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石の記憶 VⅦ  --From Roma ⑬

 

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VⅦ  --From Roma ⑬




ジェイウスに会い、私は落ち着きを取り戻した。
約束の通り、婚礼の日取りはリディアの退官の日のさらに1週間後に引き伸ばされた。
エミリウスからの誘いは、婚礼の準備で忙しいことや、
ファウスティーナの教育のことなどを理由に、
やんわりと断り続けた。

退官後の準備に忙殺されるようになっていたリディアは、
ありがたいことに私の婚礼にはあまり注意を払わなくなっていた。
皇帝がパラティーノのドムス(私邸)に接するように、
リディアのために建設させていた館が完成し、
家具調度の注文やら、新たに雇い入れる召使いの選任などに余念がなかったのだ。

もはや皇帝もリディアも、自分たちの関係を世間に隠そうともしなかった。
そのことが、側近の力の均衡が崩れる速度を加速させることになる。
招いた結果は、誰も予想していないものだった…
いや一人、ジェイウスだけはある程度の危惧を抱いてはいた。
力のアンバランスを避けるために、リディアの傍らでなにかと心を砕いてもいた。
しかしヤドリギが絡みついた木を倒そうとするとは、
さすがのジェイウスも想像すらしなかったのだ。

冬の寒さに厳しさが増したある夜半のこと、家の扉をたたく音に、私は目を覚ました。
その音が尋常ではない。
訪れたのはジェイウスとアレクシウだった。
驚いたことに二人とも軍装で、剣を帯びている。
すぐに巫女と女官が一室に集められた。

『何事ですか。
ジェイウス、こちらは?』 リディアも厳しい顔で問いただす。
『僕の友人で、近衛軍団の小隊長アレクシウスです。
さきほど首都ローマに戒厳令が敷かれました。
エミリウス様の命により、今から市中の安全が確保されるまで、
彼が神殿と巫女の家の警護にあたります。
リディア様をはじめここにいる方は全員、彼の指示に従っていただきたい』

『アレクシウスとやら、どういうことなの。説明してちょうだい』
『リディア様、落ち着いて聞いてください。
皇帝が… 暗殺されました』

『なんですって!ばかなことを言わないでよ。そんなことあるはずないわ!』
リディアはその言葉を、即座に否定した。
リディアだけではない、誰もが悪い冗談ではないかと、顔を見合わせる。
しかしアレクシウスの後ろに控えている近衛兵の一群が、
これが冗談などではないことを語っていた。
驚愕と恐怖のおののきが、やがて部屋を覆っていったが、
なかでもリディアの受けた衝撃は大きかった。
夜着の上にはおった毛のストールが肩からすべり落ちるのも気づかずに、
呆然として立ち尽くしている。
『うそだわ。なにかの間違いよ』 リディアが力のない声でつぶやく。

『リディア様、うそでも間違いでもない。
数時間前のことです。あなたと愛妾の座を争うことにいやけがさしたんでしょう』
アレクシウスが落ち着き払って言う。

『マルチアなの?』
『そうです。あの二人が首謀者で、入浴中の皇帝を…』
あぁ、と小さな声を漏らすと、リディアが崩れ折れそうになった。
それをジェイウスが支え、椅子に座らせる。
リディアがすがるように泳がせた手を、ジェイウスが握った。

こんなときこそ、神殿の火を守らねばならない。
本来ならリディアが率先してことに当たらなければならないのだが、
彼女は茫然自失の態で動こうともしない。

ジェイウスが口を開いた。
『巫女の半数は、神殿でのお勤めに当たってください。力を合わせて火を守るんです。
警護には、通常の警備兵に加え、アレクシウス以下の近衛兵があたります』

アレクシウスが後を引き取る。
『この家の外にも半数の兵を配します。
私は神殿とこの家の両方を見張れるよう、通りに出ています。
長官からなにか言ってきたらすぐに知らせますから、決して家から出ないように。
ジェイウス、あとは頼んだぞ』

お勤めは年長の巫女が当たることになり、
残りは自室に戻っても良いとジェイウスに言い渡されたが、
その部屋を動く者は一人もいない。
私はジェイウスのもとに行きたかった。
彼のぬくもりに触れたかったが、リディアはジェイウスの手を握ったまま、
彼を傍らから離さなかった。

今どうあっても避けなければならないのは首都の混乱であり、
皇帝の座をめぐっての争いである。
皇帝暗殺の報が町に流れれば、必ずや不穏な動きが出てくるだろう。
まだ31歳のコモドゥス帝には後を継ぐような息子もおらず、後継者の指名もしていなかった。
皇帝の座の空白が長引けば長引くほど収拾は困難となり、
ひいては帝国全体の崩れにもつながっていく…
大至急次期皇帝を選出する必要があった。

