AnnaMaria

 

セピアの宝石 「のぞみ」6 "のぞみ"(最終話)

 

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「佳代子、目をさませ。」


何度も仁は呼びかけた。
まだ続く熱のせいで、額にはりついた髪をそっとのけてやる。

佳代子に苦悶の表情はないが、時折、ほんの少し眉をひそめたり、
かすかに顔を動かしたりする。

となりのベッドは空になり、さらに奥の患者は眠っているらしく、
かすかにいびきが聞こえて来た。


「大変なときに、側にいてやれなくて悪かった。
 子どもは助かったぞ。
 佳代子が命をかけて守った結果だ。

 お願いだ、目を開けてくれよ。
 なあ、佳代子、佳代子・・・」


また、まぶたの下で目が動いているのが見える。
仁は勇気を得て、さらに呼びかけを続けた。


「そうだ。もう目をさます頃合いだぞ。
 俺も子どもも待ってる・・・。
 目を覚ましてくれたら、何でも言うことを聞いてやる・・・」


くちびるがふわふわとかすかに動き、まぶたはさらに震えた。
まつげが揺れ、重そうに何度もまばたきをした後、ついに佳代子の目が開いた。


「佳代子!気がついたか?俺だ。」


両手で佳代子の左腕をつかむと、半開きの瞳がこちらに動いて、
仁の上に像を結んだようだ。


「じん・・・・」


気がついたら、管だらけの佳代子をシーツごと抱きしめていた。
佳代子の頬に自分の頬をすり寄せ、生きている感触を確かめる。

柔らかくて温かい。いや熱い。

だが、生きている命の熱さだった。
ぐっとこみ上げてくるのを懸命にこらえる。

かすかな苦痛の声が聞こえると、あわてて体を離し、手を握り直すと
こわばりながらも、微笑もうとしているのが見て取れた。


「よく・・・頑張ってくれた。
 子どもも助かったぞ。」


聞こえたのか、聞こえなかったのか、佳代子はあまり表情を動かさない。


「たす・・かった?」


しばらくして、かすれた声が聞き返す。


「ああ、助かった。今は新生児集中治療室にいる。
 昨日、顔を見て来た。」


仁の言葉にも今ひとつ反応がない。


「佳代子?」


大きな手に包んだ、傷だらけの手をそっとさすると、


「おんなの子・・・?」

「ああ、そうだ。よくわかったな。」


佳代子の顔に初めて微笑みがうかんだ。


「戻ってきて・・くれたもの。
 手つないで、さんぽした・・・」


仁は佳代子がうわごとを言っているのだと思った。
まだ現実と夢の境がはっきりしないのだろう。

佳代子のくちびるがうごいて、また何か言っている。
仁は立ち上がって、口元に耳を近づけた。


「・・・ほん・・と?」


一瞬、何を言ったのか、わからなかったが、
「ほんとだ。まだ抱くことはできないが、元気に・・」
言いかけると佳代子の頭がかすかに揺れ、口元に笑みが浮かぶ。


「なんだ?」

「なんでも・・・するって・・」


一瞬、ぽかんとしたが、さっきの自分の言葉を指すのだと気づくのに、
しばらくかかった。
急激に笑いがこみあげてくる。


「なんだ、瀕死の病人かと思っていたのに、ちゃんと聞こえてたんだな。
 死ぬほど心配させておいて、現金な奴だ。」


佳代子がかすかに目を大きく見開いて、くるんとして見せる。
たまらなかった。
またベッドにおおいかぶさり、力いっぱい抱きしめる。
管を抜いてしまわないようにだけ、気をつけた。


