AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  2. 香りの記憶

 

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綿貫と美奈は、学生時代、同じ広告研究会に在籍した。

美奈が新入生で入会した時、綿貫はすでに3年生の中心メンバーで、
研究ゼミの席上、広告理論を説明したり、
議論を戦わせる姿は冷静で鋭く、容赦がなかった。

常に頭脳明晰で理論的な上、ゼミ仲間が冗談を言って笑っている時でも
綿貫だけは冷静な表情を崩さないところがあり、
同期や先輩の男子学生から、格好つけ過ぎだ、などと言われている事もあった。

口数は多くないのに、いったん口を開くと遠慮のない批評が飛び出し、
決して甘えを許さなかったので、綿貫のゼミは厳しくて怖い、
という評判だった。

そんな調子なので、新入生の女子学生たちは、
綿貫の長身で整った顔立ちに憧れはしても
実際に相談したり、指導してもらったりするのは、怖くて敬遠する者が多かった。

美奈もゼミでの綿貫の発言を1、2度聞いただけで震え上がり、
別のもっと気さくな先輩に相談しようと心を決めていた。




ある時、美奈がゼミ室に忘れ物をした。

それが先輩から借りた大切なマーケティング理論の本だったので大あわてで戻り、
ゼミ室のドアを開けると、鍵がかかっていないのに誰もいない。

だが、美奈が置き忘れたはずの本まで、棚の上に見当たらないので、
焦ってあちこち、ガタガタと探していると、


「何してる?」


突然、後ろから声がかかった。

いきなりの事で心臓が縮むほどびっくりして、飛び上がり


「きゃ!」


と声を上げて後ろを見ると、
綿貫が一番後ろの、椅子を幾つかつなげた席から体を起こし、
髪を掻きあげながら眠そうに、こっちを見ていた。


「あ・・・あの・・・わ、わたし・・」


綿貫はじっと美奈を見つめていたが、珍しくふっと表情を崩し、


「どうしたんだ。幽霊じゃないぞ。」

「でで、でも、幽霊みたいに音もさせないで、むっくり起き上がりました・・」


美奈は緊張でかちかち言いながら、何とか言葉を絞り出した。


「そりゃ、ひどい言い様だ。
 俺が幽霊なら、そっちは泥棒だろう。
 黙ってこっそり入って来て、ひとりでごそごそ部屋を荒らしてる。」

「そんな!忘れ物したのに見当たらなくて、焦って探していたんです。」


綿貫はやっと足を床に着けて、テーブルに肘を付き、メガネを掛けた。


「何?」

「え?」

「だから、忘れ物って何?」

「あ、ああ、矢木先輩にお借りしたマーケティング理論の本です。
 大事な本なのについ置き忘れてしまって、どこに行ったのかしら・・・」


急に焦りが蘇り、美奈が屈んで、またがさがさと机をひとつずつ探し始めると、
いつの間にか目の前に綿貫の腿の部分があって、
目を上げると、大きな手がゆっくりと分厚い本を差し出した。


「あの・・・?」

「悪かった。厚さが丁度いいからって枕にしてた。
 これだろ?」


美奈が探していた、マーケティングの本だった。


「あ、ありがとうございます。
 って言えばいいのか、ひどいって言えばいいのか・・・」


本を取り戻せた安心感で緊張が解けた反面、焦らされた分、
ちょっぴり綿貫に恨みがわいた。


「ここにあったはずなのに・・・」


美奈が本棚の上を叩くと、綿貫がまたふっと笑って、


「悪かったって言ったろ?威勢のいい新入生だな。
 おわびにコーヒーでも奢るよ。
 鍵をかけるから待っててくれ・・・」


綿貫は近くにあった鞄とパーカを取り上げると、美奈を促して部屋を出て、
外から、傷だらけの鍵でかちゃりと鍵を閉めた。


「行こう・・・」




キャンパスの外れにあるゼミ棟は、陽が落ちてから人影も少なく、
レンガ風のタイルを貼ったピロティに二人の足音が響き、照明も薄暗かった。

どこからから学生の話し声がするが、部屋の中の声が外に漏れているらしく、
人影は見当たらない。

遠くの方で、自動販売機の飲み物がゴトン、と取り出し口に落ちた音が聞こえる。
だが、すぐそばの自動販売機の近くのベンチには誰も居なかった。



「どうする?」

「え?」

「食堂のカフェテリアでカップのコーヒーを飲むのがいいか、
 駅前まで行って、まともに煎れたコーヒーを飲むのがいいか、どっちにする?」

「え、本気だったんですか。」

「俺が冗談を言うか・・・新入生」

「新入生、新入生って、もう秋です。私の名前知らないんですか?」


綿貫が立ち止まって、美奈を見た。


「ふうん、今年の新入生は13人、うち女子は4人。
 中田、今井、佐原・・あと一人は誰だっけなあ・・」


何よ、わざとらしいわね。感じわるい!


