AnnaMaria

 

青いプロフィール 8(最終話)

 

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かおりと深夜の新宿で別れた後、
直人は、しばらく大阪と東京を行き来する日が続いた。

直人のチームのクライアントが大阪でイベントを行うことになり、
何事も経験だからとその仕事のアシストに借り出されたのだ。

クライアントのS&Gは、外資系との合弁企業で、
薬品、衛生用品の巨大メーカーである。

乳児から大人用までの紙オムツ、女性用ナプキン、
化粧コットンから綿棒、シャンプー類、基礎化粧品まで
ドラッグストアのあらゆる棚に製品が収まっている。


大阪でのイベントは女性向けのフォーラムで、
各界で輝く女性をパネリストに呼び、その生き方や考え方を紹介し、
明日の女性にもっと生き生きしてもらおうというイベント。

広通の大阪支社が主体となって運営するが、
クライアントの東京本社とのパイプがある以上、
直人たちのチームももちろん全面的に応援することになり、
大阪チームとの顔合わせや、運営上の分担など、
またしても休日返上の、細々した打ち合わせが続く。





そんな事情もあって、
直人は、かおりに中々連絡できずにいた。

あの夜、別れた状況から考えて、
今度こそ自分から連絡を取らなくては、と考えてはいたが、
具体的に時間を取れる日のめどがつかず、
ついつい、先延ばしにしてしまう。


かおりは、俺からの連絡を待っているのだろうか?・・・


いつもなら、不定期ながら、かおりからメールや電話が来るのに、
今回はばったりと絶えたままだ。

彼女からは連絡しづらいのかもしれないから、早く連絡をしようと焦りつつも、
あの日のかおりに対してもやもやした気持ちが、どこか胸の奥にうずいていて、
キーを押す手をためらわせた。


会いたくないわけではない。

それどころか無性に会いたかった・・・。
直接会って、この前、思いきりぶつけてしまった言葉をわびたかった。

自分のための行動だったことを理解しながら、
一方的に非難してしまったことが、ずっとひっかかっている。

電話でもメールでもなく、
自分の手の中にかおりをしっかり感じてから
告げたい思いもある。


木下との関係も変わった。

大阪チームと合同の仕事になり、木下とのペアは自然解消される形で
担当別に仕事を割り振られ、そのメンバーと細かい打ち合わせを詰めて行く。

別々のテーブル越しにみる木下は、
最初に社内で見たイメージそのままに、
てきぱきと、しかも緻密に積極的にリーダーシップを発揮し、
外部イベンターや、コーディネーターとのまとめ役をしている。

優秀なプランナーになるだろうな、という思いは変わらないが、
がんじがらめに縛られて、
出口を塞がれたような日の苦い記憶はまだ消えていない。

木下は、あの夜から何となく直人に対して距離を置くようだった。

今までとは逆に、必要な事だけ連絡してきて、
つとめて、直人に関わらないようにしている風にも見える。


結局は、これも少しはかおりのおかげなのか・・・?


