AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  10. 社長の帰還

 

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どんなに苦しい夜を過ごしても、必ず朝がやって来るように、
ついに新しい年が明けた。

年末年始とようやく仕事から解放され、
ほとんど家から出ずに家族と穏やかな正月を過ごした美奈は、
幾分、救われた思いで、仕事始めの会社に戻って来た。

吐き気と不眠はまだ続いているものの、去年の事件がやや遠いことのように
感じられるようになっていた。

新年になって、真也から一度だけメールが来たが、その後は止まっている。




一月も2週目に入る頃、
ついに、NYから「KAtiE」社長の田畑かつえがやって来た。

昨年11月に新規ラインの立ち上げに際して来日し、
精力的に仕事をしていって以来だ。

身長は160cmそこそこ、細い体にぴったりした革のパンツを履き、
襟ぐりの大きく開いた、アライアの黒いジャージーニットを合わせて、
首もとにチョーカーをしている。

かつえは度々、髪型を変えたが、今回は原点に戻ったように
ワンレングスのロングヘアをまっすぐ、肩に垂らしていた。

社長だろうが、役員だろうが、客じゃない者は全て裏口から出入りすべし、
というのがかつえの信条だ。

そのせいで、親会社から出向と言う形で「KAtiE」社の役員を兼務している
副社長や専務まで、表に車を停めることは許しても
玄関からは一切出入りさせず、自分と同じように裏口から通わせた。

かつえと常に一緒に来日する、秘書兼アシスタントの高橋マーシャは、
日系アメリカ人だが、日本語の文書作成も通訳もこなす、マルチリンガル女性。




空港まで迎えに来る必要はないからと、
かつえの車が着いたのは、午後も早い時刻だった。

持って来た荷物が大量なので、会社の駐車場まで迎えに出た、
倉橋常務、前田部長、総務課長、芳賀、長田と言った面々と、
スーツケースやトランクと共に、裏口からひしめくようにやって来る。

きびきびとした足取りは、40代後半という年齢を全く感じさせない。


「今日は!ただ今、帰りました。」


かつえの一番の特徴である、大音声がまず、通用口の守衛に向けられ、
年配の守衛が慌てて立ち上がって挨拶をしている。

裏口の狭いエレベーターホールで、美奈も他のスタッフと共に待っていた。


「お帰りなさい」
「お帰りなさい、かつえさん。」


口々に声をかけられると、かつえは嬉しそうに、


「ただ今!ありがとう!
 また皆さんに会えてうれしいです。
 後で、簡単に挨拶に行くから、席で待ってて下さいね。」


そこにたまっていたKAtiEの社員たちに大声で手を振ると、
倉橋たちや、大量の荷物と一緒に、エレベーターで上がっていった。

30分もしないうちに、美奈たちの居るフロアに、
かつえと倉橋常務、前田部長が降りてきた。

かつえがためらいなく、前に出る。


「皆さん、お仕事中、こんにちは。社長の田畑かつえです。

 このビルで社員全員が集まれるのは、外の駐車場くらいだし、
 それは寒いので、私の方が各フロアに出向いて、
 挨拶すればいいと言うことになりました。

 日頃、KAtiEブランドの為に全力で仕事をして下さってありがとうございます。
 私は仕事柄、ずっとここにいられませんが、いつもこの会社の事を考えています。

 ここに居る間は、なるたけ皆さんと直接、言葉を交わしたいと思っていますので、
 突然呼びつけても、驚かず、ひるまずに、どんどん日頃の思いを聞かせてください。
 では、また度々現れます。」


これだけの挨拶を、マイク無しに持ち前の良く通る大声で話し終わると、
フロアから笑い声と拍手が起き、
その声に一礼すると、また3人で別のフロアに移動していった。




4時を少し回った頃、かつえの秘書のマーシャから、
芳賀真也、美奈、長田にかつえの執務室に上がって来るように電話があった。

新規プロジェクトのファイルを幾つか抱え、
三人でやや緊張しながら、執務室のドアを叩く。

ドアを開けると、広通の中原部長、綿貫、加澤がプレゼンボードと共に
ソファに座っており、倉橋と前田部長もいた。


「狭いけど、何とか座って・・・」


かつえの言葉に、3人とも空いている椅子に座った。


「この部屋の中にいるメンバーが、営業を除いた、
 新規ラインの実働部隊ってことですね。
 今、広通の綿貫さんから、皆さんが既に聞いたプレゼンを
 私宛にもしてもらいました。」


