ボニボニ

 

My hotelier182 - ビター&スウィート - 

 




パシャッ・・!


男が振りかけたミネラルウォーターは、見事にレオの眼鏡レンズに当たった。

飛沫で前の見えないレオが、手探りでポケットを求めている。



ドンヒョクは静かに手を伸ばし、相棒の手に自分のハンカチを握らせてから、
目の前で怒り狂っている男に、氷のような眼を向けた。


「ビジネスの場で、大した無礼だな」



クリーニング代の他に、レオ次第だが、慰謝料請求も覚悟してもらおう。
ここに用意されたのがミネラルウォーターだったのは、貴方にとって幸運だ。


「・・俺の会社だ・・」

「もちろん、38%は。 そして51%の株が、我々の側にある。話を続けよう」



レオ、書類は大丈夫か? OK、大仰なファイルホルダーも今回は役に立った訳だ。



「俺の親父がゼロから起こした会社だ! マネーゲームで会社を乗っ取るお前らみたいな・・」
「会社を誰にも渡したくないなら、株を公開しなければいい」
「・・・」


上場して資金を集めるという事は、企業買収の扉のロックを外す事でもある。
経営権を失う程の割合の株をばら撒いたのも、貴方の判断だ。


「こちらは正規の手続きで、株を購入した。 そろそろ仕事をさせて貰えないか?」


------



重役階のエレベーターホールは、見送る者もなく静かだった。

ボタンを押すレオを横目で見て、ドンヒョクは小さく口の端を上げた。



「結構濡れたな。冗談じゃなく、クリーニング代を請求したらどうだ?」


・・ボォス・・・、


「この高給取りが、クリーニング代の為にわざわざ時間を割いて書類作成するか?」


それより悪かったなボス、誕生日にこんな仕事を入れてしまって。


「43の男が“お誕生日”もないだろう。 それに・・、今日は“あんまり早く家に帰っちゃダメ”なんだそうだ」
「へぇ? それはまた何・・」


初老の男が近づいて来たので、レオは途中で口をつぐんだ。
男は、吸収合併される会社に永く勤める副社長だった。


「お見送りもしませんで。大変失礼をいたしました」
「お気遣いなく。よくあることですから」
「本当にすみませんでした。 あの・・お2人には感謝しています」


「・・・」



この会社が傾いたのは、2代目社長に経営能力がなかったからです。
穏やかに語る副社長を、ドンヒョクはじっと見つめていた。


今回は、予測した以上にワンサイドでM&Aが成立した。
先方がもっと必死で対抗策を打ってきたら、成り行きは違っていただろう・・。


1つの推論に達すると、ドンヒョクは淡く微笑んだ。


貴社の事業内容は、悪くない。立派な技術を持っておられる。
だからこうしてM&Aをかけても、会社を買おうという企業が現れた。


「この会社は存続します。買収側の事業計画を考えたら、おそらく人員整理もほぼ無い吸収合併になると思います」
「ええ・・」


先代が苦労して作り上げた会社を、むざむざ潰してしまうところでした。


「この合併で、我社の事業も、社員の生活も守ることが出来ます」


副社長の老いた眼には、確かな意思が浮かんでいた。

おそらく先代の忠実な片腕であっただろう副社長は、こんな形で先代が築いたものを守ったのだろう。




ポゥン・・♪


静かな会話のピリオドのように、エレベーターの到着音が鳴った。

言葉代わりに目礼をして、ドンヒョクがすらりと踵を返す。


かごの扉が閉まるのをじっと見ていた副社長は、扉が閉まり切る寸前、
2人に向かって深々と一礼した。


--------



「ところで、今日は何だって“あんまり早く帰っちゃダメ”なんだボス?」


ジャグワーのイグニッションを回すと同時に、レオの声音が陽気になった。


「ケーキを作るんだそうだ」
「ケーキ?」
「・・バースデーケーキ」

今日は、休みを取ったジェニーが土台のスポンジを焼いて、
アンジーが「とくべつのデコレーション」をするらしい。


「きっと 見ただけで歯が溶けるくらい、砂糖とベリーとクリームにまみれているんだ」
「あっはっはっは! そりゃあ幸せだ。甘いものに眼がないボスには最高の贈り物だな」
「・・・レオ」

「まぁまぁ」


娘が“パパ大好き”なんて言ってくれる時間は短いぜ。


「可愛い妹と娘の合作だろ? 歯がちょこっと溶けるくらい親なら我慢するってもんだ」


「アンジーは大人になっても変わらずに“パパ大好き!”と言う奴だよ」
「~♪~♪♪~」

「おい」



-------




玄関ドアを開けた瞬間全身を包み込んだ、むせかえる程の芳香は、
甘いものが苦手な男を震え上がらせるのに十分だった。


遠くに小さな子ども達の 楽しげな高い声が聞こえる。



苦笑しながら 先にアタッシュケースを置こうと書斎へ歩き出したドンヒョクの耳に
今日の午後聞いた 2代目社長の悲鳴のような怒声が蘇った。



“俺のものだ! 奪われてたまるか!!”



・・大事なものなら 何故 もっと守る努力をしなかった?


守るという事は、受け身ではない。
「このまま」を続けて行くためには 留まる努力をしなければ。




「ドンヒョクssi・・?」

「?!」

振り向くと ジニョンが立っていた。


「おかえりなさい。 あの・・、どうかした?」



何だか 少し元気がないみたい。 玄関でただいまって 言わなかったでしょう?

ドンヒョクの表情を探りながら ジニョンが心配そうに歩み寄る。

愛しさに張りつめた緊張が溶けて ドンヒョクは ジニョンをすくい寄せた。


「きゃっ!」

「子どもの前では 教育上はばかられる様なキスをしないか? ジニョン」
「な! 何を馬・・」


鹿なことをという語尾を ハンターは易々と封じ込む。
じたばたしていたジニョンの腕が ドンヒョクの首に巻きついた。



「ベッドへ行く?」
「行・き・ません。 私のパパも“お父様”も来てますからね!」
「!」


アンジー作ケーキを じいじ2人にも食べさせるんだって。彼女が内緒で招待したの。


「それはそれは。 ・・ところでケーキは かなり甘そうかな?」


「ふわふわで、とっ~てもカラフル」
「?」
「初めて私とデートした時のこと おぼえてる?」
「ジニョンと?」
「宗廟に案内した時に ほら」



?! ・・・まさかジニョン。 


「ケーキに 綿アメが乗っているのか?」

「大丈夫よ。ちゃ~んとクリームも苺も チョコのメッセージプレートもあるから」
「・・・」
「パパには いちばーん大きなピースをアンジーが切るって張り切ってるわ」
「・・・」
「パパが大~好きだからって」

「・・・」



守るという事は、受け身ではない。
「このまま」を続けて行くためには 留まる努力をしなければ。



愛しいアンジーの“大~好きな”パパの座を守り続ける為には

歯が溶けようと 胸やけしようと 一番大きなピースを食わねばなるまい。



決心はしても 勇気のないドンヒョクは 書斎で妻を抱きしめている。
ジニョンが頬にキスをして 小さくハッピーバースディと言った。

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