あの夜、木下とかおりの間に何があったのか、
実際のところはわからない。

かおりに尋ねれば、本当のことを答えるかもしれないが、
答えを聞くのが怖いような気がして、その質問を封印していた。

木下は別れ際、かおりに
「また連絡する」と言っていた。

言葉通り、木下がかおりに連絡を取っているかどうかもわからなかった。





大阪でのイベントがほぼ成功裡に終わった頃、
直人は上司から呼び出しを受けた。


「綿貫、人事異動だ。これは内示になる。
 3月20日付けで、お前は別のチームに移る。」

「はい。
 動くのは僕一人ですか?」

「あのチームからはお前とアシスタントプランナーの二人だが、
 20日付けで異動する者は多い。」

「わかりました。」

「異動先は、S化粧品のチームになる。
 クリエイティブディレクターが神尾部長、プランナーが中原さんだ。

 仕事は変わらず大きいが、S&G社の仕事とは
 全く違うアプローチになるだろう。
 夢やイメージを売る典型のような仕事だな。」


上司は、明るい色のプラスチックフレームのメガネを取ると、
ゆったり笑った。


「俺は化粧品をやったことがない。
 化粧品のクライアント先は東京本社だけで、大小合わせて20を軽く超える。

 綿貫の行くのは、言うまでもなく最大手の一つだ。
 頑張れよ!」


ぽんと肩を叩かれて、直人は軽く頭を下げた。


「お前の苦境、少しは知っていた。
 しかし、仕事場では色んな者がいるし、色んな事がある。
 それでいちいち仕事に支障をきたしていては、この業界では生き残れない。
 出る杭は打たれる。どこでも同じだ。

 打たれても引っ込まない位、大きい杭になれ。」


内示の書類を直人の手に預けると、軽く頷いて、
面談が終わった旨を伝えた。




中原さんが呼んでくれたのだろうか。
それとも偶然か。

どちらでもいい。
新しい環境で、新しい経験を積めるのは喜びだ。

直人は自分の周囲で、再び風が吹き始めるのを感じていた。





風は他でも吹いていた。


「大阪に行くのか・・・」


苦しい中、密かに手を貸し合って来たアート職の小松は
大阪支社への配属が決まった。


「うん、向こうのメンバーと何回か仕事したら、
 誰かが気に入ってくれたらしい。
 もう、お前に助けてもらえないな。」

「何を言う。
 助けてもらったのはこっちの方だ。
 ずいぶん、色々と教えてもらった。」


小松は、無精髭の生えかけたあごを撫でて、


「俺が黙ってテーブルの隅に座っていると、
 他の人が油断してどんどんしゃべったのを、
 お前に伝えただけさ。
 
 綿貫は目立つからな。
 お前が入ってくると、皆、話を止めてしまう・・・。
 綿貫は、人を緊張させるところがあるのかもかな。」

「俺の不徳の致すところだ・・・」


直人は苦笑いをした。

あはは、と小松も笑って、
うまく作用する場合もあるさ、と呟いた。


「俺はお前がスゴいと思ってたけど、
 緊張はしなかった。
 ま、俺が張り合うような相手でもなかったし・・・・。
 色々大変だったけど、今度はうまく行くといいな。」


あの元気なねえちゃんは、まだ東京に居るんだろう?


「元気なねえちゃんって、江田のことか?」

「ああ。彼女もお前に緊張しないみたいだな。
 もっとも誰にも緊張しないらしいけど。
 お前は案外、ああいう悪妻タイプに縁があるかもしれんぞ。」


こら、悪妻タイプって何よぉ・・・


直人が小松のデスクで話していると、ひょっこり後ろから、
江田が顔を出した。

いたずらそうに目をくりくりさせている。


「でも悪妻でも、綿貫君の『妻』の肩書き付けてくれたから許すわ。
 お別れのちゅうでもしたげよか・・?小松くん?」

「いやあ、これから浪花女とはたっぷり付き合わされそうだから、
 遠慮しとくよ。」

「今から逃げ腰でどないすんねん!
 そのうち、うまいこと、浪花女が東男の悪妻になれたら、招んだげるわ。
 がんばろ、ね、綿貫くん・・・?」

「東男って俺のことか?知らなかったな・・」


3人で爆笑した。


春は別れの季節。
だが、新しい出会いも待っているだろう。

 
 


桜の固いつぼみが温かい雨に触れて、
少しずつ赤らんでいくのを目にしながら、
直人はかおりに、会いたいとメールを送った。

すぐにかおりから返事が来たが、
直人の空いている日は、得意先への商品内覧会にあたっていて、
都合がつかないと知らせてきた。


『・・この次に空く日があったら、すぐに知らせてね。
 調整するわ』


かおりのメールの文面に少しほっとしながら、
新チームでの仕事が開始された。





新しいチームに移って一週間は、顔合わせ、紹介、仕事の段取りの説明。
そんなもので埋められていたが、ゆっくり慣れて行け、と言える程
仕事のスケジュールに余裕があるわけではない。

