AnnaMaria

 

春のきざし 3

 

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「ただいま!遅くなってご・・」


引き戸を開けたとたん、玄関に父が立っていた。
びっくりして一瞬、言葉を失っていると、


バシッ!


いきなり頬を張られ、はずみでガターンと体が戸にぶつかり、
恵子は濡れた三和土に尻餅をついた。


「こんな時間まで、何をフラフラしとった!
 お前がこのところ、ずっと遅く帰っているのを、
 知らんとでも思っていたのか。」


理不尽な仕置きに、かっと頭に血がのぼった。


「遊んできたわけじゃないわ!
 明後日までの締め切りのレポートを仕上げてて、
 図書館にいたら雪が降って来て・・・」

「口答えは許さん!
 こんな天気の日に、大学に残る方がおかしい。
 電車やバスがまともに走らんことくらい、頭が働かんのか!
 お前は何を勉強してる」

「資料が図書館にしかないから、仕方ないのよ。
 どうしても・・・」

「駅から電話してきてからだって、1時間以上経ってる!
 いったい何をしてたんだ。
 おかあさんが、ずいぶん心配してたから、
 わしが外へ見に行ったら、お前がどこぞの・・・」


父はその先を続けずに、ぎょろりと目を剥いて恵子をにらみつけた。

恵子は唇をかみしめた。


お父さんが迎えにきた、というの?
もしかして、速水と一緒にいたのを誤解しているの?


「違うわ!
 サークルの先輩が心配して、わざわざここまで送ってきてくださったのよ。
 うっかりバス停をひとつ、乗り過ごしちゃったし」

「サークルだと?
 まだそんな遊びにかかずらわってたのか。
 即刻辞めろ!ゆるさん!」

「だからサークルをやってたんじゃなくて、」

「もういい!言い訳するなと言ったろう。
 とんでもない奴だ、お前は。家に上がるな!」


恵子の中で何かがぷちん、と音を立てて切れた。


「わかりました。出て行きます!」


三和土でくるりと回れ右をすると、ガラッと思い切り戸を引き開け、
雪夜へ飛び出した。





ずんずんと威勢良く歩いたのは、ほんの5メートルほどで、
勢いをつけすぎて、思いっきり転んでしまった。


痛っ!


コートのお尻にべっとりと濡れた雪が付き、
手をついて起き上がったせいで、両手も雪まみれになった。

悔しくて涙がこぼれたが、ひるまずに起き上がり、
家から遠い方へとずんずん歩く。


どこへ行こうか、考えなど何もなかったが、
反対側のバス停に行き、とにかく駅にもどってやろうと思った。


そうだ、中州のライブハウスに行こう。

こんな雪の日にもやってるだろうか。
何時までやっているモノなんだろう。

よ〜し、いいチャンスだわ!


カッカしながら、進んでいけたのも、バス停までだった。
駅へ行くバスはついさっき、最終が出たあとだったのだ。





がっくり気落ちして、しばらく雪の中で、
無人のバス停にたたずんでいたが、
ふと見回すと、足下にごく新しい足跡が残っているのに気づいた。

足跡は、自分のと重なるように、恵子の家から続いていて、
黒く湿った足跡にもすでにうっすらと雪はつもり始めている。

速水のものだ・・。


BFでも何でもないのに、親切心でここまで送ってきてくれて、
やっとさっき駅へのバスに乗ったに違いない。

父は、自分と速水が手をつないで歩いていたのを見たのだろうか。
速水は、父の罵声を聞いてしまったろうか。
もし、そうなら、何と思ったろう?

