AnnaMaria

 

おそるべきマリア 3話

 

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冬がいつの間にか過ぎて、わくわくと弾むような春がパリにもやって来た。

僕は相変わらず金がないので、夜は例のカフェでピアノを弾いていたが、
少しずつ僕のピアノ目当ての客も、増えているようだった。


僕の音楽の新しさには、自信があった。
今までの古くさい、形式にとらわれたものなんかクソ喰らえ!
いっそ僕がパリの芸術院会員になって、古い奴らを一掃してやろうか、などとも考えていた。

僕がピアノを弾いている間、君が何をしているのかはわからなかった。

時々はカフェにも現れて、ワインを飲みながら僕のピアノを聞いてくれることもあった。
君が客席にいる時は、君のためだけに弾いた。
僕の曲、僕の心、僕のメランコリー、僕の愛・・・全部流れ出して、君の方へ届くように。




「やあ、シュザンヌ、久しぶりだね。」

「愛しいポール、あなたを忘れた事なんかなかったわ。」

「僕だってそうだよ。
 君の顔を見ると、僕は君なしでどうやって暮らしているんだろうって言う気になる。」

「うれしいことを言ってくれるのね。」


笑顔を見せながら、君があの紳士に白い腕を絡みつかせる。

僕がカフェでピアノを弾く合間に新聞を広げていると、目に入った光景。


あいつ「ポール」を君から完全に追い出すのは、どうしてもできないのか?
ポールに対する、君の一種あがめるような、特別な者を見るような視線、
あの目が僕の心をぐさりと刺し通す。




「ポールとは別れていないのか?」

「やあね、嫉妬は嫌い。縛るのも嫌い。
 わたしを縛り付けられるものなんて、この世になんにもないわ。」

「僕は君の為に全てを捧げているよ。」

「だからってどうなの?わたしにもそうしろ、と言うの?
 あなただけで足りるか、足りないか、それはわたしが決めることよ。」

「シュザンヌ!」


僕は思わず君の両腕をつかんで、壁に押し付けた。


「君は僕を愛している?」

「愛しているわ・・・」


黒い瞳でまっすぐに僕を見て言う。


「僕だけを愛している?」

「わたしの愛は大きいの。色んなものを愛しているわ。花も音楽も絵もベッドも・・・。

 ポールも同じよ。
 ポールもミゲルも、わたしの可愛い息子も、もちろんあなたも皆、愛しているの。」


そんな台詞をしゃあしゃあと吐く唇なんかが欲しくて、
僕は君を強く押さえつけて、唇を奪う。

君はとっくにお見通しで、僕の舌をゆったり受け止めて、その熱い息で僕をあおってくる。
僕が君を押さえつけているのに、立っていられなくなりそうなのは、僕なんだ。

こんな見え透いた手管に引っかかって、結局すべて君の言うなりになるとわかっている。
君の望むように、ドレスの下に燃える手を突っ込んで引きずり下ろし、素肌をまさぐり、
黒い髪をつかんで、白いシーツの中に乱暴に投げ入れる。

君の黒い瞳が、歓びに震えて輝き出すのが見える。


「エリック、エリック、愛しているわ。
 わたしは悪い女なのよ。ねえ、ひどい目に遭わせてもいいわ。」


そんな事を言って、僕を思い通りにする気だな。

思いきり脚を広げさせても、闇に吠える獣のようなポーズをとらせても、
君のきれいな顔は聖女のようだ。
地獄へまっさかさまに落ちるような熱を帯びているくせに、
その白い喉を味わうと、天国の夢を見る。
柔らかくて甘い乳房は、つかんだ僕の手の中から熱くこぼれ落ち、
女神のような顔をして、娼婦のように僕を死ぬ程締め付ける。



