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石の記憶 XX   --From Roma ⑯

 

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XX   --From Roma ⑯




ウテュス…
ギリシャ語で、誰でもないという意味。
オデュセイスが冒険の物語の中で、一つ目の巨人に自分の名として告げた言葉。

もしこの兵士がギリシャ神話を知っていて、この言葉の意味がわかったとしたら…
オデュセイスが洞穴から逃れるために、
巨人を欺むいて名乗った名前だと知っていたら…
あまりに大胆なジェイウスの返答に、マロも一瞬身を固くしたのがわかった。

恐怖に打ちのめされそうになりながら、目の端でその声の主を探す。

褐色の肌の半裸の男がいた。
顔は薄汚れ、短く刈り込まれたごわついた髪は真っ黒で、目だけがぎらぎらと光っている。
『変ったな名だな』兵士が立ち止まった。
『母の名は?』
頭の後ろからぞくぞくとする寒気が襲ってきた。

彼は違います! 
叫び声が、のどの奥に張り付いたままとどまった。
体が前のめりに飛び出そうとするのを、マロの腕が止めた。

そのとき、船のへりに一人の兵士が降り立った。
すると甲板上の兵士たちは一斉に敬礼の姿勢をとった。
隊長、と一人が呼びかける。
『船室には誰もいませんし、ほとんど尋問も終わりました。
この奴隷が最後です。
名はウテュスとか。変った名なので親の名前も聞いておこうかと』

隊長と呼びかけられた男が奴隷たちの一群に近づいて行く。
ウテュスか…、男はいきなり大声で笑い出した。
『まったく変った名だ。こんな名をつける親は相当変わり者だな。
しかしオレはその親の名を知っているぞ。ホメロスだ。
おまえたちガリア出身者は知らんだろうが』
男はそのまま踵をかえすとこちらに歩いてきた。

『おや、こちらはアテネア殿。
おい、みんな、この方はエミリウス長官のおかかえ商人だ。
無礼なことはしていないだろうな』
アレクシウスが、私の前に立っていた。

労りと慈愛に満ちたその目をみたとたん、
私は力が抜けて甲板の上にしゃがみこんでしまった。
『あ、女将さん、また貧血ですか? しっかり、しっかりして』 
マロの声が遠くに聞こえる。
アレクシウスがかがみこみ、大丈夫かと私の顔を覗きこんだ。
『誰か飲み物をもってきてやれ、それからオレにも水をくれ。
ずっと馬を走らせ通しで喉が渇いた』

おまえたち、と兵士に向かってアレクシウスが言う。
『ここはもう良い。
こんなところで手間取っている暇はないぞ。
別の船をあたり、それでも見つからなかったらナポリへ向かう街道へ回れ。
オレもアテネア殿に挨拶を終えたらすぐにおまえたちの後を追う』

兵士たちはやって来た時と同じように、あっさりと船から去って行った。

一人の奴隷が、酒瓶と杯を持って近づいて来る。
皆に杯を持たせ、ワインを注ぐ。

『やあ、ウテュス、おまえの武術を披露する場面がなくて残念だったな』
ウテュスと呼びかけられ、ジェイウスの顔に笑みがこぼれた。
『ああ、残念だったよ。
しかし、武術も武力も使うことなく終わるのを、事が成功したと言うんだ。
ありがとうアレクシウス』
ジェイウスが杯を掲げる。
『どうってことないさ。まあ礼がワイン一杯程度のことだからな』
アレクシウスが笑った。マロも笑った。私は泣き笑いになった。

『うまいな、このワイン。今まで飲んだ中で一番うまい』 ジェイウスも笑いながら言った。
『まったくだ。うまいワインをありがとうよ』
アレクシウスの言葉に、4人でまた声を揃えて笑った。

