AnnaMaria

 

セピアの宝石 「甘い香り」前編

 

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どうしても、どうしてもここへ来てみたかった。
ブログだの、TVや雑誌の紹介だのと、いろいろ知るすべはあれど、
見て、香りを嗅いで、味わいたいなら、方法はたったひとつ。
自分で来るしかない。

会場が遠くから見えただけで、胸がどきどきした。
離ればなれになっていた懐かしい恋人に会えるような、
あるいは、限りない魅力で今も自分をとらえて離さない相手と
こっそり密会するような・・・。

やだ、もう!
いくら久しぶりだからって、行く前からこんな怪しい気分になっちゃって。

佳代子は足を止めてため息をつき、
悪い火遊びをするわけじゃないのだからと自分に言い聞かせ、
華やかな会場にそっと足を踏み入れた。

あるある。
この会場ぜんぶがチョコレートショップという極上パラダイス。
日本中のデパートや路面店だけでなく、ヨーロッパ全部、
アメリカにいたるまで、ふだんは世界に散らばっているチョコの名品が
今日、ここに集結している。


「お味、お試しになりませんか?」

歩き始めてすぐ、串にさしたチョコレートをすっと差し出された。


「あら・・・」


「中のガナッシュに、紅茶の香りを練り込んであるんです。
 こちらはカフェオレで・・」


出された串を2本とも受け取った佳代子に、次々と説明が浴びせられる。

おいしい!

ショップ名を見ると、佳代子の知らないブランドである。
しばらくチョコから離れている間に、
いろんなブランドが参入して来ているらしい。

バレンタインシーズンの日本ほど、
世界各地のチョコをいっぺんに味わえる場所は他に絶対ない。
かつてはバレンタインだけの出店を嫌ったショコラティエも多く、
日本で食べられないブランドがかなりあった。

だが、日本のバレンタイン人気と売上のすごさが世界に広まり、
多くのバイヤーがフランス、ベルギーのみならず、
ヨーロッパの小都市にいたるまで足を運んで、
出店を口説いたおかげで、これほどまでにバラエティに富んだチョコを
味わえるようになったのである。

ああ、幸せ!

なおもチョコの説明を続ける販売員へ

「ごめんなさい、来たばかりだから、もう少し見て回りたいの」

告げるとあっさり

「どうぞ、いろいろご覧になって下さい」と微笑まれた。


それから、佳代子にとって夢のような時間が始まった。
歩くたびに、次々と味見用の高価なチョコが手渡され、
色とりどりの商品をじっくり眺めながら、説明を聞く。


「ああ、これはすごい!」


ヘーゼルナッツのガナッシュから、オレンジの香りが
口の中にふわりとはじけた。

ナッツ入りガナッシュの香ばしさに加え、
シャンパンやバニラ、柑橘類などのフレーバーが、
一粒で何重もの協奏曲を奏でさせる。

フレーバーも、ユズやスダチなど日本の柑橘類を加えたり、
逆に日本では珍しい、ローズウォーターを使ったものもある。


「でも、こっちもやっぱりおいしいのよね。」


ベルギーの老舗ブランドから、シンプルなトリュフをもらって
佳代子はおもわずうなった。

定番のオランジェット(オレンジピールのチョコがけ)や、
ココアをまぶした定番トリュフにも各店の違いがあって
それぞれの工夫と努力が感じられる。

彩りや形、色はさらにさまざまで、ハート、貝、カットした宝石、
チョコでできたバラの花びらを一枚ずつ摘んでいくもの、
デコレーション・ドーナツをかたどったもの、
ユーモラスな動物や、絵本でおなじみのキャラクターなど、
大人向けから子供向けまで、めまいがするほど沢山ある。


奥へ進むと、壁一面チョコが波打つコーナーの向かいに、
濃厚チョコを練り込んだソフトクリーム、
チョコクリームをぎっしり詰めたシュークリーム、
チョコを焼き込んだ、熱々のできたてサブレを供するイートインがある。

うわあああ、いい匂い!信じられない。

店の前では、女性たちに混じって甘党らしい男性が
肩身が狭そうに、でも陶酔したような表情でサブレにかぶりついている。

どうしよう?食べたいけど、でも・・・

珍しいところでは、和菓子の鹿の子をチョコでくるんだり、
抹茶クリームで包んだ「和チョコ」。
プチバッグも和柄で、それなりに可愛い。

チョコの味見と見極めには多少自信のあった佳代子も、
多くのチョコに接するうち、さすがに頭がグラグラしてきた。


「マドモアゼル、チョコレートいかがですか?」


差し出してくれたのが、巻き毛も愛らしいフランス人(?)美青年で


「どうぞ、オイシーイですから。」


にっこり微笑まれると、ふらふらとショーケースに引き寄せられる。
口の中でさわやかなレモンの香りがはじけ、
笑顔と製品が気に入って、つい小さな箱をお買い上げ、となる。

