AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム 49 終わりと始まり

 

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「ごめん。
 この店の予約がなかなか取れなくて、連絡が遅くなってしまった。」

曽根りり花は、入り口からループ状に伸びているアプローチを歩きながら、
店内を見回した。
確かにかなり埋まってはいるけれど、満席という感じではない。
ゆったりした空間に配されたテーブル群は、海にうかぶヨットのように白く、
窓の外には本物の海が暗く広がっている。

「そんな・・・お店なんか」

言いかけて、りり花は口をつぐんだ。
彼は想像を絶する毎日の中でこの場所を予約してくれたのだ、自分のために。
言うべきはまず、感謝の言葉であろう。

「ありがとう、忙しかったでしょうに。一緒に来られてうれしいわ。」

左上から自分をじっとみつめている恋人に、微笑みかける。
りり花の笑顔に、彼はほっとしたように息を吐いた。

奥の個室スペースに案内された後、
ウェイターが長々と述べる料理の説明をガマンして聞きながら、
最初のワインがサーブされるまで、じっと待った。

「乾杯」

ようやく二人きりになったところで、見つめ合い、
静かにグラスを触れ合わせる。


「心配してたのよ、連絡が取れないし、くれないし。
 どうなってるのか全然わからなくて、すごく不安だったわ。」

「ごめんよ、心配かけて。
 でもどうしても連絡できない状態だった。」

「ですってね。お友だちから聞いたわ。」

「お友だち?お友だちってどの?」


恋人の不審そうな様子に、りり花はプレス向け研修セミナーで
KAtiEの小林美奈と一緒になり、彼女から広通の状態を聞いたことを明かした。


「小林美奈?ああ、あの元気そうなお嬢さんか。
 僕のこと、いつもにらんでたな。」

「そうなの?彼女は何も言ってなかったけど。」

「KAtiEの連中はほとんど、僕が気に喰わないんだよ。
 かつえ社長によく仕込まれているから、
 途中から来た、君のお父さんや僕を毛嫌いしてた。」

「そうだったの。」

まあ、どっちでももう関係ないけどね。

いつもの恋人らしくない投げやりな言い方に、胸が小さくきしむ。

やっぱり、相当傷ついているのだわ。

りり花の表情が陰ったのを見て、森はわざとらしく笑ってみせた。

「別に同情してくれなくていい。世界が終わったわけじゃない。」


最初の料理が運ばれて来た。
新鮮な海の幸をガラスの器に詰め、お菓子のように層にしたものだ。

「食べている間は仕事の話はよそう。いいかな?」

「ええ、もちろんよ。きれいなオードブルね。
 一度ここに来てみたかったの。連れて来てくれてありがとう。」

この店は小さいながら寿司コーナーがあり、
新鮮なネタをしゃれた雰囲気で食べられると、ひそかな人気だ。
フレンチダイニングのコーナーでも魚介料理が得意らしい。

オードブル、冷製スープ、メインへと続くコースで、
りり花と違って、森はあまり食が進まない様子だ。
もともと、それほど食べるほうではないが、
ワインを水のように飲むのに、皿は一向に空にならない。

頬のあたりに影がさし、痩せた分、目がするどく見える。
彼がここ何日間か、どう過ごしていたのか窺える姿だった。

あたりさわりのない会話のうちに、デザートが出たところで、
森は自分の分を断り、バルコニーに二人分の飲み物を持って来てくれるよう、
スタッフに頼んだ。

「せっかくの夜だ。外の風にもあたろう。」

この店には海に面した細長いバルコニーがあり、立ったまま、
あるいは、望んだ客には小さなテーブルと椅子が用意され、
夜の海を見ながら、過ごせるようになっていた。

森は立ち上がってりり花に手をさしのべると、バルコニーへ出る。

東京湾を大きく横切るレインボーブリッジと、ビル群の明かり、
時折行き交う船の照明で、遠くの水面はそれほど暗くないが、
足下の海は黒く打ち寄せて、不気味な深さをたたえている。

初夏の夜風がひんやりと肌を撫でた。
さしのべられた手はとっくに自分を離れ、手すりを握っている。
だまって暗い水面を見つめるばかりの姿に、りり花が不安を感じ始めると、
森は持っていたグラスを静かに置いた。

「りり花。」

こちらを見る目が優しい。
微笑んで返事をする前に、つづきの言葉が来た。

「これでお別れだ。」

「・・・・どうして?」

半月ぶりに、ようやく会えたばかりなのに?