広通の3人に向き直ると、


「広通の皆さんの仕事ぶりは、倉橋や、前田からもよく聞いていますが、
 私がいる間に、もう一度、企画コンセプトや進行状況を、
 直接、全部報告し直してもらいます。

 そこで、変更点があったら、遠慮なく言わせていただきますから・・・。」


かつえは少し言葉の調子を和らげると、再び皆の顔を眺め、


「とは言え、ここまで素晴らしい仕事をしてくれたことを
 この部屋の皆さん、全員に感謝します。
 どうもありがとう。

 今後もぜひこの調子で、体をこわさないように頑張って下さい。」


美奈はちらりと横目で真也を見た。

倒れた時に痩せたままの頬の線はまだ戻っていないが、
お正月を過ぎていくらか顔色が良くなり、表情に余裕が戻ったようにも見える。


「皆さん、若くて・・気持ちが若い人も含めてですよ、精鋭だと思っています。
 今後、このラインがKAtiEの主流になるかもしれないので、
 是非、頑張って良いスタートを切らせて上げましょうね。」


じゃ、丁度いいから、芳賀さんから順番に進行状況を報告して、と言われ、
真也と長田が、現況と今後の見通しを互いに補足し合うように報告し、
美奈がプロモーションについて、現状と今後の予定を報告した。


「いいわね。
 大体予定通りに進んでいるみたいだけど、
 売り場取りがちょっと難航しているのね。

 後で営業部長と打ち合わせて、わたしも直接百貨店に出向いて話をするつもり。
 明日からアポを入れるわよ。」


その後、マーシャから、かつえの来日中の予定をおおまかに紹介された。

KAtiEの社長として、業績の報告、分析、今後の戦略。
新ラインの売り場を百貨店と直接交渉。
親会社に対する、KAtiEブランドの今後の企業戦略の説明 などで、
現役メークアップアーティストとしては、
来シーズンのビューティセミナー、雑誌インタビュー、
TVのメーク講座や百貨店のメークショーへの出演、
と、ぎっしり詰まっていた。