せっかく送って来たのに、一方的に罵られ、
玄関で大きな音をさせたのを聞いていたら・・・・。


父は異常だ。

帰りが遅くなっただけで、犯罪者のような扱い。
理由も状況の説明も、聞く耳を持たない。


こんな家、出て行ってしまおう・・・。
早く出て行きたい。
父のそばになんかいたくない。


恵子は自分がぼろぼろと、涙をこぼしているのに気がついた。


涙って確かに熱い。
顔についた雪を溶かしてしまうんだ。

こんな郊外で、雪が降りしきってて、あたりにはだあれもいない。
思いっきり泣いたって、鼻水が出たって、誰にも見られっこない。


さっきまで、速水と二人きりで雪の中にいたと思ったら、
今度は一人ぼっちだ。


恵子はとぼとぼと駅の方へと進み始めた。

バスで15分の距離を、雪の中、歩いて行くとどの位かかるものなのだろう。
1時間くらいだろうか、もっとかな。

ずいぶん長い時間、何も食べてない。


ふとポケットに手を入れると缶コーヒーが一本残っていた。
最初に速水が買ってくれた方だ。
ポケットの中のぬくもりで、冷えきってはいない。

近くのガレージの軒先を借りて雪を避け、プルトップを開けると、ひとくち流し込む。
甘みがじわっと体中に行き渡るのを感じた。


「お〜〜い!お〜〜い!」


誰かが後ろから走ってくる。
誰に向かって呼びかけているんだろう。


「お〜〜い!姉貴〜!」


雪が音を吸い込んで、聞き取りにくかったが、
よく耳を澄ませると確かに弟の律の声だった。


「姉貴!どこへ行くんだよ。
 こんな雪降ってる夜中、どこへも行けないぞ。」

「おとうさん、あんまりよ。
 家にいたくないの。駅まで歩いてく。」

「ばっか!無理だって。
 お母さんが心配してるよ。
 今日は帰ろう・・・。
 家出はもっと別の時にしたほうがいい。」

「いやよ、帰らないわ。」


律が恵子の前に立ちふさがった。

高校でぐんと背が伸びてから、恵子より顔の位置がはるかに高くなったが、
中身は一向に変わっていない。
自分と違って要領がよく、あまり他人ともめないタイプだ。


「姉貴、レポート提出のために頑張ってたんだろ?
 それってあさって期限じゃなかったっけ?
 ここまで頑張ったのに、家出してレポートふいにするのって、どうかな。」


さりげなく律は恵子から視線を外した。


「一緒にやってた他のメンバーにも、
 迷惑かけちゃうんじゃないかなあ。
 それでもって言うなら、仕方ないけどさ・・」


恵子は、律の横顔を思い切りにらみつけた。

こいつはいつもこうだ。
わたしの一番弱いところを、さりげなく突いてくる。

恵子の視線など痛くもかゆくもなさそうに、
律がくるりとこちらを向いて、にやりとした。


「で、どうする?姉貴・・・」





翌日はみごとな晴れだった。

朝のうちこそ、あちこち雪が融け残っていたものの、
午後からの日差しに照らされて、あらかた姿を消し、
日陰や斜面の端っこにわずかに白く残っている。

今日は授業が終わっても図書館に行かずに、空き教室を探し、
共同研究の最後のすりあわせをした。

3時間近くかかって、ようやくまとめあげると、
4人とも心からほっとした。


「これで何とかなりそうだね。」

「うん、そうだね。」

「参考資料の数、すごいよ。
 でもこれ、ほとんど恵子が調べたんだ。
 質問されると参っちゃうな。」

「みんなそれぞれ、自分の持ち分を果たしたんだからいいんじゃない。」


終わった気軽さで、きゃらきゃらと笑い声をあげると、
ようやく席を立った。


帰ろう・・・、うん、帰ろう。


4人で連れ立って、夕映えの中、キャンパスを後にする。



「ねえ、向こうに着いたら、ケーキ食べに行かない?」

「行く行く!あたし、すっごくおいしいとこ見つけたんだ!」

「ね、どこ?それ、アタシの知ってるとこかな。」


ひとしきりしゃべり合って、ふと直美が恵子に話しかけた。


「ねえ、この間のひと、恵子の彼氏?」

「ううん。単なる先輩。」

ふうん。そうなの・・・。


直美はしばらく思い出すようにしていたが、


「でも、背が高くてカッコいい人だったね。いい感じじゃない?」

