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石の記憶 序章(1) --シチリアにて

 

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序章(1) --シチリアにて


離陸すると眼下に、緑とも青とも言えない深い色の海が見えた。
アリタリア1784便は、定刻を20分ほど遅れてパレルモを飛び立ち、ローマを目指している。
シチリアでの取材が終わったのだ。

一週間前、ローマからのフライトは夜だったので、海は見えなかった。
いやたとえ昼であっても、ケイの目には入らなかっただろう。
あのときジェイを見送った空港の様子も、パレルモに着くまでのことも、ほとんど覚えていなかった。
ケイの記憶にあるのは、去っていくジェイの後ろ姿だけ……

涙ひとつ流さずに、笑顔で、手を振り合って別れた。
でも胸の中にはとがった釘が何本も埋め込まれたようで、
からだを動かすたびに、それが胸の内側を冷たく、重く、突き刺した。
ジェイの目の奥にも同じ痛みを見た。
互いにその痛みを認めたのに、いや認めたから、相手をこれ以上悲しませたくなくて、
一層大きく笑いあった……

「僕はいつもあなたの中にいます」
ジェイの言葉に黙ってケイはうなずいた。
私もよ、とささやいた。

しかしジェイがゲートの向こうに消え、一人ぽつんと取り残されてみれば、
離れ離れになってしまったことを、そうすんなりと受け入れられるはずもなかった。

待たせたねと肩をたたかれるような気がして、何度も後ろを振り返った。
人ごみの中からジェイが突然現れるのではないかと、目を凝らした。
たえず周囲を見回さずにはいられなかった。

ケイは行きかう人の流れの中で立ち止まり、目を閉じ、心の中のジェイに呼びかけてみようとした。
だが自分の心はどこにあるのか。
心はジェイに預けてしまって、今ここにいるのはただの抜け殻ではないのか……
あわてて窓辺に走り寄り、空を眺めた。
すでに消え去った機影をさがして、ケイは空を見つめ続けた。

ケイ…… かすかに、声が聞こえた。
確かにケイ、と。
夕べケイの耳元でささやいたジェイの熱い声だった。
突然、ジェイの笑顔が頭の中でスパークした。
フラッシュを浴びたように白く光ったかと思うと、暗い影の中に沈んだ。

もう一度ゆっくりと、ジェイの笑顔を思い描いた。
すると映像が次々に浮かんだ。

ジェノバの空港で出会ったときの、見知らぬ他人に送るには少し親しすぎるように感じた笑顔。
バーで初めての乾杯をしたときは、謎めいた、誘い込むような笑顔だった。
港の裏通りで、ケイが時を超えてつむいだ物語を語った時の、好奇心に満ちた笑顔。
フィレンツェのホテルのレセプションでは、韓国の男は紳士だと言って、いたずらっぽく笑った。
ポルトフィーノで、フィレンツェで、
どうしようもなくジェイに惹かれる自分に戸惑い、気持ちが揺さぶられるたびに、
ジェイはケイの心の奥底まで覗き込むようにまっすぐに、少しもたじろがず、大きく笑いかけてくれた。
そしてローマで、一人ケイを待っていた孤独な横顔に、
ケイを認めるやいなや拡がった、輝やかんばかりの笑顔……

ジェイが、ケイの中にいた。

しかしその存在を胸に感じれば感じるほど、現実のジェイの不在が際立った。
よみがえる深い声、抱き合ったときのぬくもり、腕が覚えている胸の厚み、
それらが取り囲むジェイの形をした空洞こそが、ジェイだった。

窓辺で、目の奥で空の青が暗転するまで凝視し続け、
ふと時計に目をやると、ケイの乗る飛行機の出発時間はすでに過ぎていた。
思考能力が完全にストップしてしまっていて、困ったとも思わない。
それでも国内線の出発ゲートまで、なんとかたどり着いた。
パレルモ行きのフライトは、イタリアではよくあることだが大幅に遅れていて、
ようやくケイは旅行者やビジネスマンに混じって搭乗し、
気が付くとパレルモの空港に降り立っていて、観光局の担当者、ビアンキ氏に迎えられていた。

パレルモでは、到着の遅れのためホテルにチェックインするのを後回しにして、
翌日からの取材の打ち合わせとなった。
その後食事を終えてホテルに着いたのは11時を回ったころだった。

部屋の前で鍵を持ったままケイは立ちすくんだ。
ドアを開けるのが怖かった。

ジェイのいない一人の夜を私は本当に耐えることができるのだろうか。
そう思うと、呼吸が激しくなった。
このドアの向こうにジェイはいない……。

廊下のはずれのエレベーターが開く音がして、一組の男と女が静かに言葉をかわしながら近づいてくる。
ケイは覚悟を決めてドアの鍵を回した。

部屋は妙に広い殺風景な空間で、まるで夢の中の見知らぬ部屋のように、ケイを拒絶していた。
ゆがんだ正面の壁が一瞬近づき、遠ざかっていく。
天井は消えてしまい、そのまま空につながっていた。
めまいに襲われてあわててベッドに座りこんだ。
ベッドは海に漂ういかだのように揺れている。
部屋じゅうに、自分の心臓の音だけがこだましていた。

