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石の記憶 XⅨ  --From Roma ⑮

 

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XⅨ  --From Roma ⑮




宴が終わり、ジェイウスも辞し、全員が寝室に引き取った。

まぶたにはリディアとジェイウスの悲しい抱擁が焼きついて離れない。
もし、ジェイウスが完璧に芝居を演じきっていたら…
もし、リディアを愛していると求めるままにささやいていたら…。

しかし、あれこれ考えている時間はなかった。
以前マロから渡されていた荷物を、私はほどいた。
中には市場を歩き回っている男たちが着ているような服と靴、
そして少しばかりの旅の支度。
その服を身に付け、一番上にお気に入りのドレスを羽織る。
夜半に、私ははさみを取り上げ、長い髪をばっさりと切り落とした。
頭を布で覆い、家を出た。ものかげでその布を取り、女の服を脱ぎ、
旅の荷物の中に押し込んだ。

通りも、ヴェスタの神殿も静まり返っている。
今宵神殿の火を守る役目はリディア…
入り口の前には衛兵が見張りに立ち、
ときどき神殿の裏側に回り込んではあたりを窺っている。

私は建物の影に身を潜め、様子をうかがった。

衛兵が神殿の背後に見えなくなったのを確かめ、神殿の入り口に歩み寄ろうとした。
そのとき、うしろから腕をつかまれた。
驚きに声が漏れそうになるのを、男の手が口を塞いで止め、
そのままずるずると建物の裏手までひきずられた。

『しっ、静かに。ケイディア、僕だよ』 その低い声…
見上げれば、痛ましい目で私を見るジェイウスがいた。
そっと手を伸ばして私の髪に触れるが、手はすぐに虚しく空をつかむ。

彼が私をかき抱く。
『ごめんよ、ケイディア。君をこんな目に合わせて』
強い力に抱きすくめられた。
『私は大丈夫よ。髪なんてすぐに伸びるわ。
それより私こそあなたに謝らなければ。私が不注意なばかりにこんなことになって…』

『そんなことはない。僕も甘かった。
しかし今は語り合う時間も惜しい。もしかして君も僕と同じ事をしようとしているのか?』
私はうなずいた。

ジェイウスはしばし考えこんだが、やがて私を見て言った。
『わかった。二人でやろう』

私は神殿の衛兵の前に進み出て、男の声音を作って言った。
『ヴェスタの巫女様に旅立ちの祈祷をお願いします』
『こんな時間にか? 名は? どこへ行く?』
衛兵は不審なやつとばかりに、私に質問を浴びせかけた。
『ガリアの基地の兵である兄が病気になり、薬を届けに行くのです。ここに手紙が…』
開いた荷物の上に、衛兵がかがみこむ。
その背後にジェイウスが立った。

気配を感じて振り向いた衛兵が槍を構えようとした瞬間、
ジェイウスがみぞおちめがけて拳を打ち込む。
どすっ、という鈍い音とともに、衛兵が前のめりに体を折り曲げた。
間髪を入れず、その首筋に勢いよく剣のような腕を打ち下ろす。
衛兵は声もたてずにその場に崩れ落ちた。
その衛兵を二人で建物の裏手までひきずって行き、物陰に隠す。

『リディア様、祈祷を頼みに来たものがおります。どういたしましょうか』
今度はジェイウスが、衛兵の声音を真似て声を張り上げ、
同時に私たちは向かいの建物の影に隠れた。

リディアが神殿の奥から出てきた。
きょろきょろとあたりを見回し、衛兵の名を呼ぶ。
答えがないのを不信に思ったのだろう、そのまま巫女の家に向かった。

『ケイディア、君はここで待て。もし騒ぎになって僕が戻らなかったら…』
『いやよ!私も行く。いえ、ジェイウス、私にやらせて。お願い』
『ケイディア…』
私は一歩も引かないつもりだった。一人で逃げるくらいなら、
一緒に捕らえられるほうがましだった。
それにもしものことを考えると、私がやりたかった。いや、やらねばならなかった。
ジェイウスはあきらめたのか、時間を惜しんだのか、少し考えた末に言った。

『わかった。ケイディア、じゃ、君一人でできるか?
僕が入り口を見張っている。その間に…』
私はうなずいた。
『そのかわり、約束してくれ。もしもやつらが戻ったら、僕が食い止める。
そのときは、一人でも逃げると…』 そんなことできるわけない…
しかし、私は黙ってうなずいた。

