AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  23.春の誘い

 

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プレス発表が終わった後の3日間は、
文字通り、戦場のような忙しさだった。

ひっきりなしに電話が鳴り、降るように取材の申し込みが来る。
美奈と長田だけではとても対応しきれず、
応援の人間を一人、回してもらった。

来客も多く、かつえや倉橋、前田部長は、
一日中、誰かと会っているようだ。

しかし、そんな中でも新作披露パーティの準備、
新規売り場の準備も、待ったなしの状況で進む。

連日の忙しさで少し疲れのたまっていた午前中、
美奈の携帯にQからのメールが入った。


『Qです。お忙しいでしょうが、どこかで時間が取れますか。
 都合がつけば、ランチでもどうでしょう?』


美奈は小さくため息をついた。
用件は何となくわかっている。

Qから、撮影モデルになって欲しいと申し入れがあった後、
綿貫の部屋で、Qの以前の写真作品を見てから怖じ気づき、
すぐに断りのメールを入れた。

プレス発表以来、Qが仕事でKAtiEに来ていても、
美奈が電話にかじりついているか、来客に応対中のことが多くてちゃんと話ができず、
一度、きちんと説明をしたいから、というメールを受けていたのだ。

美奈が今日のスケジュールを確認すると、3時までは来客の予定がない。


「長田さん、わたし今日のお昼、外に行ってもいい?」

「どうぞ。
 電話は気にしてるとキリがない。
 たまには外の空気を吸ってきたら。」

「わかったわ。」


長田に返事をして、Qに返信する。


『急ですが、今日はこちらにおいでのご予定はありますか?
 今日ならランチをご一緒できると思うのです。
    小林美奈』


すぐに返信メールが来る。


『わかりました。
 ちょうど持って行こうかと思っていたものがあるので、伺います。
 KAtiEビルの入り口あたりで12時頃に待っています。
   Q』


電話は鳴り続けていたが、思い切って後を任せ、席を立つ。

一日中社内に詰め切りで、
夜は家に寝に帰るだけの生活が続いていたから、
昼間、外に出られるのが嬉しかった。

一階のホールにQの姿が見える。

今日は濃いベージュのコットンスーツに、
黒のハイネックのインナーを着て、
レンガ色のマフラーを巻いていた。


「こんにちは。連日、忙しいのにすみません。」


美奈を認めたQの顔に、柔らかい微笑がいっぱいに広がる。
肩から黒いドラフトケースと、バッグを下げていた。

Qと一緒に出ようとした時、真也と売り場関係の来客グループが、
丁度エレベーターからどっと吐き出されてくる。

美奈を認めて、来客があいさつしたので、
Qと並んだ美奈も会釈を返した。

真也はちらっと二人を見て、小さく頷くと、
大股で玄関を出て行った。


「行きましょうか。」


美奈も微笑んでQに声をかけた。





冬の空は晴れ上がり、磨いたように青かったが、
かすかな風にも、ほんのり春の香りがするようで、
こんな都会の真ん中にもどこからか、季節の便りは届いてくる。

街のウィンドウには、「冬物SALE!」の文字がまだ目につくけれど、
メインディスプレイには、柔らかなプリント柄の春物が並べられ、
ぼてぼてした冬物に飽きた目には、
新鮮で軽さを感じさせた。

Qと二人、のんびりと骨董通りの方へ歩きながら、
プレス発表後の話をする。

どの雑誌が取材に来たか、タイアップはどことやるか、
Qのイラストが載る広告ページもある。


「Qさんのイラスト、今回、ちゃんと顔が見えるのが少ないですね。
 首筋とか、背中から全体のラインとか、
 服着てるのも少ない・・・かな?」


ははは・・そうですね。


「顔ばっかり描く時もあるし、
 服が主役のファッションイラストもあるし・・・
 でもKAtiEの仕事は、主役が女性の肌だから
 服は目立たなくていいかな、と。
 唇のアップとかも描きましたよ。」

