ボニボニ

 

愛しのプロフェッサー 16

 




「切らないでくれ ・・ウェイバリーだ」


聞こえるはずのない過去の声が いきなり 受話器の中から聞こえた。




ちょっと沈黙が長すぎるわ。 頭のすみで感じながら
私は どんな対応をしていいのか 全く頭が働かなかった。

この声は どこまで私に 最低の気分を味わわせたら気が済むのだろう?


たっぷりとした無言の後 私は 居心地の悪い視線を上げる。

「?」
プロフェッサーはのんびりと 勝手にマイ・シートと決めた椅子に座っていた。
私の視線に眼を丸くして 誰?と問いたげな眉を上げた。



「・・・ここへ 電話しないでください」

「携帯を着信拒否にしただろう。 そこへかけるしかなかったんだ」
「着信拒否が充分な回答でしょう? 話をしたくないという事です」

感情的に聞こえないよう 私は静かに電話を切った。
前の椅子ではプロフェッサーが どんな顔をしようかと困っていた。

「私信でした。すみません」
「あ、ええ。 ・・・あの Ms.ユナ?」



ジーン・・、 ジーン・・・、 ジーン・・・・・


つかのまの安堵を切り裂いて 電話が 耳障りなコールを告げた。
私は内心腹を立てながらも これが他からの通信であることを願った。
「プロフェッサー・ジウォンのオフィスです」


ユナ・・と 男に囁かれた時 嫌悪が身体を貫いて行った。

遠慮がちに席を立つプロフェッサーを 視界の隅に認めた時
私ときたら もう少しで 悔し涙がこぼれるところだった。

「怒るのも無理はないけど。 頼むよ・・話があるんだ」
「わかりました。 手短に 用件だけ言ってください」
「会って 話がしたい」


“会って 話がしたい”? 

そう遠くない過去に 私は 相手を同じセリフで問い詰めたことがある。
混乱する私に返って来た答えは 切り捨てるような謝罪だった。
「会いたくありません」
「切らないでくれ!」




プロジェクトのサポートを依頼されたと 男は言った。

「クライアントが 担当するアナリストに 君を指名してきたんだ」

昔は同僚で恋人でもあった男は 呆れた事を言い出した。
いったい 彼は電話の向こうで どんな顔をしているのだろう?

「・・・私は確か お宅の社員ではなかったはずですが?」

嫌悪感が 喉の奥を苦くした。
今更 彼にこんな当てこすりを言いたいほどの 思い入れすら持っていない。
「アナリストなら エマがいるでしょう?」
「彼女とは別れた。 ・・離婚したんだ」
「?!」


この期に及んで 君に言い訳をする気はない。
あれは色恋沙汰だったんだと かつての 私の婚約者は言った。
理性では 止まれないことだった。

「許してもらえるとも思っていない。ただ」
クライアントがマーティンなんだ。 再発して・・闘病しながらの仕事だ。
「!」
「君以外の人間には 安心して任せられないと言っている」


・・・できるものなら 彼の力になってやりたいんだよ。 

ため息と共に言った言葉に じっとりと疲れがにじんでいた。
この男と私の ビジネスにおける師にも等しい人。
Mr.マーティンの温和な顔が浮かぶと 心の隅に後ろめたさが湧いた。


「・・今の私が 役に立てるとは思えないわ。 申し訳ないけれど」

そっと下ろした受話器の中から まだ何か 声が聞こえていた。
私はオルゴールの蓋を閉めるように 黙って受話器をフックへ置いた。

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キッチンを片付けている間中 背中に視線を感じていた。


視線にもトーンがあるのね。 私は小さくため息をつく。
それは 無邪気になついてくる いつもの教授の視線ではなかった。
戸惑うようで 気づかうような 
もの言いたげなプロフェッサーの視線。

どこまでも優しいこの人は 私を 放っておくことも立ち入ることも出来ない。


思い切って 振り返る。

叱られたみたいにプロフェッサーが ほんの少し眼を揺らした。
「アレは 仕事の誘いだったんです。断りました」
「前に聞いた方ですか?」
・・こくん・・・・

美しい 黒曜石のような瞳が じっと私を見つめていた。
世にも美しいスキャナーが 私の困惑を撫でていった。




・・・・戻らないのですか?

やがて 決心したように プロフェッサーが私に聞いた。
「え?」

「Ms.ユナはとても優秀な方です。 僕の秘書なんかには もったいない」
「?!」
ふわり とプロフェッサーは微笑んだ。ほどけるような柔い苦笑。
プロフェッサー・・? それは 私が ここを辞めた方がいいと言うことですか?