『神殿の火が消えたのは知っているか?』
三人が同時にうなずく。
まさか… とアレクシウスが私たちの顔を順に見回した。

その視線が私の上で止まった。
『そういうことだったのか』
見知らぬ人を眺めるような目で彼が私を見た。

『まあ、そのために近衛兵の勢がそがれたのは確かだ。
半分が首都の治安維持にまわされた。
残りの大半がリディアを追った。
こちらにお前たちを追いかけてきたのはわずかの兵だけだ。
そうでなければ、出航の遅れが命取りになっていたかもしれん』

『リディア様は?』 私は訊ねた。
『さあ、長官がかくまってでもいるのか、まだ見つかっていない』
そう言ってアレクシウスが一枚の紙片を取り出した。
『これがリディアの部屋に落ちていた』

アレクシウスは私にその紙片を渡すと、
休暇が取れたらギリシャに遊びに行くよ。
その時はたんまり礼をしてもらうからな、と言って、私たち三人を順に抱きしめた。
私に回されたアレクシウスの腕は、温かく、大きかった。
『アレクシウス…』
私は力を込めて彼を抱いた。
彼の想いが、私の体を駆け巡り、やがて静かに通りぬけて行った。

アレクシウスが去り、リディアの残した紙片を私たちは読んだ。

   ケイディア… 私を許して。
   いや違う。おまえに言いたのはこの言葉ではない。
   ケイディア、私を止めて…

   おまえが妬ましかった。
   おまえは何もかもを持っていたから。
   若さ、時間… 私に失われたもの全て、
   なにより、ジェイウスとのたくさんの記憶。

   私の30年は囚われの時間でしかなかった。
   ケイディア、それがお前にわかるだろうか。
   つぼみから花開く女の時間の全てを、ローマのために捧げた私の気持ちが。
   私の持つ記憶の、なんとおぞましく、孤独であること…

   私は神に祈った。
   生涯でただ一人愛した男を、私に与えて欲しいと。
   全てを捧げたのだ、それくらい叶えてくれてもいいだろうと。
   
   ケイディア、ジェイウスの心がお前にあることを知った時の、
   私のその苦しみがどれほどのものだったか、お前にはわかるまい。
   これが、神の答えなのか…

   私は神を呪った。
   いいだろう、ジェイウスの心はケイディアにくれてやろう、
   しかし彼の体は、あの輝かんばかりのジェイウスの肉体は、私がもらう、と。

   今、最後の宴が終わった。
   カリュプソの心に全てを託して、私はジェイウスに請うた。
   私を愛していると言ってくれと。
   しかしジェイウスはついにその言葉を口にしなかった。

   嘘でもその言葉を言ってくれれば、私はカリュプソのように、
   愛する男を手放すことができただろうに。
   愛する男の、引き裂かれた肉を欲することもなかっただろうに。

   本当にそうだろうか?
   私は知っていた。たとえ彼が愛の言葉を囁いても、その言葉は偽りにすぎないことを。
   それでもいいと、本当に私は思っていたのだろうか…
   ジェイウスは、なぜ、最後まで私をだまし通してくれなかったのか…
   そしてなぜ、あれほどやさしく私を抱きしめてくれたのか…

   今はもう、何もわからなくなってしまった。自分の心さえ。
   白濁する意識の底で、悪魔が笑う。その悪魔が私なのだろうか。

   わかっているのは明日、ジェイウスが私のものになるということだけ。
   たとえ幾千万の鞭が彼の体を切りきざもうとも、彼の体は私のものとなる。
   私は彼と共に、喜んで生き埋めにされるだろう。
   彼と共に朽ちて行くだろう…
   もはや私の望みは、それしか残っていない…

   もし、その前に神が私に罰を下すのでなければ…
   

手紙はそこで終わっていた。

『哀れな人だったな』 ジェイウスが言った。
リディアの手紙によって、一旦は収まっていた私の気持ちが、再び乱れていく。
ジェイウスの言葉に、そうねと、素直に答えることが出来ない。

『ジェイウス、リディア様は私の姉のような人だったわ』
『何を言うのよ、ケイディア。こんなにひどい仕打ちをされたのに…』 
マロが憤慨したように言う。
ジェイウスは、じっと私を見つめ、無言のうちに先をうながした。