「ええ、唇だけすごくリアルで、
 ぽてっと触れたくなるような奴ですね。
 でも今度は目元が伏せてあったかな。

 うふふ・・・・、全体にすごくセクシーです。
 ちょっとドキッとする位。
 写真じゃ、きわどいようなポーズもありますね。」

「隠しテーマが『官能』ということで、
 依頼を受けているからですよ。
 難しかったけど、楽しかったですね。」

「あら、過去形じゃなくてまだまだ続きますよ。
 秋冬も頑張って下さい」


美奈が弾けたように笑った。

連日の電話攻勢から逃れ、こうして昼間の街を歩くだけでも
気分が軽くなっていく。


「ああ、お日様の光を浴びて歩くのって気持ちいい!
 ここのところ、部屋に閉じこめられっぱなしだったから・・・
 う〜〜ん」


美奈が陽射しを浴びるように両手を広げて、
息を吸いこむと、Qを見る。

Qも笑って、


「じゃ、お日様の光のあるところで、お昼にする・・・?」




二人が入ったのは、家具ショップの屋上カフェだ。

家具屋らしく、空間的にシンプルな感じを生かし、
椅子の座り心地もよさそうだった。

テラスの席が空いていて、迷わずそのテーブルを選ぶ。

オーダーを済ませて眼下を見ると、通りの様子がよく見える。
4階だからそれほど高層でなく、歩く人の表情まで伺えた。

美奈の髪が風をはらんで、かすかになびくのを見て、


「寒くないですか?」


Qが声を掛ける。


「いえ、全然。気持ちいいです。」


通りからQの顔に視線を戻すと、目を細めながら答えた。





食事の間は、直接、KAtiEの仕事には関係のない話をした。

Qのアトリエ兼、住まいが世田谷にあること。
イラストの仕事は午前中か、夜にこなし、
午後は打ち合わせや、外を歩くのに費やしていることなどを聞いた。


「イラスト以外の仕事もしてらっしゃるんですか?」

「前より大分減りましたけど、まだやっています。
 ショップの頼まれバイヤーとか、ギャラリーの手伝いとか・・
 街頭の写真撮りとか(ここでちょっと微笑んだ)

