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石の記憶 XⅧ  --From Roma ⑭

 

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XⅧ  --From Roma ⑭




マロの計らいでジェイウスに会った日、
私が良かれと思ってした小さな事から、事態は思いもかけない展開をたどることになった。
あのとき奴隷に渡す金を少し多めにしたことが、こんなおそろしい結果を招くとは…

奴隷は市場で、貴婦人が持つような美しい腕輪を買った。
こっそり身につけていたのを女官に見咎められ、いきさつを白状した。
そのことはただちにリディアに報告され、私に疑いを抱いたリディアは、
大金をばらまいて真相をさぐった。
やがて私とジェイウスのことを探り当てた。
疑いが確証に変り、追い詰められたリディアの、それが本当に最後の切り札だった。
これらのことを、私はその日訪ねてきたアレクシウスから聞くことになる。
リディアの退官まであと二日を残す日のことだった。

アレクシウスは、私宛の長官エミリウスの緊急の手紙を携えて来たのだと、
そしてすぐに返事を持ち帰らなければいけないと、女官たちを前に告げた。
内密のことなのだと、人払いを求めた。

『やあ、ケイディア。元気かい?』
沈んだその声には、アレクシウス持ち前の快活さが微塵もない。
『あなたこそ、元気なの?』 憔悴した横顔が気がかりだった。
『お互いに絶好調というわけではなさそうだな』 
冗談めかして言うその声も、いつもの声ではない。
新皇帝の下での軍務がそれほど過酷なのか。
それとも私がマロに書き送ったことと関係でもあるのか。

気になっていたことを私は聞いた。
『この前マロに手紙を書いたんだけど…』
『ああ、ジェイウスから聞かされたよ。俺もできるだけのことをしている。
だが、なかなか思うように行かない。相手は長官だ。
このままだと近衛軍団全体が皇帝に対する不満分子になる…
本当にあいつの予想通りになりそうだ』

『じゃあエミリウス様は皇帝の座を?』
『いや、リディアはそれを望んでいるようだが、長官は本心では皇帝になりたくないんだ。
誰が意のままに動くか、それを計っている』
『リディア様は面白くないでしょうね』
『リディアの今度の動きは、それもあってのことだろう。
エミリウスがいまひとつ乗ってこないので、
権力を手に入れることはあきらめたのかもしれない。
しかし一つだけ、どうしてもあきらめられないものがある…』

『どういうこと? 今度の動きって? それより長官からの手紙は?』
『手紙はない』
『えっ?』 
『手紙は口実だ』
『・・・・・・?』 アレクシウスが何を言いたいのか、わからなかった。

険しい目で、アレクシウスが私を見た。
『ケイディア、よく聞くんだ。
おまえたちに残された時間はわずかだ』
思いつめたその眼差しに、私は黙った。

『おまえとジェイウスのことがリディアに知れた』
『なんですって?』
『それでリディアが、とんでもないことを仕出かそうとしている。
自分とジェイウスが交わったと、巫女の禁を犯したと…』

『まさか、まさかそんなことあるはずないわ。何かの間違いよ』
『ああ、濡れ衣だ』
『濡れ衣って、どういうことなの、アレクシウス、あなた何を言っているの』
頭の中は混乱の極みで、ただ恐ろしい黒々とした闇が、私を誘うように渦を巻き、
飲み込もうとしていた。
そこにリディアの高笑いが重なる。

『落ち着け、ケイディア。
取り乱している時間はない』

『アレクシウス、ジェイウスはどうなるの?』
『明日の朝このことが明るみにでることになっている。
ただちに近衛兵の追っ手が差し向けられ、捕らえられれば、
ジェイウスは即座にフォロの衆人観衆の中、鞭打ち死罪の刑に処せられる』
ああ… あまりのことに私は意識が薄れかかった。
アレクシウスが私の体を支える。

『それだけじゃない、ケイディア、君もだ』
『えっ? 私が?』
『そうだ、リディアが捕らえられ、生き埋めの刑にと閉じ込められた後、
君とリディアが入れ替えられる。
その後、長官が事の次第を調べたらジェイウスの相手は君だったと判明する。
巫女の名誉は復権し、リディアは平穏な引退生活に入る。
君も牢から出されるが、それは長官のものになるという条件でだ。
もちろんジェイウスの名誉も復権するだろうが、
そのころすでにあいつはこの世にはいない』

