AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム番外  揺れない瞳4

 

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どのくらい時間が経ったのだろうか。
暑くて、無性に喉が渇き、目が覚めた。
夏希はこちらの右腕に、がっくり体を寄せて眠りこんでいる。

ずいぶん、不自然な形に体を曲げているように見えるが、
あれで寝られるのだろうか。
さっきまで、ざあざあ、ゴウゴウ言っていた音が急になくなって、
耳がおかしくなったみたいだ。

フロントガラスからガード越しの空を見上げると、
雲が切れたところから、紺色の空が見え、
月が白く光っている。

左手の痛みは相変わらず、鈍く感じられたが、
最初のころのように、呼吸するたび、
ずきずき痛むようなことはなくなっていた。

デジタル時計を見ると、3時55分だ。
あと、1時間で始発電車が出る。

夏希が死んだように眠っているので、
しばらくそのままの姿勢でいたが、
喉の渇きが堪え難くなってきた。

暑い。
少し熱でも出たんだろうか。

彼女がさっき、ミネラルウォーターのペットボトルを
持っていたのを思い出した。

女の子のバッグを勝手に開けるのは気が引けるが、
それより、たまらなく水が飲みたい。

右腕を占領されているので、
怪我をした左腕をそろそろとバッグに伸ばし、
中を探ろうとすると、ずきん!と痛みが戻って来る。

うっ!

一瞬、体が硬くなり、その振動でか、栗色の頭が動いた。

うう〜〜ん。

体を起こした夏希は、しばらく自分がどこにいるか、
わからなかったようだが、
あたりを見回して、状況を理解した。

「ああ、びっくりした。
 狭いところに押しこめられて、出られない夢を見てた。
 助けてって叫ぼうとしたら、目がさめた」

長い髪を何度もかきあげながら、小さくあくびをする。

「夢の中には、あなた、助けに来てくれなかったね。」

「君の夢にまで責任もてるか。」

バッグから、ミネラルウォーターを盗る計画が失敗したので、

「雨がやんだ。そろそろ動こう。
 喉が渇いた。」

は〜い!

夏希もフロントガラス越しに、空の月を見たようだが、
下を見ると急に

「きゃあっ!」と声を出した。

「なんだ?」

「すごい!あたしたち、海の中だよ。」


車の窓から路面を見下ろすと、あたりにはアスファルトの面が見えず、
一面、黒い水に取り巻かれてしまっていた。
まさに海の中に取り残されたみたいだ。


「何だか、二人きりで無人島に流されちゃったみたいだね。
 エンジン、動くかなあ・・・」

どこか、うれしそうに夏希が言う。

エアコンが入ってるんだから、エンジンは動いてるだろ。

あ、そっか。

「じゃあ、とにかく脱出しま〜す!」

夏希がそう宣言すると、シートベルトを締め直し、
ブレーキを解除して

ざざざざ・・・・

水の中を進み出した。

タイヤがどの位埋まっているのかを、確認しなかったが、
ところどころ路面が透けているから、
半分以上ということはないだろう。

が、進む度に、ざざざざ、ざざあっと言う音が聞こえた。

「きゃあ、すごい!すごい!水の上を走ってるみたい!」

夏希は大喜びで、水たまりの路面を走り続け、
きゃあきゃあ、騒ぎながら、ガード下を抜けて、
明るい月夜の道を走り出した。

「途中、自販機があったら止めてくれ。」

「了解!」

夏希が親指を突き出した。





レインボーブリッジをわたる。

真夜中を過ぎると、イルミネーションが消え、
ずいぶんと地味な橋になるが、
橋からの眺めは相変わらずのパノラマだ。

海の面は藍色からうすい群青に染まり出し、
イルミネーションを付けたままの船が動いている。
助手席から、この景色をながめるのは初めてかもしれない。

しばらく車を走らせたところで自販機を見つけて、
夏希が車を寄せた。

「あたし、買って来る。
 何がいい?」

「甘くなければ何でもいい。」

夏希が車から飛び出すまえに、千円札を渡した。
ミネラルウォーターを2本、買って戻ってくる。

冷たい水が喉を通り抜けると、ようやく頭がはっきりしてきた。
窓を開けて、冷えた空気を吸い込む。
心なしか、周囲の光景が青みがかってきたようだ。

「ねえ、この車、どこで返すの?」

「汐留だ。その前に君を駅まで送って行くよ。
 あと1時間もしないで、始発電車が出るだろう。
 会社の車を君が運転しているところは、
 あまり見られない方がいい。」

