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再生-イタリア紀行 with J #18 <7日目/永遠の都(最終話)>

 

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秋晴れのローマの空に、いく筋もの細い雲がななめに浮かんでいた。
サン・ピエトロ広場の柱廊の上の彫刻の頭から、その雲は湧き出ているように見えた。
巨大な広場の正面に、ミケランジェロ設計のクーポラを戴いた、壮麗なサン・ピエトロ寺院がそびえている。
ここが世界に10億人いると言われるカトリック信者を束ねる総本山だ。

この寺院は、解説無しに歩くのが良い。
ケイはそう言って、黙ってジェイと並んで歩いた。
入ってすぐ、右手のガラスの壁の奥に、真っ白な、死せるキリストを膝に抱くマリアの像、ミケランジェロのピエタがある。
その像を、たくさんの観光客が放心したように眺めている。

このガラスの遮蔽物はいつから出来たのだろう。確か昔はなかったはずだ。
透明な板があることによって、清らかな、でも親しみのある若やいだ聖性が、
美術館の中の取り澄ました芸術になってしまったことが、ケイにはすこし寂しかった。

巨大な空間が、天井と正面の司教座に向かって伸びている。
ドームの窓から一筋の光が差し込み、大理石の床に黄金の道を形づくっていた。
ジェイがその光の中に入った。
強い逆光に、頭部から上半身にかけての輪郭が光に包まれた。
ケイもその横に並んだ。

二人で黙って光を浴びた。その光の差し込む窓を、いっしょに見上げた。
それだけで、あたたかな喜びに満たされた。
ケイには明日の、ジェイとの別れなどもうどうでもよかった。
今ジェイとこうして同じ光を見つめていられることに、深い感謝の思いしかなかった。

ジェイがいつも胸にさげていたクロスをはずす。

『ケイさん、これをもらってください。こんなもので悪いけれど、大事にしていたものです。』
そう言ってケイの首にかけてくれた。

『ありがとう、ジェイ。大事にするわ。私もなにかあげたいな。何がいい?』
『ジェノバで肩に掛けていたオレンジ色のストール。港の光みたいな。』
『いいわ。』
『それからケイさんの住所、電話番号、イタリアと日本での携帯の番号、メールアドレス。』
『ジェイ…』
ケイはしばらく返事が出来なかった。

『ジェイ、私たち…』 
私たちまた会えるの?という言葉を、ケイはどうしても口にすることができない。

自分のなかにしっかりとジェイが根をおろし、住み着いてしまった、と思う。
ジェイの孤独によりそい、自分の全てを差し出したい、とも思う。
でも…、でもこの情熱を、現実の二人の関係のスタートとさせることが、果たして本当に望ましいことなのか。
むしろ純粋な自分たちの想いを、永遠にここに、ローマに封印してしまえば、
幸福なこの一瞬を瞬間凍結してこの地に美しいまま置いていければ、
それが一番良いようにも思えるのだった。

そんなケイの心の葛藤が見えたようにジェイが言葉をつないだ。

『ケイさんが語ってくれたエピソードは全て、あなたの“超えて行きたい”という願望を表している、違いますか?
あなたはそう望み、そして実際にそうしてきた。』
『ええ、その通りよ。私は常に境界を越えていきたかった。
目の前の道がどこまで続くのか、とにかく行って確かめてみたかった。
そして道が開けていくのを、道がつながっていくのを見たかった。』

自分自身をも超えていきたかった。
そして、同じ想いをもっているあなたに出会った。

『あなたはもう僕を受け入れ、僕のもとに超えてきたのでは?』
『ジェイ、こころはとっくに超えているわ。あなたもそうだとわかってる。でも…。』
『でも?』
『考えましょう。』

『なにを考える必要があるんですか。なにを怖がっているんですか。』
『怖がっているんじゃないわ。
今はもう何も怖くない。
このあと私に残されたのがただの一夜の長い闇で、そこで永遠にあなたを待たなければならないとしても、
私待つことができる。』