ジェイウスが、行け、と私に目で合図を送る。
今のうちに、早く…

私は神殿の中に駆け込んだ。
迷わず奥まで進み、聖なる皿の上で燃え盛る火を、濡らした皮袋で覆う。
ローマ帝国の安寧の象徴であったヴェスタの神殿の火は、空気を絶たれ、
あっけなく消えた。

巫女の家からの物音が一段と大きくなっている。
私は神殿から走り出て、入り口で待つジェイウスの腕に飛び込んだ。
手を引かれ、建物の影に隠れたと思う間もなく、
巫女の家からざわざわと人影が飛び出して来た。

リディアを筆頭に神殿に入っていく。
すぐに、リディアの悲鳴が上がった。
女官たちの叫び声が続き、おろおろと動き回る足音が響く。

闇にまぎれて神殿からなるべく遠ざかり、隠れたまま様子をうかがう。
巫女の家の中も大騒ぎになっているようだった。
家から走り出て、一目散に逃げて行く女官や奴隷もいた。

その時通りのはずれに、オスティアの商人アテネアの恰好で、
荷車を馬に引かせたマロが現れた。
ジェイウスが合図を送る。
荷車はジェイウスと私を乗せ、何事もなかったようにその場を後にした。

全速力で走る荷車で逃げながら、私の胸は突然言いようのない痛みに囚われた。
『戻って、マロ』
『何を言うのよ』
『お願い、マロ、リディア様も連れて行かなきゃ』
『バカ言うんじゃない。あんた何考えてるの』
『だって、このままじゃリディア様は…』

ジェイウスが、強く私を抱きしめた。
『ケイディア、落ち着くんだ。もう僕たちは戻れない…
リディアもきっと逃げるさ』
ジェイウスにしがみつき、荷車に揺られる私の脳裏に浮かぶのは、
一度だけ、姉のようにやさしく私を見つめた、リディアの眼差しだった。
幼い頃の私とジェイウスの話を聞き、遠い目で私たちを見た、その眼差しだった。

『ところで、なんでジェイウスもいるのよ。
あんたは一人で先に逃げるはずじゃなかったの…』
ようやく私が落ち着いた頃、マロが口を開いた。
『ちょっと事情が変った』
『成功したんでしょうね?』
『ああ、ケイディアがやった』

マロが穴の開くほど私を見つめた。
『はっ、なんてこと。ケイディア、あんたって子は』
『何よ、もっと他の言い方があるんじゃないの?すごく怖かったんだから』
はははっ、とマロが笑った『よくやった!よくやったわ、ケイディア』

チェリオの丘のふもとでジェイウスは荷車から降りた。
最後の仕事が残っていると。
『ジェイウス、一緒にこのまま逃げて』 
今ジェイウスと離れるのが、 不安でならなかった。
『大丈夫だよ。すぐに馬を走らせれば、荷車より先にオスティアに着けるから。
船で二人を待っているよ。マロ、あとは頼んだぞ』

『まかしといて。だからジェイウス、あんたも絶対に来るのよ』
『ああ、すぐ行く』

私たちはしばらく無言で馬を走らせた。
ようやく、オスティアにむかう街外れの街道に差し掛かったところで、マロが口を開いた。
『そのでかい荷物は何?』
『私の一張羅のドレス』
『それ、すぐにテヴェレ川に流そう』
『でも…』
『でもじゃない。足の付くものは持ってちゃだめ』

ところで、とマロが私の頭を見て言った。
『その頭、なかなか似合ってるけど、切り落とした髪はどうしたの?』
『えっ、髪?髪はそのまま部屋に捨ててきたわ』
それを聞くとしばしマロが考え込み、言った。
ケイディア、服を脱ぎな、と。

私たちはドレスを川に流し、オスティアへの道をたどった。
しばらく走ると近衛兵の検問所だ。

私は、夜が明ける前にどうしても街を出て、今日中にオスティアに荷を取りに行かないと、
近衛軍団長官の注文の品を約束の日までに届けられなくなると、まくしたてた。
驚いたことに、マロは長官の注文書まで用意していた。
それを見た兵士が、行け、と言ったのと、
背後から現れた兵士が待て、と言ったのが同時だった。

『今知らせが入った。
神殿の火が消えて巫女リディアと女官が一人行方不明だ。
女官は男に変装している可能性があるから疑わしい者は捕らえるようにと。
なんでも髪の毛を切り落として逃げたらしい。そいつの髪の色は黒…』