ふうん・・・。

「もう終わりなんだ。残念・・・。
 もっとずっとずっと乗っていたかったな。」

「・・・・」

「あなたから、もっと色んなことを聞きたかった。」

あの・・・

夏希が運転席から身をよじって、こちらを向く。

「また会ってくれますか?」

いや・・・。

「あなたみたいな人に、今まで会ったことなかった。」

「俺も、君みたいなのは初めてだ。」

「また会って、色んな話を聞きたいの。
 ううん、話なんかどうでもいい。」


だって・・・・

夏希の手が肩にかかっても、
また腕をからめとられるだけだろうと思っていた。

だが、今度は腕をとらずに、まっすぐに近づいて、
柔らかい唇を重ねてきた。

一瞬、驚いて左手で止めようとしたが、
またズキっと痛んで、手を動かせなくなった。

夏希の唇は、とてつもなく柔らかくて、
体がしびれてしまいそうだった。

やっと自由な右手で、彼女を放そうとすると

「逃げないで・・・
 わたしを好きにならなくてもいいから、逃げないで。
 チャンスを下さい」

もう一度、キスをされる。

甘い唇。柔らかな匂い、手触り・・。
自分に向かってくる、真摯な思い。

たとえ、それが今だけのものだとしても、
この唇や弾むような体は、確かにここに存在する。

「・・・」

彼女が真っすぐな目でこっちを見つめる。

あまりに真っ直ぐな、その視線を受けきれず、
彼女自身を胸で受けとめた。

「嫌いになった?」

「・・・?」

「自分からキスするような女の子なんて、好きじゃない?
 そんな・・・オヤジみたいなこと言わないよね?」

どうしたらいいのだろう・・・
7才も年下の、嵐のような女の子。

受け止めきれるわけがない。
ないが・・・

夏希のすきとおって、桃のようにすべすべした頬を撫でた。

彼女の頬がこちらの掌を追って吸い付いてきて、
うっとりと目を閉じたまま、掌に頬をすりつけてくる・・・

包帯を巻いた手首で額の髪を撫でてやる・・
まぶたも撫でてやる、
鼻もその下の唇も・・・・

もう一度、キスをしたら、どんな味がするだろう。


「キスして・・・、今度はあなたから」


目を閉じたまま、彼女が命令する。
吸い寄せられたように、ふっくらした唇に唇を重ねた。
そっと噛んだ、こすりつけた。

ほんの少し開いた唇から、忍び込み、
甘い蜜のような舌を少しだけ味わうと、すぐに出ていった。

夏希は俺の胸にすがりついている。
背中にしっかり手を回し、離れる気持ちなどないようだ。

彼女の髪の匂いが感じられ、
しなやかに巻き付いている腕の皮膚が感じられる。

そっと腕を押し、彼女の体を離した。
彼女はこっちの顔を見上げる。

「どうして・・・わたしにキスしたの?」

一瞬、たじろいだが、直ぐに答えた。

「したくなったから・・・」

「それは、わたしを少しだけ、好きになってくれたって言うこと?」

「・・・・」

たぶんね、と胸の中で答えたが、
口にするわけに行かない。

夏希は、しばらく答えを待つように黙っていた。

「あなたの名前を教えて・・・」

黙って、首を振る。

「どうして?
 今度、会った時に呼びかけられない・・・。」

「もう会わないから、呼ばなくていい。」

「!」

夏希は一瞬、こちらにすがりつきそうにしたが、
かろうじて体を止めた。
彼女のプライドがそうさせたのかもしれない。

「どうして?」

「君を受け止めきれない。俺には無理だ。」

こっちの放った言葉の意味を考えるように、空の月を見上げる。

彼女のくっきりとしたプロフィールが
月の光の中に、青白く浮かび上がった。

「あたしでは物足りない?
 もっと大人の女の人がいいのかな。」

「バカな子供が嫌いなことは確かだ。」

「あたしはバカな子供じゃないよ。」

傷ついた顔を見せる。

「君がそうだとはいってない。」

「じゃあ、何。怖いの?
 昨夜とはちがって・・・臆病・・なんだね。」

「ああ、認める。俺は臆病者だ。
 君にはふさわしくない」


まるで逃げ口上だ。
そう思った瞬間、夏希はまさしく、
キッとこちらを向いて、軽蔑したような視線を浴びせた

軽蔑してくれていい・・・
君とは無理だ。

拒絶の意志を見てとったのか、彼女はまた、しばらく黙っていた。
強い瞳だ。


「あたし、ふられたことないし、断られたのも初めてだわ。
 自分から付き合って下さいなんて、言ったこともない。
 それは、あたしのプライドのせいだと思っていたの。 
 でも違った。