だんだん、美奈の気分もとがって、ついでに唇もとがってきた。
綿貫が美奈の顔を見て、思わず噴き出し、


「おい、面白い顔してるぞ。見せてやりたいな。」

「いつも鏡で見慣れてますから、結構です。」


ますます笑い出し、


「よし!俺は今、まともなコーヒーを飲みたかった気分なんだ。
 付き合え。」


そう言って、ずんずん先に立って歩き出した。


つ、ついて行かなくちゃいけないものなのかしら?
怖いんだけど、この人!


そう思いながら、長身の綿貫の早足に遅れまいと小走りについていったところで、
途中の棟の前にいたグループから、

「直人・・・」と、柔らかい声がかかった。

綿貫の足が止まると、暗くなったキャンパスを少し小走りに、
背の高い女子学生が現れた。
ベージュのトレンチコートの肩にロングヘアを流し、ブーツを履いた美女だ。

4年の幸田かおりは、おなじく広告研究会で、綿貫の彼女だった。
もっとも美奈は二人で歩いているところをそれほど何度も見たわけではない。

ゆるくウェーブした栗色の艶やかな長い髪と、美しい目鼻立ち、
ぽってりとした厚みのある唇が肉感的で、
大学生になったばかりの美奈から見ると、
それはもう、立派な大人の魅力をたたえた美女だった。

広告研究会でも彼女に憧れている男子学生は多く、
彼女が現れると、うっとりした視線が向けられ、


「かおりさん」


と、緊張気味の声がかけられているのを何度も目にしている。

それでも、かおりの目には綿貫しか映らないらしく、
彼のゼミには必ず彼女の姿があったし、
みんなで談笑している時も、かおりの微笑の先にはいつも綿貫の姿があった。

ただ、二人が恋人らしく甘い言葉をやり取りしているのも、
腕を組んでいるのも、向かい合って話をしているのすら、
ほとんど見たことがなかった。

いつも同じ図式だ。

かおりが微笑んだまま、じっと綿貫を見る。
綿貫はちらっと目をやるかやらないかで、すぐに他の者と話を始める。

かおりの視線はいつも一方通行だった。
こんな美女のどこが気に食わなくて、こんなに冷たいのだろう。

美奈でさえ、そう思ったことがあるくらいだ。




今、駆け寄ってきた幸田かおりは、目をきらきらさせ、
美奈がいなければ、綿貫の腕を取らんばかりの勢いで、嬉しそうに立っていた。


「もう帰るの?今日はゼミ論を片付けてからだって言ってたじゃない。」

「その筈だったんだが予定が変わった。今日はこのまま帰る。
 じゃ、またな。」


実に冷たい応答に美奈でさえ、かおりが気の毒になった位だ。

かおりが小さい声で「ええ、また」と言うのを尻目に、
綿貫がまたさっさと歩き出した。

美奈はどうしようか、と戸惑ったが、思い切って走って綿貫に追いつき、


「ねえ、わたしの事はもういいですから、
 かおり先輩のところへ行ってあげて下さい。」


綿貫は足を止めず、


「どうして?」

「だって、わたしへのお詫びにコーヒーを奢ってくれるんでしょ?
 もう十分お詫びされましたから、いいです。かおり先輩に・・・」

「いや、気が変わったんだ。俺がコーヒーを飲みたい。
 だから行くんだ。」

「だったら、あの人と飲めばいいのに・・・」

「いいんだ。お前が気にするな。」


そう言い捨てると、またさっさと歩き出した


美奈は後ろから走って追いかけながら、どんなにいい男でも、
こんな恋人だけは御免だ、と心に固く言い聞かせた。


「わたしはもっと優しい人がいい・・・」


思わず、独り言が漏れる。


「何だ?」

「いえ、独り言です。」


美奈の言葉を聞くと、振り返ってまた綿貫は笑ったように見えた。

早く来い!と言われて、美奈は仕方なく、綿貫の背中を追いかけた。




綿貫と入った駅前の喫茶店は古くてうす暗く、店内を低くジャズが流れていた。

美奈はコーヒーがあまり得意ではなかったのに、
綿貫が座るなり、「コーヒー二つ」と注文してしまい、
カフェオレとか、ココアとかを注文する隙が与えられなかったのだ。


「なんで勝手に決めちゃうんです?」

「何故?コーヒーを奢るって言っただろ?」


綿貫は不思議そうに言った。


「そうですけど、私はコーヒーの仲間のカフェオレとか、
 ココアとかが良かったんです。」

「そう言うのは別の時に飲め。今は俺とコーヒーに付き合うんだ。」


コーヒーは熱くて、飛び切り苦かったが、
芳しい香りがたちのぼって美奈の鼻孔をくすぐった。

その香りを楽しみに半分まで頑張ったが、それ以上は我慢できずに、
ミルクと砂糖を入れた。

綿貫はやや哀れむような視線でそれを見ていたが、何も言わず、少しだけ微笑んだ。


「ここまで頑張ったんですが・・」


言い訳がましく、美奈がシュガーポットを閉めると、


「わかってる。俺が勝手に頼んだんだ。
 だが、自分の好みと違うのをたまには口にするのもいいだろう。
 最初からミルクが入っていると、この香りが永遠にわからない・・・。」