直人はすぐにコピーの下書きを任され、
クライアントの商品を全部覚えて、理解しようと懸命だった。

しばらくして、中原から声がかかった。
テーブルに近づくと、直人の書いたコピー原稿が載っている。


「綿貫、君のコピーは、このままでは使えない。」


前のチームに居た時、木下からよく言われた言葉だ。
一瞬、胸の奥がびくりとおびえる。


「俺が手を入れるぞ。いいか?」

「はい。お願いします。」


直人が素直に頭を下げると、中原が笑った。


「学生時代のコピーとは書き方が全く違うし、
 クライアントや目的によってももちろん違う。
 今さら朱を入れられるなんて、嫌かもしれないが・・」

「いえ、是非、徹底的にお願いします。」

「そうか。じゃあ、容赦しないからよろしく」


では早速と言って、中原が真っ赤に朱筆の入った原稿を返してきた。


「俺もこうやって赤鉛筆で直されたから、いまだに赤鉛筆だ。
 できるだけ早く、書き直して持って来い。」

「はい。」

「もう『中原塾』をやる事もないか、と思っていたんだがね。
 またこんな真似を始めちゃったな、
 ま、我慢して付き合ってくれ。」


中原は少し照れ臭そうに手を出したので、直人は手を握った。

温かく乾いた手で、少し掌にマメが感じられる。


ゴルフかな?・・・


中原の手を離すと一礼して
原稿を手に急いで席に戻った。




中原の添削はていねいでびっしり書き込まれている。
自分の仕事のかたわら、こんなに朱を入れるのは大変に違いない。

直人は夢中で書き直し、改めて読み返すと、
頭の中が晴れるように、文の意味がすっきり入ってくる。

中原の腕前に感心すると同時に、早く一人前になりたいと切望した。



中原の指導は他の点にも及んだ。


「君の性格は営業向きじゃないが、
 だからと言って企画でもそのまま通るわけじゃない。

 広告業界はクライアントの意向が全てだ。
 金を出す側に満足を与え、
 それがそのまま顧客の満足になるように努力しなくちゃならない。
 
 お世辞を言う必要はないが、相手との潤滑油になる言葉は必要だ。」


「はい・・・」

「俺を口説いてみろよ。」

「え?」

「馬鹿。
 男として口説くんじゃなく、
 俺のどこかにいいところを見つけて、褒めてくれ。
 その気にさせてくれ・・・」

「・・・・・」

「どうした?どこにもいいところが見つからないか?
 ちょっと凹むな。」


中原の挑発するような眼差しに、ふと言葉がついで出た。


「包むような笑顔がいい。」

「・・・それで?」

「鋭い目つきが崩れ、目元にしわが寄って
 温かい眼差しになるのがいい。」

「しわを褒めるのか、まあいい。それから?」

「笑顔が一瞬で締まり、仕事モードに入る時の目の輝きがいい。
 できる男、中原、今、ギアチェンジ・・・」


中原はしばらく宙を見つめて考えていたが、綿貫に視線を戻した。


「う〜〜ん、まだ全然だな。

 綿貫、電車の中で、吊りポスターのモデルでも、隣の席の女の子でもいいから、
 ちょっと妄想してほめコピーを作ってみろ。
 相手の長所を探す訓練だ。
 君には良いトレーニングだろう。」