「君のお父さんは役員を追われた。僕も本社を出ることになるだろう。
 負けたのは二人とも同じだが、お父さんは絶対に僕を許さない筈だ。
 そんな僕と付き合ったって、いい事はない。」

「父とわたしは関係ない。父が会社を辞めようが、クビになろうが、
 なぜ、わたしとあなたが別れなくちゃならないの?」

「君のお父さんが辞める原因を作ったのは僕だからだ。」

「父にも責任があるわ。渡す、もらう双方に同じ罪があるはず。
 父が一方的にあなたを責めるのは間違いよ。」

ありがとう・・・。

森はりり花に向かって笑顔を見せた。

「そんな風に言ってくれた人はほとんど居ない。
 お父さんもそう思ってはいまい。まして君は娘なのに。」

森が夜空を見上げると、かすかな光が厳しい横顔を浮かび上がらせた。
今夜は月が遅い。

「僕は新しくやり直そうと思っている。
 今までのやり方や人脈が生きないところへ行くんだ。
 どうせなら、全部一から積み直してみたい。
 どれほどできるかわからないが・・。」

「わたしもお手伝いするわ。」

「ダメだ。今までのものは全部置いていくつもりだ。
 それに・・・」

りり花は、恋人の声をひと言も聞き漏らしたくなくて、一歩前に出た。

「君は僕とお父さんを分けられるかもしれないが、
 僕は君を見る度、お父さんのことを思い出す。
 悪いがそれは止められない。
 君を見るたび、S社や他のクライアントや、一緒に仕事をした
 高名なカメラマンなどにまつわる諸々が思い出される。
 そんなじくじくした未練も置いて行きたい。」

「それは・・・わたしのせいじゃないのに。」

「そうだ。まったく君のせいじゃない、僕のせいだ。
 だから僕は自分の意志で、今までの仕事のやり方も生き方も全部、捨てる。
 君ももう、僕には必要ないんだ。」

「・・・・」

りり花の手がふるえてグラスを落としそうになる。

「ひどい。」

森がそっと抜き取って、近くの小テーブルに置くと目を伏せた。

「わたしが要らないの?」

「これからの君にとっても僕は要らない。いない方がいい。」

「どうしてそんなこと、あなた一人で決めてしまうの?
 わたしは誰に何を言われようが、気にしない。
 あなたがどこへ行こうと、ついて行くつもりなのに。」

「僕はいやだ。ひとりで行きたい。誰にもついて来てほしくない。」

「なぜ?一緒に生きて行こうって言ったのに。」

「世界が変わったんだ。同じように生きてはいかれない。」

隣に立っている男は、まるで別人に変わったようだ。
今までずっと優しくて、傷つける言葉ひとつ吐いたことのなかった恋人が
震えている自分を眺めながら、平気な顔でワインを飲んでいる。

ショックというより、頭から水を浴びせられたように寒くて、ぞっとした。
男のシルエットも見慣れた手も、横を向いた仕草も、まるで他人だ。

なぜ、こんなことができるのだろう?

ぼうぜんと見つめているりり花に、恋人だった男はようやく目を向けた。

「どうした?平手打ちするんなら今だよ。
 わめいても、泣き叫んでもいい。」

どうする、りり花?

暗い中で、男が微笑むのが見えた。
冷たい、でもどこか寂しげな微笑だ。

その表情が変わるのを、これは冗談だよ、と言うのをしばらく待ったが、
男の顔はぽっかり空いた穴のように空虚だ。
見ているのさえ、耐えられなくなってくる。

りり花は男に背を向けると、バルコニーから抜け出した。
バルコニーの男からは、りり花がテーブル席のスペースを
斜めに突っ切って、どんどん歩いていくのが見えた。

暗くてもう見えないが、栗色の髪が揺れて長い脚がまっすぐ伸びているだろう。
柔らかなドレスの裾が乱れることはあっても、
大丈夫、ひとりで歩いて行ける筈だ。

残りのワインをあおる。

「さよなら、りり花。」




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「かつえさん、お疲れさまでした。
 かつえマジックを見せるには雑誌じゃなく、絶対TVですよ。
 また、こういう形で出演していただければ・・・」

「ありがとうございます。
 こちらこそ、よろしくお願い致します。」

新興ケーブルTVが美容の特集番組を組み、第一弾として、かつえがフル出演。
最新の美容トレンド、メイク法などを、KAtiE製品を使い、
具体的にわかりやすく、デモンストレーションした。
時間を取ってていねいに、かつえの手元を見せたことで、
視聴者がメイクの技を取り入れやすい構成になった。

「それにしても、どこかのスタジオを借りるんじゃなく、
 うちのプレスルームで撮影なんて、お手軽ね。」

「すみません、予算がなくて。
 でも他の要素を入れずに、たっぷりかつえさんの技を
 堪能できる番組に仕上げられました。
 わたしが視聴者なら、絶対にこういうのが見たいな、と思います。」

