AnnaMaria

 

春のきざし 4

 

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レポートは提出してしまった。
5時限めの授業は休講だ。

早く帰って、中心部の大きな本屋を冷やかすもよし、
ごぶさたを重ねている、サークルに顔を出すもよし・・・。

やっと何でもできる自由が得られたのに、
なんだかそうする気になれない。


クラスメイトに手を振ると、足はぶらぶらと図書館へと向いた。
一週間以上通いつめて、すっかり慣れた匂い。
ただし、3階の開架図書ではなく、2階の雑誌閲覧コーナーに向かう。

ここはいつも学生でいっぱいだったが、
授業がどんどん終わっている今、閲覧室の学生は半分にも満たない。

各種経済誌、美術雑誌、歌舞伎雑誌、スポーツ雑誌、
音楽雑誌、官報、業界新聞・・・。

多種多様な刊行物があり、自分では決して買わない分野のものも
立ち読みできるところが魅力だ。

端から順番にパラパラとめくりながらも、
どこか、もうひとつ心惹かれない。


ふと、回りを見回す。

古びた煉瓦造りの壁と、外の陽光をいっぱいにたたえる窓と、
少し空きの見える閲覧コーナーの机と、
カウンターで働くエプロンをした図書館スタッフと・・・。


いない。


一通り見渡してみて、恵子は自分が何を探しているのか、わかった。

いつも、ほとんど探さなくても、速水の姿はすぐ見つかったのに、
こちらから探すとなると、どこへ行けばいいのかわからなかった。
電話番号も知らないし、ふだん、どこにいるのかも知らない。