このあと一度も会うことができなくても、一生あなたを胸に抱いて生きていくことだって、できるわ。
ケイはこころのなかでつぶやいた。

別れに対する怖れはまったくなかった。
むしろここで完結させることが、二人にとって“超えていく”ことではないのか、その思いを拭い去れなかった。
ただ自分たちの愛を真実のものにしたかった。この愛を昇華させたいと思っていた。

   ***

昼はトラステヴェレ地区の、ごみごみした狭い小路が入り組んだ裏通りのピッツェリアに入った。
すこし前までは昼食時にピザを出す店は少なかったのに、最近は昼でもたいていのところでありつける。
ローマのピザはパリパリした薄い生地が特徴で、ナポリのもちもちしたものよりケイは好きだった。

『わー、これが一人前ですか?』
皿からはみ出すような大きさにジェイが声を上げた。
『薄い生地だし、見た目より軽いわ。もっとも私は半分で充分だけれどね。』
『美味しい!』シンプルなマルゲリータを嬉しそうにほおばるジェイを見ていると、
自分たちは高校生で、今日初めてのデートをしているような気がしてきた。

昼食の後、ケイはジェイを近くのサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会に連れて行った。
彼に、ベルニーニの最晩年の彫刻“福者ルドヴィカ・アルベルトーニの法悦”を見せたかった。
なんの説明もなくジェイをその彫刻の前に立たせた。

黄色みを帯びたやらわらかな石の褥に横たわる、白い大理石の女性像だ。
上方にある窓からほのあかるい光が降り注いでいる。
まるで固く泡立てた生クリームで作られたように衣類のひだが大きく波打ち、深い陰を作っている。
衣服の上から右の胸をわしづかみにした指が、食い込むように肉体の弾力を刻みこんでいた。
枕の上に背中を預け、白い喉をあらわにのけぞらせた端正な顔は法悦の表情に輝き、
半ば開かれた唇からは、今まさに歓喜の声が漏れ出ているようだ。

『彼女は聖人ですか?』
『ええ、死の床にいるの。』
『すごく官能的ですね。』
『そうよ、これが究極の官能なのかもしれない。』
『宗教的な法悦ですね。』

『魂が神と交わっているのよ。
ジェイ、夕べ、私この像を思い出した。あなたと抱き合っているとき、私、もうなにもいらないと思った。
私の空白は完全に満たされたの。』

『僕もです。
僕もあなたに喜びを与えることができれば、それだけであとはなにもいらないと思った。』

『私、もうなにもいらないと思ったのよ。これ以上なにも。このルドヴィーカのように。』
もう一度ケイは繰り返した。

『でもこれは僕たちにはまだ早すぎる。
ケイさん、ぼくたちは始まったばかりなんです。
なのになぜ、あなたは終わらせることばかりを考えるんです。』

『違うわ。終わらせるんじゃない。ここで永遠に生きさせるのよ。』
『それは詭弁だ。ポルトフィーノであなたが逃げようとしたのと同じだ。』
その言葉を無視してケイは続けた。
『私たち、ローマに永遠に、』
『魂をおいていく?』
『ええ、私はそれでいいわ。そうすればこのあとずっと、喜びに満たされて生きていける…』

『ぼくはいやです。
あなたとローマで、永遠に魂をさまよわせるのに異存はないけれど、それは今じゃない。
それはこの福者ルドヴィーカのように、よく生きた果てにたどりついたその後の世界でのことです。
ケイさん、勇気を出してください。最後まで逃げずに、僕といっしょにいて下さい。』

ええ明日まではね。
でもそのあとは私たちは右と左に別れていくのよ、ジェイ。
旅は、終わるのよ。

  **

ティベリーナ島に渡された二本の橋でテヴェレ川を渡り、マルチェッロ劇場のあとを左に見てすこし歩くと、
そこはビットリオ・エマヌエーレ二世記念堂の裏手で、右手に二本の階段が見える。
右側のゆるやかな起伏の階段を上ると、
ローマの七つの丘のひとつカピトリーノの丘にミケランジェロが設計したカンピドーリオ広場だ。