「いた・・」


佳代子の抗議に、しばらく我慢しろ、と言い返し、
額をくっつけながら、腕からうなじへ、うなじから頬へと
震える指で生きている感触を確かめた。


「ヒゲが・・」

ああ、そうか。

自分のあごをなでるとヒゲがちくちく手のひらに当たる。
ヒゲを剃っていないのすら、忘れていた。


「悪い。今後はちゃんと剃って来る・・・」


愛しい頬をいかつい手の甲で撫でてやると、
佳代子が満足そうに目を閉じて、ほっと息を吐いた。


「会いたい・・・」


子どものことだとわかっていた。
昨日見た子どもの変色した頭部を思い、少し不安になったが、
顔には出さなかった。


「佳代子が動けなかったら、いつまでも会えないぞ。
 ちゃんと休んで抱っこできるようになろうな。」


佳代子が素直にうなずいた。
子どものようにまっすぐ仁を見つめている。

あまりにもむき出しの視線に、仁は目を背けないようにするのが精一杯だ。

いずれ、わかる。
いずれ、色々なことが明らかになるだろう。
その時、黙って受け入れられるように、今から心の準備だけしておけばいいのだ。


集中治療室は、一度に最大5分までの面会しか許されない。
気づくと、仁の肩に看護士の手が乗っていた。

ふりむくとマスク越しに無言で退室を促している。


「じゃあ、佳代子。またすぐ来るから、ゆっくり休んでくれ。」


小さくなった顔がこくんとうなずくのを見て、仁は退室した。




翌朝、病院にやって来た仁は、佳代子が一番奥の個室へ移されたのを聞いた。

廊下を歩くと、そこここの病室から赤ん坊の泣き声がする。
この病院は厳しい母子同室制を取っているそうで、
お産を済ませるとすぐに赤ん坊の面倒を見なくてはならないらしい。

ガウン姿のまま、ゆったりと廊下を行き来している産婦たち。
疲れて眠そうでも、母になった喜びに満ち、満足感が漂っている。

今の佳代子には見せたくない光景だと思いつつ、
とにかく妻子がこの世にとどまってくれたことに感謝した。



中庭に面した佳代子の病室には、穏やかな光が差し込んでいた。

重点病棟では幾つものモニター音、ひっきりなしのナースコール、
病棟前を横切る慌ただしい足音などで、常に落ち着かなかったが、
ここは別世界のように静かだ。

つながれた管も少し減ったようで、
天井から吊り下がった点滴は2本。他の管が2本。


「佳代子・・・」


窓を向いていた顔がゆっくりとこちらを向き、
仁を認めると微笑んだ。


「仁・・・」

「おはよう。気分はどうだ?」


顔色から赤味が消えて、唇もひび割れていない。
熱が下がったのだろうか?

仁が額に手を当てると不思議そうな顔で佳代子が見上げる。


「ここは涼しい・・・でも」

「なんだ?」


佳代子の額にかすかにしわが寄る。


「腰が痛くて・・・。
 からだが動かせないのよ。
 動かそうとすると、裂けそうに痛いの。」

「無理するとまたぱっくり開くぞ。」


仁は脅しながら、佳代子の背中に差し込まれている枕の位置を変えてやった。
少しだけ体がこちら向きになる。


「どうだ?」

「ん、いいわ。」


佳代子がうれしそうにため息をつく。


「赤ちゃんに会った?」

「今朝はまだだ。」

「そう・・・あの・・・」


佳代子がわずかにためらう。


「どうした?」

「おっぱいが張ってきて・・・。痛いくらいなの。」

「どれ・・・」「だめよ」


言うことを聞かない大きな手は、難なく病人の衿元をくつろげた。
真っ白な乳房が大きく張り切って、いく筋もの血管が青く浮いている。


「これは・・・すごいな。」

「やめてよ、仁。」


佳代子が覚束ない右手で、無礼な手を払おうとしたが果たせず、
仁が微笑みながら、ゆっくりと佳代子の胸元を直した。


「きっと子どもも待ってるんだろう。」

「うん、仁・・・・」

「ん?」

「なまえ、決めた?」


仁の指がゆっくりと佳代子の髪を撫でて、流れを整える。


「ああ、もうほとんど決めている。」

「ほんと?おしえて・・・」

「もう一度、子どもの顔を見て決めるよ。」


佳代子がじっとこちらを見つめ、急にぽろりと涙をこぼした。


「どうした?」

「いちども・・・会わせてもらえない。どうして?」


仁は向こう側に垂れている、佳代子の右手を取った。


「まだ、この世の空気に馴染んでなくて、保育器から出られないんだよ。
 佳代子の準備ができるまで、プロのスタッフが大事に面倒見てくれてる。
 俺が写真撮ってきてやるから、焦らないで治ることを考えろ。」