ジェイ……、
必死でジェイに呼びかけた。
ジェイ、私を助けて、と。
もう一度部屋を見回した。
ふらつく足でバスルームを覗いてみた。窓から外を眺めてもみた。
そんなことをしている自分が情けなかったが、衝動的に動き回る以外に、なすすべがなかった。

自分の傍らにはジェイがいるのがあたりまえで、彼がいないという現実を受け入れる心の準備が、
ケイにはまだできていなかった。
そのことに気づき、呆然と立ちつくす。
いまさらながらに、ジェイと過ごした短い時間の濃密な深さを思った。
両腕を胸の前で交差して身体に巻きつけ、自分の体を抱きしめると、一層自分が小さく思え、
一人ぼっちだということが身に染みた。
そのまま、動くことができなかった。
時も、何もかもが、止まってしまったようだった。

どれくらいそうしていたのか……
やがて、遠く、窓の外から車のエンジン音やクラクションが聞こえてきた。
それらの音に混じって、電話のベルが鳴っている。
ベッドの上に放り投げたバッグの中の携帯電話の音だった。

電話のベルは、すでに何回か鳴り響いていた。
しばらくの間、ケイにはそれが何の音かわからなかった。
ぼんやりとその音を聞いていたが、やがてレンズの焦点が合うように、
それが電話の呼び出し音だと気づいた。

あわててバッグに飛びつく。
あせっているせいか、思うように留め金が外れない。
ようやく留め金をはずすと、バッグを逆さまにして中身をベッドの上にぶちまけ、電話をとった。

もしもし、けいさん?ほっとしたようなジェイの声が流れてきた。
ジェイ……
ケイは何もいえなかった。力が抜けて、どさりとベッドに腰をおろした。

けいさんですか? なかなか出ないから心配しました。
今大丈夫ですか? どこにいるんですか?

ケイはあえぐように数回息を吸った。

ケイさん、なにか言って下さい。

ジェイ…… 
ごめんなさい。
今ホテルにチェックインして…… なんとか呼吸を整えて答えた。
部屋に入ったところだったの。
私、きっと疲れているのよ。何も考えられなくって・・・

ケイがそう言うのを聞いて、ジェイは全てを理解したようだった。

ケイさん、僕は今ソウルに着いたところです。
これから街に向かおうと思ったけれど、疲れているし、ホテルで一休みすることにします。
どこかに部屋を取りますから。

空港の英語のアナウンスに混じって、韓国語の話し声が幾重にもかさなって聞こえる。
ケイはじっとそれらの音に聞き入った。

ケイさん、大丈夫ですか?何か話してください。
ええ、もう大丈夫よ。あなたの声を聞いたから。
今どこにいるの? いろんな音が聞こえる。

空港で荷物を受け取ったところです。うるさいでしょう?
あとでかけ直しましょうか?
いいえ、きらないで、ジェイ。しばらくあなたと一緒に歩きたい。

これから外に出ます。タクシー乗り場です。

車の騒音が四方から響いてきた。ひときわ大きな音はバスだろうか。
近くで一台の車が停まる音がした。ジェイがタクシーに乗ったようだ。
二言三言何か運転手に告げると、バタンとドアが閉まった。

ケイさん、ホテルはすぐですから。
タクシーが走り出したためか、ときどき電波が乱れる。
それでもケイは電話を切らせなかった。
何でもいい、ジェイの言葉を、その声を、聞いていたかった。
いや声すらいらなかった。この電波の向こうにジェイがいる、そのことを感じられるだけでよかった。
周囲の雑踏や車の走る音を背景に、ただジェイの息遣いを感じているだけで、
深い満足と安堵を覚えた。

飛行機では眠れたかとか、天気はどうだったかとか、たわいもないことを話し続けた。
ケイは飛行機が遅れて、結局シチリアに着いてすぐ打ち合わせだったこと、
そのあと担当者と一緒に食事したことを話した。

ケイさん…… ジェイがすこし言いよどんだ。
担当者は男ですか?
男だと答えると、ほんの数秒の空白の後、ジェイが訊いた。
くどかれたりしてませんか?

その言葉に笑みが漏れた。

くどかれたわ。
ケイさん……。
ジェイが真剣な目をして見つめてくるのを感じた。

そのとき、車が止まる音がした。ホテルに着いたようだ。
チェックインしてからかけ直すと言われ、電話を切った。

ケイは電話機を握り締めたまま、ぐるりと部屋を見回してみた。
壁は部屋を四角に囲み、天井からはシャンデリアを模した照明がぶら下がり、
ベッドはしっかりとケイの体をささえ、
ベッドの回りは海ではなく固い木の床で、
足元には糊付けされたコットンの真っ白なラグが敷かれていた。

電話から流れてきたジェイの声が、ジェイの不在という空洞を、
鋳型に流れ込む石膏のように満たしていた。

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