AnnaMaria

 

セピアの宝石 「甘い香り」後編

 

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廊下を通って、玄関のドア前に立つ。
解錠し、ノブをつかむ前に少し緊張する。

一度だけ大きく息を吸い、思い切ってドアを開く。
中に入ると柔らかい光の奥から音がして、人影が浮かび上がる。

「おかえりなさい。」
「ただいま。」

自分を迎えてくれる変わらない笑顔を見ると、
仁はようやく、ほっと体の力を抜く。

「希は?」

コートを掛けながら訊く。

「さっきまでぐずぐずしていたんだけど、やっと寝たの。」
「そうか。」

クローゼットに直行して、スーツを着替え、
手を洗って口をすすぐと居間に入る。

小さな飴色のベッドの中に、愛しい眠り姫が休んでいる。
両手を軽く握ってふとんの上にだし、バンザイをしたまま。
柔らかな頬にさわってみたいが、
佳代子が後ろでにらんでいるので、止めておく。

代わりに少しだけ顔にかかっていた髪を、そうっとどけてやる。
額の生え際に、わずかに赤紫色のアザが見えた。
この子が生き残った証。

生まれた時、頭全体がうっ血して赤紫に変色していたのが、
だんだんきれいになり、はえぎわに少しだけ残して消えた。

ほかには目を開けたとき、わずかに右まぶたが閉じ気味だ。

最初、佳代子も自分も気にしていたが、毎日見るうちにすっかり見慣れて、
誰か初めて会う人が、やや不審そうに希の目を見ると
思い出す程度になった。

言葉はまだない。

同じ月齢の子と比べると少し遅いので、気になると言えば言えたが、
こちらの言葉は理解しているようなので、あまり心配はしていない。

こうして、あどけない寝顔を見ていると、
この子を失わずにすんだ、と言う安堵がこみ上げてくる。

後ろから、温かいスープの匂いが漂ってきた。

「少しなら、食べるでしょう?」
「ああ。」

部屋を見回し、いつもどおり仁の大事な二人が
無事にそろっているのを確認する。巣にもどったオオカミのように。


ドアを開けると真っ暗で、とつぜん部屋が空っぽ。

かつての悪夢は薄れつつあるものの、
日常からある部分が、いきなりもぎ取られる恐怖は忘れていない。

ドアの前で今もわずかにためらうのは、そのせいだ。

「仁、できたわよ。」

佳代子の姿がテーブルへ動いたのを確認して、
こっそり希のこぶしをさわると、満足してベッドを離れる。

テーブルの上に湯気を立てている皿があった。

「これは何?」

いすに座りながら、スプーンを取り上げる。

「野菜と鶏のシチューよ。
 希も少し食べたの。気に入ったみたい。」

「そうか。うん、うまい。」

上から胡椒と粉チーズをかけ、煮くずれたジャガイモをすくう。
夜中にあまり重いものを食べないことにしているのだが、
こういった料理は、温かさが体にしみ入る。

テーブルの角をはさんで座った佳代子が、
仁の食べる姿を見て、にんまり笑っている。

「なんだ?」

スプーンを止めて、妻に向き直る。

「ううん、忘れているみたいだけど、
 バレンタインは、あと30分しか残ってないから。」

「忘れてないさ。
 この間、うれしそうにチョコ売り場の男と、写真撮ってたじゃないか。
 俺の分も買ってくれただろうと思ってたんだが・・・。」

仁が皮肉っぽく言うと佳代子はつんと横を向いた。

「仁のを買いに行ったのよ。」

「俺のだけじゃないだろ?正直に言えよ。」

そりゃ、少しは他のも買ったけど。

そら見ろ、と仁に笑われるのが悔しいが、あの場所で
佳代子が我を忘れてしまったのは本当だ。

実を言うとあの場では、ちゃんとプレゼント用のチョコを買えず、
教えてもらったお薦めチョコを、後からウェブで注文したのだ。
もちろん自分用もいっしょに頼んで、ちゃんと味見は済ませてある。