そう言って、愛しそうにコーヒーを一口飲む。


「彼女に対するより、コーヒーに対しての方が優しいですね。」


カップの上からぎろりと睨まれたが、美奈は素知らぬ振りをしてコーヒーを飲んだ。


「お前、度胸いいな。俺にそんなこと言ったやつあんまりいないぞ。」

「新入生の次にお前はないでしょう。本当に名前知らないんですか?」

「いや、悪かった、小林美奈・・・」


素直な言葉に美奈が驚いていると・・・


「お前・・・じゃない、小林といると謝ってばかりだな。
 めったに謝ったことなんかないのに。

 あっと、小林はダメだ。2年に同姓がいる。
 じゃ、今からお前は美奈だ、いいか?」

「はあ・・・」



美奈は綿貫が怖かったので、他の女子学生のように
憧れ半分でゼミを取って絞られたり、
勇気をふるって相談をもちかけたりしたことがなく、
これまで殆ど話をしたことがなかった。

いくらいい男でも、あんな怖いのはお断りと思っていたのだ。

だが今、綿貫の真っ正面に座って、つくづくと見ると、
他の女子学生の気持ちがわかるような気がした。

きれいに整った目鼻立ちも、普段は冷たく見えることが多いが、
笑うとほんの少し目尻が下がって表情が柔らかくなる。

もっともメガネの奥の目が崩れることは滅多に無かった。
コーヒーカップを持つ手の指は長く、如何にも繊細な仕事をこなしそうだ。

唇だけはややふっくらとして柔らかそうで、冷たい顔の造作を裏切っている。


『綿貫の甘いのは声だけだ。』


辛辣な物言いと自他に厳しい態度からそう言われていたが、
こうやって改めて見ていると、マスクだってかなり甘い。
じっと見ていると、何となく顔が赤くなってくる。

その時、ピピッと綿貫の携帯が鳴った。
取り出してちらりと発信者を見ると、そのまま出ずにまた仕舞った。


「出ないんですか?」

「ああ・・・」


美奈は何となく、かおりのさびしそうに見送っている顔を思い出して、
またこの男が憎らしくなった。


「綿貫先輩は文章とかコピー、上手いですよね。」

「・・・・」

「議論もすごく上手です。
 いつも相手がなるほどって思って、引いてるのがわかります。」

「で?」

「え?」

「英語の論法だ。
 最初に肯定的な文章が幾つか並んで、その後、本音を延べる『but』が来る。
 お前の『but』の後は何だ。」

「・・・。『But』ふつうに優しい言葉がどうして出ないんですか?」


また胸元で、ピピッと鳴り始めた携帯をマナーモードに変えながら「ううむ」と、
綿貫は唸った。


「誰にでも苦手はある。
 俺だってそうしようと思うことはあるんだが・・・。」


コーヒーカップを持ち上げると、伏し目がちにコーヒーを飲む。
悔しい程、絵になる男だ。





「美奈、お前さっき、優しい人がいいって言ってたな。
 優しいってどんなことだ?」

「綿貫先輩には一生、理解できない事です。」

「だから、例えば?」


美奈はう〜んと考えた。


「恋人がお茶を飲みに行きたいって言ったら『いいよ』って付き合ってくれる人。」

「それから?」

「困っている時にさり気なく助けてくれる人。」

「それで?」

「名前を呼んだら、にっこり微笑んでくれる人」

「ふむ・・・」

「つらい時に、黙って慰めてくれる人。」

「それで終わりか?」

「う〜〜〜ん」 美奈は困って、かおりのことを思い出した。


「その人のことをじっと見つめたら、ちゃんと気づいて、微笑み返してくれる人」




綿貫はふと黙った。


「ふん、俺には難しいことばかりだな。」

「そうでしょ?
綿貫先輩は強いかも知れないけど、優しくはないですね。」


 綿貫が美奈の顔をまともに見た。


「俺が強い?」


問い返し方があまりに真剣だったので、
美奈は少し口ごもったが、
ゼミで説明する姿や、相手と議論を交わす時の綿貫を思い浮かべ、


「ええ、強いです。だから、弱い人にもう少し優しくしてあげたらいいんじゃないかな。」


「俺に説教するのか?新入生。

 俺は優しくない。
 それは認める。
 だが残念ながら強くもない。
 だから、弱い者の気持ちはわからないでもない。

 ただ、弱い者同士で舐め合うのが死ぬ程嫌いなだけだ。」


そう言った後、綿貫はふっつり黙ってしまった。


その後は、幾つかお互いの話をして、駅から別々の電車に乗って帰ったのだった。

全く他愛のない思い出だが、芳しいコーヒーの香りとともに、あの時から、
美奈は綿貫から目を離すことができなくなってしまったのだ。

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