AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  6. 長い夜

 

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「美奈ちゃん、ラボから新色サンプルが届いたのよ。
 ちょっと見に来ない?他のスタッフも呼んだから・・」

「ありがとうございます、すぐ伺います!」


倉橋常務からの電話を置くと、常務の部屋に向かった。

倉橋のいるフロアは、常務室と、
NYから年に何度か帰ってくる田畑かつえのためだけの部屋がある。

"KAtiE"ブランド、製造・発売元(株)KAtiEの社長は、
このブランドのクリエーターであり、NYを中心に活躍する、
現役バリバリのメーキャップアーティストである、田畑かつえだ。

副社長、専務は、親会社の役員が兼任していて、時折、様子を見に来たり、
決算時に何日も詰めたりする以外は、親会社の最新ビルに常駐している。

つまりNYのかつえを除けば、
このビルで倉橋常務は実質的に"KAtiE"ブランドの最高責任者なのだ。




フロアの床には、ベージュのカーペットが敷き詰められて、固い床の感触はない。

常務室のドアを開けると、まず、4人程度の打ち合わせに使う、ごく小さな応接室があり、
その奥が倉橋の執務室兼私的な応接室となっていた。

窓から、246(青山通り)を縁取る並木が見下ろせ、神宮外苑の緑も見える。
狭くて、暗いところの苦手な倉橋にぴったりの部屋だ。

執務室に入ると、資料やカラー見本の積み上がった、 天板の広いマホガニー色のデスクが奥に見え、
手前にはデスクと相対する形で、アイボリーホワイトの3〜4人掛け革張りソファが置かれている。

NYのかつえから、倉橋に贈られたもので、
かつえがいかに倉橋を信頼しているかの現れの一つだった。

美奈が入ると、そのソファに芳賀真也、長田、前田部長が座っており、
ラボから届いたサンプル品を、それぞれ手に取っていた。


新しいラインのスキンケア製品。
透明なシリンダー状の瓶にはいっている、ローション、保湿ジェル。
新ラインのイメージカラーである、ラズベリーレッドの小さなチューブには、
クリームと美容液が入っている。