「はい、やってみます。」

「女ばっかりじゃなくて、男も考えろよ。」

「考えます」

「電車の中で変な目つきをして、誤解されるなよ・・!」


中原のとぼけた言い方に、綿貫は思わず声をだして笑い、
軽く会釈をすると、中原の側を離れた。


こんな風に、中原のチームでの仕事は、
充実した形で始まって行った。




桜はほとんど散ってしまった。

日陰にあった、花の遅い桜が
わずかに枝に花びらをまとわりつかせているだけで
ぼてぼてと花びらの重そうな八重桜が主役に変わっている。

お陰でここで眠る人たちにも、また静けさが戻ってくることだろう。

今日は春というより、初夏に近い陽気で
どこか不穏な空気が感じられる程、暖かい。





青山墓地の近くの、外が見渡せるカフェで、
久しぶりにかおりと待ち合わせをした。

店の中にいる客の服装も軽やかだ。

早くも半袖姿になって、
向かいの女の子に筋肉を見せつけている若い男の客もいる。

直人は先に来て、コーヒーを飲んでいたが、
惑う気持ちがあった。


この前のことを何と言って切り出せばいいのか・・。



少しぼんやりしているうちに、カフェのドアが開いて、
外の陽光を背に、ほっそりしたシルエットが入ってきた。

店内を見渡して、誰かを探すように視線をさまよわせると、
直人を見つけて、花のように破顔し、
ゆっくりとこちらの席に向かって来る。

直人は一瞬当惑した。


この女性は・・?


と怪訝そうな眼差しを向けてしまったが、
次の瞬間、あっと驚いた。

長かった髪をばっさり切って、
襟足を刈り上げたショートカットにしたかおりが、
別人のような姿で立っている。

着ているのも軽快なパンツスーツで、
顔立ちや身のこなしまで変わって見え、すっかり見違えてしまった。

驚いて声も出ない様子の直人に
かおりがいたずらそうに微笑む。


「びっくりした?」

「ああ・・・」


なおも呆然とかおりを見つめたままの直人に
ちょっと得意そうに微笑むと、


「座ってもいい?」

「ああ・・・もちろんだ。座れよ」


座る仕草までどことなく違って見える。


「髪を切ったんだな・・・」


見ればわかることを言ってしまう。


「そうなの。
 前から一度短くしてみたかったのよ。

 で、一旦切ってソフトボブみたいにしたんだけど、似合わなくて。
 もう一度、今度は徹底的に切ったの。
 これでも少し、伸びたのよ。」


直人に言わないでごめんなさい、という言葉に、
いや、かおりの自由だから、と言えなかった。

かおりの長い髪が、なだらかな肩先に柔らかくかかる風情を
とても好ましく思っていたから。

その艶やかな髪をゆっくりと梳き上げて
指先に感じるのが好きだったから・・・。


惜しいな・・・。


直人の心の声が聞こえたのだろうか。
かおりが言葉を切って、目をそらせた。

その横顔に何となく不安を覚える。



「ここのところ、どうしてた?」

「忙しかったわ。
 春の内覧会の時期だったから、準備やら何やら・・・。
 気が付いたら、桜が咲いてたの。」


直人は・・・?
と、問われ、


「チームが異動になった。
 今度は化粧品のS社担当だ。」


かおりの目が大きくなった。


「それじゃ、あの・・・」

「木下さんとは、別のチームになった。」


直人が先を引き取って言うと、


「そう、そうなの。じゃ、ホントに心配することなんかなかったのね。」


と、下を向いて、きまり悪そうに笑った。





風がさわさわと、窓から吹き込んで来る。

かおりの肩先に揺れる髪はもうないが、
襟元のスカーフがふわりとなびく。

かおりが眩しそうに目を細めた。





「わたし・・・実はお別れを言いに来たの。」


ショックはあったが、かおりの変化を見た時から、
心のどこかで、覚悟していたような気もする。


「どうして?」

「あなたには、わたしじゃ無い方がいい・・・」

「それをかおりが決めるのか?」


そんなのはおかしい。
決めるのは俺だろう?・・・


「わたし、直人を見ているのが好きだったの。
 黙って横を向いていても、ゼミ生に怒鳴っている時でも、
 一見冷静に、でも中身はすごく熱くなって議論してる時も・・・。

 サークルで一緒だった時は、皆が直人に注目しているから、
 その直人をわたしが見ていたら、
 あなたには負担だろうってわかっていても
 どうしても目が離せなかった。
 