 本当に何でもやってましたから・・・。」


ふうん、そうなんだ。


「だから何でもできるんですね。」


美奈が感心した目で見ると


「いや、本業のイラストで食べられないから、仕方なく・・・。
 タイル屋さんの色出し、とかもやったかな」


へえ・・・そうなんですか。

相づちを打ったものの、
それがどんな仕事なのか、見当もつかなかった。


「そんなわけで、結構色んな知り合いがいますよ。
 不定期ですが、1、2ヶ月に一度くらい、
 僕のアトリエに集まって、飲み会をするんです。

 ホントに気の置けない集まりで、
 色んな連中が来ます。
 良かったら、小林さんも、一度、遊びに来ませんか。」

「わあ、ありがとうございます。
 何かスゴそうですね。
 新進のアーティスト、とかが多いのかしら。」

「いえ、本当にばらばら。
 アーティストも、ショップバイヤーも、
 印刷屋も、近所の八百屋さんまで・・・。
 毎回メンバーが違うんですよ。」

「ふうん、面白そうですね。」


ランチコースが終わり、コーヒーが運ばれて来ると、
Qはバッグから、アルバムを取り出した。


「小林さんに、これを是非見てもらいたかったんです。」


アルバムには、Qの作品がすっきり整理されていた。
モノクロもカラーもある。

子供たちがお弁当箱を並べて、遊んでいるものや
空き地のようなところで、水遊びしている写真。

子供の母親らしい人が、
しゃがんで、子供のズボンを直してやっている姿。

空と樹の影が美しく浮かび上がり、
それを見上げている女性のシルエット。

モデルらしい人がちょっとポーズを取った、
ファッションフォトのようなものもあった。

イメージもねらいも様々だったが、
総じて、優しい視点の写真が多い。


「ね?写真のモデルって、何か誤解しているんだったら、
 わかって欲しいと思って・・・」

「別にそういうわけじゃないんです。
 写真って顔がわかっちゃうし、
 プライベートな部分が知らずに写るから、
 ちょっと怖い気がして、お断りしただけです。」


よどみなく答えた美奈の、
やや固い表情を見て、Qが首を傾げた。


「誰かが何か言った?」

「いえ、別に誰も何も。
 でも、Qさんの作品集を見せてもらいました。」

「どの作品?」

「若い女性が白いコットンのドレスをきて、公園にいる写真」


あああ、アレか。


Qは困ったように額を押さえた。


アレはずいぶん前の作品なんだ。
彼女は僕の私的な知り合いだったから、どうしても
どこかにそういう視線が出てしまったのかもしれない。


「一体誰が見せたのか、知りたいな。」

「誰と言うわけでも・・・。
 会社にいる人が何気なく、作品集を見せてくれました」


見せたのが綿貫だとは、言いたくなかった。


Qは黙って美奈の顔を見ていたが、おもむろに切り出した。


「プライベートな事だけど、ひとつ、聞いていいかな。
 嫌なら答えなくていいんです。

 あの、小林さんは、付き合っている人がいるんですか?」


う〜〜ん、ちゃんと付き合っている・・・と、
言えるのか・・言えないのか・・・

美奈は頭を抱えた。


「じゃ、好きな人は?」

「う〜ん、いる・・・のかな。」


ははは、はっきりしないね。


「小林さんの彼が心配して、
 ダメって言ったのかと思ったけど、違うのかな。
 でもね、是非、一度だけでもいいからチャンスが欲しい。

 僕は、スナップは別として、
 撮りたくなる女の子って、実はすごく少ない。
 はっきり言えば、小林さんが見た作品集の女の子を撮って以来、
 女性だけのシリーズは撮っていません。

 僕がカメラマンとしての仕事をあまりしないのは、
 撮る気になれない対象を撮りたくないからなんです。

 イラストは、僕にとって自由なイメージの世界だし、
 描き方次第で幾らでも加工できる。
 頭の中にストックしてある、5年前に会った人、一昨日見かけた人を
 自由に登場させられる。

 でも、写真として撮りたくなったのは、久しぶりなんです。
 だから、どうしてもお願いしたい。
 小林さんの彼が渋るなら、僕から直接説明させて欲しい。
 心配するのが当然かもしれないから・・・」

「いえいえいえ、そんな必要はないです。
 わたしの判断で決めろ、と言ってくれましたから・・・。」

「出来上がった作品は全部、小林さんに見せる。
 小林さんの同意なしに、どこにも公表しない。
 ですから、どうか僕のために『うん』と言ってくれませんか。
 お願いします。」