「シュザンヌ、愛している証をおくれ・・・」

「証?何が証になるの?」


僕は片手で君を組み伏せたまま、右腕を伸ばして傍らのテーブルから、
大きなはさみを取り上げる。

一瞬、君の顔に恐怖がよぎったが、夢中になっている君には、
そんなことも一つの刺激に過ぎない。


「動かないで・・・」


黙ってしまった君を征服しているようで、ちょっと残酷な気分ではさみをかざし、
君の黒く豊かな髪の一房をじょっきりと切り取る。


「何をするの?髪型がおかしくなっちゃう・・・」

「言っただろう?君はいつだって綺麗だよ。
 君がどんな髪型をしていようとも、僕は夢中にならずにいられない・・・」


髪の短くなった方の首筋にキスをして、ベッドから起き上がると、
切り取った君の髪の毛をねじって留め、壁に貼ってある例の「覚え書き」の片隅に貼付けた。


「ほら、今日の『記憶』さ。」


そう言って振り向いた僕を、君が少し冷ややかな視線で見返してきた。





「エリック、動かないで・・・」

「動いてないよ。何時間こうやっているのか、もうわからない位じっとしている。」

「あなたにも、わたしの仕事の大変さが少しはわかったでしょう?」


絵筆を動かしながら、君はそんなことを言う。


「君の仕事に対する真剣さは、いつも認めているよ。
 僕の絵に対しても、同じ情熱をもって取り組んで欲しいな」


君と知り合ったごく早い時期から、君は僕をモデルに肖像画を描いてくれていた。
最初は君と二人っきりでアトリエに居られるのがうれしくて、
二つ返事で引き受けたのだが、やってみると結構な難行だ。

それでも、君が僕を見る時間は、いつもは僕が君を見る時間よりずっと少ないのに、
この時ばかりは、君の目と頭の中に僕がいっぱいに映っているのではないかと考えて
うれしかった。


君の絵の中の僕は、赤い唇をして、なんだか少しはにかんでいるようだ。
僕の傲慢なところは描かれずに、君を愛している、気の弱い恥ずかしがり屋の男がそこにいた。



「僕は今でも、こんな顔をしている?」


出来上がった絵の側で、君を後ろから抱き締めながら聞いてみる。


「こんな顔をしているわ。
 もちろん、もっと気難しい顔や、ピアノを弾いているときの真剣な顔も好きよ。
 いつか時間があれば、そんな顔も描いてみたいわ。」





だが、そんな時間はもうあまりなかった。

君はますます残酷に僕をいたぶり、僕の目の前で別の若い画家を挑発したり、
わざとしなだれかかったりして、僕の顔色が変わるのを楽しそうに眺めていた。

そのくせ、あの「ポール」に関しては、未だにどこかていねいで、
憧れるような態度を取っているのが我慢ならなかった。

君に言う事を聞かせようと、ベッドの中では以前にもまして激しく君を苛み、
責め続けることで、何とか自分のプライドを保っている有様だった。


「エリック、エリック、もう止めて。これ以上は無理だわ、お願い。」

「まだまだ君を離すつもりはないよ。
 昨日だって、一昨日だって、君はここへ来なかったじゃないか。
 僕だけじゃ足りないのか?
 まだ他の男が必要なのか?
 僕の事を片時も忘れられないようにしてやるんだ。」

「そんなうぬぼれは聞きたくないわ。」

「うぬぼれかどうか、やってみるがいい。」


そう言って君をひっくり返し、僕の下に埋める。
足の指の一本一本から、じわじわと責め続け、
やがて君が狂ったように叫び声を上げ始めるまで、絶対に手をゆるめない。



最初の頃、君に翻弄され、色々な手管をひとつひとつ教えて貰った代わりに、
今では僕が君を支配し、君にため息をつかせることも、
切ない悲鳴を上げさせる事もできるようになっていた。