あっと言う間に空になったシチュー皿を見て

「お代わり、要る?」

いや、もういい。

「じゃあ、コーヒーでも入れる?それともお酒のおつまみにする?」

暗に、酒にも合うチョコレートだとほのめかしたつもりだ。

「見てから決める。」

もう・・・。


佳代子は立ち上がって、キッチンの奥にしまっておいた
オレンジ色の箱を取り出す。


「はい、わたしから仁へ。」

「ありがとう。」

仁は体を引こうとする佳代子をつかまえ、軽いキスをした。

「愛の告白は?」

そんな・・・。

仁の手は佳代子をつかんだままである。

「日本では、バレンタインは女性が男性に告白する日なんだろ?」

「そうだけど。前にもうしたじゃない。」

「横着なこと言うなよ。
 外国だと愛してるって言ってくれない、てのが
 立派な離婚理由になるんだぞ。」

ええ・・・そんな。

自分をつかまえたまま、じっと視線を向けてくる黒い目をさけきれず、
佳代子は観念した。

「仁、愛してるわ。」

ためらいがちに言うと、ぐっと胸元に引き寄せられ、
熱っぽいキスが落ちてきた。
2度、3度と唇を重ねるごとに、体にまわされる力は強くなる。
舌の奥までさぐられて、息が苦しくなったが仁は離してくれない。
強く抱きしめられて、動くこともできなかった。

ようやく唇が離れて、ほっと佳代子が息を吐くと

「俺はチョコよりこれが好きだ。
 佳代子の方が甘い。」

こんな囁きに、いまだに顔がカッと赤くなるのが不思議だったが、
もう一度唇をふさがれると、体の奥まで熱くなってきた。

唇を離した仁が満足そうに、目の前の顔を眺め回し、

「いい顔だ。
 だけどせっかくだから、チョコも見てみないとな・・・」

にやりと笑って、やっと佳代子を放す。
足がぐらつくのを仁に見られないようにしたかったが、
チョコの包みを開けながら、仁の視線が一瞬こちらに走ったので、
それは無理だったのだろう。

大きいが器用な指が焦げ茶色のリボンをほどき、
オレンジ色の箱を開け、真ん中の真っ赤なハートをつまみ出す。


「これが佳代子の心臓か。」


仁の指につままれたハートの赤いチョコは、つやつやと輝いて、
喜んでいるようだ。
これから食べられてしまうのに。

厚みのある唇にチョコが放り込まれると、見ている佳代子まで、
ごくりとのどが鳴ってしまう。

じっと口にふくんだまま、仁の目が輝きだす。

「うん、いい香りだ。うまい。」

仁の口元がゆっくりと動く。
じっと見ていると、ドキドキしてくるのでさりげなく訊く。

「コーヒーにするか、お酒にするか決めた?」

決めた。
仁の目がきらりと光る。

「佳代子にする。」

ええ?

「佳代子の選んだチョコを食うと、佳代子が食いたくなる。」


逃げるのも忘れて立ちすくんでいると、大きな体がゆらりと立って、
ゆっくり腕が伸びてきた。
そっと肩にふれるとそのまま指をすべらせて、
両手で腕のおもてをなぞる。

背中からまたゆっくりと首すじにあがっていき、長い髪を梳くと、
佳代子の喉から、小さな音がこぼれた。

「佳代子は変わったぞ。自分でわからないか。」

仁の指が体を這い続けるので、佳代子は何も考えられなくなってきた。

「ここは、前よりほっそりしたのに」

首すじをたどって、うなじをあらわにし、口づける。
佳代子の体が細かくふるえた。

口づけたまま、裾からニットをじりじりと押し上げ、
すぽりと首から抜き取る。

「ここは信じられないほど、大きくなった。」

日に焼けた手が、ゆっくりとキャミソールの肩ひもを下ろし、
ブラのフロントホックを外して、真っ白な胸をあらわにする。
ふくよかな胸が丸くたわんで、青く血管が浮いている。

「ほら、こんなにすごい。きれいだ。」

裸の背中にてのひらを当てて、佳代子を動けなくしてから、
胸の先を含み、舌でころがす。

あ・・・!

目を閉じていると、履いていたスカートが下着やタイツごと、
押し下げられて行くのを感じる。

じりじりじり・・・

仁の手の動きはあくまでもゆるやかで、急がない。
じっくりと剥いていく。

ようやく足下にスカートと下着が落ちると、
佳代子から進んで足を抜いた。

仁の大きな手が豊かな胸をつかむ。
額すれすれに顔をちかづけて、佳代子の表情を見ながら、
ゆっくりと胸をもみしだく。

「仁・・・」

佳代子の声があえぐように切れ切れになると、
仁は満足そうに笑った。

「そんな顔、前は見せてくれなかった。」

そんな顔って、どんな顔をしているのだろうと、
熱くなりながらも、恥ずかしさがこみあげる。

「いいじゃないか。気持ちがよくなるのはいいことだ。
 それが見れるのは、男にとって最高なんだぜ。」

ふたたび深く口づけると、自分は服を着たまま、
佳代子を抱き上げてベッドまで運んだ。

ベッドの前で仁が服を脱ぐのを、ぼうっと見ていた。
仁の体だって変わったように思う。
以前よりごつさが減って、しなやかで少し細身になった。
黒い胸毛は勢い良くうずまき、毎朝の運動でそいだように腹は平ら。