サンプルパレットに並んだ、新色ルージュとチークのラインは、
かつえから注意深く色出しを指示された、自信色だ。

カラーパレットの全体のイメージは、どことなく果実の色目を感じさせる。
ラズベリー、ピーチ、アプリコット、レッドカラント・・・

シンプルでありながら、自然界に見られる有機的な色目。

そこが、今までの「自然」を売り物にした多少泥臭い製品とは違う、
健康的であか抜けたイメージを出している。




「どう、おいしそうな色じゃない?」


倉橋がデスクから立ち上がって、ソファ前の透明なガラステーブルへやってきた。


「そうですね。ロマンチックで、それでいて健康的なイメージが出てますね。」


ルージュパレットを手にした、真也がそう答えた。

久しぶりに間近で見る横顔に、
どことなく疲れがにじんでいるのを目にして、美奈ははっとした。

頬が少しくぼんだせいかもしれない。
痩せたおかげで、あご辺りの線がシャープになって、
以前より、男性的な顔つきになったように思う。

美奈の視線を感じて、真也が顔を上げ、
ふわりと優しい笑顔を返す。

すぐにサンプルに視線を戻した横顔には、製品への期待と自信が見えた。


彼の仕事がそれほど充実しているなら、
わたしだってもうちょっと頑張らなければ・・・


美奈は真也の横顔を見ながら思う。


「かつえさんが来られるのは、年明けになりそうよ。
 今日、このサンプル、全部向こうに送ったの。
 しばらくしたら、わんわんと電話がかかってくるでしょうね。」


倉橋が苦笑混じりに言った。

白いシャツの胸元から、やわらかな曲線の影がかすかにのぞいて見える。
栗色の髪を髪留めでゆるくアップにして、相変わらず素顔のようなメークだ。

私がきれいでいないと、このブランドの売り上げが落ちちゃうから、と
そんな普段の台詞が嫌みに聞こえないほど、年齢を感じさせない肌の張りがあった。


それに、何だか、いつもより・・・。


「倉橋常務、何だか生き生きして見えますね。」

「え?」


と、こちらを向いた顔は40代の女性にしては、あどけないものだった。
凄腕の営業ウーマンだった筈なのに、時折見せる、この可愛らしさは何だろう。


「やだ、美奈ちゃんたら。
 サンプル見たら嬉しくなっちゃって、ドキドキしながら試してみたのよ。
 私には、すこし可愛らし過ぎる色かと思ったけど、
 つけてみると、意外となじむの。」


新製品のキットを手にして、はしゃいでいる少女のようだった。

対して、真也と長田の顔に、何となく憔悴した感じがあるのが対照的だ。
連日、遅くまで仕事をこなし、ろくに睡眠も取っていないに違いない。


「前田部長、あちらの・・、本社の方はどうです?」


倉橋が訊いた。

年配の男性にしては驚くほどきれいな指で、
美容液のサンプルチューブをためつすがめつしていた前田部長がゆっくり振り向いた。


「新ライン開発を決めた際、既存ラインとコンセプトや顧客がかぶらないか、
 さんざん検証を重ねた筈なんですがね。

 出来上がりかけてみると、やはり、2〜3文句を言ってくるところがあるんですよ。
 特に30代女性向けのブランドのチーフが、ねちねちとね。
 参りましたよ。」


参りました、と口にしている割には相変わらず穏やかで、
シルバーグレイの髪には毛筋ほども乱れがない。

この紳士が、いざとなると一歩も引かずに、冷静な口調を保ったまま、
会議でも延々と主張をぶつ、などとは考えられないが、
美奈は実際に目にしたことがあった。

この世代の男性にめずらしく、女性に対する偏見のない人で、
女性が働きやすいように常に目を配り、
自分の上に二人も女性上司がいることを苦にしていないようだった。


「かつえさんの意見を聞かないと、最終的にはわからないけど、
 このサンプルを見る限り、ちゃんと意図通りの製品にあがっていると思うわ。
 サンプルを貸して欲しい場合は、私の所まで取りに来てね。
 まだ、これ1セットしか、ラボから回してもらってないのよ。

 じゃ、皆さん、いきなり呼びつけてごめんなさいね。
 芳賀さん、ちょっと残ってくれる?
 後の方はどうぞ、仕事に戻って下さい」


真也を残してドアを閉めながら、ちらと中の様子を見た。
常務と真也が、サンプルを前にテーブルの角を挟んで座り直すのが見えた。

それじゃ、と、すぐ階段を駆け下りて行った長田と違って、
前田部長は誰もいないエレベーターホールで、
ボタンを押さずに美奈を待っていた。


「小林さんは、疲れて倒れこんでしまうようなことはない?」

「ありがとうございます。大丈夫です。」

「そうか・・ならいい。
 あと、これは、プライベートなことなので、答える義務は全くないから、
 どうしても答えたくなかったら、遠慮なくそう言って欲しい。」

「はい、何でしょう?」


紳士の前田部長の、いつになくもってまわった言い回しに、
かえって警戒する気持ちがわく。


「その、小林さんは・・・芳賀君とお付き合いしてるのかな?」

「はい・・・」


美奈は、前田部長を信頼していた。
もし何か問題があるのなら、部長から話してくれるだろう。


「何か・・・?」


いやいや、と前田部長は手をふった。


「それほど隠している様子もないから、ちょっと聞いたまでだ。
 私的なことを聞いて悪かったね。」


そう言って、いつの間にか上ってきたエレベーターを手で示し、
美奈を先に乗せて、自分も乗り込むとそのまま口を閉じてしまった。


へえ、前田部長でもゴシップに興味があるのかしら・・・?