なんてこと、なんてことなの。
全身が激しく震えだし、歯の根が合わなかった。
高い崖から突き落とされたような絶望に、
目の前のアレクシウスすら判別できないほど視界がぼやけた。

ばしっと頬を打たれた。
『しっかりするんだ、ケイディア』
アレクシウスに肩をつかまれ、揺すぶられたて、ようやく私は我にかえった。

『アレクシウス… ジェイウスを助けて…』 
私は、やっとのことでのどから言葉を絞り出した。
『ああ、わかっている。
オレの首が飛ぶかもしれんが、オレとあいつの友情にかけて、あいつを助けてやるよ。
今頃マロが飛び回っているはずだ。
船の用意が出来次第、ジェイウスをオスティアからギリシャに逃がす。
ケイディア、今日一日が勝負だ。
君はリディアの疑いを招くようなことは絶対するなよ。
なんとか密航を引き受けてくれる船を見つけるためにも、
限られた時間をこれ以上短くするようなことがあってはならない。
今夜半にマロが君を迎えに来る。君もジェイウスといっしょに逃げるんだ』

やっとアレクシウスが私に伝えたいことが飲み込めた。
『ありがとう、アレクシウス。ご恩は一生忘れないわ』
『その言葉は逃げおおせたら言ってくれ。その時はたんまり礼をもらうよ』
『ありがとう。でもあなたよく私を…』
『ケイディア、君を手放すのに、長官とジェイウスとどちらがいいか、
考えるまでもないだろう。
ジェイウスだったら、あとでやつから君を取り返すこともできるからな』
そういうとアレクシウスは、笑っているつもりなのか、唇の端をゆがめて見せた。

『実を言えば、あいつの気もちを、オレはずっと前から知っていたんだ。
子供の頃から、あいつは君のことを思っていた。
もしもっと早くに君をあいつのもとに行かせていたいたら、
こんなことにはならなかったかもしれない…』
『アレクシウス…』
私も笑ったが、やはり顔がゆがんだだけだった。

くれぐれも気をつけろとアレクシウスは言った。
もしジェイウスが逃げたと知れたら、首都ローマは戒厳状態になる。
近衛兵1万が出兵する前になんとしても君もローマをでるんだ、と。

一人になり、私は大きく何度か息をついた。
目を閉じ、冷静になるのよ、と自分に言い聞かせながら考え続けた。
私が他にできることはないのか。ただ夜半に抜け出すだけで、
私たちは無事に逃げることができるのか。

やがて私は、万一のとき追っ手の矛先を他に向けさせる方法が一つだけあることに、
思い至った。
もはや迷うことは何もなかった。
全てうまくいきますようにと、神に祈った。
ヴェスタの神に、祈った。

その日の午後は、ありったけの力を振り絞って仕事をこなした。
巫女の家では、いつもと変わらない一日が進んでいく。
背後で恐ろしい計画がめぐらされているとはとても信じられなかった。
私はファウスティーナと勉強をし、奴隷たちに家の仕事の指図をし、
女官たちと冗談を言い合った。
リディアは、何事もないような素振りで、いや、こころもち楽しそうな様子で皆に対していた。

夕方、ジェイウスがやってきた。リディアが呼びつけたのだ。
計画を遂行する前に、ジェイウスとの甘い時間を過ごしたかったのか。
それとも最後にジェイウスのすべてを、本当に自分のものにしたかったのか。

今宵だけは、宴席に呼ばれたくなかった。
これまでと同じように平静を装う自信がなかった。
不用意な言葉を発するのではないか、おびえた視線を泳がせてしまうのではないか、
いや何より恐怖で身がすくんでしまって、
からだを動かすことすらできないのではないか・・・

しかし願いもむなしく、リディアからのお呼びがかかった。

私が客間に入っていくと、
やあ、ケイディア、元気でしたか? と珍しくジェイウスが声をかけてくれた。

『政情も落ち着いてきたので、エミリウス様との婚礼もそろそろでしょうか。
なにかと準備が大変なのでは? でもきっとその準備も楽しいことでしょうね』
そう言ってジェイウスが微笑んだ。
まるで旅立つ人に準備が整ったのかと訊ねるように、
そして、旅は準備しているときが一番楽しいですね、とでも言うかのように。