そのくせ、背中や肩回りは相変わらずすごくて、
動かすと、ごつごつ筋肉が盛り上がる。

まるで男性の標本のような肉体があらわになっていくのを、
うっとり見とれる。

仁がベッドに入ってくると、マットレスがたわみ、
大きな体から熱が伝わってくる。
抱きしめられるとしなやかで、張りのある体の重さを感じた。

「佳代子、愛してるよ。」

ひとことささやくと、かぶさるように唇を重ねてきた。
体全体が仁の熱に包み込まれて、たちまち汗ばんで来るほど。

キスを受けながら、体の中心をゆっくりと指でなぶられ、
佳代子はじりじりと押し上げられるのがもどかしく、
仁の下であえいだ。

「あせるな。俺はずっと佳代子に飢えてたんだ。
 そんなに簡単に放してやれない。」

身動きできないまま、あっという間に指で頂点に連れていかれると
大きな体がゆっくりと入ってきた。

ああ、仁、仁。

仁が佳代子の体を抱きしめながら、優しく揺すり始めた。

最初はゆっくり、やがて激しく。
いつもの夫の軌跡を考えながら、体に感じる甘い衝撃を飲み込もうと
仁の背中にしっかりつかまる。

あ、あ、あ・・・、
もうダメよ。

「まだまだだ。」

両足を持ち上げてかつぐと、大きく上から責め込む。

きゃあ!
佳代子、動くなよ。

仁に上から体をロックされたまま、責められ続け、
佳代子はいつの間にか声をあげていたが、仁の動きは止まらない。

佳代子、佳代子・・

何度か名前を呼ばれた気がするが、答えることができないまま、
つよい衝撃が連続して加えられると、佳代子の意識まで跳んでしまった。





甘い眠り。
愛する人と体を溶け合わせたまま、
相手の熱と柔らかさを味わいながら、まどろむ。

愛しい女を抱いて眠れる幸せをかみしめつつ。
まだ収まらない自分の欲に呆れていた。
妻はもう腕の中で寝息を立てていると言うのに。

今の佳代子からは、広報室でシャツをぴしっと着こなし、
てきぱきと仕事をしていた姿は想像できない。

のぞみと一緒に仁を出迎えてくれる佳代子はきれいで温かくて、
笑顔は、こわばった心を一瞬にして溶かす魔法だ。

自分がかつて失ったもの、
あやうく失いそうになったもの。

時おり締め付ける不安は、このぬくもりだけがいやしてくれる。
そっと妻をゆすりあげ、耳のふちに小さく口づけると、
ほっと息を吐いて、自分もまた眠りに落ちて行った。





ハッハッハッ・・・

仁の口から短く息が吐き出される。
大きな体が汗と共に上下し、左右斜めの動きも20回ずつ取り入れる。

マンションの3階に広々とした共有スペースがあり、
雨の日に小さな子供を遊ばせる場所などに使われている。

一隅にベンチが一組と、エアロバイク1台、
簡単なジム設備のついた鉄棒、マットなどが置かれ、
お台場の眺めを楽しみながら、トレーニングができる。

晴れた朝は外へ走りに行き、そのまま公園で基礎トレをやるのだが、
雨天はここを使うことが多くなった。
希が生まれてから、部屋でドタバタするのがためらわれるからだ。

誰かを守るには、まず自分を整えておかなければ。

軽くストレッチをして腿上げを行ってから、
腹筋、背筋200回、腕立て伏せ100回、プッシュアップ100回、
スクワット100回。
鉄棒で懸垂を20回終えると、最初よりていねいなストレッチをして
部屋に戻る。時間にして30分そこそこ。

たまたま、この場面に行き会った住民は最初、驚愕する。
でかい体が汗を飛び散らせながら波打ち、うねるのを目にして、
まじまじと見ずにはいられない。

ストレッチを終える頃には、体からもうもうと湯気が立ち上っている。
住民が突っ立っていると「おはようございます」と声が掛けられ、
見事な逆三角形の体格が、Tシャツをぴっちり張り付かせたまま、
脇を通り過ぎて部屋を出て行く。
あまりの迫力に挨拶を返すのも忘れ、後ろ姿を目で追ってしまう。

