「ただいま!遅くなってご・・」
引き戸を開けたとたん、玄関に父が立っていた。
びっくりして一瞬、言葉を失っていると、
バシッ!
いきなり頬を張られ、はずみでガターンと体が戸にぶつかり、
恵子は濡れた三和土に尻餅をついた。
「こんな時間まで、何をフラフラしとった!
お前がこのところ、ずっと遅く帰っているのを、
知らんとでも思っていたのか。」
理不尽な仕置きに、かっと頭に血がのぼった。
「遊んできたわけじゃないわ!
明後日までの締め切りのレポートを仕上げてて、
図書館にいたら雪が降って来て・・・」
「口答えは許さん!
こんな天気の日に、大学に残る方がおかしい。
電車やバスがまともに走らんことくらい、頭が働かんのか!
お前は何を勉強してる」
「資料が図書館にしかないから、仕方ないのよ。
どうしても・・・」
「駅から電話してきてからだって、1時間以上経ってる!
いったい何をしてたんだ。
おかあさんが、ずいぶん心配してたから、
わしが外へ見に行ったら、お前がどこぞの・・・」
父はその先を続けずに、ぎょろりと目を剥いて恵子をにらみつけた。
恵子は唇をかみしめた。
お父さんが迎えにきた、というの?
もしかして、速水と一緒にいたのを誤解しているの?
「違うわ!
サークルの先輩が心配して、わざわざここまで送ってきてくださったのよ。
うっかりバス停をひとつ、乗り過ごしちゃったし」
「サークルだと?
まだそんな遊びにかかずらわってたのか。
即刻辞めろ!ゆるさん!」
「だからサークルをやってたんじゃなくて、」
「もういい!言い訳するなと言ったろう。
とんでもない奴だ、お前は。家に上がるな!」
恵子の中で何かがぷちん、と音を立てて切れた。
「わかりました。出て行きます!」
三和土でくるりと回れ右をすると、ガラッと思い切り戸を引き開け、
雪夜へ飛び出した。
ずんずんと威勢良く歩いたのは、ほんの5メートルほどで、
勢いをつけすぎて、思いっきり転んでしまった。
痛っ!
コートのお尻にべっとりと濡れた雪が付き、
手をついて起き上がったせいで、両手も雪まみれになった。
悔しくて涙がこぼれたが、ひるまずに起き上がり、
家から遠い方へとずんずん歩く。
どこへ行こうか、考えなど何もなかったが、
反対側のバス停に行き、とにかく駅にもどってやろうと思った。
そうだ、中州のライブハウスに行こう。
こんな雪の日にもやってるだろうか。
何時までやっているモノなんだろう。
よ〜し、いいチャンスだわ!
カッカしながら、進んでいけたのも、バス停までだった。
駅へ行くバスはついさっき、最終が出たあとだったのだ。
がっくり気落ちして、しばらく雪の中で、
無人のバス停にたたずんでいたが、
ふと見回すと、足下にごく新しい足跡が残っているのに気づいた。
足跡は、自分のと重なるように、恵子の家から続いていて、
黒く湿った足跡にもすでにうっすらと雪はつもり始めている。
速水のものだ・・。
BFでも何でもないのに、親切心でここまで送ってきてくれて、
やっとさっき駅へのバスに乗ったに違いない。
父は、自分と速水が手をつないで歩いていたのを見たのだろうか。
速水は、父の罵声を聞いてしまったろうか。
もし、そうなら、何と思ったろう?