 よく・・・我慢してくれてたよね。」


俯きがちにぽつぽつと、
少しずつ胸にためていた言葉を押し出しているみたいだ。


かおりはずっとこんな風に考えていたのか・・・。


「かおり・・・。それは違う。

 サークルにいる時は、部長としての役割があったから、
 お前の視線に戸惑ったことがあるだけだ。
 かおりが見ていてくれて、励みになったことだってある。」


かおりは目を見開きながら聞いていたが、
ふっと微笑んで両手を顔の前で包むと、


「・・・ありがとう・・・」

でも、もういいの・・・、という呟きが聞こえる。


「何がいいんだ?
 もういいって何だ?」

「わたし、あなたと居ると、どんどん欲張りになって
 ますますあなたを縛る。
 自分でもそんなわたしが嫌なの。」

「別に縛られた覚えはない。」

「ううん、この前本当によくわかった。
 あなたを信じて、じっと待っていられなかったわ。

 木下さんに会ったのは、あなたの為だなんて思ってたけど、
 本当はわたしの為だった。
 
 わたしが自分の苦しいのに我慢できなくて、
 全くの自己満足のためにあんな事をしたのよ。
 直人の為だなんて、すり替えもいいとこ。
 本当に苦しかったのは、直人だったのに、ひどいよね。
 
 あなただけじゃなくて、木下さんに対しても侮辱だったと思うわ。
 申し訳なくて・・・」

「木下さんに、あれから会ったのか?」


ん・・・と小さくうなずいた。


「何度か連絡をもらって・・・でも何もお返事せずにいたら、
 会社の近くにいらしたの。」


直人の目が険しくなるのを、かおりが慌てて止めた。


「違うの。誤解しないで・・・。

 ちゃんと直前に連絡してきて、近くにいるから連絡したけど、
 迷惑なら帰るって言ってくれたの。
 でも、きちんとお話した方がいいかと思ってお会いした。」


直人は、険しい顔のまま、黙っていた。


「そんな怖い顔しないで・・・。

 先日は中途半端な気持ちでお誘いを受けて申し訳なかった。
 もうお会いするつもりはありませんって、ちゃんと伝えました。」


だから木下さんの事は関係ないわ・・・。


かおりがまた呟いた。


直人があごの下を手の甲で支えながら、
かおりにじっと視線を据えている。


「もう・・・やめましょう。
 このままだと、
 きっと、もっとどうにもならなくなる・・・。」


あなたに嫌われる前に、
あなたの嫌いなわたしになってしまう前に・・。


「俺といるのが嫌になったってことか?」


ううん。
小さくかぶりを振る。


「わたしが嫌なの。自分が嫌いなの。
 あんな事した自分が嫌い。
 またあんな風になりそうな自分が嫌い。
 あなたに嫌われるのが怖い・・。」

「わからないな・・・」


直人が小さくため息をついた。

かおりはしばらく黙っていたが、急に早口で言い出した。


「わたし、この前、会社の人に誘われて飲みに行ったの。」

「・・・・」

「帰りに・・・その人が家の近くまで送ってくれたの」

「・・・・」


直人が目をあげて、かおりの顔を見ると、


「わたしを好きだって。付き合って欲しい・・と、言われたの。」

「なんだそれは・・・・。
 何故そんなことを俺に言う?」

「・・・」

「かおりは・・・かおりはどうしたいんだ。」

「わたし・・・」


かおりはずっと俯きがちに自分の手を見ていたが、
この時直人の方を見て


「そういうのもいいかなって・・・」


きっぱりと言った。



唐突にそんな話を持ち出した、かおりの気持ちは相変わらずつかめなかった。
が、かおりの黒い瞳は濡れてもいなければ、ためらってもいない。
きっとずっと考えてきた挙げ句の答えなのだろう。