間違いなく私たちは疑われていた。
何事かとさらに数人の兵士が闇の中から現れ、完全に取り囲まれた。

『おまえ、本当に男か?』
『あ、あたりまえだろう。失礼な奴だな』
『その服をぬげ』
『いやだね』
兵士の手がのびる。
『力ずくで脱がして欲しいか』
『やめてくれ。この寒空に裸になって風邪でもひいたら、どうしてくれるんだ。
そうしたらお前が責任をとってくれるのか』
『口のへらないやつだ。おい、服を脱がせろ』

『わかったよ。おまえの手をかしな。ほら、やさしく触ってくれよ。
恋人を天国へ連れて行くようにだぞ…』
兵士はマロの股間に触れると、あわてて手をひっこめた。
『どう?これでわかったでしょ。私が男だって。
仕事を終えてローマに戻ったら、連絡してもいいかしら?
あんた私の好みのタイプよ』
まだ若い兵士の頬が、夜目にも赤く染まった。

ばらばらと、兵士たちが囲いをとく。
後ろに続く荷車から、早くしてくれと声が上がった。
若い兵士は当惑した顔を取り繕って、もういい、さっさと行け、と私たちを通してくれた。

『はっははは…』 検問から遠ざかると、突然大声でマロが笑い出した。
私も笑った。涙が出るほど笑った。
『あの兵士の顔ったら、マロってなんていじわるなの。うぶな子をからかって』
『だって可愛かったんだもん。ああ、面白かった』
『マロ、ありがとう。あなたが気転を聞かせてくれなかったらどうなっていたか…』

今になって、恐怖が襲ってきた。
『まったく切り捨てた髪をそのまま置いてくるなんて。
私は男に変装して逃げますから追っかけてくださいって、
書き置いてきたようなものよ』
『ごめんなさい。そんなこと考えもしなかった。
でも入れ替わってくれたおかげで助かったわ』
『私、何回あんたになればいいのよ。
あ、そうだ、こんどあんたになってジェイウスのベッドに…』
『マロ!』
マロがもう一度笑い出した。わたしも一緒になって笑った。
ようやく緊張がとけていくのがわかった…

『それにしてもよく注文書まで揃えたもんね』
『ああ、全部、あのアレクシウスが用意してくれた。
あいつのこと、疑うようなことを言って悪かったよ。あいつもたいしたやつだ。
ずっと長官にはりついててくれてたおかげで、今度のことがわかったんだ。
あいつがいなきゃ、あんたたちは終わりだったね』

『ええ、そしてマロがいなきゃね』
『そうよ。私のおかげでもあるのよ。あとでたっぷりお礼してもらわなきゃ』
なんだかおかしかった。誰かと同じことを言う。案外この二人はお似合いかも、と。

太陽が昇り始めたころ、オスティアの港に着いた。
両親の家に寄って親不孝を詫びたかった。
せめて母の顔だけでも遠くから覗いていきたかった。
しかしそれは叶わぬことだった。

マロにせかされて港から小船に乗り、沖の船に向かう。
船の下まで来ると、はしごが下ろされ、
それを登ると、甲板から大きな手が差し出された。
ついで、ジェイウスの顔がのぞく。
私は手をあずけ、引き上げられ、そして彼の腕に抱きしめられていた。

『ジェイウス、私、私もいるのよ』
マロも、なよなよと手を差し出す。
ジェイウスは笑ってマロの手をとり、引き寄せ、抱きしめた。
抱き合う二人に、私も抱きついた。
私たちは三人でしばらくそうして、抱き合ったままでいた。

船は朝のうちに出航するという。
それまでにもしや追っ手が迫りはしないかと、私は気が気ではなかったが、
ジェイウスもマロも少しも気にかけていない。

そんな二人の様子にようやく私もひとごこちついた気分だった。
しかし今になって、神殿の火を消したことが、自分が犯したことの恐ろしい意味が、
じわじわ這い登る不吉な影のように、私を覆い、打ちのめしていた。

『どうしたんだ、ケイディア。まだ怖いのか?もう大丈夫だよ』
ジェイウスが心配するなと、私の肩を抱き寄せた。

『ちがうのよ。もし神殿の火が消えたせいで何か悪いことが起こったら…
それは私のせいだわ…』
『ケイディア、今迄だって神殿の火は時々消えることもあったのよ。
嵐のときとか、なにかの拍子に消えてしまったり…
神殿の火はシンボルなんだから、それほど気にすることないわ』 
マロがなだめるように言う。
『でも…』

『ケイディア、そもそも君に火を消させたのは僕だ。
それに君も同じことを考えていたのなら、そのことを神に祈ったんじゃないのか?』
『ええ、ヴェスタの神様にお許しをいただいたわ』
『それなら神様が許してくれたんだと思うよ。
いや、むしろこれは神の意思なのかもしれない』
『神の意思?』
思いもかけないジェイウスの言葉だった。