その日の夕方、美奈と真也は、パリ在住のジャーナリスト、
レイコ・川上のセミナーへと共に向かっていた。

並んで通りを歩きながら、


「まいったな。
 セミナーに出てるような余裕はないです、って前田部長に言ったんだけど、
 そういう時こそ、この人の話を聞いて来いって、珍しく強硬だったから・・・。」


今朝の部長の質問の答えがこれだろうか。
共に疲労困憊し、二人の時間の取れないカップルを気遣ってくれたという訳かもしれない。

真也の言葉を聞きながら、美奈はこっそり前田部長に感謝した。


「何でもいいわ。
 真也と二人で行けるなら、セミナーでもどこでも・・・」

「そうだな・・・」


真也も笑顔で美奈に向き直り、
軽く肩を抱き寄せて美奈の首すじに顔を突っ込むと、


「んん、懐かしい美奈の匂いがする・・・」

「やだ!誰が来てるのかわからないのよ。」


いいよ、と言って体を引いたが、、
結局、受付の近くまで二人で腕を組んで歩いていった。




レイコ・川上のセミナーは面白かった。
小さい教室に20名前後の出席者で、セミナーというより、サロンのようだった。


「人間の寿命がずいぶん伸びましたね。
 でも、おじいさん、おばあさんになってからの時間を増やすより、
 現役の男性、女性でいる時間を増やす方がずっと楽しいでしょう?

 それに、これだけのヴィジュアル時代なんだから、
 どうしても人は視覚からの情報を多く受け取るのに慣れているの。
『見た目』は今より、もっと大事になってくるわ。
 お洋服同様に、お肌や髪の手入れは、見た目の重要な要素です。

 それ以外に、アンチエイジングの一環として、ほんのちょこっと『直す』技術、
 つまり『プチ整形』も美容院に行って手入れしてもらうような感覚で
 今後もっともっと身近なものになって行くと思う・・・。
 『現役』の男性、女性であり続けるためにね。」


