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石の記憶 XII  --From Roma ⑧

 

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XII  --From Roma ⑧




それからリディアは、数日間誰とも口をきかずにいたが、
ある日、腫れ物に触るように接していた女官たちに向かって、
いいかげんにしてよ、私はこわれものじゃない、と叫ぶと、
全ては一瞬にして元通りになった。

リディアがだめにしたものを修理したり買い変えるために、あわただしい日々が続いていた。
巫女の家には、入れ替わりたちかわり何人もの商人や職人が出入りし、
そのなかに、ジェイウスの紹介だというオスティアの女商人もいた。

店はトライアヌスの市場にあり、そちらは弟夫婦がやっているが、
オスティアの港で夫が仕入れたものを、
女房の私がこうしてローマのお屋敷を歩いて売っているのだと、
アテネアと名乗る女は言った。

少し大柄で、赤茶けた巻き毛を無造作に束ねた、
いかにも商人らしい飾らないいでたちの女だったが、
男好きのするふっくらとした唇と細い顎が美しかった。
その顎の線が誰かに似ていているような気がして、
私はオスティアの知った顔を次々に思い浮かべてみた。
他の商人たちが帰って行き、やがて広間にはその女と私だけが残された。

『ケイディア、元気そうじゃない』
いきなりその女が言った。

怪訝な顔をする私をみて、女は愉快そうに笑う。
その笑い声…
『マロなの?』
『そうよ、どう私? 完璧でしょう。
ジェイウスがよろしくって』
『会ったの?』
『まさか。あんたに会ったらそう言ってくれって、頼まれてたのよ。
やれやれ、やっとここに自由に出入りできるようになったわ』

『マリウスはどうしたの?』 私は低い声で訊いた。
『やっぱりあのとき覗いてたの、あんただったのね。
マリウスだとちっともあんたに会えないし、これ以上深入りするとやっかいだから、
彼はエジプトに消えてもらったわ。
へたに見つかって鞭打ち死罪にでもされたらたまったもんじゃないからね』

『ジェイウスもあの貴婦人がリディア様だったてこと、知ってるのね』
『ええ』
『なぜ私に教えてくれなかったの?』 思わず声が高くなった。
『しっ、静かにしなさいよ。
誰だって、ひとを好きになる権利はある。
だからってそれをいちいち他の人間に報告する義務はないんだ』

『でも、おかげで私ジェイウスに会わせてもらえなかった』
『知ってたって何も変わりはなかったさ。
それにあの女はもうすぐ任期が終わってここを出ていく。
巫女じゃなくなれば権力もなくなる。
そうすなればもうへたなことはできないんだから、少しくらいがまんしなさい』

『でも…』
『過ぎたことをとやかく言うんじゃないよ。
それよりも、あの女、退官の前になにか仕出かすかもしれない。
それに注意するのよ、ケイディア』
『どういうこと?』
『さあね、ただジェイウスも私もちょっと気がかりなことがあってね。
取り越し苦労だとは思うけど、いつもと変ったことがないかどうか、
あんたによく見ておいて欲しいんだ。
あと2ヶ月もすればジェイウスも帰ってくる。それまでの辛抱だから』

マロは、注文の布地は一度に用意することはできないが、
手に入った順に届けると言い、帰っていった。

リディアが何かを仕出かす? しかし何を? 
マロがなにを心配しているのかわからなかったが、
そのころから皇帝がしばしば神殿を訪れるようになっていたのが、
言われて見ればすこし気になった。
いや皇帝だけではない、もう一人、
クレアンドロスの後釜についた近衛軍団の長官エミリウスも、
皇帝と競うように神殿を訪れ、そのたびにリディアは巫女の家で華やかな宴を設けていた。
女官たちは、リディア様は退官する前に神殿の蓄えを全部使ってしまうつもりらしいと、
影で話していた。

その頃皇帝は、民衆に殺されたクレアンドロスのかわりに、
三人の側近たちに頼って政治を行っているともっぱらの噂だった。
三人とは、愛妾のマルチア、
その夫でクレアンドロスの代わりに皇帝の寝所づきの召使となった男、
そして新たな近衛軍団の長官エミリウスだ。

エミリウスと皇帝が入り浸るのが度重なると、
たまには巫女の家で皇帝が政務を行うようなこともあった。
その場に、いつのまにかリディアが同席している。

様子をうかがっていると、
やがて宴のあと、皇帝がそのままリディアの部屋に泊まっていくことがあるのに気づいた。
あるいは朝こっそり帰っていく姿は、エミリウスだった。