熱い雰囲気の番組ディレクターは30代とおぼしき女性。
カメラマンと助手の3人でやって来て、
あっと言う間に30分番組を撮影してしまった。

「そうね。手元がアップになるから、ごまかしもないし、
 具体的にきれいになれるテクニックを伝えられるのはうれしいわ。
 また呼んで下さい。」

「ぜひお願いします。」

ケーブルTVの若い3人は一礼すると、急いでいるからと、
美奈の淹れたお茶も飲まずに帰って行った。


「ふふふ、かつえさん、絶好調じゃない。」

プレスルームの入り口を振り返ると、倉橋常務がコート姿のまま立って、
こちらを見ている。

「小夜子、見てたの?」

「終わりのほうだけ。本社から帰ってきたところだから。」

「それはお疲れさま。せっかくだからお茶飲まない?
 美奈ちゃんが今、淹れてくれたのよ。」

かつえが席をひとつずらし、倉橋の場所を空けると座るよう促した。

「本社はどう?尾上新副社長はつかまった?」

「う〜ん、捕まったんだけど、ちょっと及び腰なの。
『僕はKAtiEのことはよくわからないから』って。
 曽根さんみたいに勝手に動かれても困るけど、関心がないのもねえ。」

「わかった。わたしもそのうち、ご機嫌伺いに行くわよ。」

今日の倉橋は淡いピンクのジャケットを着て、
ばら色の唇と栗色の巻き髪が濡れ濡れと輝いている。
こんな色っぽい重役が現れたら、新副社長でなくとも
ちょっと警戒してしまうのではないか。

「S社の湊部長、昇進して戦略室の室長になったそうよ。
 重点戦略ブランドとして『アンジュ』の担当部長もやるんですって。
 曽根さんがいなくなっても、あの人には何の不利益もないみたいね。」

「ふうん。」

如何にも興味無さげに返事したかつえは、美奈がハーブティに添えた
スティックのお菓子をかじり、うなった。

「うわ、サクサク!おいしい!これ何?」

「頂き物なんです。香料会社さんが持って来て下さって。
 ラスクなんですって。」

「へえ。そういえばそうだけど、見た目がカラフルで可愛いじゃない。」

かつえの勢いに誘われて、倉橋もお菓子へピンクの指先を伸ばした。
一口食べてから、

「おいしい、苺の香りがするわ。
 わたし、知ってる。あのA百貨店に入ってる奴でしょ?」

美奈に訊ねるので、

「はい、たぶん。A百貨店の袋に入っていましたから。」

「地方発だけど、すごい人気でこの春から入ったみたい。
 うちより早く、A百貨店に入っちゃったわね。」

「ウチも絶対、次から入って、もっと早く入れればよかったって
 お店が後悔するほどの売上をたたき出して見せるから!」

ふふふ・・・

倉橋が可愛らしい声で笑った。

「そう言えば、湊室長の部屋から綿貫さんが出て来たのよ。
 湊室長に送られてね。」

綿貫の名前が出たところで、お茶を足していた美奈の耳が
ぴーんと立った気がした。

「綿貫さん、今度は『アンジュ』の担当やるのかしら?
 もし今期『アンジュ』の売上が大幅に伸びたら、
 湊部長の役員入りも見えてくるかもって。
 いつか、社長になるつもりかしらね。」

「ふうん。」

ぼうっとした返事だったが、かつえは急にお茶を一気飲みした。

「小夜子、悪いけど、ちょっと急用を思い出した。ごめんね。」

見事な早さでもうひとつお菓子をつまみ上げると、かつえは倉橋を置いて
風のように部屋を出て行った。

美奈があっけにとられて後ろ姿を見送ったあと、倉橋を見ると、
不思議な笑みを浮かべている。

「どうしたんでしょう?」

「どうもしてないわ。
 わたしが軽〜く火を付けてみただけ。」

あらあ、きれいな色目。プラムみたいなルージュね。

倉橋がカラーパレットを手に取ったのを機に、美奈は片付けを始めたが、
先ほどの会話のどこで何に火をつけたのか、考えてもわからなかった。




「おう、よしよし!無事にシャバに戻ってこれたか。ははは・・・」

こうも豪快に笑い飛ばされてしまうと、綿貫は苦笑するしかない。
中原部長と二人で座っているのは、打ち合わせ用のオープンスペースだ。
あまり人に聞かれたくない話であっても、上司は敢えてここを選んだ。

そばを通り過ぎる人のほとんどは、二人に目も向けなかったが、
中には綿貫に気づいて、軽く合図をしてくる者もいる。
綿貫への調査は終わり、復帰して上司と打ち合わせをしている。
その事実をさりげなく、社内に伝えているのだ。


