vai

 

石の記憶 XⅥ  --From Roma ⑫

 

stone_title.jpg




XⅥ  --From Roma ⑫




翌日、嫁入りの支度のためと、私はマロを呼びつけた。

入ってきたマロが、私を見るなり言う。
『あんた、大丈夫?』
『大丈夫じゃない、大丈夫であるわけがないでしょう。』
私は思わずマロにすがりついた。
『助けてマロ。このままじゃ私エミリウス様と結婚させられてしまう。
ジェイウスは何と? 何と言っているの?』

『結婚をリディアの退官後まで引き伸ばすしかないって。今が正念場よ。
あと少し、耐えるのよ、ケイディア。』
『でも…。』
『とにかく、今まで耐えてきたのよ。あんただけじゃない、
ジェイウスだってどれほど苦しんできたか。
ここで踏ん張らなければ、あの日々が無駄になる。
私も、衣装の支度が整わないとか、東方からの荷がとどかないとか、
精一杯の援護射撃をするわ。
そのあとのことはジェイウスと私にまかせて。なんとかするから。
だからがんばんなさい。』

『わかったわ。でもひとつだけ教えて。
ジェイウスとリディア様のこと。私はジェイウスを信じていいのよね。』
バカね、とマロが私を優しく抱きしめた。
『あのオデュッセイスの芝居を忘れたの?
ジェイウスがどんなに才能のある役者か、あんたよく知っているでしょう。』

そうしてひと月ほどが過ぎた。
私の結婚の準備は、マロが手を回してくれたせいか遅遅として進まなかった。
全てはジェイウスが書いたシナリオ通りに進んでいるかに見えた。
あと三ヶ月… 私は祈るような気持ちで日々を過ごしていたが、
そんな私の様子を伺うようにしていたリディアが、次第に苛立ちを隠さなくなった。

ある日、呼ばれて客間に赴くと、長官エミリウスだけが私を迎えた。
同時に、背後で閉ざされたドアに、外から鍵がかけられる音がした。

『ケイディア、ここにお座り。』 エミリウスが言う。
『そう怖がることはない、何もひと月後には自分の妻になるおまえを、
とって食おうというわけではないよ。』
高まる胸の鼓動を抑え、私は必死に考えを巡らせた。

この状況でへたにさからうのはまずい。
道はひとつ、懐柔策しかない。

『エミリウス様、なぜこのようなことを?』
『はは、何も我慢がきかないのは若者だけではない。
むしろ残された時間が短い者ほど、先を急ぐこともあるのだよ。
可愛いお前を早く自分のものにしたくなった。』

『私こそ、逃げも隠れもいたしません。
なのに何もおっしゃらずにいきなり呼びつけ、しかも鍵をかける必要がどこに?』
『そうさな、少し大人げなかったかな。気を悪くするな。』
『とんでもない、これほどまでに私を思ってくれるお気持ち、嬉しく思います。
でもまずは美酒で喉を潤し、甘い果物で空腹を満たすというのはいかがでしょうか。』

よしわかった、とエミリウスは好色な笑みを満面に浮かべ、手をたたいて奴隷を呼びつけ、
二人だけの卓の準備を命じた。
ふんだんに運ばれた酒を次々に注ぐと、エミリウスは上機嫌でそれを飲み乾していく。
負けず劣らず、私も杯を重ねた。
面白おかしい小話を、思いつくかぎり語り続けた。
酔いにまかせて、甘えた素振りもして見せた。

やがて朦朧とした目で、エミリウスが言った。
『そろそろお前も我慢の限界だろう。私もだ、さあ…』
しかし立ち上がったとたんに足がふらつき、また寝椅子に腰をおろしてしまった。
『おっと、少し飲みすぎたかな。』
その一瞬を逃さずに、私は言った。

『エミリウス様、お願いがございます。
私も結婚が待ち遠しい。
けれどもこの神聖な巫女の家であなたの腕に抱かれるのは、
どうしても恐ろしくてなりません。
オスティアの両親にも、くれぐれも身を清く保つようにと言い含められております。
最後までこの仕事を無事に勤め上げて後に、晴れてあなたのもとに参りとうございます。
そうでなければ、一生私は後悔し続けることでしょう。』

ふむ、と酔った息を吐きながらエミリウスは私を見た。
『いいだろう、お前の気持ちもわからないではない。
それに酔ってしたことを、明日なにも覚えていないのでは面白くないしな。
しかし何もそう堅苦しく考えることもあるまい。
どうしてもここがいやと言うなら、今度私の家においで。
休暇は私から願い出ておくから。』
そう言うとエミリウスは、おまえも休みなさいと、ようやく私を解放したのだった。

自室に戻ると一気に酔いがさめた。
押さえていた震えがわなわなと全身に広っていく。
その震えがおさまると、ひとまずは助かったという思いに力が抜け、ベッドに座りこんだ。
やがて茫漠とした思考の底から、エミリウスの最後の言葉が浮かび上がった。

その言葉はすぐに現実のものとなって私を襲った。
翌日、3日の休暇が申し渡された。
同時に、エミリウスから迎えの輿を差し向けるとの手紙も届く。

あわてて私は、ちょうど今日から月のものが始まったので、
しばらく待って欲しいと返事を書いた。
しかし次にこの手はつかえない。
頃合を見計らって、同じことが繰り返されるだろう。
その時はどうしたらいいのか。
どれほど考えても、その時を逃れる手立ては思いつかなかった。
いよいよこれまでなのか…
思い余って、私はマロを呼んだ。