今さら、俺が何を言えるのか・・・・。


「本気で言っているのか?」

「本気よ。だけどそうするかどうかはわからない。
 でも、わたしの中にそういう気持ちがあるみたい・・・。

 卒業したいの。
 あなたからじゃなく、こんな自分から・・・。」


かおりの表情は、笑顔なのか泣きそうなのかわからなかった。

目元がちらちら揺れているようにも思えたが、
頬のあたりは、いつも通り柔らかい線で、
かすかに微笑みが浮かんでいるようにも見える。

どこか遠くの不思議な湖のようだ。
表面のさざめきからは、内部に抱いているものが伺えない。

かおりがわからない・・・。



「もう・・・会わないと言うこと?」


直人はかおりを見て言った。

かおりがゆっくり頷いた。


「ええ・・・」


これ程はっきりと別れを告げられているのに、
頭の中がしびれて、妙に現実感が乏しい。

何だか遠くの出来事を聞いているようだ。
遠くの自分が勝手に馬鹿なことを答えている。


「わかった。じゃ、今日は家まで送っていくよ・・・」


かおりがはっきりと、またかぶりを振った。


「ううん。一緒になんて帰ったら、わたし、どうなるかわからない。」


そこまで言って、しばらく、黙っていたが、


「あのね、自分勝手なことばかり言って悪いけど、
 最後にどうしても聞いて欲しいお願いがあるの。
 
 わたしが出て行ってから、
 10分だけ、ここに座っていて・・・。
 10分でいいわ。」

「俺を置いてけぼりにするのか?」


直人が冗談ぽく、切り返した。


「だって・・・そうするしかないんだもの。
 勝手なお願いばかりで、ごめんなさい。
 長い間、ありがとう・・・。

 わたし、もう行くね。」


かおりが席を立とうとするのを、


「待てよ・・・」


俺にも別れを告げさせてくれ。


かおりがじっと俺を見ている。


「手を貸せ・・・」


かおりが、少しためらいながら、おずおずと
手をテーブルの上に出した。

直人が自分の大きな手の中に包む。

またしても冷たく、冷えきった手だった。
つかんでみると、直人の手の中で細かく震えているのがわかる。

構わずに、ぐっと手の中に包みこんだまま、
温もりを伝えて、ゆっくりと白い手が温まるのを待つ。

かおりはじっとしたまま、
自分の手を包む大きな両手を見つめている。

だんだんとかおりの顔が下がって、うつむきがちになる。



「もう・・・いいわ。ありがとう。」

「ああ、俺もな・・・」


ゆっくりと両手を開いて、かおりの手から離した。

かおりはしばらく動かさなかったが、
やがて磨き込まれた黒っぽい木のテーブル面を、
少しずつ白い手が下がっていき、
かおり本人も立ち上がった。


「じゃあ、行くわ。
 お願い、聞いてね。」


直人の手首には、以前かおりがくれた、
しなやかな黒のスポーツウォッチがはまっている。

直人は無言のまま、ちらりと目をやった。


かおりが出て行くのが見える。
カフェのガラス窓越しに振り返って、光の中で直人に笑顔で手を振る。

花吹雪がかすかに光って、かおりの周りを舞ったように見えた。





どうしようか・・・。

かおりの願いを尊重すべきなのか、
そんなものを破り捨てて、走って追いかけるべきなのか・・

逡巡しているうちに、10分は過ぎ去ろうとしている。

待ちきれずに精算し、急いた気持ちでカフェの外に出て見ると、
もちろん、かおりの姿は跡形もない・・。

歩道の上には誰の姿もなく、桜の花びらが歩道の隅に吹き寄せられ、
木よりも地面の方が白く浮き上がって見えるほどだ。



おりしも強い風が吹き、
わずかに残っている花びらを樹からむしり取り、
地面に散っていた花びらも葉もいっしょくたに巻き上げる・・・。

木々に芽吹き出した淡い色の葉がいっせいに裏を見せて、
若い枝枝が風になびき、しなだれるような強い風。

青嵐と呼ぶには、まだ早い。


もう木々に残っている花は少ない。
代わって、さまざまな色合いの緑が木々を彩っている。


新しい季節が来るのだろうか。

その季節の中を、かおりのあの眼差しなしで、
俺はやって行けるのだろうか・・・。


直人は、強い風が肌に当たるのを感じながら、
ともかく、ひとりで歩き出した。

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