呼び立てることもはばかられたんだ。
  あのオレンジ色の美しい絹のショールは、今も僕の手にある。
  いつもいっしょに旅をしているよ。

                                          君のジェイウスより


ジェイウスが帰って来れそうだということは、良い知らせだった。
彼が出発の時神殿に立ち寄り、私に会おうとしてくれたこともわかって、嬉しかった。
しかし、おそらくはリディアの指図で、私にジェイウスの訪問が知らされなかったことが、
これで明らかになった。
そのことが、ある程度予想していた事とはいえ、私の気もちを暗くさせた。

『ジェイウスはケイディアをそんなにがっかりさせるようなことを書いてきたの?』
目の前の叔母の存在を忘れていた私は、あわてて言った。
『もし報告書ができなかったら帰れないって…』
『まあ、ケイディア、
あのジェイウスが報告書ひとつ書けないなんてことあるわけないでしょう。
大丈夫よ、きっと帰ってくるわ』

その夜、私はジェイウスに返事を書こうとした。しかし何を書けばよいのか。
会いたいと? あなたが恋しいと? 
それともリディアの仕打ちを? しかし何の証拠もあるわけではなかった。

それにそのことを書けば、リディアについて問わずにはいられない。
マロのことも訊かずにはいられない。
本当は知りたいそれらのことを、私はどうしても言葉にすることができなかった。
ジェイウスの真意を、そしてリディアとの真実を知るのが、怖かった。
結局一言も、私は書けなかった…


巫女の家での時間は、いつ終わるとも知れぬ暑さに淀んでいた。
例年ローマの貴族たちは市中の暑さを逃れて、
涼しい丘の上の別邸や海辺にでかけて行くが、
その年はことのほか暑い夏で、いつにもまして首都にはひと気が少なかった。
神殿に寄進に来る者も、なにかを祈願しに来る者もほとんどいない。
ある日リディアが、そんな滅入るような暑さに耐えられなくなったのか、
手のつけられないほどの癇癪を起こした。

『どうして誰も来ないのよ。
ローマじゅうが避暑に行くというのなら、私も行くわ。
何故巫女はローマを離れちゃいけないの』
大声でどなり散らす声が、自室にいる私の耳にも聞こえてきた。

『マリウスを呼んで。マリウスがいなければ誰でもいいわ。
そのへんにいる男を一人連れてきなさい』

何人かの女官がなだめるのもいっこうに効き目がないようだ。
『神殿の火がなんだっていうのよ。
どこにでも、火を持っていってやるわ。山の上だろうと、川のほとりだろうと。
それさえあれば文句無いでしょう。
そうだ、皇帝を呼びなさい。巫女リディアが呼んでいると、伝えなさい。
来ないんだったら、火を消してやるわ。
ローマの安全は私が守っているのよ・・・』

わめき声は家の外にも聞こえるかと思われるほどに、高まっていた。
その声に混じって、物が壊れる音や、鉢が割れるような音が聞こえ、
さらにけたたましい女の悲鳴までが届くと、さすがに私も心配になった。
時々わけもなく荒れることのあるリディアだったが、
それでも暴力をふるうことはなかったのだ。

リディアの部屋の前には、ほとんどの女官と奴隷たちが集まっていた。
不安そうに中を覗き込んでいるファウスティーナを、私は抱きかかえた。
『大丈夫よ。リディア様は病気なの。お薬を飲めばすぐ治るからね。
あなたはお部屋に入っていなさい』
『本当に?』 幼い少女の目にはおびえが浮かんでいる。
『ええ、本当よ、きっと暑さのせいだから』
そう言って、一人の奴隷に彼女をたくした。

リディアの部屋は恐ろしいことになっていた。
卓や椅子がひっくりかえり、衣類や装身具、酒瓶や杯がめちゃめちゃに散乱し、
リディアはさらに着ている服や寝具を引き裂き、
杯や皿などを次々に壁に投げつけていた。
なにかで打たれたらしい奴隷がかたわらにうずくまっている。

もはや誰の手にも負えそうもなかった。
美しい顔はゆがみ、髪はメドゥーサのように逆立ち、乱れ、
飛び散った杯のかけらででも切ったのか、ひたいからは一筋の血が流れている。
血走った眼は何も見ず、乱れた呼吸に開かれた真っ赤な唇からは、
今はただ叫び声とも、泣き声ともつかない声が漏れているだけだった。

それはおぞましいというより、痛ましい姿だった。
30年かけて神殿の火を守りながら、己の中に育てた魔物を解き放ったような姿だった。
ふと彼女が、足元におちていた手紙のような紙切れをひろいあげた。
それを胸に大事そうに抱えると、今度はさめざめと泣き出した。
泣きながら、つぶやくように男の名を呼ぶ。

『ジェイウス、何故なの? ジェイウス、なぜ私ではだめなの・・・』
リディアはジェイウスの名を呼び続けながら、そう問いかけていた。


   ****    ****    ****


●史実1
161年 コモドゥスの父マルクス・アウレリウス、皇帝となる。()
     コモドゥス誕生
     マルクス帝/ローマ帝国きっての平和の時代を率いた五賢帝時代の最後の皇帝。
     哲人皇帝と言われ、思索の書『自省録』を現す。
     しかし帝の時代、帝 国の辺境では他国からの侵略や争いが絶えず、
     その就任の最後まで戦いに明け暮れた。
     その意味でこの時代は平和の終焉と帝国の凋落の陰りを感じさせる。
     後世、ミケランジェロの案によりその騎馬像がカンピドリオ広場に置かれることになる。
177年 マルクス、コモドゥスを共同皇帝にする
     コモドゥス帝/剣闘士試合(への出演)が大好きで、
     ライオンの皮をかぶってヘラクレスに扮した彫像がある。
     帝の時代、幸い国境の平和は前皇帝マルクス帝の制定のおかげで脅かされることはなかったが、
     帝国の内政に様々な問題が生じてくる。
     コモドゥス帝はそれらに有効な手を打てない(打たない?)まま終わり、
     帝国はその終焉に向けてゆるやかに坂を下り始める。
180年 マルクス死去
187年 ペルティナクス、首都長官に任命される
189年 クレアンドロス、民衆に殺される。以後コモドゥスの愛妾マルチア、その夫エキレクトゥス、
     近衛軍団長官エミリウスが権勢を振る

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