だが、日常生活では完全に君の奴隷のようなもので、
僕の情熱も、僕の時間も、僕に曲を書かせるインスピレーションの泉さえ、
君に支配されていた。

部屋の中にも次第に君の物がたまって行き、
君があまり立ち寄ってくれなくなった時間は、それらを抱き締めて眠ることすらあった。


僕の曲、僕のメロディ、黒い瞳の僕のミューズ。

五線譜にのせる君の横顔が少しずつたまって、そして揺れ出した。
パリの街はどんどん美しくなる季節なのに、僕は追い込まれていた。




「シュザンヌ?来ていたのかい?」

「エリック、もう帰って来たの?」


決定的な日がやって来た。
その日、僕はいつものように、カフェにピアノを弾きに出かけたが、
新しく書いた楽譜を部屋に忘れてきたことに気づいて、取りに戻った。

そして、麗しいギリシアの乙女のように、
オリンポスの神のような逞しい若い男に組み敷かれている君を、
ベッドの中に見つけたのだった。


ドアが開いているのを見つけて、鍵を持っている君がいるのかと、
間抜けにも声をかけて、部屋の中へ入った時の光景だ。



「君はこんなところまで、汚さないではいられないのか!」

「汚すって何よ。汚いことをしてると言うなら、あなただって同じように汚いわ!」


アポロンのような体をした若い男は、面白そうに僕らの争いをしばらく眺めていたが、
やがて、ベッドから起き上がると、ちらばっていた服を適当にひっかけた。

僕の側を通り過ぎる時、壁の「覚え書き」にちらっと目をやり、
面白そうに、君の髪を貼付けたところを指でピン!と弾いた。
そしてちょっと肩をすくめて、意気揚々と引き上げて行った。


「これまでにも連れ込んだことがあるんだな?」


若い男の手慣れた様子を見て、僕は問いつめた。


「何よ。あなただって、最初は誰かのアトリエのベッドでわたしを抱いたくせに。
 自分がされた時ばかり逆上したって、滑稽なだけよ。」


君は毒づいた。
もう、ニンフにも、神話の女神にも見えない、
愛欲にかられた意地汚い女がそこにいるだけだった。


「出て行け!二度と来るな!」

「頼まれたって来るもんですか。
 あなたの嫉妬にも、あのぴらぴらした曲にも、もううんざりだわ!」


ぴらぴらした曲と言われて、ますます頭に血が上った。
だが、声だけは氷のように冷たくすることができた。


「わかった、これで終わりだ。君とは永久に絶交する。」


自分の声なのに、何だか遠くに聞こえる。
白い永遠の氷河がぴしっと割れ目を立てて、そのこだまが広がっていくような遠さ。
君が足音高く僕の側を通り抜けて、ドアの外に出て行く音が聞こえた。

6月20日(火)、パリの夏至の夜だった。





それから暫くの日々の事は、あまり覚えていない。
新しい「音楽」を模索しているというクロードと飲み歩いたり、
カフェで狂ったようにピアノを引き続けたりしたが、
どれも調子の外れた弦のようなもので、何かが生まれでるわけでもなかった。

壁の覚え書き。君の残していったレースのハンカチ。
君の黒い髪がまだ絡まったままの象牙のブラシ。
君からもらった、ほんの数通の手紙。
楽譜に書いた、君の似顔絵。

全て破り捨てて、窓から投げ捨ててくれようかとも思ったが、
「覚え書き」にしるされている君は、愛らしくて、奔放で、愛情に溢れており、
あの頃の君に対する僕の愛情もそのまま残されて、なんだか我ながらいじらしいくらいだった。


今の君、これからの君が例えどんな化け物に変わろうと
僕と一緒に過ごしていた時の君は、永遠に僕のものだ。

僕の神経衰弱、見苦しい嫉妬、絶え間ない争い、すべては君を愛し過ぎてしまったから。
「恋」とは「愛」とはなんと恐ろしいものだろう。
あやうく僕を破滅させ、壊してしまうところだった。
いや、もう壊してしまったかもしれない。


「二度と恋などしない。」


僕は僕の唯一の存在である、僕の音楽のために誓う。
これからは音楽のために生きるのだ。

そう思っては、毎夜安いワインで何とか眠りをたぐり寄せると、
空っぽの、すっかり空っぽになってしまった心と体を丸めて、浅い眠りについた。





「エリック。わたしよ、ここを開けて・・・」


聞き慣れた声がした。

ドアを開けると、君が立っていた。
今日は、胸元がレースでできたピンクの胴衣に、
濃いグレーのバッスル(腰当て)付きスカートを穿いて、
シフォンのリボンのついた麦わら帽をかぶっている。