出席者の6割は女性だった。

先ほどちらっと受付で、出席者の出自に目を走らせたら、
出版社、アパレル、ライバルの化粧品会社、輸入商社、
自動車会社等の名前がずらりと並んでいた。

レイコ・川上のセミナーで数年前にほのめかされた事が
実際に街の現象として広がっていったのを何度も目にしたことがあるので、
美奈はなるたけ出席するようにしていた。


「じゃ、今シーズンの私のセミナーは今日が最終日だから、
 皆様にちょっとだけおまけがあるの。」


レイコ氏はそう言ってドアを開けると、受付の方に
「お願いしま〜す!」と声をかけた。


その声を合図にドアから、ガラガラとワゴンが運び込まれ、
その上には、薄い縁に鋭角的な輝きを見せるワイングラスがずらりと並んでいた。


「皆様、もしかして、まだお仕事にお戻りの方もいらっしゃるかもしれないけど、
 車の運転をなさるんでなければ、すこうしだけでも味わって行って欲しいんです。

 出たばかりのヌーボーも用意しましたけど、
 やっぱり私の好きなブルゴーニュの赤なんか、
 是非、試してみて頂きたいわ。」


レイコ氏の手招きに出席者が次々に席を立ち、用意されたワゴンの周りを囲んだ。
レイコ氏が、真也に目を留めて、


「あの、お客様を使うようで申し訳ないんですけど、
 わたしとしては男性が注いで下さるのが嬉しいの。
 お手伝い頂けない?」

「わかりました。喜んで・・・」


真也が進みでて、次々にグラスにワインを注ぎ、
テーブルの周りの女性たちに渡していく。
レイコ氏が注いだワインは、男性たちに差し出された。


「ありがとう。ぜひ、あなたも味わって下さいな・・」


ワインを無事注ぎ終わった真也は、レイコ氏にそう言ってグラスを渡されると断りきれず、


「それでは」と受け取って、少し困ったような顔を美奈に見せた。

「では、皆様、今夜ここでお会いできたことに乾杯しましょう!」


全員で「乾杯!」とグラスを掲げ、仕事がらみのセミナーとは思えないような
和やかな雰囲気が流れた。


「おいしい!なんていい香りかしら・・・」


一口味わった美奈がそう言うと、レイコ氏がテーブルの向こうからにっこり微笑んでくれた。

真也はまるで、テイスティングでもするように、
ちびちびと警戒しながら、グラスを舐めている。


うふふ、あれ一杯飲んじゃったら、真也は会社に戻れないものね。
でも、そうなっちゃえばいいのに。


どこか、意地悪な目線で真也を眺めていると、


「美奈ちゃん・・・」


後ろから声をかけられた。

振り向くと、光沢のあるシックな黒のスーツを着こなした、見慣れない長身の女性。
その美貌をしばらく見ているうちに、はっとなり、


「かおりさん!」


グラスを持ったまま、お互いに歩み寄った。


「やっぱり美奈ちゃんなのね。
 すごくきれいになっちゃったから、人違いかと自信なくて・・・。
 懐かしいわ。元気だった?」

「かおりさんこそ、前よりも一層美しさに磨きがかかって・・・。
 それに何だか幸せそう。もしかして?」


かおりはかすかにワインに染まった頬をふわっとほころばせ、


「そう。2年前に結婚したの。まだ子どもがいないから、仕事を続けてるのよ。」


そう答えたかおりには、以前の切ないような影はみじんもなく、
頬の辺りが心なしか丸みを帯びて、落ち着いた雰囲気が醸し出され、
元々の美貌に一層の華を咲かせていた。


「知り合いの方?」


ワインをもてあました格好の真也が美奈のところにやってきた。


「そうなの。大学のサークルの先輩なのよ。
 ものすごく久しぶりにお会いしたわ・・・。
 かおりさん、こちらは同僚の芳賀さんです。」

「初めまして、芳賀と申します。」


真也が素早く名刺を差し出して、かおりに差し出した。
かおりはワイングラスをテーブルに置いてから、名刺入れを出すと真也と交換した。


「輸入商社にお勤めですか?」

「ええ。時計からスキーの板まで、結構色々扱ってるんですよ。」


おっとりとかおりが笑顔を見せて答えた。

しばらく、真也も交えて近況を紹介し合い、
合間に元広告研究会のメンバーの近況をはさんだ。


「かおりさん・・・」


美奈はかすかにためらいながら、口を切った。


「何?」


かおりは、ふわりとした笑顔を向けた。