『だって、これほどにあなたを愛していたのよ。報われないとわかっていても』
『ケイディア、報われない愛に身を焼くリディアの妹は、あんたじゃない。私よ』

『マロ、あなたの気持ち、私わかってた。
あなたがしてくれたことは、みんなジェイウスのためだって。
しかも自分の欲のためでなく。ジェイウスを得るためでなく。 
ただただ、ジェイウスのために…
だけど、わたしは違う』

『ケイディア、なに馬鹿なこと言ってるの。
あんただってジェイウスのために、神殿の火まで消して…』
『ううん、私のためよ。私がジェイウスを失いたくなかったから。リディア様と同じよ。
私、ジェイウスを得るためなら、リディア様と同じようにどんなことでもできる。
それがあの時わかったの。
リディア様は皇帝も、帝国すら、どうなろうとかまわなかった。
私も同じだったわ。
あのとき、私、本当は神殿の火が消えてローマが滅びようと、
ジェイウスさえ得られればそれで良いと、思ったの…
私たち、どこが違うと言うの…』

『ケイディア…』 ジェイウスが私を抱きしめた。
『違うよ。決定的に違う。その違いは最後の瞬間のほんのわずかなものかもしれない。
しかし、決定的に違うんだ。たとえ迷いや困難の前で痛みや悲しみに打ちのめされたとしても、
君が誤った道を選ぶことは絶対にない。
そんなことは誰よりも僕が知っている』

『そうよ、あんた、なぜ神殿の火をジェイウスに消させないで、自分で消したの?
もしもつかまった時は、ジェイウスを守りたかったからでしょう。
いえ、つかまらなくても、自分がその責を担おうと、思ったからでしょう?
あんたがやったって聞いて、私すぐにわかった。
だって私があんただったら、やっぱりそうするもの』

『マロ…』 
ジェイウスが、片手で私を抱きながら、もう一方の手でマロの肩を抱き寄せた。
私は自分の手を、ジェイウスに抱かれているマロに向かって伸ばし、彼の手を握った。
マロは何度も私を抱きしめてくれたのに、
私から彼の手を握ったのは、それが初めてだった。

『ありがとう、ジェイウス、ケイディアも…』 マロの声がすこし湿っていた。
『ケイディア、私たち三姉妹と言うことにしとこうか。ジェイウスを愛した三姉妹。どう?』
『そう… そうなのかな…』

『それからね、ケイディア、一つだけ教えてあげる。
私はね、ジェイウスのためだけに、こんなことをしているわけじゃないのよ』
『…』
『わからない? あんたも鈍いわね』
ジェイウスが私を抱く腕を放した。

目の前には私に手を握られたままの、マロだけがいた。
マロの向こうに、船のヘリに向かって歩いていくジェイウスの後ろ姿が見える。
『何よ、マロ』
私の手を、マロが引いた。
もう一方の手が私の首にかけられ、体ごと引き寄せられた。

マロの唇が近づいてくる。
『えっ? な… 』
その唇が鳥の羽のように私の唇に重なった。
『…』
マロは握っている手にも、私の首に回した手にも、少しも力を入れていない。
それなのに、私はまったく身動きが出来なかった。
目を上げると、マロの向こうに歩いていったジェイウスが、
船のへりで振り返ったのが見えた。

ジェイウスの目の中にあるのは… 私とマロ…
その目がじっと私たちを見ている… 
マロの舌は、軽く私の唇の上をさまよっていたかと思うと、
いとも簡単に歯を割って入って来る。
私は目を閉じ、ジェイウスを視界から消した。
でもジェイウスは消えなかった。
まぶたの裏側で、同じように私を見つめている…

その口づけは、夏に舌先に触れた泡雪のように私の唇を溶かし、
溶けた雪は瞬く間に甘い蜜に変った。
その蜜を、舌をからめ私たちは吸いあった。
蜜は、まるで媚薬のように私の力を奪っていく…
私、このまま気を失う… もう立っていられない…
それなのに、何故、倒れないの…
唇は同じように吸われ、貪られている。なすがままに翻弄されている…