緊張が、ジェイウスの微笑みでほぐれていった。
彼が言外に込めた意味がわかった。それにも答えねばならない。
『ジェイウス、からかわないでください。
結婚はあまりに突然だったので、まだなにがなんだか。
でも準備はすっかり整っていますから、いつでも大丈夫です』

『あら、ケイディア、おまえ嫌がっているのかと思っていたわ』
リディアが口を挟んだ。
『あんなにエミリウスが家に来てくれというのを、ずるずる断って…』

リディアとジェイウスが並んで席につき、私は二人の正面に座った。
真正面からリディアが私を見る。

『いえ、そんなことは。
ただ時間があまりになくて。
ファウスティーナのことも気がかりですし』
『エミリウスはおまえとここに泊まっていったこともあったから、
なにを今更遠慮しているのかと』

かっと頬が熱くなった。
私たちの間に打ち込まれたリディアのその言葉は、
まるで一枚の板を割る楔のように思えた。

しかしジェイウスは少しも動じることなく、面白そうに笑い声をたてた。
『リディア様もお人が悪い。
ほら、ケイディアが恥ずかしがっているじゃありませんか。
そういうことはあまりあけすけにおっしゃらないほうがよろしいのでは?』

『あら、ごめんなさい。
この歳になると、もう物事を真綿でくるんだように言うのはうんざりなのよ』
『歳ですって?とんでもない。リディア様は永遠に歳などとられませんよ。
姿かたちが若い者は気持ちも若いと、言うではありませんか』
ジェイウスの言葉に、リディアはまんざらでもなさそうに微笑みかえした。

テーブルに料理が次々に運び込まれてくる。
以前コモドゥス帝がジェイウスを按察官に任じたときほどではなかったが、
それでも相当凝ったものだった。
ほおー、とジェイウスが賛嘆の声をあげる。
『今日も素晴しい料理ですね』

『知っているでしょう。私の任期はあと二日なのよ。
おまえをもてなすのも、今夜が最後…
せめて最後の夜は最高の料理をおまえと共に味わいたい』

最後という言葉が、ぐさぐさと私の胸を刺す。
しかしジェイウスは艶然と微笑えみ、こともなげに言ってのけた。
『なにをおっしゃいます。
晴れて巫女の任期を終えられた後は、
コモドゥス帝が建てられたパラティーノの館に引っ越されるとのこと。
私の按察官の仕事では、しばしば皇帝の下に出廷することになるでしょう。
その折には必ずご挨拶に参ります。
それともあちらにはもう私をお呼びいただけないとでも?』

リディアは、杯のワインをぐっと飲み干した。
杯を持つ手が少し震えているように見える。
『おまえにはかなわないわ。
もちろん、パラティーノには今迄と同じように出入りしてちょうだい。
新しい生活が私も楽しみだわ』

『属州勤務の軍団兵ですら任期は20年なのに、
リディア様は30年も大変な仕事を勤め上げられたのです。
退官後は、どうぞゆっくりとお休みになり、気持ちの赴くままに旅をされたり、
観劇を楽しまれたり、思う存分お好きなことをされますように。
退官のお祝いは何が良いかと考えているのですが、
なかなかこれといったものが思いつかなくて』
ジェイウスがそう言うと、リディアの瞳はうっすらと涙に覆われ、揺れ動いた。

『ジェイウス、お前の気持ちが嬉しいわ。
そう言ってくれるのなら、ひとつ私の願いを聞いてくれるかしら』
『なんなりと』

『オデュッセイスとカリュプソの、別れの時のセリフを私に言って欲しいの』

ジェイウスが黙ってリディアの前に進み、その手をとる。
リディアも立ち上がった。

ジェイウスの、深い声が部屋にひびいた。

――カリュプソ、私に黙ってこんなことを。
私の気持ちはおまえにあるのに。何故こんなことを…
愛しているよ。心から愛しているのはおまえなんだ。

静かに、ジェイウスがリディアを抱きしめた。
『ジェイウス、もう一度言って。愛していると。
リディア、おまえを愛していると、言って』
『リディア様、それは…』
 
ジェイウスは言わなかった。
彼は自分の胸に顔をうずめるリディアを、そっと、限りなくやさしく抱きしめてはいたが、
ついにその言葉を、言わなかった。

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