Qがテーブル越しに頭を下げたので、美奈は慌てた。


「そんな・・・Qさん、止めて下さい。」

「では・・・引き受けてくれますか?」


Qが顔を上げて、まっすぐに美奈を見た。


目の前の真剣なまなざしと、見せられた写真の優しさから、
美奈はQを信じる気持ちになった。

それに、やっぱり好奇心もある。

写真モデルなんて、これが最初で最後かもしれないし・・・。


「わかりました。モデルの件、お受けします。」

「本当に?
 有り難う。すごく嬉しい。
 わかって貰えて良かった・・・」


Qはほっとしたように胸に手を当てた。

テーブルに置いてあった、掌に収まるサイズのデジカメを取り上げると、
あっという間に美奈に向けた。


「ほら・・・」


Qが画像を戻すと、美奈が髪をなびかせて、
ちょっとびっくりしたような顔で映っていた。

髪に春めいた光が降って、自分じゃないようにキレイに見える。


「はあ、Qさんって写真うまいですねえ・・。」


美奈が感心すると


「ただ、シャッター押しただけじゃないですか。
 被写体がいいんですよ。」

と、笑っている。


「で、具体的にモデルになるってどうしたらいいんですか?」

「そうですね。
 半日くらい僕に付き合ってくれますか。
 その途中で折々に撮って行きますよ。
 
 別に特別なことは何も要らないです。」

「あの・・服とかメークとか・・・?」


Qがくすりと笑いそうにしたが、穏やかな顔のまま、


「そのままで結構です。
 美奈さんの着たい服を着てきて下さい。
 それとも、僕が着て欲しい服を用意したら着てくれますか?」


う〜〜〜ん・・・、どんな服かによりますけど。


美奈の困ったような返事を聞いて、今度は本当に笑った。


「あはは・・・、無理しないでいいです。
 嫌なことはしなくていい。
 でももし気に入ったら、着てみて下さい・・・ね?」


そうだ、このカードを受け取ってくれますか。

また、花が描かれたカード。
かご一杯に桜草が咲いている絵。


「わあ、きれい・・・」


美奈が声を上げた。


「早速、デスクの脇に貼ります。」

「それは嬉しいです。
 では、そろそろ会社に戻りましょう。
 僕も芳賀さんに見てもらうものがありますから・・・。

 でも、小林さんがいいと言ってくれて、ほっとしました。」


Qが美奈ににっこりと笑いかけた。

午後になって更に光のあふれた街を、
ゆっくりと、二人で会社に戻った。





「美奈さん、○○編集部から伝言ですよ。
 例のプレス特集をやるので、
 美奈さんの顔の写った写真を何枚か送って欲しいそうです。

 サイズはここにありますけど、デジカメ画像で送ってくれると
 加工しやすいとかで・・・。
 手持ちの写真、あります?」


午後、社に戻った美奈に、長田が伝えてきた。


「え〜〜っ、わたしの顔?
 そんなのあったかしら・・・」


美奈が思いついて、先日店舗調査の帰りに、
Qが撮って送ってくれた画像をPCから呼び出したが、
良く撮れてはいるものの、ちょっと顔が斜めになっている。


「雑誌の囲みで使うんじゃ、ダメかしら。
 長田さん、悪いけど撮ってくれない?」

「え、僕が?
 い、いいですけど、どうなっても知らないですよ。
 じゃ、これ片付けたら、撮りますから・・・」


相変わらず鳴り続ける電話を、応援の女性に任せ、
デジカメを手に、どこか撮影に相応しいところはないかと、
長田と二人、カメラを片手にフロアをウロウロしていた。

そこへ、芳賀とQ、綿貫、加澤、中原部長までが塊で通りかかる。


「何してんだ?」


真也が声を掛けてきたので、長田が、


「雑誌のプレス特集で、美奈さんの顔のスナップが要るんですよ。

 あの部屋じゃ、あんまり背景がごちゃごちゃだから、
 どこで撮ろうか、うろついてるんですが、
 僕、あんまりカメラが得意じゃなくて・・・。」


と、半ば期待した顔でQの方を見ると、Qが微笑んで、


「もし、僕で良ければ撮りましょうか。」

「え、いいんですか?良かったあ・・・。
 美奈さん、僕が撮るより数倍美人に撮ってもらえますよ」

「そんな、20mm四方の囲み写真をQさんにお願いするのは・・・」

「いや、僕は全然構いませんよ。
 少しの間、いいでしょうか?」


Qが一緒にいた、真也や綿貫に声を掛けると、真也が


「すみません。Qさんにこんな仕事、手伝わせてしまって・・」

「全然、気にしないで下さい。」


Qは持っていたファイルを傍のテーブルに置くと、
近くにあったスチレンボードを裏返して、長田に渡し、


「これでいいので、レフ板代わりに、
 小林さんの顔に当ててもらえますか。
 ええ、それでいいです。」


と言うと、バッグの中からデジカメを取り出して、
素早くレンズを付け替える。


「では、そこに立って・・・」


ウロウロしていた美奈に、立位置を指すと、
すぐにカメラを構え始めた。


「え、もう?」

「気負わなくていいですよ。
 じゃ、行きます。」


デジカメはシャッター音がないので、
いきなり撮影が始まったようだ。

何となく、真也、綿貫、加澤に中原部長まで
その場で、美奈の撮影を見物する感じになる。


「美奈さ〜ん、こんだけギャラリーが居るんだから、
 ちょっとポーズを決めて下さいよ」


加澤がはしゃいで声を掛けると、綿貫にこつっと頭を小突かれた。


「やめろ。余計、固くなるじゃないか。」


実際、美奈がガチガチになってしまって、
ひきつった笑いが貼り付いている。

カメラを構えたQが、何枚か撮った後、
一旦カメラを下ろし、


「美奈さん、肩の力抜いて下さい」


そんな事言われたって、どんな顔すればいいんだか・・・。

しゃっちょこばった美奈のポーズに、
つい、向かいにいた綿貫がくすりと笑いを漏らしてしまった。


何よ、人の気も知らないで!