右と左に相似形に二つに分かれたカピトリーニ美術館があり、正面は市庁舎、
広場の中央にはローマ皇帝マルクス・アウレリウスの騎馬像が置かれている。
騎馬像を中心に、幾何学模様のカーブを組み合わせた白い線が描いていた。
その模様と、周囲の建物と、そして騎馬像が作り出す調和の取れた美しい空間が、
ローマの伸びやかなルネッサンスを語っていた。

この美術館には古代ローマを建国したと言い伝えられる双子の兄弟、ロムルスとレムスが、
彼らを育てたという牝狼から乳を飲んでいる彫刻をはじめ、数々の素晴しい彫刻があるのだが、
ジェイは美術館には入りたくないという。

『この次に来たときにしましょう。今日は彫刻はあのベルニーニだけで充分です。』

この次、という言葉がケイの心に悲しい波紋を描く。
ケイは黙って、ジェイを美術館の裏手に導いた。

眼下に、おびたただしいがれきや崩壊した石の連なりが、傾いた秋の陽の光に照らされて広がっていた。
その中に凱旋門や、残された神殿の柱、レンガを積み重ねた大きなアーチなどが、累々と続いている。
ローマ帝国の霞ヶ関であり、丸の内であり、皇居であり、銀座であった、フォロ・ロマーノとパラティーノの丘だ。
その左手奥には、片側が崩れた巨大な楕円形の建物、コロッセオが見える。

『圧巻ですね。こうして歩いてくると、いくつもの時代が平面的にも混在しているのが、よくわかります。
なかでもここは特別な場所だ。』
『私、このフォロ・ロマーノがとても好きなの。』
『わかります。僕もです。何というか…』
ジェイが言葉を捜すように黙り込んだ。

物思いに沈んだその横顔が、ケイの中で、真っ白な4頭立ての馬車に乗って眼下の凱旋門をくぐる若者に重なった。
ローマの聖なる火を守る巫女が、その若者に祝福を与えるために神殿の前で待ち受けている。
巫女には世俗の男との関係が、どういう形にしろ、許されてはいない…。
いや聖なる世界にいて、世俗の女がかかわることのできないのはその若者…

ジェイが言葉を続けた。
『自分も長い時の流れを構成する一部だって気がしてきます。
二千年前に下の石畳を歩いていた人々と僕は、時を越えてつながっている。
いや、かつて僕とあなたは、ここにいたような気がするんです。
僕たちはここで出会って、時の流れの中にさまよい、そしてまためぐり合ったような気がする。』

そうかもしれない、とケイも思った。
『だとしたら、私たちはまた時の流れにさまよっても、きっと何度も何度も出会うことができるわね。』

沈黙が流れた。

『ジェイ、私、今でなくていいわ。次に出会ったときで。
あなたに私の魂の全てを、過去から未来に至るまでの私の全ての魂をあげる。
私はもう永遠にあなたのものよ。
でもここで、私リュウゼツランの花を咲かせてしまった。だからあとはもう…
だからあなたにまた出会えるまで、次の花をさかせるときまで、いつまでも、私あなたを待つわ。
また出会えると、ずっと信じて生きていくわ。』

『なぜ? なぜここで出合ったことを大切にしない?』
ジェイの声には悲しみと、そして怒りが含まれていた。
『今を大切に生きずに、どうしてこの次により良く生きられると思う?
あなたはそんな人だったのか。』