「広通さんには、メークアップアーティストとしての
 私のプロモートも手伝って欲しいのよ。
 結局は両方が売り上げにつながることだから。」

「喜んで、全力でやらせて頂きます。」


広通の中原部長が応え、綿貫を見てから言葉を次いだ。


「クリエイティブ・ディレクターとして、私が最終的に全責任を負いますが、
 現場での指示は全て綿貫にやらせていますし、また、できる男です。

 見た通りまだ若いですが、仕事に対して実に厳しい心構えを持っており、
 プランナーとして、私は全権を任せています。
 社長もどうか、綿貫をご信頼下さい。」


中原の言葉に、かつえはにっこり笑うと、


「大変なほめ言葉ね。
 綿貫さん、一緒に仕事をするのが楽しみだわ。ぜひよろしく。」

「こちらこそ」


かつえが握手の手を差し出し、綿貫がそれをしっかり握った。


「じゃ、私がいるうちにどっかで新年会でもしましょう。

 聞けば、顔合わせも忘年会も全くしていないって言うじゃない。
 ビジネス優先ですごく嬉しいけど、私も皆さんと仲良くなりたいから・・・。
 いいかしら?」


かつえはゴソゴソとマーシャと話しこんでいたが、


「明日はどう?」


と言われ、部屋にいた全員が仰天した。


「明日は・・・ちょっと無理ですね。」


真也が笑いながら言った。

真也の笑顔を見たのは一ヶ月ぶりかもしれない。
美奈は何だか、自分までほっとした。


「じゃ、今週の金曜日。
 ね、早くやりたいのよ。空けてよ。」

「わかりました。」


広通の中原が微笑みながら、うなずいた。


「では、場所はこちらにお任せ下さい。」

「あら、ダメよ。うちの新年会に来ていただくんだから・・。

 今からじゃ、大したところは見つからないかもしれないけど、
 それでもこっちで見つけるわ。ね?
 マーシャと小夜子で何とかして」


小夜子とは、倉橋のことだ、と気づくまでに2秒くらいかかった。
仕事の時は倉橋常務だが、ちょっとくだけるとたちまち「小夜子」と呼ぶ。

簡単に今後の予定を再確認して、解散した。






綿貫と加澤は、かつえに対する何度目かのプレゼンを終えて、
かつえの執務室に座っていた。

マーシャが長田から加澤への電話を取り次いだあと、

「それでは、ちょっと下に行ってまいります。」

加澤が下のフロアへ降りていき、
後には、かつえ、前田部長、綿貫だけが残った。


「綿貫さん、今回は色々とご迷惑をかけたようで、
 私からもお詫びしておきます。」


かつえがこちらに向き直ると、改まった調子で頭を下げた。


「いえ、何もしておりませんので。
 どうか、そんな風になさらないで下さい。」


かつえは、デスクの向こうでふふっと笑ったようだ。


「小夜子、あ、倉橋のことだけど。
 性質は知っているし、趣味もわかってはいるんだけど、
 入院させるほど、相手を追いつめたらいけないわね。

 他にも傷ついた人がいたみたいだし・・・。」


綿貫は無言のまま、表情を変えなかった。


かつえは前田部長とちらっと目を見交わし、


「そんなに警戒しなくてもいいのよ。
 ここだけの話だから。

 事件のことは大体聞いたけど、
 だからといって、彼女を外したり、訓戒を与える気はないの。
 どうしても嫌なら、突き飛ばして逃げればいいのよ。
 立派な大人同士だもの。
 
 ただ、仕事での立場や特権を振りかざした行動となると問題よね。

 私は小夜子がどんな風にのし上がって来たのか、よく知ってる。
 上昇志向とハードワークと、お客の声に常に耳を傾ける姿勢と・・、
 それで、あそこまでになったのよ。すごい才能よ。
 
 でも私やKAtiEブランドを汚すような真似だけは、
 今までも、これからも絶対に許さないから。」


綿貫は尚も沈黙を守っていた。
結局、それが何の話か了解していることを示してしまっていたが・・・。


「綿貫さんにとって、うちはクライアントだから、
 中々『No』と言えない場合もあるでしょ。
 そんな風にはさまれて困ったら、この前田部長に言って。」


どこまでの話かわからない以上、うかつに返事もできなかったので、
そのまま黙っていると、前田が


「私はお目付役ではありませんが、
 社内の色々に気を配る仕事だと思っています。
 親会社への報告義務はあっても、私自身はKAtiEの人間のつもりですから。

 倉橋にどうしても言えなくて、社長に伝えたいことがあれば、
 いつでも仰って下さい。」


かつえが引き取って、


「前田さんは、部長の肩書きだけど、わたしの秘書室長でもあるの。
 今は身分が親会社からの出向だけど、いつかうちの会社に来て貰おうと思ってる。

 小夜子と私には、もちろんホットラインがあるけど、
 前田さんからの話も大事に聞いているのよ。

 ま、そういうことだと聞いておいて頂戴!
 綿貫さん、なかなかハンサムだから、色々と巻き込まれるかもしれないし・・・。」

「いえ、そんなことは全くありません。」


綿貫が言下に否定した様子をみて、かつえがちょっと笑った。


「そう?ならいいけど。

 今までの仕事の仕方、今後の見通し、
 全部チェックした上であなたとはこれからも仕事したいと思ってるわ。
 倉橋にもそう伝えます。
 もちろん引き続き、厳しく注文を出させてもらうけど。

 だから、倉橋と何かあっても心配しないようにして。
 ここの最高責任者は私だから・・・。いい?」


綿貫は少し迷ったが、


「ありがとうございます。」


と応えた。


「新規ラインのメンバーが何となく、疲れているのが気にかかってたの。
 若いメンバーが多いから、ノリがいいと飛んでもないパワーが出るけど、
 一度歯車が狂い出すと、自分たちで修正しにくいところがあるからね。
 ずいぶん大変な仕事を任せているし・・・。」

「これから新しいものを一つ、世の中に押し出そうとしているのです。
 その前に多少の生みの苦しみを味わうのは、当然でしょう。
 皆さんはそのことを理解した上で頑張っておられるように見えます。」