せっかく送って来たのに、一方的に罵られ、
玄関で大きな音をさせたのを聞いていたら・・・・。
父は異常だ。
帰りが遅くなっただけで、犯罪者のような扱い。
理由も状況の説明も、聞く耳を持たない。
こんな家、出て行ってしまおう・・・。
早く出て行きたい。
父のそばになんかいたくない。
恵子は自分がぼろぼろと、涙をこぼしているのに気がついた。
涙って確かに熱い。
顔についた雪を溶かしてしまうんだ。
こんな郊外で、雪が降りしきってて、あたりにはだあれもいない。
思いっきり泣いたって、鼻水が出たって、誰にも見られっこない。
さっきまで、速水と二人きりで雪の中にいたと思ったら、
今度は一人ぼっちだ。
恵子はとぼとぼと駅の方へと進み始めた。
バスで15分の距離を、雪の中、歩いて行くとどの位かかるものなのだろう。
1時間くらいだろうか、もっとかな。
ずいぶん長い時間、何も食べてない。
ふとポケットに手を入れると缶コーヒーが一本残っていた。
最初に速水が買ってくれた方だ。
ポケットの中のぬくもりで、冷えきってはいない。
近くのガレージの軒先を借りて雪を避け、プルトップを開けると、ひとくち流し込む。
甘みがじわっと体中に行き渡るのを感じた。
「お〜〜い!お〜〜い!」
誰かが後ろから走ってくる。
誰に向かって呼びかけているんだろう。
「お〜〜い!姉貴〜!」
雪が音を吸い込んで、聞き取りにくかったが、
よく耳を澄ませると確かに弟の律の声だった。
「姉貴!どこへ行くんだよ。
こんな雪降ってる夜中、どこへも行けないぞ。」
「おとうさん、あんまりよ。
家にいたくないの。駅まで歩いてく。」
「ばっか!無理だって。
お母さんが心配してるよ。
今日は帰ろう・・・。
家出はもっと別の時にしたほうがいい。」
「いやよ、帰らないわ。」
律が恵子の前に立ちふさがった。
高校でぐんと背が伸びてから、恵子より顔の位置がはるかに高くなったが、
中身は一向に変わっていない。
自分と違って要領がよく、あまり他人ともめないタイプだ。
「姉貴、レポート提出のために頑張ってたんだろ?
それってあさって期限じゃなかったっけ?
ここまで頑張ったのに、家出してレポートふいにするのって、どうかな。」
さりげなく律は恵子から視線を外した。
「一緒にやってた他のメンバーにも、
迷惑かけちゃうんじゃないかなあ。
それでもって言うなら、仕方ないけどさ・・」
恵子は、律の横顔を思い切りにらみつけた。
こいつはいつもこうだ。
わたしの一番弱いところを、さりげなく突いてくる。
恵子の視線など痛くもかゆくもなさそうに、
律がくるりとこちらを向いて、にやりとした。
「で、どうする?姉貴・・・」
翌日はみごとな晴れだった。
朝のうちこそ、あちこち雪が融け残っていたものの、
午後からの日差しに照らされて、あらかた姿を消し、
日陰や斜面の端っこにわずかに白く残っている。
今日は授業が終わっても図書館に行かずに、空き教室を探し、
共同研究の最後のすりあわせをした。
3時間近くかかって、ようやくまとめあげると、
4人とも心からほっとした。
「これで何とかなりそうだね。」
「うん、そうだね。」
「参考資料の数、すごいよ。
でもこれ、ほとんど恵子が調べたんだ。
質問されると参っちゃうな。」
「みんなそれぞれ、自分の持ち分を果たしたんだからいいんじゃない。」
終わった気軽さで、きゃらきゃらと笑い声をあげると、
ようやく席を立った。
帰ろう・・・、うん、帰ろう。
4人で連れ立って、夕映えの中、キャンパスを後にする。
「ねえ、向こうに着いたら、ケーキ食べに行かない?」
「行く行く!あたし、すっごくおいしいとこ見つけたんだ!」
「ね、どこ?それ、アタシの知ってるとこかな。」
ひとしきりしゃべり合って、ふと直美が恵子に話しかけた。
「ねえ、この間のひと、恵子の彼氏?」
「ううん。単なる先輩。」
ふうん。そうなの・・・。
直美はしばらく思い出すようにしていたが、
「でも、背が高くてカッコいい人だったね。いい感じじゃない?」
「バンド組んでるみたい。ベース弾いてるんだって。」
「へえ!ほんと、ますますカッコいい!