「あの・・・今、綿貫先輩と一緒に仕事をさせてもらってるんです。」


かおりの顔から、一瞬表情が無くなった。


「え、直人のこと?」

「そうです。うちの会社の新規ラインの立ち上げプロモーションを
 綿貫さんが担当しているんです。

 それで、一緒に広告の制作やらイメージ戦略を立ててもらって・・・。
 あの・・・」


美奈が言葉を切ったのは、かおりの目の中に、
見る見る涙があふれだしてきたからだった。
向かい合って立っていた、真也も驚いている。

かおりは自分でも驚いたようで、口元を両手で覆うと、
しばらく声もなく、目を閉じていた。

目尻からつうっと涙が一筋こぼれ、
かすかに息を吸い込む音が聞こえると、また目を開いた。

真也が素早くポケットからハンカチを取り出して、かおりに渡した。


「ありがとう・・・・。ごめんなさい、びっくりさせちゃって。」


真也のハンカチで少し目元を押さえると、


「急に色んなことが押し寄せてきちゃって・・・。
 すみません。これ、このままでお返し致します。
 またお会いできるかどうかわからないから・・・」


真也にハンカチを返すと、それっきり横を向いて黙ってしまった。

白い横顔は凝然と動かないが、
耳元のピアスについたワインカラーの石が細かく揺れている。


「綿貫さん、元気ですよ。
 相変わらず厳しくて、こっちがクライアントなのに怒られそうです。」


かおりは何度か頷いて、「そう・・・」とつぶやいた。

やがてグラスを取り上げて、残っていた赤ワインを飲み干すと、
さっきよりもっと白くなった顔をようやくこちらに向け、


「ありがとう、美奈ちゃん。会えて嬉しかったわ。
 元気でね。また会いたい・・・」


かおりは、美奈にも名刺を渡し、
一緒に来た同僚らしい人のところへ戻っていった。

最後の言葉は、一体誰に向けられたものなのだろう。

今は幸せな結婚をしている筈なのに、
心の中にはどうしてもせき止められない思いが眠っているのだろうか。





講師のレイコ・川上氏にあいさつをして、美奈と真也は会場を後にした。

外に出ると、入った時よりぐっと気温が下がっていて、
公園通りにも木枯らしがやって来ているようだ。


「会社にもどるの?」


スクランブル交差点の前で、美奈が尋ねると


「そのつもりだったんだが・・・」


真也が立ち止まって、暗い空を仰いでいたが、
こちらに向き直って美奈の手を取ると、急にパルコの裏手へ向かって歩き出した。


「今、美奈と一緒にいたい。」

「一緒にいるじゃない。」


手を引っ張られながらも答えると、
肩越しに振り向いて、ちらっと美奈の目を射ると、


「もっと全部、欲しい。
 ついてきてくれるだろ?」


美奈がためらっていると、


「さっき、僕と一緒ならどこへ行ってもいいって言ったじゃないか・・・」


その言葉に抗うすべをなくし、
美奈は真也と共に渋谷のネオンのひとつに吸い込まれた。






部屋に入った真也は性急だった。

バッグもコートも払いのけるように、強引に唇を奪われ、
壁に押し付けられて、身動きすらできなかった。


「シャワーを・・・」

「要らない!」


美奈が驚いた目をしたのを見て、真也も自分の言葉の荒さに気づいたようだった。

ふっと息を吐いて、ぴったりと額をつけたまま、顔を見つめ直し、


「このままがいいんだ。美奈の香りに包まれたい・・・。」


ベッドルームまで、もつれるように進むと、
美奈の体から剥ぎ取るように脱がせていく。

白い肌があらわになり、何もかもが真也の前にさらけ出された姿にすると、
やっと手を止めて美奈を抱きしめ、ゆっくり口づけをした。



うつぶせにベッドに押し倒されて、両手をつかまれたまま、
真也が後ろから重なると、
耳元から首すじ、背中へと熱い感触が移動していくのがわかる。

美奈は、やわらかい胸の先がシーツに強くこすられて、
かすかに痛みを感じた。

そのままの形で、美奈の気が遠くなるまで、じわじわと執拗に責め続ける。
いつもの真也よりも更に執拗で、容赦がなかった。

美奈のどこに刺激を加えれば、どんな風に反応するのか、
どうやれば切ない吐息を漏らすのかを知り尽くしている真也は、
まるで美奈を征服するように、隅から隅まで自分の思い通りにしていく。