そうね、うれしい言葉だわ、とかつえが下を向いたまま
潤んだような声で言った。

それじゃ今後もよろしく、と、改めてにっこり笑顔を向けられ、
綿貫は感心しながら、部屋を下がった。


エンジンだ。
かつえはこの会社のエンジンなのだ。

そのエンジンがフルパワーになり、ついに大きく前に進み出そうとしている。
   
 
綿貫は、やっと年末来のやっかいな舵取りから離れて、
純粋に仕事に向かい合えるのを感じていた。





綿貫がかつえの執務室のあるフロアから、階段を降りていくと、
ひとつ下の階の廊下に、何かがうずくまっているのに気づいて、足を止めた。

このフロアは、最初にこのビルに来た時に、
倉橋と前田宛にプレゼンをした会議室のある場所で、
外に面した大きな窓が廊下にある。

うずくまっている影は苦しそうに肩を波打たせていて、
か細いうめき声さえ、聞こえてきた。

綿貫は見ない振りをして通り過ぎようかとも思ったが、
助けが要るのかもしれないと迷って、そこに佇んでいた。

しばらくすると、その影は窓の手すりにすがってぎくしゃくと体を伸ばし、
ゆらりと窓のそばに立ち上がった。


美奈だった。


手すりに掴まったまま、窓の前に立ち、ぼうっと外を眺めている。

その姿があまりに弱々しく、うちひしがれて見えたので、
声をかけるのがためらわれた。

美奈の視線の先にあるのは何だろう。
5階のここからは、青山通りの街路樹を始め、
絵画館前の銀杏並木まで見える。

冬の真っ最中の今はもちろん、木々は裸で、
さむざむとした骨のような線を空に描いているだけだ。

美奈は何を見ているのか。

そう思った途端、いきなり、美奈の視線がこちらに向けられ、


「綿貫さん・・・」


という声が少し驚いた声がこぼれた。


しまった、さっさと降りてしまえば良かったと悔やみつつ、


「よう、どうしたんだ。こんなところで・・」


と仕方なく声をかけた。

美奈はちょっと下を向いたが、取ってつけたような笑いをうかべると、


「さぼってるの、バレちゃいましたね。」

「この忙しいのに、サボってるのか・・・」


綿貫も少し笑って美奈の方に歩いて行くと、並んで窓の前に立つ。

空は青く、寒風に磨かれたようで、
ビルに反射する冬の光が白く、斜めに影を作っている。

その空にむけて、あっちこっちの裸の街路樹の細い枝の先が
鋭く突き刺さっていた。


「時々、空気を吸いに来るの。」

「・・・・」


綿貫は美奈の顔を見た。

窓の方を向いたまま、美奈はつぶやいた。


「下にいると酸素不足で、時々息が詰まりそうになるんです。
 で、段々頭まで痛くなってくるから、たまらなくてここへ逃げ出してくるの。
 魚みたいな気分よ。」


ぱくぱく、と美奈がおどけて口を動かして見せたが、すぐ横を向いてしまう。

綿貫はずいぶん薄くなってしまったような、
美奈の肩先を見ていた。


「美奈、お前、大丈夫なのか?」

「ええ、大丈夫です。
 かつえさんも帰ってきたし、皆も全力で頑張っているから、
 わたしだって負けないようにと思ってる。」


美奈が綿貫の方を向いて、また痛々しい笑顔を見せた。


「綿貫先輩に、怒られそうですね。
 この忙しいのに、一人でべそべそしてるんじゃないって。」

「・・・・」

「怒って下さい。」

「美奈」

「こんなことくらいでいつまでべそべそしているんだ。
 いい加減にしろって、怒鳴ってくれていいです。」

「お前は、自分のせいじゃないことで苦しんでいるんだから、
 そんな風に自分を責めなくていい。」

「そうかな。
 苦しい思いをしたのはわたしだけじゃない筈なのに、
 わたしだけ、いつまでも前に踏み出せなくて、こんなところに居る。
 やっぱり弱虫ですよね。」


わたし、もうデスクに戻ります、と言いおいて、
美奈はあっと言う間に、綿貫の脇を通り過ぎると
階段を駆け下りて行ってしまった。

階段から響く、美奈の小刻みな足音を聞きながら、
綿貫は小さくため息をついた。

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