やってきたマロはことの次第を聞くと、やれやれと溜め息をついた。
『しょうがない、最悪の場合はあんたも覚悟しなさい。
一回や二回、減るもんじゃないんだから。』
『冗談じゃないわ、他人事だと思って。』 私は声を荒げた。
『まあまあ、冷静になんなよ。
それくらいの気持ちでいろってことよ。
こればっかりは私でも身代わりになれないからね。』

『ええ、わかってる。
でもお願い、その前に一度だけジェイウスに会わせて。』
思いつめた私の表情をみて心を動かされたのか、マロが答えた。

『わかった。できるだけのことをしてあげる。
でもね、かなり危ない橋だってこと、承知していてちょうだいね。
あんただけじゃない、ジェイウスにとっても危険なことになるかもしれない。』
『ええ、いいわ。
どういうことになろうとも、なんとしても私ジェイウスに会わなければ、
この先に一歩も進めない。』

その二日後、月のもののためかことのほか気がふさぐので、
気晴らしに婚礼のための装身具を市場に見に行きたいと、私は申し出た。
今回も奴隷が付き添ってきた。
マロの店で、しばらくあれこれ商品を眺めた後、私は奴隷に言った。
久しぶりに叔母の顔をみたいのでチェリオの丘に行って来たい。
ほんの数時間で良いのだと。
私は少しまとまった金をその手に握らせた。
その間お前は市場で美味しい物を食べてもいいし、
この金で好きなものを買ってもいいと。
そしてまたここに戻ってくる頃には、私も同じように戻っているからと。

奴隷が出て行くと、マロが私をすぐさま例の館に連れて行った。
ジェイウスが私を待つ館へと。

門をくぐると、私は奥の部屋まで一気に走った。
時間がない、その思いにせかされ、考えるより先に体が動く。
ジェイウスを見ると、彼の首にかじりついた。

ジェイウス、ああ、ジェイウス…

唇を重ねながらも、もどかしく私は服をはぎとった。
ジェイウスも着ているものを脱ぎ捨てていく。
裸になった私たちはもつれるように寝台に倒れこんだ。

言葉はほとんど交わさなかった。
私はすでに欲情していた。ジェイウスも同じだった。
そのまますぐに一つになった。
それだけが望みだった。一つになり、決して離れないでいること…。
彼に動かないで欲しかった。終わりを迎えたくなかったから。
けれども自分の体が、勝手に動いてしまう。
体が、勝手に感じてしまう。

もっと、もっと、もっと…
ああ、だめ、ジェイウスそんなに激しく動いてはだめ…
そんなふうに私を躍らせてはだめ、
ジェイウス、だめよ、私を歌わせてはだめ…
お願い、やめて…

しかしジェイウスはやめなかった。
私も、やめなかった。
しびれるような絶頂が降りてきた。しのび泣くような声とともに私は果てた…
いや、本当に私は泣いていた。
ほほを濡らす涙で、初めて私は自分が泣いていたことを知った。

『ケイディア、僕を許してくれ。
こんなに君を苦しめている、僕を許してくれ。
君だけを愛しているのに、愛する人を僕は泣かせることしかできない…』

私は首を横に振った。
彼にやさしく口づけた。
『いいのよ、私は幸せだわ。
私は愛する人の愛を、こうして自分のものにすることができる。
愛して、もっと愛して。このまま死んでもいいくらいに、私を愛して…』

口づけたまま、抱き合ったまま、寝台に起き上がると、
彼が私の腰に手を掛け、膝の上に乗せた。
さっき果てたばかりなのに、私たちは二人とも、もう相手が欲しかった。
彼が私の腰を抱えたまま、一気に貫いた。
突き上げられ、深く埋め込まれ、揺すぶられた。
自分の腰が勝手に動く。ああ、もう止められない。

これが私だろうか。
これほど激しくジェイウスを求めている、これが私だろうか。
ジェイウスが、私をこのように造ったのか。

やっと私も、劇場の楽屋で重なり合っていた、男と女のようになったのだろうか。
それとも今しかないと相手を求める獣に、なってしまったのだろうか…


『いいかい、ケイディア、言う通りにできるね。僕を信じて。』
『ええ、信じているわ。』
『婚礼は、リディアの退官後になるようにマロが動いている。
そして君は婚礼の直前に病気になるんだ。
マロが君に病気の化粧を施せるように、タイミングを計ってやつを呼べ。
診断を下してくれる医者は既に手配した。
ペストかもしれないとなれば、結婚はすぐに破談になるだろう。
オスティアに帰ったことにして、君はしばらくここに隠れていればいい。』

『あなたは?』
『叔父の家でしばらくは様子をうかがう。
前にも言ったように、リディアの動きが政情を不安定にさせる可能性がある。
それだけは避けなければならない。
僕は状況が落ち着いたら按察官の職を辞すよ。
そうしたら二人でエジプトかギリシャに渡ろう。』
『でもリディア様があなたを離すかしら?』

『秘策がある。』
『えっ?』
『マリウスだ。いくら退官後とはいえ、男との密通を暴かれたくはあるまい。
たとえ生き埋めの刑を免れたとしても、皇帝の愛妾の座にはつけなくなる。』
『でもマロが危険な目にあうんじゃ…』
『大丈夫だよ。マリウスなんて男は、どこにもいない。
僕とマロが造り上げた、架空の男なんだから…』

エミリウスとの婚礼を避ける方法をジェイウスの口から直接聞けたことで、
私は落ち着きを取り戻した。
シナリオは完璧だと、私は思った。

 ←読んだらクリックしてください。
このページのトップへ