ジェイの眼差しに射抜かれ、ケイの心が痛みに耐えかねて悲鳴をあげた。
ジェイの言葉が、すでに血を流していた心を、ケイの悲しい決意を揺さぶった。

ケイは黙って何度か首を横に振った。
鼻の奥がつんと痛み、こみ上げてくるものを必死で飲み込んだ。
泣くまいときつく目を閉じたが、すでに涙は頬を伝って流れていた。

ジェイがケイを抱き寄せた。

『ケイさん、あなたは僕と出来るのは短い旅だけだと、ジェノバのあのホテルで言いましたね。
覚えていますか?』

ケイは黙ってうなずいた。

『僕はあなたと旅をしていて思いました。人生もまた旅だと。しかもとても短い。
この短い旅をぼくと一緒に、してくれますね。
この旅の最後まで逃げずに、僕といてください。
本当の僕の、最後のときまで。
約束したでしょう。逃げないと。
最後のとき、僕たちがまたここに帰ってこられるように。僕が永遠にあなたのジェイでいられるように。
リュウゼツランの花は実を結び、僕たちの心に撒かれたんです。
それを二人で育てましょう。』

ケイの脳裏に、地面に倒れるリュウゼツランの花が浮かんだ。
一瞬浮遊感におそわれ、自分がしっかりとジェイに抱かれていることに深い安堵を感じた。

ケイはまるで言葉をわすれてしまったようだった。
なにをどう答えていいのかわからなかった。
いやなにも考えられず、だから言葉も出てこないのだった。

ふと、ゲーテの『イタリア紀行』の一節が浮かんだ。
なにかに悩んで考えてばかりいるゲーテがイタリア人の御者に訊ねる。
どうしてそんなにいつも楽しそうなのか。
御者もゲーテに訊ねる。
どうしてそんなに苦しそうなのか。
ゲーテが色々と悩みがあるんだと言うと、御者はこう答えた。
考えるからですよ。考えなければいいんです、と。

私もいらぬことを考えているゲーテと同じなのか。
考えなければいいのか…。

目を閉じたまま、ケイはジェイに抱かれていた。
ただ黙って、ジェイの肩にまわした腕に力を込めて、彼を抱きしめた。

どれほどの時間がたったのか、やがて夕闇に遺跡の白い柱が浮かんだ。
鳩がねぐらに帰っていく羽ばたきの音を聞いた。
遺跡の周囲を彩る松の梢が黒々とした陰を落とし始めた。
遠くに車の行きかう音が聞こえていた。
教会の鐘の音が一度時を告げた。
コロッセオがライトに浮かんだ。

ケイはそれら全てと、ローマそのものと交わっているような気がして、一層強くジェイにしがみついた。
自分たちがまるで遺跡の中の一本の松の木になったような気がした。
このままジェイとずっと抱き合っていたかった。からだを離すのがいやだった。いや離れられないと思った。
そしてこの気持ちだけに従って、生きて行けばいいと、思った。

空を覆う濃いすみれ色が、艶やかな緞帳のように二人の上に降りてきた。



      ---ほんとうに出会った者に別れはこない--- (谷川俊太郎)







====おまけ==================================================

あなたはそこに

               谷川俊太郎


  あなたはそこにいた 退屈そうに
  右手に煙草 左手に白ワインのグラス
  部屋には三百人もの人がいたというのに
  地球には五十億もの人がいるというのに
  そこにあなたがいた ただひとり
  その日その瞬間 私の目の前に

  あなたの名前を知り あなたの仕事を知り
  やがてふろふき大根が好きなことを知り
  二次方程式が解けないことを知り
  私はあなたに恋し あなたはそれを笑いとばし
  いっしょにカラオケを歌いにいき
  そうして私たちは友だちになった

  あなたは私に愚痴をこぼしてくれた
  私の自慢話を聞いてくれた 日々は過ぎ
  あなたは私の娘の誕生日にオルゴールを送ってくれ
  私はあなたの夫のキープしたウィスキーを飲み
  私の妻はいつもあなたにやきもちをやき
  私たちは友だちだった

  ほんとうに出会った者に別れはこない
  あなたはまだそこにいる
  目をみはり私をみつめ くり返し私に語りかける
  あなたとの思い出が私を生かす
  早すぎたあなたの死すら私を生かす
  初めてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も


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