その顔を向かいで見た美奈の頬がぷううっとふくれた。

Qがカメラを構えながら、笑い声をもらした。


「美奈さん、その顔もいいですが、
 プレスの顔しないと・・・終わりませんよ」


美奈はそれから、あれこれ百面相をしたが、
片頬笑いだったり、唇に力が入ったりでうまく行かない。

Qが途中で、ギャラリー陣を部屋の一隅に下げてしまったが、
途中、通りかかった社員が、立ち止まってギャラリーに加わったりで、
どんどん人が増えた中、公開撮影のようになってしまった。


「美奈さん、回りを気にしないで
 僕の方だけ見て下さい。

 ここに居るのは、野次馬じゃなくて、
 ブランドのお客さんだと考えましょう・・・。

 ああ、良くなってきましたよ。
 自然な感じになりました。
 
 だから、そっちを気にしないで、僕だけを見て下さい。
 あ、そのまま。ああ、いいですよ。」


Qの声が響いてから、美奈はへたへたと床に座り込んでしまった。


「お疲れさまです。」


Qが撮影終了を宣言すると、
回りにたかっていた野次馬たちは、「何の撮影だったの?」と
長田に聞いた後、それぞれに散って行った。

Qがカメラからチップを取り出し、
PCを貸してもらえますか・・と、
美奈のPCに差し込んで、今撮影したデータを読み込ませた。


「これでいいですか?」


美奈の画面に、読み込んだ美奈の顔がずらっっと映し出される。


「うわっ・・・」


自分の顔のオンパレードにたじろぐ美奈を尻目に、
ざっと画像の出来をチェックしたQが、


「ふうん、やっぱり良いですね。期待していますよ。」


Qがさらっと言い残し、複雑な顔をした真也と、
すっかり表情を消している綿貫たちを見回して、荷物を取り上げた。

中原部長は、面白そうに微笑んでいる。


「どうも・・・お待たせしてしました。」


Qが待っていた面々に声をかけると、
打ち合わせルームの方へ進んで行った。


「Qさん、どうもありがとうございました〜〜!」


長田が後ろから大きな声で礼を述べると、


「でも、期待してるって何だろう?」

「さ、雑誌に載ったときの顔かしら。

 わあ、たかが20mm四方の顔写真なのに、
 こんなに撮ってもらって、どれにしようかしら・・・」


美奈は少し顔を紅くしながらつぶやくと、
あたふたと自分の席に戻った。


あ〜あ、こんなんでモデルなんか、
できるわけないじゃん・・・。
とんでもないこと、引き受けちゃった。

美奈は後悔で胃が痛くなりそうだった。





夕方、打ち合わせを終えた真也が倉橋の部屋に入って行くと、
倉橋がジャケットを羽織っているところだった。

パールがかったミルク色のスーツから、
バラのフォルムがプリントされた、透け感のあるブラウスが見える。

栗色の髪は相変わらず、ゆるいウェーブがつやつやとうねっている。


「あ、お出かけですか?」


真也が声を掛けると、倉橋は持ち上げかけていたバッグを
デスクに置き直した。


「ええ。でもまだ、時間はあるの。
 先にお店を覗いて行こうと思っていただけから・・・・。

 ずいぶん、久しぶりじゃない?」


倉橋の唇は、たった今グロスを塗り直したばかりのように
濡れた輝きを放っている。


「お店関係の接待ですか。」

「ううん、親会社の御機嫌取りよ。

 向こうが接待してくれるつもりみたいだけど、
 機嫌を損ねたら困るのはこっちだから・・・・
 どっちの為かしらね。」


真也はプレス発表の時、ねばりつくように倉橋を見ていた、
親会社の副社長を思い出した。


「二人だけですか?」

「ええ。
 一度、サシでゆっくり話をしたい、というご要望なのよ。」


思わず、真也の口から短いため息がもれた。


「何だか、あぶないお誘いですね・・・」