「ん・・・」


涙を拭き取ってから、こめかみに口づける。
昨夜までの熱はあらかた消えたようだ。


「会社は?」


思い出したように佳代子が訊いた。


「明日から行く。ひんぱんにメールはやり取りしているから、心配するな。」

「ごめんなさい・・仁」

「なんで謝る?佳代子はなんにも悪いことしてないだろ。
 それとも・・」


仁の瞳が意地悪そうにきらりと光る。


「俺がいなくなってから、詩織たちに特製チョコをたんまりもらって、
 一気食いしたとか?」

「・・してない・・」

「わかってるさ。」


ぎゅっと手を握ると、ささやいた。


「明日から夕方しか来られなくなるけど、待っててくれよな。」

やくそく・・。

佳代子の上にかがんで、戻ってから初めてのキスをした。





個室に移ってからの佳代子は順調に回復した。
1週間ほどで重湯の食事も始まり、そろそろと壁をつたいながら
トイレにも行かれるようになった。

相変わらず、一度もわが子に会えなかったが、
自分から新生児室に行けるまでは、無理だろうとわかっている。


「大場さん、今日、ご主人来られますか?」

血圧を測っている看護士が尋ねた。

「はい、夕方ですけど。」

「じゃあ、先生に伝えておきます。一度、お話をしたいと言っていましたから。」



夕方、仁が来ると担当の鈴原医師がやってきた。
相変わらず忙しそうだが、人なつこい笑顔を浮かべている。


「佳代子さんも何とか動けるようになってきたので、
 そろそろ赤ちゃんに会わせてあげたいと思っています。
 ですが、その前にこれまでの状況を説明させて下さい。」


佳代子が常位胎盤早期剥離を起こしてから、子どもの現状まで、
鈴原医師の説明は率直でていねいだった。


「佳代子さんの退院はあと10日くらいだと思いますが、
 赤ちゃんはもうちょっとかかるでしょう。
 退院後は体調のいい時、なるべく病院に通ってあげて下さい。」


佳代子はうなずいた。


「じゃあ、行きましょうか。」


鈴原医師が先に立ち、車いすに乗った佳代子を仁が押した。
NICU(新生児集中治療室)に入る前の手順を済ませ、ようやく重い扉が開く。

車いすの佳代子は、保育器に寝かされている赤ん坊たちを
横から、珍しそうに覗いていく。

車いすが止まり、低くなった箇所に置かれた保育器の中に
小さな生き物が「居た」。

佳代子は先ほどの説明で覚悟をしていたものの、
頭部全体が赤紫に変色しているのを見ると、思わず口元を覆う。

鈴原医師も後ろにいる仁も、無言でただ待った。

もう一度、佳代子が車いすから乗り出す。
保育器の横の、自分の名が書かれたラベルを読んで、子どもを見る。

手足はすべすべときれいで、ふっくらと可愛らしくくびれている。
小さな口を少し開き、あぷあぷと何か呟きながら、
澄んだ目をして、どこかを一生懸命見つめている。
佳代子のことは気づかないようだ。


「この子?」

ふりむいて仁を見上げると、ゆっくりうなずいて微笑んだ。

「ああ。俺が最初見たときより大きくなって、皮膚がきれいになった。
 首までうっ血のあとがあったのに、もうあご近くまで消えている。
 そのうち、全部消えますよね。先生?」

「そうですね。完全に消えるかどうかは、わかりませんが、
 変色の残った赤ちゃんのほとんどは、きれいになっています。
 大場さんの赤ちゃんもたぶん大丈夫でしょう。」