私の体は、しっかりとジェイウスに抱かれていた。
今唇を合わせているのは、マロではなくジェイウス…

でもマロの手を、私は離してはいない。

ジェイウスの口づけは、次第に激しさを増していく…
とうに火を付けられた体の芯が、私自身を置き去りにして暴れ出そうとしている…

ぎりぎりのところで、ジェイウスが唇を離した。

私は、甲板のベンチに腰掛けたジェイウスの膝の上に、横すわりに抱かれていた。
その足元の床にはマロが座っている。
私の片手はジェイウスの首に巻きつき、もう一方の手はマロの手の中にある…

『ジェイウス… マロ… 』
私は交互に二人の男を見た。ジェイウスが柔らかく微笑んだ。
マロも、いたずらっぽい瞳で私を見た。
『わかった? 私、あんたも好きなの… ジェイウスと同じくらいに。
さっきのはあんたたちを助けたご褒美。あれくらい、いいでしょう?
でも私はもうこれで充分。私、リディアみたいに欲が深くないからね。
それに他にも恋人はいっぱいいるし。
どころでジェイウス、あんた、一度ぐらいリディアの相手してやったの?』
いきなり問いかけられたジェイウスは、否定も肯定もしない。
ジェイウスの胸にからだを預け、与えられた官能の余韻に酔いながら、
私も今それを知りたくはなかった。

しかし、もしジェイウスがリディアの一夜の夢の相手をしたのであっても、
それはそれでいいような気もしていた。
いやむしろ、そうであってくれたらとすら思った。
逃げ延びたリディアがその記憶を糧に生きていってくれるのなら、
それは良かったのではないかと、
その時私は思ったのだ。

  *** *** 

近衛兵の取調べのため、遅れていた荷物はその日のうちに積み込むことができず、
出航は更に翌日に引き伸ばされた。
しかしそのために、その夜に起こった驚くべき事件を、私たちは知った。

翌朝も港と船の間を小船が何度か往復していた。
手紙を託しにやってくる船。
まだ積み込めるとわかると、更に運ばれる食料やワイン。
船主の最終確認…
そんな小船のひとつが、そのニュースを伝えた。

皇帝ペルティナクスが暗殺された、と。
近衛軍団の不満分子が、ついに皇帝に剣を向けたのだった。
今回も近衛軍団長官エミリウスの采配で、次の皇帝が選ばれようとしているらしい。

『あら、私たち早まったかしら。面白い見世物を見逃したかも』
『マロ、冗談じゃないだろう』
『そうね、ジェイウスの心配してたことが起きたわね』

『どんな結果になるのかしら…』 ジェイウスから聞かされていた杞憂が、
にわかに現実味を帯びたものとなった。
『今回はすんなりとは行かないだろう。
エミリウスは一番御しやすい北アフリカ属州の総督を皇帝の座につかせるだろうが、
結局皇帝になるのは彼ではない』
『なんですって?じゃ誰なの?』 マロが尋ねる。
『セヴェルスだ』

『ドナウ防衛線の総督の? でもなぜブリタニア(現英国)でもシリアの総督でもないのよ?』 
『セヴェルスが誰よりも一番ローマに近いところで、この報を聞くはずだからだ。
おそらくウィーンで』
『ジェイウス、あんたこのことで動いてたのね』

『ああ、そうだ。僕はエミリウスのやり方を見ていて、
そのうち近衛兵が皇帝を暗殺する可能性が高いと、
そうなると内乱は避けられないだろうと、踏んでいたんだ。
ならば最悪の現実の中で、最善の道をさぐるべきだ。
ローマの傷が一番少なくてすむには、
流れる血が一番少なくてすむには、どういうシナリオがいいのか、
そして崩れかかったローマの歩む道を、正しい方向へ導くにはどうしたらいいのか、
それを考えた』
『セヴェルスが一番マシってこと?』