まるで、お茶会か何かに招ばれた淑女のようだ。

僕が黙っていると、


「中へ入れてくれないの?」と、赤い唇が動いた。

「いや、失礼した。どうぞ。」


僕が軽く腰を屈めると、僕の脇をかすめて君が部屋に入ってきた。

もう何だか、君の匂いがいっぱいにたちこめて、このまま全てを受け入れてしまいそうな気がする。


「エリック・・・怒っているのね。無理もないわ。
 あの時のわたし、言い過ぎたわ。ここへ連れてくるのもやってはいけない事だったわね。
 
 でもわたし、あなたがあんまり焼き餅をやいて、あれこれとうるさく縛り付けるから
 悔しくなって・・・。

 それで、あの彼がちょうどわたしの絵を描いてくれたから、
 そのままちょっとここへ寄ってしまったの。」


   ・・・そうか、僕があんまりうるさいから、僕の心臓を引き裂いてやろうとしたんだね。
   その通り、僕の心臓は破れてしまったよ。・・・


「今日の君は、どこかのレディのようだな。とても綺麗だ。」


僕は微笑んで、君のバラ色の頬を見た。
君はちょっと恥ずかしそうに笑って、


「ありがとう。あなたに綺麗って言ってもらうのが一番好きよ。
 わたしの事を許してくれる?」


君はあどけない顔をして、また僕の心臓の上に白い手を置いた。


「ダメだよ。僕の心臓はもう破れてしまったんだ。」


僕の胸の上の君の手に、僕の手をそっと重ねる。


「でも、あなたがいないと寂しくてやりきれないの。
 どうか、あの時のことを水に流して、もう一度、わたしを抱いて。」


君はそのまま、僕の胸に身を投げかけた。


   ・・・懐かしい君の匂い、柔らかな髪の感触。
   まるで全てが以前のままみたいだが、ダメなんだ。
   僕がこの一ヶ月というもの、どんな思いで過ごしていたのか、
   君は全くわかっていないようだな。・・・


「そうしたいんだが、もうどうしても無理なんだよ。
 聞いて・・・シュザンヌ。」


僕は君の肩をそっとつかんで僕の胸から離し、黒い瞳を覗き込みながら言った。


「あの頃の僕たちに起こったことは、素晴らしいことだった。
 もう二度と、僕の人生にあんな事は起こらないと思う。

 でも僕たちがここで元に戻っても、あの頃の日々は帰って来ない。
 それどころか、またすぐあの泥沼のような暮らしが始まって、
 今度こそ僕は、君を殺してしまうかもしれない。」


君の黒い目は、興奮できらきらと輝いたようにも見えた。


「僕には、思い出がある。あの時の君を壊す事は、もう君にだってできない。
 君は君の心と欲望に正直に生きた方がいいと思う。
 それこそが君なんだから。」

「エリック、どうしてもダメ?もうわたしを愛していないの?」

「愛してるよ。だから、もうやめたいんだ。本当に君を憎んでしまう前に。」

「エリック・・・」


君は珍しく涙を流した。そして、部屋の中をなんだか懐かしそうに見回した。
君のヘアブラシも、そこにからまった髪も、全て元のままにしてあるのが不思議に思えたのかもしれない。
だが、さっきも言ったように、思い出はもう僕のものだ。


「わかったわ。じゃ、お別れに一曲だけ弾いて頂戴。」

「もちろんだ。ぜひ聞いてくれ。君を書いた曲なんだから。」


僕は僕の詩を弾いた。
五線譜に書かれた僕の愛。
君は最後に受け取ってくれるだろうか?


「エリック。素敵な曲だったわ、何と言う題名?」

「『Je te veux』 (君がほしい)だ。」



1893年7月17日(土)シュザンヌ・ヴァラドン、最後の訪問

       ― 「覚え書き」より ―




                    - Fine -




<あとがき>

実際に伝えられるエピソードと、私が創作した部分が混在しており、
曲についても、実際にある曲名と私が適当に作った曲名と両方があります。
どうか、フィクションと思って、読み流して下さるようにお願いします。


     by AnnaMaria





<参考>

このお話に登場した人物のプロフィール

エリック・サティ(1866-1925) 英国生まれフランス育ちの作曲家。
シュザンヌ・ヴァラドン
     (1865-1938)
画家。画家ユトリロの母。18才でユトリロを出産。
ミゲル・ユトリロ 画家ユトリロを息子として認知した。
トゥールーズ・ロートレック
     (1864-1901)
画家。伯爵家出身。シュザンヌをモデルにしその後愛人となり3年程続く。彼女の才能をいち早く見抜き、ドガのところへ絵の修行に送り込んだ。
エドガー・ドガ(1834-1917) 画家。シュザンヌをモデルに使い「おそるべきマリア」と呼んで才能を絶賛。
ポール・ムージス 資産家。1896年シュザンヌと結婚、後離婚。
クロード・ドビュッシー
     (1862-1918)
作曲家。1891年頃、エリック・サティと知り合う。

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