サークルに顔を出せば見つかるのかも知れないが、
何となく、この図書館で探してみたくなった。

会って、先夜のお礼が言いたい。
もし理不尽な父の怒号を聞いてしまったのなら、
不愉快な思いをさせたことをあやまりたい。

だが、速水の姿はどこにもなかった。

当然だろう。
速水だって、もうレポートを提出してしまったに決まってる。
そうしたら、こんなところに通う意味なんてないもの。

わかっていても、そこを動く気になれない。

結局、音楽雑誌を一冊手に取ると、
閲覧コーナーのソファに座って読み始める。


夢中になって読んでいたので、隣に誰が来たのか、
まるで気づかなかった。

ぽん!と腕をたたかれて、はっと顔をあげる。

速水だった。


「岡崎って、ほんと、サークルに顔を出さないんだな。
 レポート出したら来るかと思って待ってたのに。」


半分責めているような、面白がっているような口調だった。


「いえ、顔を出そうかな・・と思ったんですけど、
 あんまり久しぶりなんで、敷居が高くなっちゃって。
 ついこっちに来てしまったの。」


ふうん。


恵子は雑誌を閉じて脇に置くと、速水に向き直った。


「この間は本当にありがとうございました。
 おかげですごく助かりました。」


深々とお辞儀をして、速水の顔を見る。


いいんだよ。俺が言い出したんだから・・。


そっけないほどの言い方だ。


「でも速水さん、めちゃくちゃ遅くなっちゃいましたよね。
 すみませんでした。」


また、がばっと顔を伏せて上げると、速水があたりを見回して
耳元に顔を寄せ、

「出ないか?
 ここは一応図書館だ。
 雑談してると、たちまち注意される」


あ、はい。


二人で図書館の外にでると、春の日差しがさんさんと降ってきた。

キャンパスの芝生を見渡すと、桜の枝がさらに赤らんで、
梅だか桃だかの木々は花盛りだ。


「わ、明るい。」


恵子の言葉に速水が笑った。


「いっつも闇の中を帰ってたからな。
 明るいと調子狂うんじゃないか・・・」


速水は黒い綿スエードのジャケットを着て、
襟元にモスグリーンのマフラーを巻いていた。

陽光の下で見ると、もっと髪が茶っぽくて、
背が高く、足が長く、派手な容貌に見えた。


「ほんとだ。速水さんってけっこうカッコいいんですね。」


恵子が素直な気持ちで言うと、


「何だよ、今さら・・・」


速水が照れて、恵子の肩をつん、と押した。


「あっちのカフェテリアでコーヒー飲んでもいいけど・・・」

誰かに見つかりそうだな。


速水が口の中でつぶやいた。


「え?」


恵子が聞き直すと、速水がこちらを向き、


「岡崎、今日は明るくて、不審者も出そうにないが、
 一緒に帰らないか。」

「はい。でも速水さん、もう用事はいいんですか?
 サークルの方に戻らなくても・・」

「いいんだ。もう目的は果たしたから・・・」

\
行こう。





重苦しい一週間、通った道とは別の場所のようだった。

木々に若芽が吹き出してきらきらと輝き、
桜の枝に赤いつぼみがふくらんでいる。
薮は緑に輝いて、昨日の雪をわずかに足下に残していた。


「春みたいだなあ。」

「ええ、もう3月ですから・・」

「そうだな。」


二人の足取りも軽く、かすかに湿ったアスファルトの道を難なく進んで行く。


「一昨日は真冬みたいでしたね。」

「ああ、クリスマスみたいだった。すごかった。」


速水も楽しそうに声をあげて笑った。


アスファルトの上に、相変わらず湿った笹がでろんと伸びきっていて、
雪が溶けても、葉の勢いは戻っていなかった。


「これで滑りそうになったんだわ。」

「そうだね。もう大丈夫?」

「もちろんです!」


そういって、恵子が笹を踏みつけると、
ずるっとかかとが滑って、あっという間に体が傾いた。
すかさず、速水が腕をひっぱりあげてくれる。


「ちっとも大丈夫じゃないじゃないか。」

「すみません。まだ湿ってますね。」


速水の手はすぐに恵子の腕から離れて行った。
残念だけどしかたがない。





あの雪の一日が、二人の間にあった壁を取り去ったようで、
電車の中でも、恵子はよくしゃべった。
速水が時折、びっくりしたように見つめているのがわかったくらいだ。


「あの・・・呆れてます?」

「え、何に?」

「何ってその・・」


自分がしゃべりすぎているのがわかって、恵子は少し恥ずかしくなった。


はしゃいでいる。はしゃぎ過ぎているくらいだわ。


「岡崎がすっげえおしゃべりだったってこと?」


速水が言葉を継いだので、恵子は横目でにらんだ。


「わかってるんじゃないですか!」

はははは・・・・。

速水だって、これまでの3倍くらい笑っているような気がする。


「別に呆れてなんかいないよ。
 岡崎が無口だと思ってたわけじゃないんだ。
 友だちとだと楽しそうにしゃべってるだろ?
 だけど、あんまり親しくない人とだと、黙っちゃうみたいだから・・・。

 うん、うれしいよ。」


速水の言葉は、浮かれていた恵子の胸をざわめかせて、
急に言葉が出てこなくなってしまった。


「おいおい、急に緊張するなよ。」

「あ、別に大丈夫ですから・・・。」


自分が赤くなっているんじゃないかと思うと、
余計、言葉に詰まってしまう。





あっと言う間に、ターミナルの駅についた。

沢山の人がひしめくラッシュ時には、まだわずかに間があり、
駅前の人ごみも静かな流れを見せている。

さよならを言おうと、速水を見上げた恵子に、


「まだ時間ある?」

「ええ」


きょとんと答えた恵子に向け、親指をくいっと手前に動かすと、
なら、ちょっとつき合えよ、と速水は大股に歩き始めた。





ミュージックショップに行って、新譜をチェックし、
本屋に寄って、それぞれの好きな本や雑誌を探す。

二人バラバラなようで、一緒の時間を過ごすと、
速水がコーヒーショップに連れて行ってくれた。

砂色の壁がシックなジャズ喫茶で、
カップルもグループもいるにはいたが、
男性の一人客が目につく。


「速水さん、よくここへ来るんですか?」


コーヒーを注文すると、恵子が回りを見回しながら訊いた。


「う〜ん、たまに・・・。」


確かに好きそうな場所ですね。

何でわかる?