つと真向かいに目をやると、若い販売員の女性が


「いらっしゃいませ。
 ただいま、当店のショコラティエが来店しております。」


隣を見るとがっちりと筋肉質な男性が、白い調理服で
無言のまま腕組みしている。


「これにはお酒は入ってないの?」


別の客からの問いかけに


「酒?うちのには酒入ってるのなんか、ないですよ」


目の前をヒラヒラと行き来する、フランス人美青年をにらみつけながら、
イライラと答える。
不機嫌そうな声に押され、その客も佳代子もそっとショーケースを離れた。


まあ、気持ちはわかるけど、チョコは笑顔と仲良しなのよ。


「ボンジュール、マダム。このチョコレートは、天国の味がしますよ。」


ネクタイを締めた、ロマンスグレーのフランス紳士が、
にっこりとチョコを差し出す。


受け取っていただくと、芳醇なリキュールの香り。


「ね?大人の女性にぴったりのチョコです。
 もう香りがバツグンですから。」


チョコもおいしいが、紳士の笑顔にも酔ってしまいそう。
ふらふら、と財布を取り出しそうになる自分を必死に押さえる。


ほぼ一周したところで、佳代子は立ちすくんでしまった。

困ったわ、どれにしようかなあ。

フランス産のしゃれた造形とユニークなフレイバーに魅了されるし、
伝統のベルギー勢もやっぱりおいしいし、
コンクールで賞を取ったという新生ショコラティエの、
新しい味わいにも惹かれるし・・。

う〜ん、どうしよう!


入り口近くへ舞い戻ってきたところで、
白い調理服を着た外国人がまた一人、丸テーブルに座っているのが見えた。


「アレ?」


どこかでお見かけしたお顔である。
ふと横を見ると、有名チョコショップのすぐ横に張られたポスターに、
同じ顔が大きく映っている。

え?ウソ!

折しも、高価なチョコレートの箱を3つも買ったおじさまが、
うれしそうに彼のサインをもらい、肩を組んで写真まで撮ってもらっている。

待って!

わたしは独身時代から何度もあなたのお店に行き、カフェにも通って、
すっかりチョコに魅了されてしまったんです!

などとフランス語で言えるわけがないので、あわててガラスケースから、
バレンタイン限定詰め合わせを買うと、
ムッシュウ・マルコリーニの方へ恐る恐る歩み寄った。

ショップの女性に「どうぞ、こちらへ」といわれ、震えながら箱を差し出すと、
ムッシュウはやや不機嫌そうな顔で、サラサラと箱にサインをしてくれる。


あの・・・


日本語しか出てこなくて、言葉を詰まらせている間に握手をしてくれ、
微笑んで傍らをさし、写真を撮っていいと伝えてくれる。

えええ〜〜!
そんな、そんな心構え、できてないわ。
あこがれのチョコを作った、あこがれの芸術家と並んで写真を撮るなんて。

でもあっさり写してもらってしまい、もう一度握手をしてもらうと
ぽうっとしながら列を離れる。


ああ、信じられない・・・。


ため息をつきながら、ぼんやり視線を外にさまよわせると、
女性9割の群衆越しに、頭ひとつ分飛び出した、
男っぽい姿が目に入った。

「?」

一瞬、誰だかわからなかった。

男性は日に焼けた顔を、まっすぐこちらに向け、
太い腕に抱いた赤ん坊をたくましい肩近くにまで揺すり上げると、
ようやくそれが、自分の夫であることを認識した。


しまった!いつから見てたのかしら?


黒い目でひた、と佳代子を見つめた表情は、やや険しく、
悪いことをしたわけでもないのに、急に佳代子は落ち着かなくなった。

子供を片腕に乗せ、ベビーカーを引いた仁が近づいてくると
その威圧感はますます大きくなり、近くの女性たちがチラチラと、
異質なものでも見るように、ずば抜けてたくましい夫に視線を投げる。