『ああ、神は君がすることを黙って見守っただけじゃなく、君に手を貸したのかもしれない』
『そうよ、神様はリディアじゃなくて、きっと私たちの見方よ』
ジェイウスとマロにそう言われても、わたしの気持ちは晴れなかった。

神は知っている。
あのとき、一片の迷いもなく私を推し進めたのは、
ローマに禍が訪れようとなんだろうと、そんなことは少しもかまわない、
愛する男の命にかえたらローマなどどうなっても良いという、私の思いであることを。

私はひざまずき、神に祈った。
私の犯した過ちのつぐないは、私だけに科してください。
ローマをお守りください。
ジェイウスをお守りください。
許されるのなら、私たちが無事に逃れられるよう、お導きください。
そしてリディア様もお守りください、と。

しかし予定の時間になっても、ついに船は出港しなかった。
どうしても届かない積荷があるとのことだった。
気持ちははやったが、私たちにはどうすることもできない。

昼過ぎにようやく積荷が届いた。
しかし相当の量があるらしく、小船が何度も往復し、
積み込み作業は遅遅としてはかどらない。
その様子を見ていたマロが言った。
『ちょっとやばいな。ジェイウス、あんたも準備しときなさい。私手伝うから。
ケイディアはしっかり港を見張っていて。
もし近衛兵の姿が見えたらすぐに知らせるのよ』

マロの懸念はほどなく現実のものとなった。
港のざわめきの後ろから、数十人の近衛兵が馬に乗って現れた。
彼らは港に散らばり、あれこれ聞き込みをしているようだったが、
やがて桟橋に何艘かの小船が用意された。
その小船に分散して乗り込み、近づいてくる兵を見ながら、私は小刻みに震え始めた。
立っていられず腰をおろすと、膝ががくがくと踊るように動く。
それを手で押さえつけようとしても、その手もろとも動く震えをどうすることもできない。

{『ケイディア…』 マロが私の手に自分の手を重ねた。
『いい、あんたはオスティアの商人よ。わかったわね。
さっきみたいに、アテネアになりきるのよ』
『マロ、お願い、短剣を持たせて』
『ダメ、そんなもん持ってるのがわかったらよけい疑われる』
『なにかしっかりしたものが欲しいの。私、立っていられないくらい怖いのよ。
ジェイウスは、彼はどこに?』
『あんたは知らなくていい。
とにかく、ジェイウスの足を引張るようなことは絶対にしないのよ。
それがジェイウスを守ることになる』

ジェイウスを守る… そう言われるとすこし足に力が入るようになった。
マロが私を抱きしめてくれた。
彼が体を離すと、間もなく一人の兵士が船に上がってきた。
続いて10名ほどが乗り込み、
そのうちの一人が、何事かと甲板に集まった乗組員や奴隷を前に申し渡した。

『巫女と密通した罪人ジェイウスと、男に変装して逃亡中の女官を一人探している。
これから船内を検めるから、お前たちは全員ここを動くな。
いいな、へたなことをすると身のためにならんぞ』

数人の兵士が甲板の私たちを見張るように立ち、残りは船室に消えた。
甲板の兵士は乗組員や乗客の顔を一人一人見て回り、
二言三言、名前や素性を尋ねていく。

一人が私の前に立った。
『名は? 』
『アテネア…』 そう名乗ると、あとはすらすらと言葉が出てきた。
『オスティアの商人で、装飾品の買い付けに行くところです。
そう言えば、エミリウス様はウチのお得意さまで…』

『こっちの小僧は?』
『小僧だって?』 マロが切り返した。
『ケイウス、しっかりお答え!』 すかさず私はマロに怒声を浴びせた。
『す、すみません、僕ケイウスです』
『まったく口のききかたひとつ知らなくていやになるよ。
この子はウチの見習いでね、計算だけは得意だからやとってはみたけれど、
商人に必要な気のまわりが足りなくて。
この前のエミリウス様の注文の品だって…』

兵士は、もう良い、と他の乗客のほうに顔を向けた。
膝の力が抜けて倒れそうだった。
しかし兵士たちが船を下りるまで、なんとか持ちこたえなければならない。

船室に下りていた兵士が戻ってきて、
甲板の片隅にまとまっていた奴隷たちを取り囲んだ。
『一人づつ、名前と出身地を言え』
次々に、低い声が答えていく。
ガリアの者がいた。シリアの者がいた。アフリカの者もいた。
ウテュス、出身はギリシャです、という声が耳に入った。
ジェイウスの声だった。

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