だって、ビル・エバンスが好きだって言ったでしょう?

そうだな。覚えてたのか。


「岡崎はジャズ喫茶とかハードロックカフェとか、行ったことないの?」


恵子は首をふって笑った。


「でも、この裏の喫茶店には、何度も来たことがありますよ。」

「へえ、何かあったかな。」


速水が考えるような顔をした。


「すっごくおいしいバナナマロンパイがあるんです。」

なんだ、そっちか・・・。


速水はまた笑ったが、何か考えている風だった。

恵子は、黙ってコーヒーを飲みながら、
速水の大きな手が白いカップをつかむのを見ていた。

大きくて、骨張っていて、でも器用そうな手。
どんなにこの手が温かいかも知っている。

この手がベースを奏でるところが見たいな・・・。


「速水さん、もうライブに出ないんですか?」


ああ、ライブね。


「実は、あの店、うちのバンドの棚倉の親戚がオーナーなんだよ。
 前座バンドが急に解散しちゃって、すごく困ってて、
 俺たちがピンチヒッターだったわけ。」

「そうなの。」

「まあまあの評価だったから、また声がかかるかもしれないけど、
 かからないかもしれない。
 わからない・・・」


速水が照れたように笑ったが、またコーヒーを見ながら、
黙り込んでしまった。


どうしたのかしら・・・。


「速水さん、なんか悩みがあるんですか?」

「え、俺?」


いや、悩みっていうほどじゃないんだけど・・。


ちらっと恵子をみると、口を開きかけたが、
また手をふって、何でもない、と黙ってしまった。


会話がとぎれると、音楽が満ちて来た。
踊るようなジャズの旋律の底で、的確にリズムを刻む、
ダブルベースの音色。


ピアノもいいけど、サックスはやっぱりいいな。
こういうジャズバーもいいけど、やっぱり・・・。


「ねえ・・」

「あの・・」


二人が同時に口を開いた。


「何でしょう?速水さん、先にどうぞ。」

「いや、岡崎が先だ、一瞬早かったから・・・」


そんな、でも

仕方なく、恵子は切り出した。


「この前、ライブハウスに行かないかって言ってくれましたよね。
 あれ、本気だったんですか?」

「本気だ。」


速水はこちらに向き直ると、すぐに答えた。


「じゃ、今度連れて行ってくれませんか?
 あまり遅くなれないけど、早い時間からでもやっているなら・・・」

「6時半にオープンだよ。
 だけど、岡崎、家の方は大丈夫なのか。
 お父さんに怒られない?」


やっぱり聞こえてたんだわ。


「あの雪の夜、帰ってから父に怒鳴られて、ひっぱたかれました。」

「・・・・」

「何して遊んでたんだって。
 図書館でレポート作成してたって言おうとしたんですけど、
 聞いてもらえませんでした。
 それで、すっかり嫌になって、家を飛び出しちゃったんです。」

「あの夜に?」

「そう・・・あの雪の中に。
 で、駅までバスで戻って、
 一人でライブハウスに行ってやろうと思ったんですが、
 バスがもう終わっちゃってて行けなかった。」


それで、結局おめおめと家に帰ったこと。

父は恵子を家から蹴りだしもしなかったが、
もちろん謝りもしなかったことを話した。

あれから、母や弟が恵子の事情を何度も説明し、
一方的に責めて殴った父をいさめたので、
さすがに、あの夜のことはまずかったと思っているらしい。


「でも、何にも言わないの。
 悪いことも夜遊びもしてない娘をいきなりひっぱたいたのに。
 だからね、怒られた分、本当に夜遊びしてみたいなって。
 それに、前からライブハウスにすごく行ってみたかったの。」


恵子はテーブルに低くなると、速水の方に体を傾けた。


「連れて行ってくれますか?」


いきなり下から覗き込まれて、速水は少し狼狽したようだが、
恵子を見て、照れたように笑うと、


「ああ、いいよ・・・」


と返事をした。


うわ、うれしい!