「あ、あ、ここまで来てくれたの?
 ごめんね。
 ちょっとだけ見たら、すぐ戻ろうと・・」

「ちょっとだけ?もう一時間経ってるぞ。」

あら。

「そんなに経った・・・かしら」


佳代子の顔が赤くなった。

「希(のぞみ)が泣き出したんだ。腹が減ったらしくて」

筋肉隆々の腕がぬっと、小さな赤ん坊を突き出したので、
佳代子はあわてて、提げていたチョコの紙袋もそのままに希を受け取る。

仁の腕の中で、すこしぐずったような顔をしていた希は、
佳代子に抱かれるとぴたりと泣き止み、にっこり笑うと

「ア〜」

と呼びかけた。
とたんに佳代子のお乳がぱんと張って、かすかな痛みを覚える。


「ああ、ああ、のぞみちゃん、おっぱいが欲しいの?」


体中から、ざあっと液体がおっぱいへと集まっていく感じ。
これはいったい何なのだろう?
母性本能?条件反射?
希がおっぱいを欲しがったとたん、佳代子の体が反応する。

仁は少し悔しそうだ。

「さっきは夢中で俺に抱きついて来たくせに。」

何と言われても、のぞみの笑顔を見れば気にならない。

「おっぱいあげてくる。確か、この上に授乳室があったはずだから。」

ああ、荷物貸せよ。


佳代子はバッグとチョコの入った紙袋を、ためらいながら差し出し、
仁が受け取ってベビーカーを押し始めた。


「思い出した。」

「え、何を?」

「前に、褐色の肌の恋人がいるとかって聞かされたな。
 色白のフランス男にも弱いとは知らなかった。」

「あ、あこがれのショコラティエだったのよ。」


へどもどと答える佳代子に、仁の視線は容赦ない。


「希、ママはチョコに夢中で、おれたちのこと忘れてたぞ。
 パパと帰ろうか。」

仁が手を差し出しても、希は笑ったまま、
佳代子の胸に頭をもたせている。

「ほら、パパのところへ来いよ。」

さらに腕を差しだすと、希は佳代子の胸に顔をすりつけ、
イヤイヤをした。

「ちぇ、おっぱいには敵わない。」

仁は不服そうにつぶやいたが、佳代子はうれしかった。

夫や祖父母、義妹まで、争うようにのぞみをかわいがってくれるが、
ぐずりだして手に負えなくなり、母である佳代子に渡されたとたん
ぴたっと泣きやむ。

今まで抱いていた人間が、一瞬、面白くなさそうな顔をするのと反対に、
佳代子は、まるでのぞみが自分の一部のように感じられて、
愛しさが増すのだった。





妊娠中毒症で救急車に搬送され、
間一髪のところで助かった命の成長はうれしくて切なくて、
夫婦は娘のどんな仕草にも一喜一憂してしまう。

月足らずで生まれたのぞみは、出生体重が少なく、
保育器から出るのにかなり時間がかかった。

体が小さいから、母乳を飲むにも一度に沢山飲めず、
やっとのことで小さなおなかをいっぱいにして眠ったかと思うと、
すぐおなかが空いて、またおっぱいを欲しがる、の繰り返しで、
病院から帰ったばかりの佳代子は、まともに眠るひまなどなく、
きれぎれの睡眠のなかでまどろむのがせいぜいだった。


「のぞみが眠るのと一緒に、あなたも眠ったらいいのよ」


佳代子と生まれた子供の無事を喜んでくれた母が、
退院後、母子もろとも実家に引き取って、
娘と孫の世話を焼いてくれたおかげで、
ようやく佳代子自身の体力を回復することができたのである。

佳代子が落ち着くにつれ、希(のぞみ)も落ち着いてきた。
小さな体が愛らしく丸くなり、授乳時間もだいぶ間隔が空いた頃、
ようやく、お台場の仁のもとへ帰ってこられたのである。

海外事業本部の課長となった仁は、以前にも増して忙しく、
あちこちへ出張を繰り返している。

行き先は、かつての赴任地であるマレーシア、世界4位の人口国インドネシア、
経済成長を続けるベトナム、民主国家へ転身をはかるミャンマーなど多岐にわたり、
もちろん中国本土への出張も多い。

円高が進んだ日本の製造業が生き残るには、生産地の開拓は不可欠で、
仁の出張が減るみこみはない。





デパートの授乳室で、おっぱいをあげて戻ると、仁が誰かと話している。
希を抱いた佳代子が近づいていくと、仁の相手がパッとお辞儀をした。


「うちの家内です。」

「初めまして大場佳代子です。主人がいつもお世話になっております。」

「いえいえ、お世話になっているのはわたしのほうです。
 大場さんとはベトナムで食器の買い付けをしている際、
 お会いしまして・・」


黒い髪をショートにした、感じのいい若い女性である。
商社の買い付け係担当で、かなりの品目を手がけているらしい。
女性の服飾品から食器、雑貨、そして階下の高級チョコレートまで。