佳代子はじっと子どもをみつめ、無意識に保育器の外側を撫でていた。

お腹にいたのは、この子だったんだ。
よくぞ助かって、生きていてくれて・・・・。

気がつくと佳代子の目からぼろぼろと涙がこぼれてきた。
仁がハンカチを探って、頬を押さえてくれたが、それすら気づかないようだ。


「よかったですね、大場さん。」

「先生、ほんとに・・・ありがとうございました。」


佳代子は、笑顔の鈴原医師と、
すぐそばに立っているマスク姿の看護士へ、深々と礼をした。




『大場希』
半紙に墨黒々と大書されたものを、ベッドの足元に留めた。

「おおば のぞみ。どうだ?」

のぞみ、希望、ねがい、わたしたちの未来・・・。


佳代子はじっと半紙を見つめていたが、ゆっくり頷いた。


「すごくいい名前。のぞみちゃんね。これから、そう呼んであげなくちゃ。」

「ああ。」


仁はベッドの端に座って、右手を取った。
左手には相変わらず点滴の管が刺さっている。


「先生の説明にもあったけれど、のぞみは生まれるまでに少し時間がかかった。
 その間、酸素が行き渡らないときがあったんだ。
 今のところ、元気に手足をぴこぴこ動かしているが、
 他に障害が残っているかもしれない。」


佳代子はうなずいた。


「わかっているわ。
 わたしが呼び戻したようなものだもの。
 一度、手をひらひらさせて、ばいばいするみたいに向こうに行ってしまった・・。」


佳代子は自分が見た夢を、仁に話した。


「だから、女の子だと思ったの。」

「そうか・・・」


仁は自分が見た「流星」の話をしなかった。
これ以上、不安のタネを増しても仕方あるまい。

佳代子の頬をゆっくり撫でる。


「佳代子の方が先に帰ってきてくれそうだな。
 俺はあの部屋にひとりで居ると、寂しくて仕方がない。」

「もともとは、ひとりで住むための部屋だったのに。」

「もう佳代子がいないとダメだ。早く帰ってきてくれ。
 一緒にのぞみに会いに通おう。」

「あの・・・実家から『戻ってこないか』、と言われているんだけど。」


仁は佳代子から手を離した。


「それもいいかもしれない。
 しばらくお母さんのところで静養してから、帰ってくるか?」

「う〜ん。」


佳代子は仁の分厚い手を自分から取って、頬に当てた。
唇をこすりつけながら、仁の感触を味わう。


「わたし、仁のところにもどりたい・・・」

「よし!早く帰ってこい。待ちきれない・・・」


仁が佳代子を抱きしめた。
かなり細くなってしまったが、胸にあたる弾力だけは増したようで、
長い髪を撫でながら、耳のふちにキスをする。





予定より五日ほど早い土曜日、佳代子は車いすで退院した。


「せめて、貧血の数値がもう少し改善してから、と思ったんですがね。」

「家でゆっくり静養させると誓いますから。」


心配げな鈴原医師に仁が約束をした。


「まあ、いいでしょう。
 ご主人と一緒の方が佳代子さんの回復も早いでしょうし、
 赤ちゃんがいる限り、佳代子さんの様子も頻繁に見られるでしょうから。」


佳代子が仁の腕につかまりながら、にっこり微笑んだ。


「子どもをよろしくお願いします。」

「それはもう・・・お母さんを待っていると思いますが、
 くれぐれも治ってから。でないともう一度、病室に逆戻りさせますよ。」

「はい。」
 
 
病院の玄関を出たところで、佳代子は声をあげそうになった。

入院前の脳裏に刻まれていた、柔らかい春の景色が一変し、
あたり一面、鮮やかな新緑に覆われていたからだ。

植え込みには、さつきがびっしりと花を咲かせ、
病院前の桜並木は葉桜となり、力強い生命力を感じさせる。
待ち望んでいた春はすでに失せ、季節が既に移っているのを痛感した。