『そうだ、今のローマを立て直すには、騎士階級からのたたき上げであるにもかかわらず、
ギリシャの大学で学んだこともある、彼のような男が適任だ。
彼はマルクス帝にずいぶん目をかけられ、帝の政治をつぶさに見ていた男だ。
歳も居並ぶ候補者の中では一番若い。
気力、体力、知力、そしてローマの現況に対する冷徹な洞察力も申し分ない。
明確に、かつ簡潔に今後の帝国のヴィジョンを、国民に指し示してくれるに違いない。
なにより、迅速に事を起こし、迷うことなくそれを推し進める強い意志がある。
僕はケイディアからの知らせでリディアとエミリウスのたくらみを知って、
すぐにセヴェルスに手紙を書いた。
皇帝になにかあったら、ただちに動けるようにしておいてくださいと』

『じゃさっき叔父様のところに寄ったのは?』 
『ケイディア、僕たちの逃亡と神殿の火が消えたことで、首都は混乱する。
こんな好機はないだろう。
きっと、この機に乗じて何かが起こる。
元老院議員の中で、密かにセヴェルス派を作っていた叔父にこのことを知らせ、
今後の動きを相談してきた』

『ジェイウス、ローマに戻る?もしセヴェルスが皇帝になったら、
あんたを重用してくれるでしょう?』
『ああ。セヴェルスからは参謀にと誘われている』
『やっぱりね。私がセヴェルスだったら、絶対あんたを離さない。
敵に渡したくないもの』

『マロ、でも僕はギリシャに行くよ。
アテネの大学に入ってもっと勉強したい』
『ジェイウス、あんた情勢を読む目は鋭いし、これだけのシナリオを描けるのに?』
『僕は今回、政治は、いや人の心はシナリオ通りには動かないということを知ったよ。
コモドゥス帝を愛妾マルチアが殺害したことも、まったく予想できなかった…』

『だからあんたは女心がわからない、って言うのよ』 マロが言う。
『マルチアが本当に皇帝を愛していたら?
リディアが消えても、もう皇帝の心が自分に戻らないと知ったら?
そのことが杯に注がれた最後の一滴であれば、溢れる殺意を止めることはできない…』

『マロ、ジェイウスが女の心を読めないんじゃないわ。
誰にも、人の心なんか読めないのよ』
『そうだ、人の心が読めるなどと思うのは不遜なことだよ』 
ジェイウスが続ける。

『政治は、往々にして人の愚かな欲望に引きずられ、歪んでいく…
いや、歪んでいくのは政治ではない、人か。
人が、政治の狭間で歪んでいくんだ。
結局政治は、そのような人間を救うことはできない…
それに政治を行うには、僕にはひとつ足りないものがあると、今回のことでよくわかった』
『どういうことよ』 マロが尋ねる。
『僕は自分の書いたシナリオを、最後まで冷徹に演じきることができなかった…』
『あのセリフのことね…』 私の脳裏に、昨夜のリディアとジェイウスの抱擁が甦った。

『そうだ。あのとき、
僕がリディアを愛していると言えば彼女は計画を取りやめるだろうと、すぐにわかった。
わかったが言えなかった』
『私がいたから?』
『違うよ、ケイディア。偽りでも良かったんだ。そんなことリディアだって知っていた。
その場だけ舞台の上でのように、愚かに自分を求める一人の女を、
本当に愛していると思い込むことはできた。
そう演じることはできた。
でも僕はあのとき、自分の真実をリディアに手渡したいと思った… 
それが最後に僕がリディアにできる唯一のことだと。
ずっと演じていたが、演じる中には必ず真実がある。
だからリディアとの最後は真実で終わりたかった』
『確かにあんたは政治に向いてないかも』 マロがつぶやいた。

『しかし政治の世界に入ってみて、僕はあらためて、
政治は元老院の議場だけで行うのではないこともわかった。
政治が、人々の暮らしを守り、豊かにし、未来を切り開いていくものならば、
それは辺境の軍団でも、市場でも、神殿でも、劇場でも行われている。
ただ、今のローマに僕の居場所はないだろう。
セヴェルスによってローマが平和への道を歩み始めたとき、
そのとき、ローマが僕を必要とするように準備しておきたいんだ』