恵子、あの人いいよ、つき合っちゃいなよ。」
「そんなんじゃないのよ。
たまたま一緒に帰って、あそこまで歩いてっただけだから・・」
ふうん・・・。
直美の表情は少し疑いを含んでいたが屈託がなかった。
「ま、別にいいけど・・さ。」
にこりと笑って、また友だちとの会話にもどった。
恵子はほっとした。直美は何も知らないらしい。
直美が一緒にいた男が、3週間前、誰とつき合っていたのか。
『お前、一緒にいても帰ることばっか考えてるみたいだな。』
『そうじゃないのよ。家がうるさいから・・』
『どこへ行こうって言ってもダメ。
俺の部屋に来るのも嫌。
じゃあ、いったいどうすればいいんだ?
どこでお前と会えばいいんだ?』
『ごめんなさい。』
『高校の時から好きだった奴と、やっとつき合えるようになったのに、
なんだかいつも落ち着かない。
ちゃんとこっちを見てくれよ。』
『・・・』
『俺が好きだって言ったのは、うそか?』
『嘘じゃないわ。』
『じゃあ、いいだろ・・・?』
まだ唇の感触もはっきりと覚えている。
誘うように、そそのかすように、恵子の中に入りこんでくる舌も。
嫌じゃなかった。
甘くとろかすようで、
アイスクリームみたいに溶けてしまう気分に誘い込まれるのは、
ぞくぞくするほど刺激的だった。
『恵子・・・好きなんだ』
彼の唇が首すじに下り、さらにのど元へと降りて行く。
同時に、肌の表を這い上ってくる手も嫌ではなかったのに、
その手がお腹をたどり、さらにスカートの中へと入ろうとすると、
どうしても身をよじってしまった。
『どうして?』
『ごめん、ダメなの・・』
『こんな生殺しのまま、俺をほうって置くつもりか。
残酷なこと、するなよ。』
結局は恵子が受け入れてくれると思っていたに違いない。
拒絶されても、彼の瞳にはどこか余裕が感じられた。
懲りずに手を伸ばしてくる。
『ごめん、やっぱりダメだわ。』
恵子が彼の手をどけ、Tシャツの裾をおろしてぎゅっと押さえつけると、
彼にも恵子の気持ちがわかったようだ。
『なんでダメなんだ?』
『・・・・』
恵子は唇をかんで、じっと黙ってうつむいていた。
彼の視線を痛いほど感じる。
ほんの一瞬、沈黙が2人をしばった。
恵子の何が彼を逆上させたのか、今もわからないが、
次の瞬間、彼が恵子に襲いかかり、
畳の上に両腕を開いて無理矢理に押さえ付けられた。
『やめて・・・』
すぐ前の自制心が失われた瞳を見ながら、
自分のせいだと恵子は悔やんだ。
彼のことなら、高校時代から知っていた。
こんなことをする人ではなかったはずだ。
半分だけ誘惑の実を食べる、というのは彼には承服できないに違いない。
中途半端な自分の態度が、却って彼をあおってしまった。
『俺はこんな風にしたかったわけじゃない・・、
お前が・・・。』
這い回る熱い唇から、乱暴な手から逃れようと体をよじる。
なんとか自分の上からふり落とそうとしたが、
ふり落とされまいとする彼が、ますます恵子の体に強くしがみついた。
何度ももみ合ううちに、突然、体が離れた。
『わかったよ。
お前はおれをなぶり者にしてるんだ。
俺が好きなわけじゃないんだ。
半分許しながら、いつも途中で拒否する。
こんなの、メチャメチャいらつく!』
彼の瞳に恵子への暗い憎しみが満ちていた。
その視線を反らし、すばやく服を直すと、
コートはどこだったかと見回す。
ドアのそばに落ちているのを拾い上げたとき、
『二度と逢わない!
声もかけるな。
顔も見たくない!
早く出てけ!』
ぞっとするほど冷たい言葉だった。
恵子を思い切り傷つけようと投げつけられた石だった。
ドアを開けて階段を下り、誰もいない居間と玄関を抜け、
がたがたと震える足に靴をひっかけて、
文字通り、逃げ出したのだ。