倉橋はうつむいて、バッグの留め金をいじりながら、


「まさか・・・。
 それに、そんな簡単に誘惑されたりしないわ。

 本社の支援を頼みに行くんだもの。
 形としては、向こうがこのプレス発表までの労をねぎらって、
 今後の方針を聞きたいって・・。」

「誘われたら、どうするんです・・・?」


真也の声が響いた。
倉橋が顔をあげて、真也の方を見た。

頑に窓の方を向いている真也を見て、倉橋が微笑んだ。


「ねえ・・・。
 それって心配してくれているの?
 それとも、焼き餅だととっていいのかしら。」

「心配しているんです。」


真也の固い語調に倉橋が薄く笑った。


「心配は要らないわ。大人だから・・・」

「大人だから、心配なんです。
 あんな親父に安売りなんてして欲しくない・・」


倉橋がすっと顔をあげて、真也を見据えた。


「芳賀さん・・・気をつけてね。
 わたし、安売りなんてしたことないわよ。」

「すみませんでした。
 じゃ、この展開店舗予定表、を置いて行きます。
 では・・。」


真也がデスクの上に、ファイルを置いて
倉橋に背中を向けた。


「わたしが・・・」


言いかけた倉橋の言葉に、真也が振り向いた。


「わたしの年齢相応の、落ち着いた中年男性に
 魅力を感じられればいいんだけど。

 ダメなの。
 若くて、優しくて、情熱的で、ちょっぴり野心のある人が好き。

 ・・・誰かさんみたいな・・・。」


真也は黙って倉橋を見つめていた。


「でも、誰かを苦しめたいとか、
 奪ってやりたいとかは思ったことないわ。
 そんなことはどうでも良かったの。」

「わかっています。
 あなたが誰かを傷つけたんじゃない。
 裏切ったのは僕です。
 僕が彼女を裏切って、傷つけました。

 その上、僕のもろさのせいで、
 あなたまで非難されることになってしまった。
 本来、個人的な問題が、
 多方面に迷惑を掛けてしまいましたし・・・。」


倉橋は落ち着いていた。


「今だって、それほど多くの人が知っているわけでもないし、
 すごく非難されたわけでも、降格させられたわけでもないわ。

 それに、あなたをあそこまで追いつめたのは、
 やはり私の責任でもあるもの。
 あなたに大事な人がいるのを知らなかったのよ。

 ごめんなさい・・・許してね。
 芳賀さんにとって、大切なものを失わせてしまったみたい・・・」

「やったのは僕です。
 嫌なら止めることだってできたのに、
 どうしてもそうできなかった・・・。」

「いいのよ。
 わたしが誘ったんだもの。

 あなたは一度だって、わたしの部屋に来てくれるのを
 承知してくれなかったわ。
 誘惑されちゃっただけなのよ。」

「あなたが・・・素敵だったからです。」

「過去形なのね・・・。
 いいわ。じゃ、わたしは年齢相応な人の接待に行ってくる。」


倉橋がバッグを取り上げ、真也の脇を通り過ぎようとすると、
不意に真也の手がのびて、倉橋の腕に止まった。


「倉橋常務。
 誘われたり・・・しませんよね?」

「あなたが心配してくれなくていいのよ。
 それとも、心配して、どこかでわたしを待っていてくれる?」


倉橋の茶色味を帯びた瞳が、じっと真也に注がれている。


「いえ・・・。
 いってらっしゃい。」


真也は手を放した。


「ええ、行ってくるわ。」


真也の目を見たまま、ゆったりと微笑むと、
入り口の脇のコートクローゼットの方へ進んで行く。

倉橋がコートを取りだしている間に、
真也の方が先に部屋を出て来てしまった。

倉橋がエレベーターに進むのを、
階段の踊り場から、つい目の端で確認すると、
企画フロアへと降りていった。



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