『ケイディア、あんたはどうする?』
『私は… 私もジェイウスといっしょに行くわ。
もし可能ならば、ギリシャ悲劇を勉強したい…』
できたら劇作家になりたい、と心の中でつぶやいた。
人間のおろかさや、悲しさや、醜さや、愛しさを、人々に語れるような…
そしてジェイウスに、人間の真実をこれほどに深く見据えようとするこの男に、
どこまでもついていこうと。

『おやおや、それじゃ、私の望みとも重なるわね。
私はギリシャ悲劇の女役のトップスターになりたいのよ』

船は全ての荷を積み終わり、静かにオスティアを出港した。
ギリシャまでは、オデュセイスの冒険を思い出させる、しかしそれよりはるかに短い航海だった。

私たちはギリシャで、時々受け取るアレクシウスからの便りによって、
首都ローマの動きを知った。
エミリウスによって皇帝の座に着いたペルティナクスの天下は、わずか87日だったが、
次のユリアヌスは更に短い64日しか、その座に止まることができなかった。
ジェイウスの予想通り、皇帝の座を自力で勝ち取ったのはセヴェルスだった。

しかしローマは、セヴェルス帝が対抗勢力を一掃するまで、4年の内乱期を耐えなければならい。

その後は、セヴェルス帝もそれに続く皇帝たちも、力を尽くしてローマを立て直そうとした。
しかしカエサルが、首都ローマは安全だと取り壊させた市壁が、
この70年余り後に再度街を囲むことになる。
ローマに襲い掛かる蛮族は、首都ローマをも恐れさせるようになっていたのだ。
さらに50年後、ローマは東と西に割れる。
もはや昔日の面影はどこにもなく、だれもが倒れていく巨像を見るように、
ローマの凋落を見つめているしかなかった。

しかしあのころ、すでに、着実に、衰退と滅亡の道をたどりはじめていたローマにあっても、
人々の暮らしや、望みや、愛は、それ以前ともそれ以後とも、何ひとつ変ることはなかったのだ。

それら全てを、石は記憶していた。
ギリシャで4年の年月を過ごしたジェイウスが、ローマに戻り、
再びマルケルス劇場に立ったことも。
再度按察官となり、数多くの素晴しい出し物を考案し、市民を熱狂させたことも。
そのジェイウスの傍らに、髪を短く切ったままの少年のような女が、
いつも付き従っていたことも。
ジェイウスの打つ芝居のヒロインとして、大柄な女優が常に主役の座をしめていたことも。
彼らを守るように、近衛兵の一人が絶えず行動を共にしていたことも。

しかし記録には、按察官の後、通常帝国のエリートが歴任する法務官にも、執政官にも、
ジェイウスの名は記されてはいなかった。


   *  *  *  *  *  *  *  *


ケイディア、おいで… ジェイウスは私を立たせると、船室に誘った。
マロが私の手を少しだけ力を込めて握り、離した。

薄暗い船室に続く階段を二人で降りて行きながら、ジェイウスが私の腰に腕を回し、耳元でがささやく。
『マロはどうだった?』
『えっ?』 どうって… そんなこと言えるわけない…
『あのテクに落ちなかったのは僕だけなんだ』
『な、なに… それって… 』
『僕は持ちこたえ、マロが落ちた…』
ジェイウスが海の底のような笑いを浮かべて言った。

『ケイディア、このあとは僕の番だ。  覚悟は、いいかい… 』


    ****    ****    ****


●史実3
193年 3月28日 ペルティナクス帝、エミリウス率いる近衛軍団により殺害される
193年 6月1日 内乱の末セヴェルスが皇帝に就任

●解説
記録によると、巫女の禁(男と交わる)を犯したものは10名いるそうです。
何年間でかはわかりませんが。
明るみにでただけとしても、はたしてこの数は多いのか少ないのか…
禁を犯した場合の刑罰は文中の通り、巫女は生き埋め、相手の男は鞭打ち死刑でした。

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