「バンド組んでるみたい。ベース弾いてるんだって。」

「へえ!ほんと、ますますカッコいい!
 恵子、あの人いいよ、つき合っちゃいなよ。」

「そんなんじゃないのよ。
 たまたま一緒に帰って、あそこまで歩いてっただけだから・・」

ふうん・・・。


直美の表情は少し疑いを含んでいたが屈託がなかった。


「ま、別にいいけど・・さ。」


にこりと笑って、また友だちとの会話にもどった。

恵子はほっとした。直美は何も知らないらしい。
直美が一緒にいた男が、3週間前、誰とつき合っていたのか。


『お前、一緒にいても帰ることばっか考えてるみたいだな。』

『そうじゃないのよ。家がうるさいから・・』

『どこへ行こうって言ってもダメ。
 俺の部屋に来るのも嫌。
 じゃあ、いったいどうすればいいんだ?
 どこでお前と会えばいいんだ?』

『ごめんなさい。』

『高校の時から好きだった奴と、やっとつき合えるようになったのに、
 なんだかいつも落ち着かない。
 ちゃんとこっちを見てくれよ。』

『・・・』

『俺が好きだって言ったのは、うそか?』

『嘘じゃないわ。』

『じゃあ、いいだろ・・・?』

まだ唇の感触もはっきりと覚えている。
誘うように、そそのかすように、恵子の中に入りこんでくる舌も。

嫌じゃなかった。

甘くとろかすようで、
アイスクリームみたいに溶けてしまう気分に誘い込まれるのは、
ぞくぞくするほど刺激的だった。


『恵子・・・好きなんだ』


彼の唇が首すじに下り、さらにのど元へと降りて行く。

同時に、肌の表を這い上ってくる手も嫌ではなかったのに、
その手がお腹をたどり、さらにスカートの中へと入ろうとすると、
どうしても身をよじってしまった。


『どうして?』

『ごめん、ダメなの・・』


『こんな生殺しのまま、俺をほうって置くつもりか。
 残酷なこと、するなよ。』


結局は恵子が受け入れてくれると思っていたに違いない。
拒絶されても、彼の瞳にはどこか余裕が感じられた。
懲りずに手を伸ばしてくる。


『ごめん、やっぱりダメだわ。』


恵子が彼の手をどけ、Tシャツの裾をおろしてぎゅっと押さえつけると、
彼にも恵子の気持ちがわかったようだ。


『なんでダメなんだ?』

『・・・・』


恵子は唇をかんで、じっと黙ってうつむいていた。
彼の視線を痛いほど感じる。

ほんの一瞬、沈黙が2人をしばった。


恵子の何が彼を逆上させたのか、今もわからないが、
次の瞬間、彼が恵子に襲いかかり、
畳の上に両腕を開いて無理矢理に押さえ付けられた。


『やめて・・・』


すぐ前の自制心が失われた瞳を見ながら、
自分のせいだと恵子は悔やんだ。

彼のことなら、高校時代から知っていた。
こんなことをする人ではなかったはずだ。

半分だけ誘惑の実を食べる、というのは彼には承服できないに違いない。
中途半端な自分の態度が、却って彼をあおってしまった。


『俺はこんな風にしたかったわけじゃない・・、
 お前が・・・。』


這い回る熱い唇から、乱暴な手から逃れようと体をよじる。

なんとか自分の上からふり落とそうとしたが、
ふり落とされまいとする彼が、ますます恵子の体に強くしがみついた。





何度ももみ合ううちに、突然、体が離れた。


『わかったよ。
 お前はおれをなぶり者にしてるんだ。
 俺が好きなわけじゃないんだ。

 半分許しながら、いつも途中で拒否する。
 こんなの、メチャメチャいらつく!』


彼の瞳に恵子への暗い憎しみが満ちていた。

その視線を反らし、すばやく服を直すと、
コートはどこだったかと見回す。

ドアのそばに落ちているのを拾い上げたとき、


『二度と逢わない!
 声もかけるな。
 顔も見たくない!
 早く出てけ!』


ぞっとするほど冷たい言葉だった。
恵子を思い切り傷つけようと投げつけられた石だった。

ドアを開けて階段を下り、誰もいない居間と玄関を抜け、
がたがたと震える足に靴をひっかけて、
文字通り、逃げ出したのだ。

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