 そんな人に会ってなかったんだ。
 プライドも何もかなぐり捨てて、言いたくなるような人に。」

夏希はまっすぐにこちらを向いた。

「あなたが好き。
 また会いたいの。
 あなたがあたしを好きでなくてもいいから・・・。」

「さっきも言ったが、もう会わない。
 君は君の世界で頑張るんだ。
 今の君に、俺がしてやれることは何もない。」

「そうしたら、いつか逢ってくれる?」

「わからない・・・」

「冷たいんだね。もう、決まった彼女とかがいるの?」

「君に教える気はない。」

すごく冷たい言葉だな・・・


うつむいた夏樹の目からこぼれた何かが、
こちらのシャツの胸のあたりにほんの一しずく、熱く沁み通ったが、
すぐに振り切ったようだ。

「あなたは、自分の好きな人にも、そんな風に冷たいの?」

「・・・・」

「それとも、彼女にだけは、すっごく優しいの?」

答えてよ・・

「どうだろうな。俺にもわからない。」

ふふっ、そうなのか・・・
じゃ、きっと彼女も苦労してるね。

「女の子はどうしようもなく、
 黙って、誰かに優しくして欲しいときがあるんだよ。」

優しくしてほしい?
優しくって、どういうことだ。

夏希の背中を撫でた。
次に髪を撫でた。
その次に頬を撫でた。

気持ち良さそうに夏希がじっとしている。

頬の感触はなめらかで、不思議な弾力に満ちていて、
すぐには手が離せなかった。
やわらかい桃のような頬を、何度も指の背で撫でてやる。

気持ちよさそうにしていたと思ったら、
急に刺すような視線を浴びせられた。


「あたしのこと、好きじゃないのに、そんな風にしないで・・・」

「!!」


ぱっと手を放す。

夏希が起き上がって、

「ゴメンなさい。わかってる。
 あたしが黙って優しくしてって言ったから、
 お願いをかなえてくれたんだよね。

 でもやっぱりそれもつらい。
 あたしをほんの少しでも好きになってくれたらいいのに。」


手を完全に離したまま、だまって夏希の目を見つめる。
夏希の顔が奇妙に歪んで微笑み、
こちらの首に腕を回すと、ぎゅっと抱きついてきた。

若くて、無防備で怖いもの知らず。
だけど熱くて、激しくて、まっすぐな魂を感じる。

一度、夏季をしっかりと抱きしめ、2人で目を閉じるが、
こちらが身を引こうとすると、気配を察して、
夏希の方から先にそっと体を離す。

「ありがとう・・・
 あたし、名前も知らない人とキスしたの、初めてだわ。
 
 でもいいの。
 名前なんか知らなくたって、あなたが好きだから・・・」

「・・・・」






もう、夜が明ける。
一日が始まる。
あたりは水色になり、東の空はうっすらと赤みがかっている。

海岸地区は終わり、都会のゴミゴミした風景に戻った。
始発電車の出る、JRの駅前に車を停めてもらうが、
普段はサラリーマンでごった返すここも、
さすがにまだ人影が少ない。

貼り付いたように運転席から動かない夏希を置いて、車から降り、
少し離れたところで、一本だけ煙草を吸う。

吸い終わると、車に戻り、
運転席のドアを開けてやった。

しぶしぶながら、夏希が車から降りてきた。
視線をまっすぐ、こちらに向けながら告げる。

「お願いがあるの。
 最後に、あたしの名前を呼んでくれますか?」

言い終わると、微笑もうとしたようだ。
夏希の必死な顔が愛しかった。

「頑張れ、夏希。
 チンピラを引っぱたいたガッツがあれば、何だってできる。」

大きな目をうるませて、一瞬、華やかな笑顔を見せた。

「ありがとう。
 あたし、あなたのこと、絶対に忘れない。」

夏希がこちらをじっと見つめた。

揺れない瞳。
強くて、負けない目だ。

それから大きく手を振って、くるりと後ろを向くと、
早朝の駅へと堂々と歩いていった。

遠ざかる後ろ姿を見ながら、ため息をつく。
あんな風に言った彼女の方が、
すぐに自分など忘れてしまうだろうことはわかっていた。

まるで、夏の嵐に出会ったみたいだ。

また、傷が痛む。
薬の効果が切れ始めているのだろう。

運転席に座り、早朝の道路に向かってウィンカーを出す。
シートには、まだ彼女の温もりが残っているようだった。

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