『ジェイウス、エミリウスはなんと?』
『長官は次期皇帝として、ローマの首都長官ぺルティナクスを説得しています。
彼が受けてくれれば、おそらく事態はすぐに収まるはず』
『元老院と市民集会は?』

『その件では僕の叔父と、部下が動いています』
『私のことは?』
『リディア様、長官はとても心配しておいでで、実は言づてを頼まれております。
気をしっかり持つように。このあとのことは心配しなくてよい。
自分が悪いようにはしないから、と』
ジェイウスのその言葉を聞いて、リディアは少し安心したようだった。

長い夜が、さしたる混乱もなく明けた。

誰も予想していなかったにしては、エミリウスの動きは素早かった。
夜明けとともに、説得に応じたぺルティナクスが皇帝の名乗りを上げる。
それは、フォロの元老院議場に招集された議員たちの、
誰一人として意義をさし挟めないほど見事な皇帝就任劇だった。
市民集会もただちに新皇帝を承認する。

しかしその日から、皇帝をめぐっての力関係は一変した。
ぺルティナクスは側近を必要としなかったのだ。
エミリウスに恩義は感じていただろうが、彼がまず第一に考えたのは、元老院のウケだった。

コモドゥス帝が建設させたリディアの新居は、
エミリウスの口ぞえもあったためにそのまま与えられることになったが、
リディアも退官後はただの巫女の隠居生活を送るしかないだろう。
私とエミリウスとの婚礼は、新皇帝が広く辺境の軍団にまで受け入れられ、
政情が安定するまで延期されることになった。

新皇帝の就任後の、あわただしくも清々した町の空気に、私は明るい気持ちになっていた。
このままリディアが退官すれば、全てはうまく行くだろう、と。
もしかしたら婚礼を避けるための芝居すら、必要ないかもしれない、と。

ジェイウスは新皇帝の就任パレードや祝いの剣闘士試合の開催などで忙しく、
ほとんどの仕事を皇帝のドムスに赴いて行っていた。
リディアが呼びつけても巫女の家に来ないこともある。
実際に多忙だったのだろうが、そんな夜のリディアは荒れた。
ヒステリーを恐れて、女官たちはひたすらリディアが酔いつぶれるまで酒を飲ませた。

やがてリディアは、巫女の仕事だけは変わりなく勤めてはいたが、
それ以外の時間は酒を飲んで過ごすようになっていた。
その席でいつも相手をするのは、近衛軍団の長官エミリウスだ。
彼は相変わらず私との婚礼を望んでおり、私もよく彼らの酒の席に連なった。

もうすぐ妻になると思っているためか、
エミリウスは私がいても政務の話を隠さなくなっており、
新皇帝ペルティナクスが自分をないがしろにしていると、グチを漏らすこともあった。
元老院にばかり好い顔をして、皇帝就任の恩を忘れてしまった、と。
そんな話になると、なぜかリディアの目が活き活きと輝く。

ある夜、リディアが、エミリウスこそ皇帝になるべきだ、と言い出した。
さすがにエミリウスが私のことを気にする素振りをみせたので、
空になった酒の瓶を手に、私はさりげなく部屋を出た。

ドアを気づかれないほどの隙間をのこして閉め、聞き耳をたてる。

『やっぱりあなたが皇帝になるべきよ。
ずっとコモドゥス帝に代わって政務を行ってきたのはあなたなんだもの』
『俺は皇帝になりたいわけじゃない。あんな割の合わない仕事はないからな』
『そうかしら。皇帝になれば、全てはあなたの思うがままよ』
『それはそうだが…』

『なにを怖れているの?
それともご自分が皇帝の器ではないと、思っていらっしゃるの?』
『まさか、このオレが怖れるものなどなにもない。
皇帝の器でなかったのはオレではなく、コモドゥス帝だ』
『それなら、あんな年寄りで意気地のないペルティナクスに軽んじられて、
黙っていることはないでしょう』
『しかし、ついこの間皇帝に就任したばかりだぞ』
『だからいいのよ。権力の座が安定してしまってからでは遅い。
今なら近衛軍団の兵士たちを扇動すれば…』

以前、ジェイウスが私とマロ、そしてアレクシウスを前に語った言葉が思い出された。
近衛軍団を扇動するような動きが出てきたら、要注意だ、と。

リディアが、巻き返しを図ろうとしている…
最後の切り札を切ろうとしている…
しかし、次の皇帝入れ替え劇もこれほどスムースに運ぶとは思えない。
そうなると…

私はことの次第をマロに書き送った。
ジェイウスに知らせてくれるように、と。


    ****    ****    ****



●史実2
192年 12月31日 コモドゥス帝、愛妾のマルチアとその夫、レスリング教師の三人によって暗殺される。
     暗殺の理由は不明。
193年 元旦 近衛軍団長官エミリウス、ペルティナクスに次期皇帝就任を要請。
     ペルティナクス、元老院の賛同を得て皇帝となる。

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