恵子は椅子の背に、ばたんともたれかかると、
両手を組み合わせた。





店を出ると、急にあたりは暗くなっていて、
駅は通勤客でぐんと混み合っていた。


「岡崎の都合のいいのはいつ?」


店の外に立ったまま、速水が訊いた。


「う〜ん、実はね。
 来週の土曜日、家庭教師をしている女の子の都合が悪くて、
 お休みしたい、って言われているんです。」

「そうか。じゃあ、ちょうどいいな。
 来週の土曜にしよう。」


これ、俺の電話番号・・・。


ポケットから、かなりくしゃくしゃになっていた紙を取り出し、
恵子の手に渡した。

速水浩平とボールペンで記されたあとに、電話番号が書かれていた。


「浩平さんって言うの?」

「ああ・・。ぜんぜん知らなかっただろ。」


速水はちかちかっと目をしばたかせて、
いたずらっぽく恵子を見つめた。

また、胸がどきんとしたが、恵子もあわててボールペンを出した。


「あ、わたしの電話番号も教えておきますね。」


バインダーを取り出して、ピンクの紙を一枚引き裂くと、
不安定な場所で立ったまま、どうにか名前と電話番号を書き終えた。


「はい、これ。
 わたしは恵子です。」


速水は紙を受け取りながら、すこし笑った。


「知ってるよ。」

「どうして?わたし、あんまりサークルに顔を出さないのに・・」


速水は頭を振って、その問いには答えなかった。


「何時くらいまでなら電話していい?」

「10時くらいまでなら・・・。」

「わかった・・・」


速水はピンクの紙を適当に折ると、ポケットにしまった。

駅近くのバスセンターの大きな待合室を横目に、
恵子の乗るバス停に向かって歩いて行く。

二人とも無言だった。


大学はもうほとんど春休みで、恵子が行くのはあと一日だけ。
速水としばらく会うこともないだろう。
そう考えると、むしょうに寂しい気がした。

でも来週の土曜日には、一緒にライブに行ける。
それを考えると、うれしくて踊り出しそうだ。

ついその顔のまま、速水に目をやると、彼はすごく難しそうな顔をしている。


「どうしたんですか?」

「・・・・」


何か気に入らないことがあるのだろうか。

速水に本当は彼女がいて、ライブに行く約束なんかしたことを
マズいと思っているとか・・。


「あの・・速水さん、何かまずいことがあるなら、
 その・・無理にライブに連れていってくれなくても・・・」

「別にマズいことなんかない。」


怒ったように言う速水を、恵子はびっくりしながら眺めていた。


「じゃ、どうしたの?」


速水は恵子の方に向き直ると突然、立ち止まった。
駅近くの人混みの真ん中で立ち止まったので、たちまち人の波にぶつかる。
小さく罵る声まで聞こえた。

速水はあわてて、大きな柱の影に恵子を引っ張って行くと、


「岡崎、明日はヒマ?」


明日?


いきなり聞かれて、恵子はきょとんとした。


「明日は午前中、2時限の講義があります。
 それで大学はおしまいなの。」

「午後、空いてる?」

「ええ・・・」


速水は何度も前髪を掻きあげていたが、


「じゃあ、映画でも見に行かないか?」


恵子の目が大きくなった。

これってもしかして・・・?

速水はじっと恵子の顔を見つめている。
眉間のあたりにかすかに不安そうなしわが浮かんでいた。


「行きます!」

きっぱり答えると、速水がうれしそうに笑った。
恵子も笑い返さずにいられなかった。

速水が恵子の肩にそっと手を触れると、


「じゃあ、明日の2時にここで・・・」

「ええ、また明日。」


恵子も繰り返した。

速水が手をあげて、人ごみの中へ歩いて行く。
恵子は立ち止まって見送る。
速水が振り向くと、恵子が手をふった。

速水がちらりと微笑み、手を振り返して、
今度こそ、人の波にまぎれてしまうと、
恵子もはずむような足取りで、バス停にむけて歩き出した。

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