注文した布地を届けに来たマロにそのことを話すと、
『まあ、たいしたもんだわ、あの女』 と感心したように言う。
『皇帝が急に信心深くなったって、みんな不思議がってたのよ。
退官した後も皇帝の愛妾におさまれば、
リディアには今よりもすごい権力が手に入るってわけね』
『でもなんでエミリウスもなの?』
『そりゃ万一のときのためよ』
『万一のとき?』
『近衛軍団の長官は、首都ローマでは皇帝に次ぐ権力をもっているんだもの。
ひょっとすると今の皇帝より頼りになるかもしれない。
それにしてもケイディア、あんた、
こんな話しをよく眉ひとつ動かさずに平気でしゃべれるわね』

『えっ? 
だって…』 私は口ごもった。
あらためてそう言われるまで気付かなかったが、
確かにすこし前の私には想像もつかないことだった。
マルケルス劇場の宴会で、呆然とするばかりだったあの頃から、
半年ほどしかたっていないというのに。

『どうやらしっかり免疫がついてたみたいね』
『どういうこと? 
それって劇場の宴会のこと?』 即座にあの夜のことが甦った。
『そうよ。 考えてもみなさい。
もしいきなりこんなことを知ったら、あんたどうした?』

『どうしたって言われても… とても信じられなかったでしょうね』
『信じられないものを、人は見ようとしないものよ。
だからあんたには何も見えなかったかも。
それで知らずに巻き込まれたら…』

『巻き込まれる?』
『そうよ、そうしたらただ流されるだけ、飲み込まれるだけでしょうね』

『でもよくわからないわ… 
私に免疫をつけるためって?』 

ははは、とマロは笑った。
『ジェイウスには口止めされてたけど、私いつかあんたに教えようと思ってたの。
変だと思わなかった?
なぜジェイウスがあんたをあんなところにつれてきたのか。

普通男があういうところに女を連れ込むのはね、一緒に楽しむためよ。
ところがあのときのジェイウスは、
本番直前に芝居の仕上がり具合を見る舞台監督みたいだった。
実は私たち事前にジェイウスに言い含められていたの。
無礼講でやってくれ、ただし連れてくる女にはそれを見せるだけにしたいと』

あまりのことに、わたしはしばらく口をきけなかった。
なんですって? 私に見せるためにですって? 
すべてはジェイウスが仕組んだことだったのね。
それなのに私ったら何も知らずに…

『どうしたのよ、ケイディア。真っ赤な顔をしちゃって』
『く、悔しいのよ。
ひどいじゃない。いくら免疫をつけるったって、黙ってやることないでしょう。
なによ、私の気持ちなんてなんにも考えずに、ひどいわ』

『おやまあ、じゃ前もって話したらありがたがって一緒に来た? 
面白そうだって思った?
ジェイウスはね、何の危険もないところで、
あんたにああいう世界を見せたかったのよ』
『何のために?』
『そんなことは考えればわかるでしょう。
オスティアで大事に育てられたあんたが、どこよりも一番禁忌が大きくて、
それゆえに一番それを犯すエネルギーが大きい、閉ざされた世界に放りこまれるんだ。
だけどね、いくら巨大な権力の中心にいようと、人間はみんないっしょなのよ』

『ジェイウスは不感症じゃなかったの?』
そのうち違うと証明するとは言ったが、
あのときのジェイウスの様子に、もしやと思っていたことを私は口にした。

『違うわよ。
ジェイウスはストア派の哲学に心酔してるけど、
でもけっしてストイックなだけじゃない。
不感症どころか、エピキュロス派(エピキュリアン)の言うことももっともと思ってる、
そういうバランスのとれた男よ。
それは私が保証してあげる』

『どうしてマロが保証出来るのよ?』
思わず私は大声を出した。
『ケイディア、落ち着いて。そういう意味じゃないよ』

私の気持ちはなかなか納まりがつかなかったが、
ジェイウスがどれほど私を思ってくれているか、そのことだけは身に染みて感じられた。
その思いが、今もマロを私の傍にこうして送り込んでくれる…

しかしさらに強く私の心に残ったのは、マロが帰り際に言った言葉だ。

『ジェイウスはね、日照り続きの真夏の日に、
雨が降り止まない秋に備えて堤防を修理できる男よ。
そのための設計図をひそかに描き、人を動かすシナリオまで書ける。
私の知っている中で、ジェイウスほどの男はいない。
あの若さで、誰に教えてもらったのでもなく、誰の指図も受けずにそれをやっている。
私はね、そのシナリオがどうなっていくのか、傍で見られるだけでも幸せだわ』
マロはそう言ったのだった。

その言葉に感じ入った私は、ひとつのことを聞き忘れた。
リディアとのことはどうなの?
リディアはジェイウスをあきらめたの、と。

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