腕を抑え込まれ、体の自由を奪われたまま、全身が細かく震えてきて、
時折、空いている手でそうっと背中をなでられるだけで、
声が上がってしまう・・・。

美奈の気持ちを感じてくれている筈なのに、
決して真也は許してくれない。

白い肌がばら色に色づき、汗ばんできているのに。
真也を求めて震えているのに・・・。

暗い階段を何度も上ったり降りたりするような感覚を覚え、
自分がどこにいるのかもわからなくなる頃、やっと二人が繋がると、
今度は、何度も激しい衝撃を加えられる。


「ああ・・・あ・」


思わず声が漏れ、
必死にシーツをつかんで耐えていると、
そのまま荒っぽく責め続けられる。

体中を這うような唇と掌に翻弄され、
要求通りにどこまでも追いつめられ、逃げ場所すら見つけられない。

快感と苦痛と、どちらを感じているのか区別がつかないところまで追い込まれて
気がつくと、美奈の口から


「お願い、お願い・・・もう」


という嘆願のうめきが幾度もこぼれていた。

もう、どうしてもこれ以上は限界、と思わず大きく背中を反らすと


「美奈・・・美奈・・・。
 僕と一緒にいてくれ・・・」


真也の口からかすれた声がもれ、やがて汗ばんだ体が美奈の上に落ちてきた。


「美奈・・・、美奈・・・」


ベッドの傍らに横たわって荒い息をしているのに、
まだ真也は美奈を離さない。


「美奈と・・・ずっと一緒にいたい・・・」


美奈をこちら向きに引き寄せて、自分の胸の中にくるみ込むと、
両手を美奈の背中に回してぎゅうっと体を締めつけた。


「真也、ずっと一緒よ。大丈夫よ・・・大丈夫。」


どこかで恋人の不安を感じ取り、
美奈は彼の胸にぴったりと頬を寄せたまま、
何度も何度も囁いた。

やがて、真也の胸が上下に隆起するのがおさまり、耳に響く鼓動が静まって、
すぐ上にある唇から、落ち着いた呼吸が聞こえ始めると、
美奈もやっと安心して、真也の腕の中で少しまどろんだ。





どの位時間が経ったのか。

明日も仕事があるから、このままここで眠ってしまうわけには行かない。

自分に回されていた腕をそっと外して、恋人の顔を見ると、
目の下に青黒く隈が浮き上がり、真也の疲労の深さを物語っている。


何が不安なんだろう・・・


彼に色々なプレッシャーがのしかかっていることはわかっている。

普段の彼なら、それをやり甲斐に変えていたが、
こうして疲労がたまってくると、その一つ一つが応えてくるのかもしれない。

それを思うと、深い眠りの中に落ち込んでいる彼を
今すぐ、ゆすり起こす気になれなかった。

かと言って、こんな部屋に真也をひとり置き去りにはできない。

ため息をついて体を起こすと、朝方着替えに戻ることを家に連絡し、
そのまま起きてシャワーを浴びた。



鏡を見ながら髪を乾かしていると、ふと、今夜のかおりの顔を思い出した。

再会した瞬間は、幸せそうな落ち着いた表情をしていたのに、
綿貫の名前を出しただけで、あのように脆くも崩れてしまった。


かおりさんは幸せなんだろうか。
わたしもあんな顔をすることがあるのかしら・・・


やっと乾いた髪を後ろに払い、
まだ昏々と眠っている真也の横にそっと体をすべりこませた。





さらに時間が経った。 まだ外は暗かったが、そろそろ電車が動き出す時刻だ。


「真也、真也、起きて。
 着替えに帰ってから仕事に戻らないと・・・。
 もう、起きないと間に合わなくなるわ。」


真也はわっと叫んでから、いきなり飛び起きた。

しばらく呆然と周りを見回していたが、
身支度を済ませた美奈の姿を目に留めると、
ほっとしたように、息を吐き、


「ああ、美奈が一緒だった。」


とつぶやいた。


「そうよ。やだ、こんな所に連れ込んだのは真也なんですからね。
 一人で部屋を出て行かせないでよ。」


怒ったように美奈が言うと、真也はやっと微笑んで、


「びっくりした。ここがどこだか一瞬わからなかったよ。
 悪い夢の続きかと思った。もう朝なのか。」

「今日は午後から、綿貫さんのところで美容ライターさんにお会いする約束なのよ。
 なんとしても家に帰って着替えてこなくちゃ。ね、行きましょ。」




ホテルを出たところで、二人とも車を拾い、
車の中からお互いに小さく手を振ると、それぞれの部屋を目指した。

暗い水底にいるように表通りはひっそりと人影がなく、
すれ違うタクシーの空車ランプだけが赤い。
窓から見える空が少しずつ、明るくなってくる。

美奈は色々な思いがわき上がるのを、ただ目を閉じることだけで抑えていた。

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