「桜、見そこねちゃった。もう初夏なのね。」

佳代子のつぶやきに、
「来年の春、3人で見に行こう・・」

仁が答えて、タクシーに合図する。

荷物をトランクに積み込むと、車いすから佳代子を抱きかかえて、
後部座席に座らせてから、自分も乗り込んで行き先を告げる。

佳代子は何日ぶりかに洋服を着たものの、体中が覚束なくてふわふわした。
物珍しそうに車窓から外を眺めている佳代子に、ふっと仁がささやいた。


「娑婆の空気はうまいだろ?」

うん・・・ほんとに。
すごく外に出たかった。



お台場のマンションに着くと、頼んでおいた車いすをロビーから引き出し、
佳代子を座らせると、タクシーを帰す。

エレベーターを上って懐かしい部屋に帰ると、涙が出そうに嬉しかった。


「さあ、お姫さまは寝なくちゃいけないんだぞ。」


玄関にとめた車椅子から楽々と佳代子を抱き上げ、
まっすぐにベッドに運び込もうとすると、


「待って、少しだけソファにいたいの。着替えもしたいし・・・」

仰せのままに。


部屋の中央で佳代子を抱き上げたまま、大げさに半回転すると、
そっとソファに下ろす。

荷物類を運び込んでもらう間、佳代子は見慣れた部屋の中を見回した。

何もかもすっきりと片付いて、自分がいた時より掃除が行き届いている感じだ。
窓際のカウンターには、きれいな花まで飾られている。

佳代子の視線を追うと、仁が


「あ、それ、詩織たちからの見舞いだ。
 病院に行かれなかったからって・・・」


ピンク色のバラがぎっしり生けられ、
その向こうに、お台場の空が青く広がっている。


「仁・・・こっちに来て。」


荷物を片付けていた仁は、佳代子の声でソファに座り、
妻を抱き取ると、自分の胸に包んでもたれさせた。


「仁のにおい・・・」


なつかしい胸元に顔をこすりつけて、目を閉じる。


「仁の手・・・」


自分に回されたたくましい腕を大事そうに撫でると、肩に手を置く。

仁がキスをしてくれた。
ゆっくり甘い、じらすようなキス。

佳代子を探り、遊び、誘うように触れると、
そろそろと中へ入ってきて、舌をからませる。

追いかけると引いて、引きそうになると忍び込む。
佳代子の方が夢中になって、仁にしがみついていた。


あ・・・。

佳代子が不意に体を引いたので、仁が背中を支えた。

どうした?

え、あの・・その。
にじんで来ちゃうから・・。


仁はしばらく考えて、はっと破顔すると佳代子のブラウスを遠慮なく開き始めた。


「仁、やめて。」

「なんで?どうせ、着替えるんだろう。
 のぞみが来たら、俺は2番目にされそうだから、今のうちにゆっくり味わわないと・・」


真っ白な胸が開かれた。
ブラウスの胸元を押しあげ、濡らしていたのを解放する。


「本物の巨乳だな。」

仁が触れると、ほんの少し、佳代子が声をあげた。


「痛いのか?」

「少し。張ってきちゃって・・。
 ああ、体がすっかりお母さんになってるんだわ。」


もう、恥ずかしいから、と仁の手を払って胸元をしまおうとすると


「いいじゃないか。こんなきれいなものを見ずにいられない。
 すごい光景だ。」

仁・・・。

仁はやわらかくマッサージをするように触れて、最後に唇を寄せた。


「確かに『お母さんの匂い』だ。」

やめてよ・・・もう。

笑いながら胸元をきちんと留めると、また佳代子を胸に包む。


「ああ、うれしい。ここに戻ってこられて、ほんとに嬉しい。
 わたし、一瞬、もうダメかと思ったの。」

「そんなこと言うな。」


仁は佳代子を抱いたまま、髪に顔をおしつけた。

実は自分も一度はこの体を失う想像をした。
すぐに打ち消してはいたけれど。


「佳代子・・・愛してるよ。」


愛する夫の胸ごしに聞いた言葉は、懐かしい幸せだった。


「のぞみが来るまで、親になるウォーミングアップをしておこう・・・」

「そうね。すごく大変だって、みんな言ってたもの。」


でも、もう少し。今だけ・・・。


「仁に甘えていたいの。だめ?」

「いや。もういい、と言うくらい、う〜んと甘やかしてやる・・」


仁は笑って、強い腕に佳代子を抱え直すと、貪るように口づけを始めた。



        〜 End 〜 


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