「チョコレートはわたしの好物なので、いちばんうれしい仕事なんです。」

「まあ、うらやましい!」


佳代子が思わず反応すると、仁がすかさず、


「うちのもチョコレートに目がないんです。
 さっきだって、子供の存在を忘れるほど夢中でね。」

「仁!」


佳代子がとがめるような顔で言うと、若い女性は楽しそうに


「わかります。チョコ好きだったら、こんな場所にいれば
 何もかも忘れてしまいますよね。」


はい、と勢いよく応えるわけにも行かず、
はあ、まあ、とあいまいな返事をつぶやいたが、
仁は佳代子から希をひょいっと受け取ると、


「同好の士が見つかって良かったな。」


相手の女性は、仁の皮肉にもまるでひるまず、
ニコニコと佳代子に向き直ると、階下のショップ案内図を取り出し


「おすすめチョコがいくつかあるんですよ。
 これとこれ!
 まだマイナーですけど、かなりおいしいです。
 わたしが買い付けたんです、良かったら試してみて下さい。」

「わあ、ありがとうございます。ぜひ試してみます。」


パンフを佳代子に預けると軽く頭を下げ、
さっそうとした足取りで去って行った。

後ろ姿を見送った仁は、佳代子に向き直り、


「さっきの売り場にもどるか?」
「ううん」
「地下で弁当でも買って、どっかで食って帰るか。」
「うん、そうしましょう。」





佳代子の小さな赤い車は、今では仁が運転する方が多くなっていた。
後ろの座席には頑丈なチャイルドシートが取り付けられ、
希がすうすう寝息を立てて眠っている。

辰巳地区にある、ラグビー練習場そばの公園にやって来た。
大きな木々が風をさえぎり、冬のひざしでぽかぽか温まった、
木のテーブルとベンチがあるからだ。

おだやかな休日。
3人一緒のこんな日は、実は数えるほどしかない。


ベビーカーに移されてもぐっすり眠ったままの希が起きる前にと、
仁と佳代子は買ってきた弁当を開く。
仁はシンプルなカツサンドだが、佳代子のはいろいろなおかずが
格子状につめられた、カラフルな弁当だ。

仁は大きな手でカツサンドをつかんだまま、隣をのぞき、


「女って、こういうちまちまとしたのが好きだよな。」

「いろいろ食べてみたいもん。」

「あれこれつまみ食い、浮気性なんだよ。」


言われて、先ほどの写真撮影を思い出し、ちょっと顔を赤くする。


「お料理の参考にもなるのよ。」


疑わしそうな目で佳代子をちらりと見ると、
仁はさっさとカツサンドを片付けた。


「いい天気だ。」


真っ青に晴れ上がった空を見上げて、満足そうにつぶやく。
今朝はラグビーのメンバーに弔事が重なり、
キャプテンの大輔が出張とあって、めずらしく練習中止となった。


「プレイしたかった?」

「う〜ん、プレイしたかったけど、こんな風にゆっくりもしたかった。
 正直、ほっとした。」


のぞみの寝姿をチェックする仁の横顔を見て、佳代子もほっとしていた。
こんな週末は、今後ますます少なくなるだろう。
4月に自分が職場復帰したら、どんなことになるのやら。

ベビーカーから、くすんくすんと希の泣き声が聞こえてきた。
まだ食べていた佳代子が立ち上がろうとする前に、
さっと仁が抱き上げる。


「目が覚めたのか。ほうら、もう抱っこしたぞ。」

希が半分目を閉じたまま、小さな手で大きな父親の胸のあたりを探る。

「ああ、残念ながらおっぱいはない。
 おっぱいはないけど、こんなことはできる。」

そう言ってぐるん、と逆落としにすると、希が大きな笑い声を立てた。

ほら、もう一回、もう一回!

仁が希を振り回し、逆さまにしたり、抱き上げたり、
その度にうれしそうな笑い声を立てた。
見ている佳代子がひやひやするくらい乱暴な動きだが、
希は大歓迎らしい。


「さあて、そろそろ地球に着地だ。」


ようやく食べ終わった佳代子のひざに、希をそうっと下ろすと、
希はうれしそうに膝をまげてぴょんぴょんし、
せがむように仁へ、手を伸ばす。


「あれ?ママよりパパがいいのか?
 しょうがないな。」


もう一度、佳代子の膝から急上昇で抱き上げると、
希がまた、大きな笑い声を立てた。


「もう、仁!
 明日も同じことを要求されるのよ。
 腰が痛くなっちゃう。」


佳代子の苦情にはまったく取り合わず、
仁は楽しそうに希をあやし続けている。




 


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