うわあ、すっごい!
絶対またこの時間に来てみよう。

住民の間でひそかに見学希望者が増えているのを、仁は知らない。





天気のいい昼間、佳代子は希を連れて、
のんびりとお台場の公園に行き、海を眺め、
海の向こうに居並ぶ汐留のビル群を眺める。

春が来たら、あちら側に戻らなければならない。

育児は確かに大変だ。
生まれてすぐは睡眠不足と戦い、その後は授乳と洗濯、
合間に何とか家事をこなすだけで、あっと言う間に日が暮れる。

本を読むのはおろか、髪を切りに行く暇さえなく、
自分の時間がなくなって久しいが、佳代子はまるで辛くなかった。

専業主婦で夫は不在がち、子供と二人だけの時間が続くと、
育児ノイローゼになる若い母親もいるそうだが、
佳代子の育児専業は期間限定である。

一日中、希の世話を焼けるのがあと少しだと思うと、
何をしていても楽しく愛しい。
母娘二人、こんな濃密に暮らしていて、果たして希を離せるのか。
その方がかなり不安である。

仁は出張から帰る度、希が大きくなったと悔しそうに言う。

「佳代子は一日中、希と一緒だもんな。うらやましいよ。」

「うふふ、うらやましいでしょ?」

笑っていなすものの、自分もそのうち、
この子と別れて職場復帰せねばならない。

希が4月生まれなのは、好都合と言えた。
保育園は3月卒園、入園チャンスは4月が一番だ。
多くのワーキングマザーが、4月に合わせて育児休暇を切り上げる。

あと、ほんの少し。

「仕事にもどりたくないんだろ?」

トレーニング後シャワーを浴び、濡れた髪のまま、
寝ている希の頬をそっと触りながら、仁がつぶやいた。

朝ご飯を作りながら、自分の思いを読まれた気がして、
佳代子ははっとしたが、

「うん、ぜんぜん戻りたくない。この子と離れたくないもん。」

正直な発言に、仁は黙ったまま、佳代子を見つめている。

「でもちゃんと戻るわよ。決めていたから。」

「ああ。その方がいい。」

仁が愛しそうに小さな手を撫でると、のぞみがふうっと息を吐いて、
ベビーカーの中で顔の向きを変えた。

「俺はあんまり家にいられないけど」

ためらいがちにつぶやく仁の言葉に、

「大丈夫。
 でも、わたしが復帰したら、家事も手伝ってもらうわよ。」

「任せてくれ。たいていのことはできる・・」

と思うが。

自信なさげに付け足すと、

「それ以外は、お義母さんたちにも手伝ってもらって、
 がんばって行こう。」

「もうじき、一歳児検診があるの。」

ああ。

「その時にこの子のまぶたや、言葉の遅いことも相談してみるわ。
 もしかしたら、しゃべれない子かもしれないし・・・」

そうだな。


仁の答も落ち着いていた。
最悪は、この子を失うこと。

それを避けられたのだから、これ以上、神様に注文はつけられない。


「どんな子でも俺たちの娘だ。
 希は俺に似ているから、きっと丈夫だろう。」

「あら、連れているとわたしにそっくり、と言われるのよ。」

「俺を知らないからさ。」


すでに親バカぶりを発揮している夫に呆れて、
大きく目をくるんとさせると、サラダの大鉢をテーブルに置いた。

「朝ごはん、できたわよ。」

名残惜しげに仁が希のそばを離れて、テーブルに着くと
ほどなく、むずかる声が小さなベッドから聞こえてきて、
朝食の皿を放り出して、仁が駆けつける。

「おお、希、起きたのか。」

んもう!起きたんじゃなくて、起こしたんでしょ。

朝食前の佳代子はぶつぶつ言いたくなったが、
出勤前に希を抱っこできた仁は、上機嫌だ。

「おはよう!おい、おはようと言えよ。」

ひげを剃ったばかりのあごを、柔らかい頬にこすりつける。
起き抜けの希は眠くてまだぼんやりしているが、
小さな手で仁の鼻をつかもうとしている。

「くすぐったい、希・・」

仁が顔を動かすと、希もうれしそうに笑ってさらに仁の顔を撫でる。

「希はいい子、かわいい子だな。
 今日もいっぱい食べて大きくなれよ。」

「ア〜」

返事を聞いて満足した仁が、希を下ろすと佳代子が受け取った。
いすに座って、そっと胸元をくつろげるのを仁が横目で見る。

赤ん坊が母親のおっぱいを飲む姿。

この光景は古今東西の絵に描かれているが、
描いた画家も今の俺みたいな気分なんだろう。
つまり、この一組が愛しくてならないのだ。

この二人を守るために、この二人と笑って生きていけるようにするのが
俺の役目だ。

一心に頬を動かしている愛娘を見ながら、仁も朝食に取り組んだ。



〜  End  〜
 


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