Ms.ユナには 秘書の仕事は役不足じゃないかと思うのです。
「貴女には ウォール・ストリートで活躍出来る程の能力があるのに」
「・・・プロフェッサー・・」


私は ここにいたいのです。 プロフェッサーの傍に。

今にも噛んだ唇を裂いて 気持ちが吹き出しそうだった。

役不足?  だけど私は プロフェッサーが幸せになる為に何もできない。
あなたにとっては私の方が・・・力不足じゃないですか。


プロフェッサーが 惜しむ風もなく 「戻らないのか」と聞いたことに
多分 私は 想像以上のショックを受けてしまったのだと思う。

ポキン と何かが折れる音がした。 私を懸命に支えていた 何か。
「・・Ms.ユナ?」



プロフェッサーが息を呑む音が 私の耳にはっきり聞こえた。

どんなに顎をそらしても 堰を切った涙は止められなかった。
プロフェッサーが おろおろと 私の二の腕を捕まえる。
そ、そんなつもりじゃないんです! Ms.ユナが 遠慮してはいけないと思って。

「あの・・僕が! 僕は あなたに随分頼ってしまっているから・・・」
「!!!」

お願い 神様。 
少しでも慈悲があるのなら プロフェッサーの言葉を止めて。
こんな言葉は聞きたくないの。


私だって 出来るものなら プロフェッサーの幸せになりたい。

だけどそれが出来る人は もう この世界にいない人で
だからせめて 私は せめて 
大好きな プロフェッサーの平穏でありたかったのに。


教授は 突然壊れた機械のように 私を見つめてうろたえていた。

私の顔のどこかを探せば 涙を止めるボタンがあるみたいに
戸惑う視線が せわしなく頬や額を行き来した。

「Ms.ユナ! Ms.ユナ・・!! すみません・・僕・・」

「・・・・」
まったくこんな愁嘆場なのに 私は 泣きながら彼に見とれてしまう。
プロフェッサーは こんな時にも 困惑までもが美しかった。



無理矢理 笑みを取りつくろおうとしても 笑顔の頬へ涙が流れた。
困り果てたプロフェッサーは 
私の頬を手で包み 震える親指で涙を拭った。

「・・・Ms.ユナが 戻りたいんじゃないかと思ったんです」
だけど 貴女はとても優しいから 
「僕を心配で立ち去れないなら いけないと思って」

「・・・・・・」


プロフェッサー。 あなたは 本当に 本当に優しい。

だけどその思いやりが私にとって どれほど残酷か知っていますか?

私はあなたに「立ち去るな」と「傍にいてくれ」と
言われる 存在になりたかったです。



やっと 詰まった喉の奥から 声を絞り出すことができた。
「・・すみません・・・でした」
だめじゃない。 涙の苦手なプロフェッサーを こんな風に困らせるなんて。

身体を引こうとしたけれど 教授に腕をつかまれていた。
行かせてください プロフェッサー。

あなたがもっと困ることを 私は今にも 言ってしまいそうです。


「・・・部屋へ戻ります。 取り乱して すみませんでした」
「Ms.ユナ・・? 僕は その・・・貴女がいてくれる方が嬉しいですよ」
有難うございます。 「もう 部屋へ戻ります」

「でも・・Ms.ユナは? 貴女は ひどく泣いています。
僕は その Ms.ユナが そんな風に泣いているのは辛いです」

ちょっとナーヴァスになっているだけです。 「私は 平気ですから」

「あ、あの! 僕に何か出来ませんか?! そ・・の・・貴女の為に」



いいえ。 

いいえ プロフェッサー。 
精一杯の愛を込めて 私は彼に微笑んだ。 いいえ プロフェッサー。

ケイトが教えてくれたこと。
哀しいくらいの優しさを プロフェッサーから奪ったりしない。
あなたに こんな恋が出来た。 それで 私は満足です。


腕をつかんだ教授の手は それでも 離れてくれなかった。
仕方のないほど 優しい人。
プロフェッサー?  ・・・やっぱりあなたは「札つき」ですよ。



「では・・1つだけ お願いを聞いてくれますか?」
「え? ええ! もちろん」

・・・プロフェッサーの お顔に触らせてください。

私がこの世で 幸運にも見つけた 一番きれいな宝石に。
本当にそれが 現実のものだと ずっと憶えていられるように。
「・・・顔? 僕の 顔ですか?」
「いけませんか?」
「いや別に ・・それは 構わないけど」


くす・・

きょとんと不思議な顔をした 教授がとても素敵だった。
そうっと 頬へ手を当てると なめらかな肌が温かかった。
出来れば 撫でてみたかったけれど それは 贅沢すぎるような気がした。

掌を通して伝わる温度に 切ないくらいに 胸が痛む。
本当に 好き。
きっと私は この温もりを 何があっても忘れないだろう。


「・・・Ms.・・ユナ・・・?」

ためらいに揺れるプロフェッサーが 私の瞳を覗いていた。
私は多分 呆れるくらい うっとりとしていたのだと思う。



ぽろぽろと涙がこぼれたけれど 私は とても幸せだった。

ゆっくり ひとつまばたきをすると 想いのすべてで微笑んだ。

プロフェッサーの きれいな顔が 眼の中いっぱいに拡がる。
身体を包む大きな腕と 柔らかく吸われる唇と。


・・・・ぇ?・・・唇・・・?・・




プロフェッサーは 私を抱き上げて 自分の部屋へ運んでいった。

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