「お前も大した人気だな。
 ここへ来て、わざわざお前を指名してきたところが、3つもある。」

「ヒマに思われているんでしょうか。」

紙コップのコーヒーを飲んだ綿貫が顔をしかめた。

「うち2つはS社から。
 あの強力な室長さん以外にも、お前を指名したところがあった。
 ポイントは3つとも、女性リーダーだってことだな。」

「喜ぶべきか、悩むべきなのか、わかりませんね。」

「照れるなよ。せっかくの女性からのご指名だぞ、素直に喜んだらどうだ。」

ははは・・・、中原はまた笑った。

「日頃、あまり女性に人気がないものですから。」

「お前が言うと嫌味だが、まあいい。
 湊室長は、お前を寄越さないなら、うちとの契約を切るとまで
 ほのめかして来た。」

「僕には、ほのめかしではなく、直接はっきり言われました。
 この話を断れば、2度と仕事は回さない、と。」

ふむ。それは大変だ。

「『アンジュ』は大きいし、ずっとうちが担当してきた仕事だ。
 森が引いたからと失っては、大変な損失になる。
 どうしても引き継がなくてはならない。」
「はい。」


オープンスペースにいるのは、2組だけ。
かなり離れているので、声を低めれば、話の内容は誰にも聞こえない。


「後を引き継ぐのは大変だ。
 あんなことをしでかした森の後だし、自分の作ったアイディアではなく、
 森が結んだ、カルドロッシの契約も履行しなくてはならない。
 KAtiEをライバルと見なしているスタッフも多いから、
 完全なアウェーで仕事をすることになる。」

「はい。」

「それでも、お前に行ってもらおうと思っていたんだが・・・」

綿貫はすでに覚悟を決めていた。
どんな状況だろうと、仕事は仕事だ。

「問題は3つ目の指名だ。
 KAtiEから正式に、秋冬プロモーションで、お前の案を採用すると
 申し入れが来た。
 ただし、クリエイターの岩見そらと、プランナーの綿貫直人を、
 かならず担当にする、という条件付きで。」

綿貫は顔を上げた。

「KAtiEが僕の案を取ってくれても、
 プランナーの指名はない、と聞いていたんですが。」

「さきほど、急遽、契約書付きで回って来た。
 お前とそらを外せば、更新しないそうだ。」

中原部長からファイルを見せられて、綿貫は目を細めた。
確かに自分の名前が記されている。

「お前には『アンジュ』を担当してもらおうと思っていたが、
 すでに契約を結んでいるKAtiEの付帯条件を外すわけには行かない。
 契約破棄につながる。」
「・・・・」
「つまり、選択の余地はなくなった。
 お前にはまた、KAtiEの仕事を担当してもらう。」
「・・・はい。」

やや拍子抜けしたような、不思議な気分だった。
どんな状況であっても、担当した仕事をやり遂げようと決めていた。
だが、あれこれ思い悩んでいたことが治まると、じんわり喜びが湧いてくる。
全力を傾けた仕事で再度指名されることは、やはり嬉しい。

「さて、湊室長をどうやってなだめるか。
 お前を取るために、かなり圧力を掛けて来ているし。
『アンジュ』との契約を切らずに、いかに切り抜けられるか。」
 
綿貫の表情を見て、中原が目をぎょろつかせてにらんだ。

「なんだお前、抜けた顔しやがって、腹の立つ。
 湊室長に夜となく昼となく責められる、お前を見てやりたかったな。」

「中原さん・・・」

綿貫がたしなめたが、中原は一向に平気だ。

「お前の案は要らないが、お前は欲しい。
 森の取って来たカルドロッシもかっさらう。
 ダメなら契約を切る、という強欲な脅しだ。
 だが、ここで森の後釜に座るのは、お前の修練のためにも、
 とてもいい仕事だと思ったのに残念だ。」

「僕も少し残念です。
 半ば覚悟を決めていましたから。」

どうだかな。

「かつえさんは、どうして急に僕を指名してくれたんでしょう?」

「女同士の争いだ。」

「?」

中原はさめたコーヒーを飲み干すと、顔をゆがめた。

「あの二人、かつえさんと湊室長、実は高校の同級生らしい。
 片や世界クラスのメークアップアーティスト。
 片や日本に数えるほどしかいない、大企業の女性管理職。
 お互いに、しのぎを削っているんだよ。
 相手が湊室長じゃなければ、かつえさんはお前を放っておいたかもしれない。
 湊室長のアプローチに、逆に感謝するんだな。」

「そうだったんですか。」

「湊室長への挨拶には、俺も同行しよう。歓迎されんだろうがな。
 それが済んだら、大至急、KAtiEに顔を出して、
 秋冬プロモーションを進めないと。」

「わかりました。ありがとうございます。
 全力で頑張ります。」







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